[3256] 選ばなかった選択

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《いまではすっかり対比フェチ》

■わが逃走[104]
 アジトの思い出 の巻
 齋藤 浩

■電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[189]
 選ばなかった選択
 三井英樹

■ローマでMANGA[51]
 イタリアがMANGAを「発見」した頃
 midori




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■わが逃走[104]
アジトの思い出 の巻

齋藤 浩
< https://bn.dgcr.com/archives/20120426140300.html
>
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こんにちは。前回の写真がことのほか好評だったので、一緒に出てきたネガをスキャンしつつ、今回はさらに狭く深い話題をひとつ。

1980年代、私が中学生の頃だった。S玉県O宮市郊外を散歩していた際、妙に気になる物件と出会ったのだ。

周囲には田んぼ以外これといったものもない。大抵の人なら気にもとめずに通り過ぎてしまうような場所に、溶接や旋盤加工なんかをする作業場のようなものが建っていた。

いつ行っても誰もいないが、朽ちていく様子もなく、廃屋のようではあるが、現役のようでもある。トタン板の建家の外には錆ついた機械やドラム缶等が放置されており、それらを覆うように雑草が群生している。

とくに理由はないが、なんかイイ。私はその物件を『アジト』と名付け、学校の帰り道にちょっと遠回りしては眺めたりしてたのだった。

数年後の春、高校生の私が久しぶりにアジトへ行ってみると、敷地全体にだいこんばなが咲いていた。基本的に花に興味のない人生を送っている私であったが、錆ついた機械とのコントラストに心引かれ、家から一眼レフを持ち出して何枚か撮影した。
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig1 >

そしてたまたま近所に住んでいたユキオ君が通りかかったので、「ジャケ写っぽく撮ってやるぜ」とか言って撮影したのがこれ。
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig2 >

クラフトワークをはじめとするテクノミュージックでロシア構成主義を知った私は、とにかく歯車と人をからめて撮りたくてしかたなかったのだ。

アジトの壁
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig3 >

当時の私の美の基準はこれだった。どんな抽象画より美しい! と本気で思っていたし、今もわりとそう思っている。錆とペイントとの調和が見事。右下の数式らしき落書きも効いてる。

そして錆びたボルト!
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig4 >

当時の私の美の基準は、YMOのアートディレクションであった。YMO散開記念写真集『SEALED』に触発されて、こんな写真をたくさん撮った。

さらに数年後の初夏、ムサビにおける写真の授業で「何でもいいから撮って来い」という課題が出たので、早速アジトを撮ることにした。ちょうど、前回紹介した写真と同時期のものになる。約23年前の記録。使用したフィルムはトライX、カメラはα7000だったと思う。

電気のメーター。
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig5 >

アジトの壁面に発見した瞬間、YMOにそっくりだ! と思った。なんの変哲もないメーターをいかに人物っぽく印象づけるか? なんてことを考えながら、いろんな構図で撮った。思えば、20年以上も同じような写真を撮っている。

白い花
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig6 >
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig7 >

花には興味がなかったが、背景に錆びた金属がある場合は別。硬いものと軟らかいもの、人工物と自然物など、対比の面白さに興味を覚えたのもこの頃。いまではすっかり対比フェチになってしまった。

プロパンガスの頭
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig8 >

モビルスーツ! と思ってシャッターを切った。先日、20年ぶりにこの写真を見たときも、モビルスーツ! と思ったのだった。

謎の機械
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig9 >
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig10 >

歯車とハンドルがカッコイイ! 動きを想像させる構造美と、無秩序に生い茂る植物との対比。

というわけで、アジトをご紹介しました。最近このあたりがどうなっているかは知りませんが、おそらく周囲の田んぼは埋め立てられて、この建物も敷地ももうなくなっていることでしょう。

最後にアジトの全景をおみせします。こうして見ると、どこにでもありそうな場所なんだけどね。
< https://bn.dgcr.com/archives/2012/04/26/images/fig11 >

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
< http://tongpoographics.jp/
>

1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられ
ないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィ
ックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。

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■電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[189]
選ばなかった選択

