映画と夜と音楽と...[546]最後の砦はどこまで譲れる?
── 十河 進 ──

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〈人生劇場 飛車角/明治侠客伝 三代目襲名/博奕打ち 総長賭博/博奕打ち 流れ者〉


●己と折り合いを付け自省および自制しながら生きていくほかない

人は己の性格をいつ形成するのだろうか。先天的なものもあるだろうが、精神的なものの大部分は後天的に培われるのではないか。己の過去を振り返り、今の性格をなるべく客観的に見ると、そう思える。こんな人間にはなりたくなかったと思う部分も多いが、今さら否定することもできない。何とか、己自身と折り合いを付け、自省および自制しながら生きていくほかない。

この歳になると、自分の性格がなぜこうなったのかが見えてくる。なるほど、あのとき、あんなことを経験したからこうなったのだと納得するし、あの本を読んでいなければ別の美意識や価値観を持っただろうなあ、と思うことも多い。人間は、それぞれ個別の価値観を培い育んで生きている。それはホンの些細なことの蓄積であり、経験や環境から作られる。そんな風に作られた僕のベースは、「常に潔くありたい。覚悟を持って生きていたい」ということである。実践できているかどうかは、わからない。

「ソゴーくんは、覚悟の人だから...」と、先輩のKさんにはよく言われた。しかし、Kさんこそが「覚悟の人」だった。僕は大学卒業前の2月中旬から出版社の社員として働き始めたのだけれど、出社した日に席がなく「そこに坐っておいて」と言われたのがKさんの席だった。Kさんは新婚旅行中だったのである。休み明けに出てきたKさんは、自分の席に座っている痩せて青白い顔をした男を見て驚き、「そこ、僕の席だけど...」と言葉を詰まらせた。




僕が配属されたのは、三人のムック編集部である。編集長を挟んで右側がKさんで、左側が現デジクリ編集長の柴田さんだった。Kさんが出社したところで、柴田さんが月刊誌に異動になり、僕が柴田さんの後の席に入った。編集長を挟んでKさんと同じ編集部だったのだ。数日後、僕はKさんに連れられてアマチュアの8ミリ上映会にいった。新宿西口の安田生命ホールだったと思う。

上映会が終わり、Kさんが「飲んでいくか」と誘ってくれた。僕がうなずくと、Kさんは背中を向けてさっさと歩き出した。西口から東口へ抜ける地下通路の方へ向かった。そこは僕もよく知っている「ハモニカ横丁」(別の呼び名もあるけれど)だった。上京した頃、よくそこの食堂で「鯨カツ定食」を食べたものだ。もちろん、学生時代には安酒で酔いつぶれた場所でもある。

Kさんは早稲田大学出身だから、このあたりは縄張りだ。早稲田から新宿なら歩けるから、ゴールデン街やハモニカ横丁には早稲田の学生が多かった。Kさんが入ったのは「きくや」だったと思う。入社して一週間もしない頃だったし、会社の先輩と呑むのは初めてだった。その頃あまり飲まなかった僕からすれば、Kさんの飲みっぷりは豪快で、本当に酒が好きそうだった。

Kさんは僕より2歳年上だったが、入社は一年前で後輩ができたのが何となくうれしそうだった。世代的には全共闘世代で某セクトに所属し、かなりヤバイ大学生活を送ったらしいことを、その夜、酔うにつれて口にし始めた。そのセクトではデモに出るときにサラシを巻くという噂があり、特攻精神でデモに向かうようなメンタリティがあった。Kさんは、その噂を裏付けるような人だった。

その夜、酔いが深くなってから「義理と人情はかりにかけりゃ義理が重たい男の世界」とKさんは唄った。「唐獅子牡丹」──高倉健主演「昭和残侠伝」シリーズの主題歌である。Kさんが一番を歌い終わると、僕は「やがて夜明けのくるそれまでは意地で支える夢ひとつ」と唄い、「僕はこのフレーズが一番好きなんです」と言った。Kさんは感激して「ソゴーくん、きみの言うように覚悟だよ、覚悟...」とくり返した。

