[3277] おじさんとは悲しい存在である

投稿:  著者:


《ハム速にやられた。》

■映画と夜と音楽と...[547]
 おじさんとは悲しい存在である
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![154]
 河川敷にみる社会の原形 VS. システム社会の苦悩
 GrowHair




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■映画と夜と音楽と...[547]
おじさんとは悲しい存在である

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20120608140200.html
>
───────────────────────────────────
〈あぜ道のダンディ/博多っ子純情/嗚呼!!花の応援団/不連続殺人事件/女高生 天使のはらわた〉

●「おじさん」には「あきらめ」がよく似合う

男の人生で長く続くのは、「おじさんの時代」である。少年期はあっと言う間に過ぎ、青年と呼ばれる期間も短い。あるとき、誰かに「おじさん」と呼ばれ、自分もそんな風に見えるようになったのかと愕然とする。そして、あきらめる。いや、少しはあらがうかもしれない。だが、「おじさん」と呼ばれるようになったら、そこからは長い長い「おじさん」の時代が始まるのだ。

僕は映画館の窓口で「シニアです」と申請すると千円で映画が見られる歳になったけれど、未だに「おじさん」と呼ばれることが多い。昔なら「初老」、もっと昔なら「老人」なのだが、僕の周りを見ても同年代の人は老人には見えない。小津安二郎監督の名作「東京物語」(1953年)で笠智衆と東山千栄子が演じた老夫婦は、60を少し過ぎた設定だった。昭和28年の映画である。その頃は60を過ぎれば、立派な老人だった。

もっとも、人をどう呼ぶかと言うのは、相手との関係にもよる。僕も年上の人から「おじさん」と呼ばれたことはあまりない。「ソゴーくんも...おじさんになったなあ」と、会社の先輩に言われたことはあったが、それは見た目の姿についてというより行動や生態に関してであったように思う。「おじさん」も「おばさん」の生態に似て、厚かましくなったり恥知らずになるところがある。

そう言えば、20数年前のこと。もう40近くになっていたのに、映像作家のかわなかのぶひろさんには、「青年、青年」と呼ばれた。僕が「ビバ・ビデオ」というビデオ誌の編集長をやっていた頃のことだ。朝日新聞主宰のビデオコンテスト審査員などをつとめていたかわなかのぶひろさんをインタビューすることになり、写真家の丹野清志さんと一緒に四谷にあった「イメージフォーラム」を訪ねた。

今は青山学院大学から少し宮益坂へ向かったところに、常設の映画館も備え立派になった「イメージフォーラム」があるけれど、四谷の頃はこぢんまりした感じだった。そのホールでかわなかさんに僕がインタビューし、丹野さんが撮影した。その後、新宿へ出て昭和館の前でも撮影をした。すでに日が暮れていた。元々、丹野さんとかわなかさんはゴールデン街の呑み仲間である。当然、僕もふたりに付き合うことになった。

その夜、僕は明け方近くまで何軒もハシゴするかわなかさんに連れられてゴールデン街をさまよった。その間、かわなかさんは僕のことを「青年」と呼び続けた。それから数年、かわなかさんにはよくゴールデン街のお供をしたが、名前を呼ばれた記憶はない。いつも「青年」だった。かわなかさんは、僕より10歳ちょっと年上である。僕が青年に見えるのかもしれない。そう言えば、10歳ほど若い会社の後輩は外見や服装が若いこと(若作り)もあるのだが、僕には青年に見える。

僕が30になったばかりの頃に知り合った後輩は、当時から僕のことを「おじさん」とか「おやじ」と呼ぶ。もっとも、彼にとっては自分より年上の男はすべて「おじさん」か「おやじ」であり、年上の女はみんな「おばさん」だった。彼は30半ばの会社の女性を「おばさん」と呼んでムッとされ、「誰がおばさんなのよ」と反論された。「おばさん」と呼ばれた女性はほとんどがムッとして言い返すけれど、「おじさん」と呼ばれた男はあきらめ顔で素直にうなずく傾向がある。

そう、「おじさん」には「あきらめ」がよく似合うのだ。男は「おじさん」と呼ばれた瞬間にあきらめ、自分がおじさんなのだと自覚する。反論したところで、そう呼んだ相手には自分がおじさんに見えているのだろうと納得するしかない。それからは「おじさん」と呼ばれることに慣れ、さらに「おじさん」化が進行する。おじさんは己を客観視できるから、あきらめざるを得ないのだ。自分は、ごくごく平凡なおじさんなのだと......