三井英樹
< https://bn.dgcr.com/archives/20120426140200.html
>
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米国TV番組「Flashforward(2009〜10年制作)」。世界中で全人類が同時に2分17秒間意識を失い、それぞれ自分の6ヵ月後の姿を目撃する。未来を見てしまった人と見なかった人のその後の物語。そこに気になるフレーズがある。

   選ばなかった選択
   (─過去に起こりえたことはすべて他の宇宙で起きている)
    Flashforward 第10話
    < http://amzn.to/IRNFDU
>
    < http://www.hulu.jp/flash-forward
> (第1話は無料)

ドラマの中では、量子力学的な話が加わり、より取っ付き難くなっている。しかも、ドラマ自体に完結編がなく、中途半端に打ち切られていて、打ち切られなかった選択肢がどんなものだったのか色々と考えさせてくれるドラマだ。

そもそもMacromedia Flash系のイベントと同じ名だから気になったドラマなのだが、膨大な費用をかけて作られた第1話は見て損はないかと思う。

   ▼エヴェレットの多世界解釈 - Wikipedia
   < http://bit.ly/doFtFt
>
   ▼多世界解釈。←これ位の情報量が好きw
   < http://shigekifactory.com/blog/?p=1125
>



この「選ばなかった選択(肢)」を過疎の村(正確には合併して「町」)で考えている。人口カバー率99%を誇るWillcomも圏外となる地域ではあるが、道路の整備もよく、山奥でもない。陸奥湾が目の前に広がる穏やかな場所。でも確実に過疎が進んでいることを、訪れる度に実感する。この地域にある小学校の新一年生は3名だという。

3.11の影響を直接受けた訳ではない。しかし、例えば50年後のこの地域を考えると、深刻な状況にあるとしか言いようがない。「震災がなくてもこの村は長くは続かない...」という、ある被災地支援者が言った台詞を思い出す。

そして、不謹慎な50年後を考える。仮にこの村が消滅するような事態になったとしたら、近隣のより小さな村も恐らくは既になくなっていて、この海岸線一帯は人の営みのない地域になってしまっているだろう。

それが延々と続くとしたら、少々背筋が寒くなる。単なる郷愁とかではなく、延々と人のいない道が続いているのを想像すると何とも言えないそら恐ろしさを感じる。



どこかで別の選択肢があったはずだ、と考える。この過疎化の進行を停める策があったのではないか。深く考える程の知識も情報もないので、漠然とだが考える。どこかで道を間違えたのか。それとも、こうなるのが必然なのか。

「村から出ては生きて行けない」と高齢者の方が言う。被災地での葛藤と同じものが、此処でもただ静かに沈殿して行くように響く。「やっぱり自分の家は落ち着く」と帰宅を許された方々の声をテレビで見聞きする度に、何かが引っかかる。昔と同じにするのは無理だろうと諦めが先に立ちつつ、今残された選択肢は何なのだろうと考える。

結果的に過疎化を防ぎ切れなかった施策も、原発を建てた選択肢も、考える段階では対案があったはずだ。考えつかなかった場合もあるだろうが、選ばれなかった選択肢が皆無ということはあり得ない。それら消えて行った選択肢に乗っていたら、今はどうなっていたのだろう。

人が都市部に集中しすぎることなく、人も仕事も文化も日本全国に分散/共存し、多様性を維持しつつ豊かな地域社会が存続するような未来はあり得たのだろうか。



故郷の地への愛着が強い世代がいて、薄い世代がいる。世代で線引きができないものかもしれないけれど、少なくとも今の私にはそうした執着はほぼない。大阪で生まれ、今は横浜に住んでいるけれど、何処ででも生きられるような気もする。今の家も子供たちが独立したら、こだわる必要もない。

私はデジタル・ネイティブではないけれど、リアルの繋がりを補うものを、ネット側にある程度知っている。ネットがまったくない世界に、今から行けるかと問われれば厳しく思うだろうけれど、そうでない限り何とかなるだろう。

そんな想いを多少込めて、この地の人へIT紹介をする。でも一蹴される。iPadもiPhoneも、「震える指でそんなもの触れるか」と笑い飛ばされた。震える指で操作してたらカッコイイけどね、と付け加えられながら。ITは無力だ。生活の支援はできるかもしれないけれど、高齢者の生活の主軸には役不足だ。

