映画と夜と音楽と...[541]あらゆるジャンルをカバーした小説家
── 十河 進 ──

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〈ひとりぼっちの青春/銀座旋風児/秋津温泉/赤い殺意/果しなき欲望/泥だらけの純情/ある殺し屋/ある殺し屋の鍵/地平線がぎらぎらっ/花と嵐とギャング/恋と太陽とギャング/恐喝こそわが人生/馬鹿まるだし/喜劇 女生きてますシリーズ/拳銃(コルト)は俺のパスポート〉

●その日、日本冒険小説協会の解散宣言が行われた

3月24日の土曜日、熱海で日本冒険小説協会第30回全国大会が開かれ、2年ぶりに参加してきた。5年前、25回大会で特別賞をいただき、それ以来、ずっと参加していたのだが、昨年は義父の逝去が重なりドタキャンしてしまったのだ。今回は昨年末に内藤陳会長が亡くなり、協会そのものがどうなるのかと気にしながらの参加だった。

受付をして客室に入ると、かわなかのぶひろさんがソファで缶ビールを飲んでいた。挨拶をしてしばらく客室で過ごし、一時間ほどした頃に「大会が始まる」とアナウンスがあった。大広間に入ると中央前列に作家の方々の顔が見えた。大沢在昌さん、桐生祐狩さん、平山夢明さん、西村健さんなどだった。大沢さんに「ソゴーさん、こっち」と声を掛けられた。

大沢さんとは昨年9月の「内藤陳会長聖誕祭+日本冒険小説協会30周年パーティ」と今年2月4日の「内藤陳会長帰天祭」でお会いしており、気さくに声を掛けていただいた。そうは言ってもその列に並ぶのはおこがましいので末席を探したが、結局、年間5冊も新刊を出し続けている福田和代さんの隣の席に腰をおろすことになった。

僕が座布団に坐ると、福田さんに「ソゴーさん、最近、どうですか?」と声を掛けられた。「そうですね。特に変わりは...」と答えた後、「今月出た香納諒一さんの文庫『梟の拳』に解説を書かせてもらいました。凄いですよ。盲目の元ボクサーが一人称で語るハードボイルドですから」と、何となく宣伝めいたことを口にした。




大会が始まり、順番は忘れてしまったが、その日、日本冒険小説協会の解散宣言が行われた。理由は、永世会長だった陳さんが亡くなったこと、ちょうど30年の活動で区切りがついたこと、冒険小説が日本のエンターテインメントとして定着したことなどである。解散宣言をしたのは、西村健さんと事務局長のKさんだった。

西村健さんは昨年末に出版した「地の底のヤマ」で、ひと月ほど前に吉川英治文学新人賞を受賞しており、その選考委員のひとりが大沢在昌さんだった。そして、その日発表になった冒険小説協会の第30回日本軍大賞は、大沢在昌さんの「新宿鮫X 絆回廊」と西村健さんの「地の底のヤマ」の二作だった。同時受賞は初めてのことである。

その大沢さんの受賞挨拶がとてもよくて、浴衣姿の西村健さんが後ろで泣きそうな顔をしていた。その夜、大沢さんは作家挨拶でもう一度壇上に立ち、さらに最後の閉会の挨拶も指名されたので、三度、挨拶をした。大沢さんは声がよく通り、挨拶にメリハリがあって本当に上手だ。聴き惚れる。冒険小説協会の思い出、陳さんとのエピソードなどを披露し、会場をしんみりさせた。

そんな挨拶の中で大沢さんが昔、「バビロンを夢見て」を書いたリチャード・ブローディガンと話したエピソードが紹介された。ブローディガンに「どんなものを書いてる?」と訊かれ、大沢さんが「ハードボイルド」と答えると、ブローディガンは「俺がハードボイルドだと思うのは、ホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』だけだ」と答えたというのである。その直後...

──ソゴーさん、あれはマラソンダンスの話ですよね。

壇上でマイクを持った大沢さんに、いきなり振られてしまったのである。僕は咄嗟に「そうです。『ひとりぼっちの青春』です」と、大声で答えた。答えたはいいが、それで答えになっていたのだろうか、とすぐに思い返した。少なくとも「映画化され、『ひとりぼっちの青春』という邦題で公開されました」と言うべきだった。しかし、大沢さんは映画や小説なら「ソゴーに訊け」と思っているようだった。

大会が終わり、本部の部屋で二次会が始まり、その夜はかわなかのぶひろさんが編集した内藤陳さんの思い出の映像作品が流された。大沢さんは座敷でくつろぎ、ほとんどかぶりつきで見ていた。昔懐かしい映像には、20代の若き大沢さんも映っている。かわなかさんは、BGMに小林旭の「銀座旋風児(マイトガイ)」「ダイナマイトが百五十屯」「女を忘れろ」などを使っていた。