その夜、僕が知ったのは、Kさんがかなりな酒好きであり(ほとんどの人がそうだけれど)、酔っぱらうとだらしなくなり、くり返しが多くなるということだった。その後、僕を相手に酔うと決まってKさんは「唐獅子牡丹」を唄った。唄っている時、Kさんは何を思い出しているのだろう、その歌詞に何を託しているのだろう、と想像させる歌い方だった。

●彼らはみんな潔く禁欲的であり覚悟の人たちであった

どんな状況でも潔くありたい、そのためにいつも覚悟を持って生きていたい。そんな考えを、いつ、どのようにして抱いたのだろう。ほとんど右翼的な心情であり、時代遅れの武士道精神だった。心情右翼、思想は左翼という青年は、僕の世代にはかなり多かったと思う。任侠映画全盛の頃に青春を送ったという単純なことではなく、子供の頃からそういう美意識を育む環境があったのではないだろうか。あるいは、そういう性向が...

それにしても、あの頃の左翼青年は高倉健の「昭和残侠伝」シリーズなどの任侠映画を好んだ。忍耐の末に堪忍袋の緒を斬って、「死んでもらいます」とドスを抜く。彼らはみんな潔く、禁欲的であり、覚悟の人たちであった。日本人の好む武士道精神を引き継いでいた。しかし、彼らの見せ場あるいは真骨頂は、悪役たちの横暴にどこまで我慢できるかといった、前半のマゾヒスティックな展開にあったのではないか。そんなことを、当時から僕は思っていた。

高倉健より先に東映任侠路線を担ったスターは、鶴田浩二だった。特攻隊員だったが復員し、戦後に銀幕デビューした二枚目俳優である。松竹で渋谷実監督の「本日休診」(1952年)や小津安二郎監督の「お茶漬けの味」(1952年)などの巨匠作品に出て、独立プロ作品「雲流るる果てに」(1953年)で特攻隊員を演じて初期の代表作とした。

特攻という戦術に懐疑的な隊員が多い中、鶴田浩二が演じた特攻隊員は純粋に特攻隊を信じ、誇りを持って死に臨もうとしている覚悟の人である。ある日、父母と妹が面会にくると知り、彼は大喜びする。しかし、面会日の早朝の出撃命令が下る。仲間たちが家族と面会ができないかもしれないと同情すると、「そんな女々しいこと...」と彼は豪快に笑い飛ばし死ぬ覚悟を示す。

しかし、その夜、裏の林の中に立ち、彼は号泣する。体を震わせ、涙をあふれさせ、父母に呼びかけ妹の名を叫ぶ。のたうちまわる。悲しみが彼の体全体から伝わってくる。やがて彼は立ち上がり姿勢を伸ばし、己の女々しさを戒めるように五省の言葉を暗唱する。「至誠にもとるなかりしか、言行に恥ずるなかりしか、気力に欠くるなかしりか、努力にうらみなかりしか」と...。その耐える姿が痛ましい。

その後、鶴田浩二は東宝(この時代の出演作としては岡本喜八監督の「暗黒街の対決」がとてもよい)を経て、東映へ移る。そこで、彼は「人生劇場 飛車角」(1963年)に主演し、大ヒットする。この映画が、その後の鶴田浩二のイメージを確立させたと言ってもいいほどのはまり役だった。飛車角は禁欲的で侠客の筋目を守る覚悟の男だ。悪党たちの理不尽に耐え、最後に殴り込みに向かう。

尾崎士郎の「人生劇場」は早稲田の学生から小説家になる青成瓢吉が主人公の成長小説だが、吉良常と飛車角という侠客の話でもある。過去、何度も映画化されているけれど、飛車角に焦点を合わせたこの作品が大ヒットし、その後の東映任侠路線の草分けとなった。吉良常は月形龍之介、飛車角の女おとよは佐久間良子、それと知らずおとよに惚れる宮川が高倉健、ほとんど出てこないが瓢吉は梅宮辰夫が演じている。