でもあと少しすると、私の指も震えていくのだろう。それが10年後か20年後かは分からないけれど、いずれ細かい作業ができない時はくる。その時までにもっとUIが進歩してもらわなくちゃ困る。そしてその時には、私も郷愁をもって住んでいる場所を見つめるのだろうか。それとも執着がないのは、そうした移住的なものが容易に進むための準備なのだろうか。



選ばれなかった選択(肢)を気にするのは正常ではないのかもしれない。単に選ばれなかったのだから、あり得ないものなのかもしれない。でも何か事が起きた時に、もっと何かができただろうと後悔の念にとらわれるように、捨てられた選択肢に未練が残る。

3.11以降、この国は未だ揺れ続けている。地面だけじゃなく、様々なものが揺さぶられている。せめて、つまらない理由で有意義な選択肢が捨てられないように、目を凝らしていなければならないのだろう。そしてもっと使い易いITを、もっと高品質なユーザビリティを、よりよいデバイスを工夫して行かなきゃならないのだろう。道は遠い。

【みつい・ひでき】@mit | mit_dgcr(a)yahoo.co.jp
 < http://www.mitmix.net/2012/04/189.html
>
・Adobe CS6、Google Drive、でましたねぇ。Windows8、見えてきましたねぇ。激動継続中という感じをヒシヒシと感じます。
・SkyDrive既存ユーザは25GBまであげられます、放っておくと7GB。

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■ローマでMANGA[51]
イタリアがMANGAを「発見」した頃

midori
< https://bn.dgcr.com/archives/20120426140100.html
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●日本のアニメの上陸

私がイタリア旅行をしている間に、この国では日本のアニメのテレビ放映が始まっていた。記念すべき第一弾は永井豪の「グレンダイザー」。1978年(昭和53年)、私の最初のヨーロッパ旅行の年に放映が始まったわけで、イタリアでの新しいマンガ月刊誌発刊といい、もう、私とイタリアとマンガとMANGAとアニメの深いご縁を感じないわけには行きません。

ちなみにこの年、イタリアの首相アルド・モーロが誘拐・暗殺され、法王パウロ六世が死去。選出されたヨハネ・パウロ一世が在位33日で死去し、455年ぶりのイタリア人ではないポーランド出身の法王ヨハネ・パウロ二世が選出されるという、イタリアにとっても怒涛の年だった。

1978年に始まった日本のアニメ「グレンダイザー」はたちまち子供たちの心を掴み、翌年には「マジンガーZ」、そのまた翌年には「キャンディ・キャンディ」が放映され、いずれも今までにないヒット作になった。

イタリアで、こんなに子供たちが熱狂したアニメは今までなかった。そりゃそうですよ。それまで日本のアニメがなかった、つまり、感情移入できる作品がなかったのだから。

なぜ日本のアニメがイタリアで放映されるに至ったのかは知らない。子供たちがイタリア中で「なんたらパ〜ンチ!」と唱えては攻撃するようになったのでびっくりした。世間では「日本はコンピュータで作るからアニメが安く出来る。だから放映権も安いのでテレビ局どんどん買ってるんだ」と囁かれた。

当時、アニメーションソフトを持つコンピュータなんか、アニメスタジオで使ってませんって。日本=技術、絵を動かす=機械がやる(人が描くわけがない)という短絡思考の賜だ。当時は日本といえば、なんだか小さな体の黄色いサルたちが四六時中働いている...というイメージだったように思う。

旅行中に「日本に電話はある?」とか「日本? ああ、香港?」とか聞かれたりした。日本に対する知識、認識が殆どなかった。ソニー、ニコン、ホンダはあったけど、日本の会社だと知ってる人はあまりいなかったように思う。

1982年(昭和57年)、後に大ヒットする「ベルばら」の放映が始まった年、イタリアでちびっ子向けの雑誌を作っていた出版社が、売上を上げるためにはアニメから取ったMANGA(アニメコミックスとかフィルムコミックスとか呼ばれる)ものを掲載するのがいい! というアイデアを得て、講談社にコンタクトをとった。アニメコミックスなどというのは多分日本特有のものだと思うけれど、そこへ目をつけるなんて、この編集長、盛んに勉強したと見える。