「旋風児」と書いて「マイトガイ」とルビを振る感覚はキライじゃないけれど、今じゃわからないだろうなあと思いながら僕は聴いていた。「ダイスころがせ...」と小林旭が歌い始めたとき、再び大沢さんに「ソゴーさん、『銀座旋風児』の原作は藤原審爾さんだよね」と振られた。うん? どうだったっけ、と思ったのは一瞬で、すぐに「そうですね」と僕は答えていた。いい加減だなあ...、まったく。

実は、確信はなかったのだ。小林旭の新人時代の出世作「女を忘れろ」(1959年)の原作は間違いなく藤原審爾だったが、「銀座旋風児」(1959〜63年)シリーズが藤原審爾原作だったかどうかはあやふやである。小林旭の日活最後の「女の警察」シリーズ(1969〜70年)の原作者は梶山季之で、藤原審爾が書いたのは「新宿警察」シリーズだったな、と余計なことは浮かんできたのではあるけれど...

●「秋津温泉」という美しい恋愛小説を書いた作家

僕が最も愛する日本映画は、ずっと変わらず「秋津温泉」(1962年)である。「秋津温泉」に主演した岡田茉莉子が素晴らしく、2年ほど前に出た3000円近い自伝「女優 岡田茉莉子」も迷わずに買った。その単行本のカバーに使われていたのは、もちろん「秋津温泉」の新子の横顔だった。「秋津温泉」は、藤原審爾の純文学系の代表作である。昔は集英社文庫で入手できたのだが、最近は見かけない。

僕は藤原審爾を「秋津温泉」で知ったから、ずっと純文学の作家だと思っていたが、あるとき今村昌平監督の「赤い殺意」(1964年)の原作が藤原審爾だと知り、少し意外に思ったことがある。今村昌平は、初期作品「果しなき欲望」(1958年)でも藤原審爾の小説を使っている。

以前から、藤原審爾原作の映画化作品を調べようとは思っていた。「秋津温泉」という美しい恋愛小説を書く作家が、一方で強盗に犯された人妻が女として目覚めていく「赤い殺意」のような話や、男女数人が欲に絡んで宝探しをする「果しなき欲望」のような話を書いていることが、僕にはしっくりこなかったからだ。

吉永小百合と浜田光夫が主演した日活映画「泥だらけの純情」(1963年)は、深窓の令嬢とチンピラの純愛を描き、14年後に山口百恵と三浦友和で再映画化(1977年)されるほどだったが、あれも原作は藤原審爾である。そうなると、ますます藤原審爾という作家の実像がわからなくなってくる。要するに、何でも書いた作家なのだろうか?

最近はあまり見かけないが、藤真利子という女優がいる。テレビ版「飢餓海峡」(1978年)の娼婦役(映画版で左幸子が演じた役)で注目され、その後、演技派と言われるようになった。「飢餓海峡」は、いわゆる「体当たり演技」だった。企画が今村昌平で、監督したのは粘るので有名な浦山桐郎と恩地日出男だ。半端な演技ではオーケーは出ない。

藤真利子がテレビに新人女優として出始めた頃、必ず「藤原審爾の娘...」という接頭語が付いた。そう言っては悪いが、容姿も目を惹く方ではない。ポーラテレビ小説「文子とはつ」(1977年〜78年)で僕は初めて彼女を見たのだが、文子役の香野由里子は美人女優、はつ役の藤真利子は個性派という扱いだった。このドラマでは、新人・浅野温子の視線の強さが印象に残ったことを僕は憶えている。

一度だけ、藤真利子さんの普段の表情と話し声を聞いたことがある。30年近く前のことだ。僕はカメラ雑誌編集部にいて、毎号、体験取材をしていた。そのときは、スタジオマンの体験レポートだった。僕が体験する様子を撮影するのが、コンビを組んでいたカトーカメラマンだった。そのカトーカメラマンが彼女と知り合いだったのである。

麻布にあった撮影スタジオで、僕は2日間にわたってスタジオマンを体験した。初日はデパートの家具のカタログ撮影で、重い家具を運ばされてクタクタになった。翌日は週刊誌の表紙撮影で、写真家は一色一成さんだった。モデルは藤吉久美子さんである。藤吉さんはスタジオマンであるはずの僕を、別のカメラマンが撮影しているのを不思議そうに見つめていた。

藤真利子さんを見かけたのは、その撮影スタジオのロビーだった。彼女がカトーカメラマンに気付いて、「あらっ」と声を掛けてきたのだ。大河ドラマ「徳川家康」で濃姫を演じていた頃で、人気も知名度もあった。20代後半の若さである。カトーくんと気さくに話す彼女を見て、「個性派女優」と言った己を恥じた。女優としての自信が彼女を輝かせていた。しかし、僕はまったく別のことを考えていた。