●30数年ぶりに主役を張る光石研の映画はシリアスにはならない

──地位も金もねぇから、せめてダンディでいたいんだよ。真田...、平凡であることを恥じたら終わりだぞ。それは、つまりさ、生きるってことを恥じるなってことなんだ。真田...、わかってくれよな!

宮田淳一は、50歳である。田舎町でずっと生きてきた。中卒で働き始め、今は運送会社に勤務している。毎朝、田舎道を自転車を漕いで仕事場へ通う。妻を10年以上前に亡くし、ふたりの子供を育てている。長男が一浪し、長女が高校三年生である。ふたりが揃って大学受験を迎えているが、中卒の彼には大学のランクなどまったくわからない。それに二人分の入学金と仕送りをどうするかが大きな悩みだ。

宮田淳一は、毎朝、競馬中継に模した独り言をつぶやきながら自転車を漕ぐ。「第四コーナーをまわって宮田淳一、依然として後方。宮田淳一、ムチが入りました。宮田淳一、追い上げます」などと言いながらペダルを漕ぐ。あぜ道が彼の競技コースなのだ。追い込みが始まるとサドルから腰を浮かし、勢いよくペダルを回転させる。会社の事務所の外に、「宮田淳一、今、一着でゴールインしました」と言いながら自転車を停める。

宮田淳一には、中学時代からの親友の真田がいる。ふたりで不良たちのカツアゲに遭い、「泣くな。男は泣くな」と恥を晒し合った仲である。「かっこいい大人になりたいな」と神社の境内で誓い合った仲である。40年の付き合いだ。宮田が高飛車に出ても、真田は気弱そうな笑顔で受け流してくれる。真田は父親の介護で仕事を辞め、妻は男を作って逃げた。父親が死に、今は遺産で生活している。真田は宮田の愚痴を聞いてくれる唯一の友だ。

しかし、宮田は気の弱い真田を前にすると、ついつい強い口調になる。真田に甘えているのだが、「たったひとりの親友に愚痴っちゃいけないのかよ、バカ」と、どうしても怒っているような言い方になる。苛立ちをぶつける。宮田が長く介護をした自分への褒美だと言ってかぶっているソフト帽を、「何だ、そんな似合わないもの...」と毒づいてしまう。そんな宮田の心情を、真田は理解している。怒りもせず、宮田を受け入れる。

ある日、居酒屋で真田と会った宮田は、自分が胃ガンではないかと疑っていることを、いつものように怒った口調で告白する。かつて妻を胃ガンで喪った宮田は、「症状があいつとそっくりなんだよ」と完全に思い込んでいる。「診てもらったら、いいじゃないか」と真田に言われ、病院へ検査にいくが医者の深刻そうな顔を見て、思わず「どれくらい生きられますか?」と訊きそうになる。

宮田は遺影を撮影してもらい、大きく伸ばして子供たちそれぞれの部屋に何も言わず入れておく。長男が大学に受かったと聞くと、「金のことは心配するな。お父さん、金はあるんだ」と口にする。彼は自分の生命保険が下りることを想定しているのだ。妻の仏壇の前でビールを飲み続け、「いくらさみしいからって、俺を呼ぶのが少し早すぎねぇか」などとぼやく。

このあたりになると、どんな鈍感な観客でもうすうす感じ始める。「これは胃ガンじゃないな」と...。そう、これで本当に胃ガンだったらコメディにはならないし、観客を笑わせることもできない。この映画はどう考えたって喜劇なのだ、だから絶対に宮田の思い込みに違いないと確信する。だって、宮田淳一を演じているのは、デビュー作以来、30数年ぶりに主役を張る光石研なのだから、シリアスな物語になるはずがない。