なぜ他のアニメコミックスを出している出版社ではなく、講談社に話を持っていったのかは、どうしても「私とイタリアとマンガとMANGAとアニメ」をつなげようとする運命の神様の操り糸に導かれてのことだと思うが、少年マガジン編集部から講談社KC(単行本を扱う部署)へ移っていた阿久津さんから、ミラノの出版社へ行くので通訳として来てくれないか、との連絡を受けたのだった。

通訳なんてしたことがない。仕事の話をするのに語彙が大いに不足してる。それでも阿久津さんは、いわゆる本職の通訳家より、MANGAのことを知ってる人の方が話がツーカーに通じるのでありがたい。言葉が足りない分は、相手のいうことがわからなかったら聞き返す勇気を持ってくれること、本職ではないのでと相手にも断って、辞書を使っても良い、と言ってくれてやってみる決意をした。

ミラノには当時、イタリア全国規模の大きな出版社が二社あった。ちびっ子雑誌「corriere dei piccoli(コリエレ・デイ・ピッコリ)」の編集長はそのうちの一社。

編集長はものすごい熱意で、アニメコミックスを掲載したい意思を説明した。子供たちにとってはテレビで見るアニメのキャラクターが本物であり、たとえMANGAが原作であっても、テレビで見るのと少しでも違うと本物ではないと認識する。抗議の手紙を受け取ったりするので、アニメコミックスを掲載する必要がある。

阿久津さんが「アニメコミックスは著作権が複雑だから...」と難色を示しても、「一件づつ解決していくから問題ない」と強気だった。

この件で私が関わったのは、この講談社とリッツォーリ社の初めての会見だけで、どのように話が進んだのか承知はしていない。でも、後に講談社が発行したアニメコミックスが掲載されていたので話は結実したわけだ。

●MANGAの発見

同じ年、私は関わっていないけれど、アニメで大ヒットした「キャンディ・キャンディ」のMANGAがイタリア語版で出版された。これは、アニメの原作にMANGAがあって、そのMANGAも面白い、というMANGA発見の先駆けになった。女の子に受けて、MANGAだけでなく同名の雑誌には女の子が喜びそうな記事が載っていた。

翌年、もう一度阿久津さんがイタリアを訪れ、私はまた通訳をする機会を得る。フィレンツェの近郊都市ルッカで行われるコミックスフェアに、講談社が招待を受けたのだ。阿久津さんは国際室に異動になっていて、その室長と一緒にイタリア視察を兼ねてやって来た。

招待といっても「いつからいつまでこういうフェアがありますので、よろしかったらどうぞ」というお知らせであって、ゲストとしての招待ではない。旅費やら宿泊やらフェアの主催者が払うわけではない。それでも、「コリエレ・デイ・ピッコリ」でMANGAの縁がついたイタリアだから、今後のためにも視察を、というとても日本企業らしい考え方で出張を決めたらしい。

講談社は、ボローニャで毎年開催される「国際児童図書展」には必ずブースを出しているので、イタリアには縁が深い。ボローニャでは絵本の取引が主だから、これでMANGA発行でも縁ができるかも、と思ったのかもしれない。

「キャンディ・キャンディ」がアニメとMANGAでヒットしても、マンガ市場が小さいイタリアだから、国際室(後の国際版権)の思惑とは大いに差があったと推測する。

フェアにはMANGA色が殆どなく、イタリア、フランス、スペイン、アメリカの新旧コミックスの祭典だった。今から見ると信じられない風景だ。実際、もうこのフェアには来る必要ないね、とお二方は話し合っていた。

「キャンディ・キャンディ」の熱狂はそれまでなかったことという意味で、イタリアのマンガ界を騒がせたが、市場から見れば一部のものであり、出展者のほとんどはMANGAに関してまったく知識を持っていなかった。この「一部の熱狂」がどういうことなのか理解してなかった、とも言える。

古本のブースで「お手持ちのコミックス買います」の張り紙があるところで、阿久津さんが試しに「キャンディ・キャンディ」の単行本(もちろん日本語)を差し出してみたら、ブースのおじさんは苦笑いをしながら首を横に振った。