●「傷だらけの人生 古い奴でござんす」が鶴田浩二の終焉か

東映任侠路線は1963年(昭和38年)にスタートし、実質的には1972年の藤純子の引退と共に終焉を迎えた。留めを刺したのは、1973年正月早々に公開された「仁義なき戦い」である。その後、実録ヤクザ路線と言われるリアルな暴力映画が主流になる。中村錦之助や大川橋蔵などの明朗ヒーロー時代劇が「十三人の刺客」(1963年)を嚆矢とする、リアルな集団抗争時代劇の出現によって消えていったのと同じ歴史をくり返したのだ。

鶴田浩二は「人生劇場 飛車角」で大ヒットを飛ばして東映の看板スターとなり、「博奕打ち」シリーズを始めとする数多い任侠映画を10年間で量産したが、健さん人気の上昇と反比例するように次第に人気を失った。しかし、任侠路線に翳りが見えてきた頃、彼は「古い奴だとお思いでしょうが...」と語る「傷だらけの人生」をヒットさせる。爆発的なヒットだった。

現在の目で鶴田浩二のフィルモグラフィーを見ると、大ヒット曲を映画化した「傷だらけの人生 古い奴でござんす」(1972年)が、実質的に鶴田浩二の任侠映画の締めくくりだったことがわかる。その後、何本かの作品はあるものの特筆すべきものはない。実録路線にも何本か出演したが、すでに時代は鶴田浩二から菅原文太に移っていた。鶴田浩二は、70年代後半からテレビに活躍の場を移した。

山田太一脚本のNHKドラマ「男たちの旅路」(1976年〜1982年)シリーズで、鶴田浩二が演じた吉岡指令補は今も多くの人の記憶に残っているだろう。また、晩年の代表作としては、やはり山田太一と組んだNHKドラマ「シャツの店」(1986年)がある。このとき、鶴田浩二は62歳。何10年もオーダーメイドのワイシャツを作り続けてきた男の哀感が印象に残った。翌年、肺ガンで逝去。「シャツの店」が遺作になったことは幸いだった。

僕より若い世代は鶴田浩二というと、「男たちの旅路」を思い浮かべる。しかし、あのキャラクターは鶴田浩二が任侠映画で確立したイメージを流用したものである。ストイックで、筋をきっちりと通す律儀さを持ち、何事にも耐え弱音を吐かない男、己には秋霜のように厳しいが人にはやさしく面倒見のよい男、静かで寡黙、ときにせつなそうな表情をして遠くを見つめる...、それが鶴田浩二が創り上げたロマンチックな人物像だった。

●東映任侠映画の最高傑作で鶴田浩二は耐えに耐える男を演じる

東映任侠映画の最高傑作と言われる作品は二本ある。加藤泰監督の「明治侠客伝 三代目襲名」(1965年)と、山下耕作監督の「博奕打ち 総長賭博」(1968年)である。どちらも鶴田浩二が主演だ。藤純子は「明治侠客伝 三代目襲名」ではヒロインの女郎を演じ、「博奕打ち 総長賭博」では鶴田の実妹であり鶴田の兄弟分(若山富三郎)の妻を演じた。

この二本とも鶴田浩二は耐えに耐える男を演じる。「明治侠客伝 三代目襲名」の鶴田浩二は親分を殺され、自分の組の工事現場を奪われそうになっても代貸として子分たちを抑えて耐える。義理のある大親分に「我慢してくれ」と言われれば、渡世の筋目をきっちり通す男としては、耐え難きを耐えねばならないのだ。それを周囲は理解していないから、「なぜそこまで我慢しなきゃならねぇ。代貸は腰抜けだ」と罵られる。

その身内の無理解に耐え、罵りに耐え、屈辱に耐え、汚名に耐えねばならない。その耐える顔がいいと、鶴田浩二にはファンが増えた。三島由紀夫が「博奕打ち 総長賭博」を絶賛したのは、同性愛者だった三島に鶴田浩二の耐える顔が魅力的に見えたからという要素もあったのではないか。「博奕打ち 総長賭博」の鶴田浩二は、渡世の筋を通すために恋女房の桜町弘子が自死しても耐えるのである。