●光石研は「名前は知らないけどよく出ている人」になった

光石研がデビューした映画は、よく憶えている。その頃、僕は週刊「漫画アクション」を欠かさず読んでいた。「ルパン三世」の連載は終わっていたが、「子連れ狼」「昭和柔侠伝」「じゃりン子チエ」などと一緒に長谷川法世の「博多っ子純情」が連載されていた。「博多っ子純情」が気に入っていた僕は、連載で読んでいたにもかかわらずコミックにまとまると必ず買っていたのだ。

その「博多っ子純情」が曾根中生監督によって映画化されると知ったのは、勤め始めて3年目のことだった。曾根中生は日活ロマンポルノで監督デビューした人である。「色情姉妹」(1972年)「ホステス情報 潮ふき三姉妹」(1975年)なんて、気の弱い僕などとても口にできないタイトルの映画ばかり撮っていた人である。僕が初めて見た曾根作品は、「嗚呼!! 花の応援団」(1976年)だった。

「嗚呼!! 花の応援団」も週刊「漫画アクション」で人気が出たマンガだった。青田赤道という怪人が登場するバカバカしいギャグマンガである。青田赤道がヘビのように先が割れた長い舌を出し、脚を回転させながら叫ぶ「ちゃんわ・ちょんわ」という訳のわからない言葉が流行っていた。僕はこのマンガも大好きでコミック本を揃え、同じ作者の「花田秀次郎くん」シリーズも揃えた。

当時は、カミサンも僕が読み終わった「漫画アクション」を読んでいたので、「『嗚呼!! 花の応援団』を見にいこう」と誘うと快く付き合ってくれたものだった。だから、曾根監督がアート・シアター・ギルド(ATG)で撮った坂口安吾原作の「不連続殺人事件」(1977年)もカミサンとふたりで見にいった。多くの人物が登場し人間関係が錯綜する物語だが、わが愛しの夏純子がヒロインを演じた。

翌年、曾根監督が作ったのが「女高生 天使のはらわた」(1978年)だった。ロック・ミュージカル劇団「ミスタースリム・カンパニー」の深水三章、中西良太、それに河西健司が出演した。僕は大学時代の先輩である河西さんが出演しているというので、封切り初日に見にいった。日活ロマンポルノなので、さすがにカミサンは誘わなかったが、河西さんの演技が「狂気をはらんで印象に残る」とキネマ旬報の映画評に出たのは今でも憶えている。

同じ年の暮れ、曾根監督の「博多っ子純情」(1978年)が封切られた。「漫画アクション」は映画をヒットさせようと、公開のずいぶん前からいろんな記事を載せていた。だから、主人公の郷六平を演じる光石研という少年について、事前に記事で読んだ記憶がある。当時、光石研は17歳の高校生である。相手役の小柳類子を演じたのは、人気アイドルの松本ちえこだった。

郷六平、その悪友の黒木と阿佐を含めた主役の三人は公募だったと思う。そして、黒木役と阿佐役の少年たちが「博多っ子純情」一本だけで終わったのとは対照的に、光石研は「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」(1980年)を皮切りに脇役人生をスタートさせる。その頃の光石研は名前のない役も多かったし、どこに出ていたのかわからない役も多かった。

ところが、光石研はいつの間にか出演本数の多い「名前は知らないけど、よく出ている人」として名脇役になった。「『パッチギ』(2004年)の教師だよ」とか、「『悪人』(2010年)の解体屋の親方だよ」と言えば、「ああ、あの人...」とわかる人は多いはずだ。その光石研を主役に抜擢した石井裕也監督は、なかなかよいセンスではないかと僕は思った。さすが「川の底からこんにちは」(2009年)で満島ひかりを輝かせ、奥さんにしてしまった人である。

●おじさんは孤独で「誰も理解してくれない」とひがんでいる

「あぜ道のダンディ」(2010年)は上映館が少なく、東京では新宿テアトルでの一館ロードショーだったが、新聞の映画評などでも取り上げられ評判にはなっていた。僕は光石研と田口トモロヲ(真田役)という、おじさんコンビに惹かれて見にいった。石井監督はまだ30にもならないはずで、若いせいかおじさんの捉え方がステレオタイプになる部分もあったが、喜劇のセンスがいい監督だと思う。