この10年後のMANGAブームで、マンガに関わる誰もがMANGAを無視できなくなった時、このおじさんはホゾを噛んだろうか...と時々考える。

イタリアにおける「キャンディ・キャンディ」の特異性として、話が完結した後、発行していたファッブリ・エディトーリ社は続編を小説として刊行する。作家はイタリア人で、この許可を得るのに講談社に打診し、講談社は作者の水木杏子といがらしゆみこをイタリアに招待してくれという条件をつけた、というのが微笑ましい。

その後ファッブリ・エディトーリは、MANGAから離れてもとの百科事典事業に専念。MANGAに参入する出版社が多くなっていったのと逆行した。このへんの決定の経緯を知りたいものだ。

こうして日本のアニメのテレビ放映開始で、当時のガキンチョ達はショックを受けた。そして、日本発ポップアートの洗礼から、MANGAの発見につながっていった。洗礼を受けたガキンチョ達の中には、小学生だけではなく中学生や高校生も含まれた。

アニメやマンガが10代の層に影響を与えたということが、後のMANGAブームに大きく関わっていく。なぜなら、その数年後にこの高校生たちが社会に出るからだ。普通の就職ではなく、MANGAという自分の情熱を仕事にしていく者も現れてくるようになる。

一方、日本では講談社で宮原さんの下で編集を覚えた栗原さんがモーニングを創刊し、宮原さんは少年マガジンを編集長を退任してヤングマガジンを創刊。読者の対象を青年に広げていき、少年海外コミックという部署(?)を設けて(多分お一人で担当)、さらに編集総務局長に就任という変化が起こっていた。これらが、わたしの活動にもだんだんと繋がっていく。

【みどり】midorigo@mac.com

主に料理の写真を載せたブログを書いてます。
< http://midoroma.blog87.fc2.com/
>

2008年に里帰りした時に、知り合いのマンガ家さんに紹介されてインターネットTVのインタビューを受けて、ビデオも一緒に撮った。ミーハーだから「うほほ、私もメディア出演だわ」とちょっと得意になった。

インタビュー記事はすぐにサイトにアップになったけど、〈働く・仕事〜エンタテインメント産業(4)コミックエージェンシー山根緑さんに聞く LWAC-TV〉ビデオはなかなかなアップされなかった。小心者なので、担当者に質問することなく、そのうち生活に追われて忘れてしまった。

で、先日、なんだか検索してて行き着いた。嬉し恥ずかし私のインタビュービデオ。
< http://lwac.jp/wmv/manga/yamane.wmv
>

光を調整して、祖母、母譲りの私の垂れた顔面皮膚がほとんどわからなくなっている(目の下の頬が垂れ、口元の脇の肉が垂れてブルドックようになる)ううむ、この調整に手間取ったのかも...と、気を使ってくれた担当者に深く感謝。

日本事情、たまには嬉しいニュースもありますね。

・石原都知事の尖閣諸島購入という発想、いいですね。支持します。「国を守るならなん国が買わないの」という意見もあるけど、持ち主は政治家不信だったそうで国には売らないといっていたそうで、だから無理です。それに、今の政府が購入したら、熨斗つけて中国様に献納してしまいそう。

尖閣諸島なんて小さい島、がたがた言うならあげちゃえばいいじゃない、という人もなかにいるようですが、どんな小さな島にも「領海」という概念がついて回るのを忘れてはいけない。尖閣諸島には九州の6倍の海がついている。その海を守れないと、都民を含めた日本国民の生活に欠くことのできない資源輸送が危険になるということ。

不安材料にはことかかないけど。

・新潟に支那領事館というのも危ない。地図を逆さまにしてみるとわかるけど、新潟は支那から太平洋へ抜ける拠点になる。領事館になったらそこは治外法権。日本の力が及ばなくなる。チャイナタウンを作って経済活発化、とか支那の旅行者を誘致して経済活性化とか、目の前の人参に飛びついて後どうなるのか。落とし穴の方にもよーく目を通して考えてほしい。