──藤原審爾さんて、どんな風に小説を書くのだろう。聞いてみたいな。

●「銀座旋風児」の原作者は藤原審爾ではなかった

熱海から帰った後、気になっていた「銀座旋風児」の原作者を調べた。僕は、もしかしたら菊村到かもしれないと思っていたのだ。菊村到も純文学畑からスタートし芥川賞を受賞したが、後にエンターテインメント系の作品を量産した。そんなところから、藤原審爾と似ている気がしたのかもしれない。石原裕次郎がパイロットを演じた航空サスペンス「紅の翼」(1958年)は菊村到の原作であり、原作者もカメオ出演している。

菊村到は1925年生まれ、藤原審爾は1921年生まれであり、どちらも戦争中に青春を送った世代だ。藤原審爾は戦後、同人誌をやりながら文学修行を積むが、やがて結核に冒される。「秋津温泉」の主人公には、自身の姿が色濃く反映されているのだろう。安酒を飲み、結核を再発して血を吐き「おめおめと...、また、秋津か」と、自嘲的につぶやく姿に無頼派の面影が重なった。

さて、案の定「銀座旋風児」の原作者は藤原審爾ではなかった。ごめんなさい、大沢さん、と僕は心中深く詫びた。「銀座旋風児」の原作は、川内康範だった。僕らの世代なら「月光仮面」の人であり、全国的に知られているのは「おふくろさん」の人である。森進一とのトラブルによって、晩年の姿をテレビでさらしたから年寄りのイメージがあったが、生まれは藤原審爾と近い1920年だった。

失敗したなあ、と思いながら、改めて藤原審爾原作の映画化作品を調べてみると、驚いたことに相当数あり、「えっ、これも...、あれも...」と僕自身が好きな映画がいろいろと出てきたのだ。市川雷蔵が現代の殺し屋を演じた「ある殺し屋」「ある殺し屋の鍵」(1967年)も藤原審爾の原作だ。畳針を首筋の盆の窪に刺して殺すテクニックは、この映画が最初だと思う。

しかし、新東宝の怪作「地平線がぎらぎらっ」(1961年)が藤原審爾原作とは知らなかったし、新東宝から東映に移籍した石井輝男が高倉健や鶴田浩二を使って作った快作「花と嵐とギャング」(1961年)「恋と太陽とギャング」(1962年)の原作もそうだと知り嬉しくなった。深作欣二は「恐喝こそわが人生」(1968年)を映画化していた。

その他にも、ハナ肇主演の「馬鹿まるだし」(1964年)は山田洋次監督だし、「喜劇 女は男のふるさとヨ」(1971年)は森崎東と山田洋次が脚本を書き森崎東が監督をしている。森崎東は「喜劇 女生きてます」(1971年)「喜劇 女売り出します」(1972年)「女生きてます 盛り場渡り鳥」(1972年)と、藤原審爾の小説をベースに底辺に生きる女たちのたくましさを描いた。

そうかと思えば、藤原審爾はヤクザ小説にも手を染めていて、「昭和おんな仁義」(1969年)「新兄弟仁義」(1970年)「日本やくざ伝 総長への道」(1971年)「昭和おんな博徒」(1972年)といった作品に原作を提供している。大人の恋愛もの、純愛あふれる青春もの、犯罪もの、殺し屋が主役のアクションもの、警察もの、ヤクザもの...、これだけ様々なジャンルを書ける小説家って、一体......。

●邦画ナンバーワンの狙撃映画と評価する作品も...

藤原審爾原作のリストに日活映画「拳銃(コルト)は俺のパスポート」(1967年)を見付けたときは、思わず頬がゆるんだ。僕が邦画ナンバーワンの狙撃映画と評価する作品である。45年前、これほどクールなハードボイルド・タッチの殺し屋映画が登場したことに僕は拍手をしたくなった。

この映画に対する強い思い入れを持っている人には何人も会った。矢作俊彦さんもそのひとりに違いない。日活映画の旧作の名場面を編集した「アゲイン AGAIN」(1984年)は、矢作俊彦さんの監督でナビゲーターは宍戸錠だったが、「拳銃(コルト)は俺のパスポート」のラストのアクションシーンがそのまま取り上げられていた。

「拳銃(コルト)は俺のパスポート」は、冒頭の狙撃シーンで観客の心を奪う。主人公の殺し屋・上村(宍戸錠)は弾丸が風の影響をどれくらい受けるか、タバコの煙を流して読み取る。そのシーンにゾクゾクする。ライフルスコープの中に捉えられた映像は無音だ。主人公がトリガーを引くと、スコープの中でヤクザの親分が音もなく倒れる。ボディガードが慌てて周囲を見る。この描写が斬新だった。