この二本は間違いなく傑作であるし映画史に残る名作だが、鶴田浩二らしさが最も出た任侠映画としては、シリーズ8作目「博奕打ち 流れ者」(1970年)がある。この頃になると、パターンを描き続けた結果、任侠映画は歌舞伎のような様式美の高みにまで昇華していた。僕たちはわかりきった物語を見るために映画館に入り、お約束どおりの展開に拍手し、殴り込みになると「待ってました」と声をかけるのである。

九州小倉で、渡世の義理で殴り込みに向かう5人の流れ者がいる。筋目の通った渡世人の鶴田浩二と水島道太郎、老渡世人の北村英三、駆け出しの待田京介、東京の組の者だが修行の旅をしている天津敏である。北村英三と鶴田が駆け出しの若者を「命を粗末にするな」と追い返した後、殴り込み寸前に天津敏が逃げる。結局、3人で殴り込み、水島道太郎は大けがをしたところを、逃げた天津敏に助けられる。

相手の親分に一太刀浴びせ、怪我をした北村英三をかばって逃げようとしたとき、待田京介がひとりで飛び込んでくる。三人はかばい合いながら引き上げるが、北村英三は途中で息を引き取る。死の間際、大阪にいる女房と娘に渡してほしいと鶴田浩二は500円を預かり、兄弟分の杯をねだる待田京介を「これが渡世人の末路だ。今からでも遅くねえ、お前は堅気になれ」と叱りつける。

それから5年、鶴田浩二は預かった500円を懐に老渡世人の娘を捜している。女房はすでに病死し、娘は女郎として売られたのだ。娘が深川にいるらしいと聞いて、木場の親分の元に身を寄せる。そこである組の二代目を継いで売り出し中の天津敏に出会う。天津敏の組には小倉で助けられて以来、寄宿している水島道太郎がいて、殴り込み寸前に逃げた汚名は彼がかぶっている。

ある日、水島道太郎の妹で芸者をしている藤純子と鶴田浩二は知り合う。藤純子は兄からずっと鶴田浩二の噂ばかり聞いていたので、鶴田が名乗る前に「舟木栄次郎さん」と、あの語尾を少し上げる喋り方で口にする。「会ったら惚れるぞ、と兄にずっと言われていました」と、すでに惚れちまった口調である。そんな頃、いっぱしの博奕打ちになった待田京介が天津敏の組にワラジを脱ぐ。役者が揃い、悲劇が始まる。

この映画でも鶴田浩二は耐える。探していた娘が材木問屋の女将におさまっているのを知り、500円を届けにいって拒絶され恨み言を言われても耐え、筋目の通った渡世人だと心の底まで通じ合っていた水島道太郎が自分を救うために殺されても耐え、渡世の義理から水島道太郎を刺した待田京介が天津敏の組の者に殺されたのに耐え、世話になった親分がだまし討ちあっても耐える。彼が守るべき最後の砦はあるのだろうかと思うくらい、耐えに耐える。

●どこが(何が)自分の最後の砦なのかは明確ではなかった

大学生の頃、「俺には最後の砦がある。最後の砦だけは譲らない」とよく口にした。その後に「最後の砦が、どこにあるのかはわからないけどな...。けっこうズブズブに譲ってしまったりして」と、少しおどけた口調で言い添える。前半は本音だった。ただし、真面目に主張してしまったが故に恥ずかしくなり、後半のフレーズで冗談めかしたのである。もっとも、本当にどこが(何が)自分の最後の砦なのかは明確ではなかった。

それでも、自分の最後の砦だけは守りたいと肩肘を張った。しかし、社会に出て会社組織に入り、そこで生活の糧を得るというのは、毎日、何かを譲り続けることだと知った。何かに妥協し、何かに耐え、ただひたすら耐え、理不尽を受け入れることによって、僕は日々の糧を得ていたのだ。違う、俺がやりたいのはそういうことじゃない、そんな叫びが毎日僕の胸に湧き起こる。やがて、それにも慣れ、自分のこだわりがどんどん後退していくのを自覚した。