新潟だけじゃなく仙台もか。子供のためにパンダ誘致... パンダはプレゼントではなくて賃貸し。その費用年間一億とか。そのお金を復興と内需拡大に使うほうが先ではないのかな。だいたいパンダはチベットのもので、支那が勝手にどうこうしていいものではない。

▼ローマでMANGA[15]東京でMANGA
< https://bn.dgcr.com/archives/20081125140300.html
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編集後記(04/26)

●浅田次郎「降霊会の夜」を読む(朝日新聞出版)。信州の別荘地にひとりで住む初老の男が、謎めいた女の誘いでミセス・ジョーンズが開く降霊会に参加する。かつて男と同じ時を過ごした人たちの霊魂が現れ、彼の心の闇の奥深くある記憶の古井戸の蓋を開けて行く。忘れたことにしていた暗い記憶が次第によみがえる。彼が知り得なかった真実が死霊や生霊によって語られる。最初の夜に現れたのは、小学3年生の1学期だけの友達キヨとその家族、知り合いの警察官などだ。彼らの心の内を知ることによって、彼のうちに燻り続けていた悔悟や罪悪感がきれいさっぱり拭われる。

ところが、二日目の夜、招かれざる客が降りて来る。一番会いたいと念じたのは、大学時代に半年つきあって、潮時という身勝手この上ない理由で捨てた百合子だった。しかし、現れたのは......。迷える霊魂の哀切極まる語りは絶品だ。一人語りさせたら、浅田次郎の右に出る者はいない。それにしても苦くて重い話だ。

浅田作品には、娘の霊魂が現れる「鉄道員(ぽっぽや)」がある。主人公の悔悟が救済される、心温まる泣ける話だ。ながやす巧の描いた漫画を持ち出して、一気に読んでまた泣いた(しかも「ラブ・レター」との2本立て)。しかし、「降霊会の夜」の主人公の悔悟や罪悪感は救済されたとは思えない。これからは以前に増して孤独な日々が続くのだろう。もやもやした読後感がいつまでも漂う。わたしは過去を振り返るのがきらいだ。恥ずることの多き一生でした。って、まだおめおめ生きてます。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022509503/dgcrcom-22/
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●齋藤さんの写真好きやわ〜。/SkyDriveを25GBにアップした。今後はもうちょっと使いたいな。/イタリアっ子も「なんたらパ〜ンチ!」と言っていたのか。midoriさんのインタビューは見応えあり。

カブトムシの幼虫。朝起きた時にフンが増えていて、底にいたらほっとする。フンは作り物のよう。ボトルガムの粒に似ていて、大きさは半分ぐらい。机の上に置いて合間合間にも生存確認をする。さすが自然の無農薬ファームだぜ、焦げ茶(土)と白(幼虫)と青(ジップロックコンテナの蓋)に、緑が加わった。草がひょろひょろ〜と伸びてきたよ。家人の会社に、クワガタ生育セミプロがいて、カブトムシのケース(コバエの入らないフィルターつき)をもらってしまった。丸いほうがいいらしい。ジップロックコンテナも丸かったぜ。昆虫ショップについても教わる。このセミプロは育てるのが好きで、近所の子供たちにあげたりはするものの、ショップに売ったりはしないそうだ。夜行性のクワガタに合わせて、夜中に取りに行くツアーがあって、場所を覚えさせないために、車の内部にカーテンが吊られているとかいう話も聞いた。うちのマンションには広めの植樹エリアがあるので、カブトムシの幼虫をツガイで育てて、産まれた卵を埋めてやったら自然に育つのだろうか。腐葉土をえさに、成長してからも樹液。国産カブトなら生態系を壊すことはなさそうなんだが。

三日前、ゴキブリが死ぬ時のように土の表面でひっくり返っていた。直視できず、死んでしまったと半泣きで家人に電話していたら音がした。動きはじめた。しかし明らかに弱っている。酸欠なら私の土の管理が悪い。新たに土を買った。環境が変わってはと、古い土からも一部入れようとふるいにかけたら、出てくるわ出てくるわ、フンの山。食料が減っていたのと湿度(醗酵しての酸欠)のせいだろう。土を変えたら、もこもこもこもこと潜っていった。気に入ったようだ。(hammer.mule)