狙撃に成功し、主人公は弟分の塩崎(ジェリー藤尾)と高飛びを図るが、狙撃した相手の組織がいち早く手をまわしたため捕らえられる。だが、車の仕掛けを使って逃亡し、ヨコハマの安ホテルに身を隠す。そのホテルには、ひとりの女(小林千登勢)が働いている。藤原審爾の原作「逃亡者」は、ここでの男女の情感あふれる関係を中心に描いているのだろうか。小林千登勢の美しさが輝く。

ハードボイルド好きたちの間で伝説になったのは、たったひとりで組織と対決するクライマックスシーンである。対決の前夜、上村はホテルの部屋で黙々と時限爆弾を作る。翌朝、上村は、敵対組織と会う約束の埋め立て地にやってきて、相手が現れるだろう場所を想定し、深さ50センチほどの人がひとり入れる穴を掘る。彼は、何を企んでいるのか。

約束の時刻がきて、上村は埋め立て地の真ん中で身を晒している。遠くからは穴は見えない。穴の中に時限爆弾を置く。組織の手下たちが銃を乱射しながら、上村を襲う。散弾銃で反撃しながら、上村は拳銃を投げる。立ち上がり、散弾銃を連射する。走る。ふたりを倒した散弾銃を投げ出し、回転しながら拳銃を拾い上げ、残りの手下たちを撃ち殺す。

その上村と手下たちの銃撃戦を、組織の幹部たちが防弾装備のベンツの中で眺めている。後部座席にいるのは手を結んだ二人のボス(佐々木孝丸と内田朝雄)と、組織の二代目(杉良太郎)だ。運転手は江角英明、助手席の男(宮部昭夫)が振り返り、「やっぱり散弾銃です」と得意そうに言う。彼は車窓から身を乗り出し、スコープ付きの銃で上村を撃つ。

上村は散弾銃を構えて、じっと車を狙っている。弾丸が上村の腕をかする。それでも上村はじっと立ったままだ。次の弾丸が上村の脚をかすめ膝を折らせる。それでも、彼は反撃せず、何かをじっと待つ。待ち続ける。ベンツが彼をひき殺そうと、真っ正面からスピードを上げる...。

・「拳銃(コルト)は俺のパスポート」YouTub映像
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60年代は、空前のガンブームだった。「拳銃は俺のパスポート」もガンブームを当て込んで作られたプログラム・ピクチャーである。だから、銃器に関するセリフが頻出する。もちろん僕もガンにかぶれていた。当時、人気があった拳銃は、ルガー、ワルサーP38などのドイツ製だった。ベーシックなS&Wのチーフスペシャル、ボディガード用コブラなどもカタログに出ていた。

マンガ月刊誌には必ずモデルガンの広告が出ていたし、大人も夢中になっていたから「エラリィ・クイーンズ・ミステリマガジン」には、東京のモデルガン専門店「MGCボンドショップ」の広告が出ていた。僕は、一度「MGCボンドショップ」を覗いてみたかったが、その後、モデルガン規制が厳しくなり、本物そっくりなモデルガンは販売できなくなった。

就職して「小型映画」という8ミリ専門誌編集部にいたとき、モデルガンを使った銃撃戦を撮影するのが趣味という読者を取材したことがある。その人は映画で使用する弾着を仕込んで、本格的なガンアクションを8ミリで撮影していた。取材すると、その人はMGCの設計開発技術部長だとわかった。本格的なはずである。彼は、日活映画のアドバイザーも務めたという。

石井輝男監督のギャング・シリーズ「花と嵐とギャング」「恋と太陽とギャング」にも、ガンに関するセリフがよく登場する。やはり、ガンブームの頃、銃器好きの男たちに向けて作った映画なのだろう。それらの原作も藤原審爾だったとすると、あの時代のガンブームに大きな貢献をしていたのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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安岡力也さんが亡くなったニュースを聞いて、日活映画「野良猫ロック セックスハンター」を思い出した。若く、体重も半分以下だった頃だ。「ワタナベカズマ」という役名さえ憶えている。梶芽衣子とデュエットする「禁じられた夜」は、ずっと僕の愛唱歌です。

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「2002年版 艱難辛苦編」350円+税
「2003年版 青息吐息編」350円+税
「2004年版 明鏡止水編」350円+税
「2005年版 暗雲低迷編」350円+税
「2006年版 臥薪嘗胆編」350円+税
「2007年版 驚天動地編」350円+税
「2008年版 急転直下編」350円+税
< https://hon-to.jp/asp/ShowSeriesDetail.do;jsessionid=5B74240F5672207C2DF9991748732FCC?seriesId=B-MBJ-23510-8-113528X
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