一体、どこまで後退できるのか、妥協できるのか、本当に俺にはここだけは譲れないという最後の砦が存在するのかと思っていた頃、理不尽としか思えない人事異動の辞令が出て、僕は「そんな辞令受けられません。冗談じゃねぇや」と上司に向かって声を荒げ、職場に戻って机を蹴飛ばし「こんな会社やめてやらぁ」と怒鳴り散らして会社を飛び出した。あれが、僕の最後の砦だったのだろうか。

だが、冷静になって考えれば、その人事は僕の能力を評価していなければあり得ないものだった。現在の僕は若いモンに「仕事が多いのは有能な証拠。あいつに任せれば大丈夫という信頼感があるから、無理難題をお願いするんだよ」と言っているが、それはそのときの僕の経験が言わせている。だが、当時の僕はそこまではわからなかった。その人事を構想した先輩が自宅までやってきて、僕はようやく客観的に考えることができたのだ。

Kさんに対する社内の風当たりが強くなったのは、もう彼が50も半ばになった頃だった。その理由はよくわからない。部下からも突き上げがあったと聞いたし、批判も出ているという話だった。Kさんの仕事のやり方が、あるいは勤務態度が組織の許容範囲を超えてしまったのだと思う。僕の会社は出版社としては堅い方だから、型破りな編集者は存在しにくかったのかもしれない。

その頃、僕は編集部を外れて管理部門に移っていた。ある日、会議の決定を受け、僕はKさんに最後通牒を伝える役目を担った。つまり、勤務状況や仕事のやり方に改善が見られない場合は編集長からの降格もあり得ると、組織としての決定事項を伝えたのである。

おそらくKさんは、社内では僕に最も親近感を持っていてくれたと思うが、その後輩から彼は最後通牒を突きつけられたのである。今でも、僕はそのときのKさんの顔を思い出す。「それが会社の決定なんですね」と彼は念を押した。僕に対して敬語を使ったことが悲しかった。Kさんが辞表を出したのは、翌日だった。最後通牒を伝えたときから、僕にはKさんが辞表を出すことはわかっていた。Kさんは覚悟の人だったし、最後の砦を守ったのである。

彼には彼の言い分があったはずだ。どう見えようが、自分は自分なりのやり方で仕事をしているのだとKさんは言いたかったはずである。だが、Kさんはひと言も言い訳をしなかった。「それが会社の決定なんですね」と、メガネの奥の目を光らせただけだった。Kさんは退職するまでの期間、恨み言のひとつも言わず、それまで以上に明るく仕事をこなした。

最終日だったか、後輩の編集者が設定した送別会でも終始、にこやかな笑顔だった。座が盛り上がり参加者たちの惜別の辞が続き一段落したとき、身を縮めるようにして参加していた僕の隣にKさんがやってきた。「ソゴーくん、これからもがんばってくれよ」とKさんは言った。それから「義理と人情はかりにかけりゃ」と、思いを込めて歌った。

Kさんが歌い、僕は「おぼろ月でも墨田の水に」と続けた。涙がにじんだ。Kさんと共有した30年が甦った。Kさんが新婚旅行から帰って出社したときのこと、ふたりで出版労連の会議に数え切れないほど出席したこと、一緒にロケしたこと、酒を酌み交わし「唐獅子牡丹」を歌ったこと、酔っぱらってタクシーに乗り僕ひとりが阿佐ヶ谷で降りて青梅街道で寝ていたこと...、Kさん、ありがとありました、と僕は口の中でつぶやいた。

Kさん、覚悟の人は僕ではなく、間違いなくあなたでした。健さんや鶴田のアニィのように、あなたは最後の砦を守りきった。譲らなかった。妥協しなかった。筋を通した。未練たらしいことなど、一度もしなかった。恨み言など、ひと言も口にしなかった。「幼なじみの観音様にゃ俺のこころはお見通し」──最後にあなたはそう歌いたかったのではないか、今でも僕はそう思っています。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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