誰もが抱く「おじさん」のイメージがある。風采が上がらない中年男、居酒屋でくだを巻き、ダサい日曜日のお父さんスタイルをし、意味もなくゴルフのスイングをしたり、女高生に説教をする...などなど。「あぜ道のダンディ」でも、そんなステレオタイプのイメージが駆使される。だが、観客のイメージを裏切らない描き方の中に、ハッとするシーンが挟まれる。

たとえば冒頭、あぜ道を競馬中継しながら自転車に乗る宮田淳一にグッときた。第四コーナーをまわった後、後方から宮田淳一が追い上げるのを中継する。それは、何10年も平凡に暮らしてきた男の見果てぬ夢だ。人々の注目を集め、後方から駆け上がり一気にゴールをめざし一着でゴールインする宮田淳一。そんな瞬間は永遠にこないと知りながら、夢を棄てきれない。あきらめてはいるが、あきらめきれない。そんな「おじさん」の心情が強く強く伝わってくる。

彼は妻を亡くした後、ひとりで子育てをしてきた。しかし、息子も娘も彼をうざったく思っている。ほとんど会話はない。大学も勝手に決めてしまい、「その大学は東京か」と訊くと、「決まってるっしょ」と答えるだけだ。「父さんが中卒で、大学のこと何も知らんと思って馬鹿にするな」と怒鳴っても、息子は強く反応するでもなく、「なぜ怒鳴ってるの」という顔をする。喧嘩にもならない。苦労して育てたのに...、と彼はやるせない。

宮田は妻の位牌と写真のある仏壇の前で愚痴り、グズグズと缶ビールを飲む。妻が子供たちに遺したテープをかけながら、懐かしい妻の声に涙する。妻は息子と娘の名前を呼び何かを言い遺そうとするが、突然、口調を変えて「やっぱり歌います」と涙声で言う。「歌うのか?」と涙ぐんでいた宮田が意外そうな反応をする。ずっとかけることができず、彼は初めてテープを聞いたのかもしれない。

妻は「あなたたちに、子供の頃から歌ってあげた歌です」と言って、「タラッタラッタラッタ...うさぎのダンス」と歌い始める。死の床で幼い子供たちに遺す言葉を録音しているテープで、いきなり歌い出すギャップが可笑しく宮田のツッコミも絶妙で笑ってしまう。しかし、この「うさぎのダンス」は伏線になっていて、ラスト近く子供たちが上京する前夜、「おまえたちに言っておきたいことがあります」と言った宮田は、怪訝な顔をする子供たちに「やっぱり、お父さん歌います」と、いきなり「うさぎのダンス」を踊り出すのである。

おじさんはシャイなのである。年令を重ねて厚かましくなったり、恥を恥と思わなくなっても、明日から初めて別々に暮らすことになる子供たちに向かって「おまえたちに言っておきたいことがある」と言い出したものの、やはり照れくさくなって歌ってしまうのだ。親子なんだ、言葉にしなくても伝わるんじゃないか、とおじさんは思う。面と向かって、改まって、真剣な言葉を口にするなんて、ドラマじゃあるまいし...とおじさんは照れる。何も言えない。

しかし、僕の経験では、親の気持ちは自分に子供ができるまで実感できなかった。子供が生まれたとき、親とはこういう気持ちになるのだと、今さらながら「子を持って初めてわかる親の恩」だったのである。だから、「親の心子知らず」も真実なのだと思う。「あぜ道のダンディ」の長男は真田に「宮田の気持ちもわかってやれよ」と言われ、「わかってるんですよ」と反論するけれど、現実の親子関係の中では余計な感情が親子の理解を邪魔する。

だから、おじさんは孤独なのである。誰も理解してくれない、俺は家族を養うだけの装置なのか、と己の存在理由を問う。おじさんとは悲しい存在なのである。もっとも、家族とも積極的にコミュニケーションをとろうとせず、どうせ話してもわからないとあきらめて何も口にせず、自らそんな状態に追い込んでいるフシもないではないけれど...

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>
6月になり、梅雨入りも近いようです。中旬に数日、一年ぶりに故郷へ帰る予定です。2か月前の早割で航空チケットを買ったら本当に安くてびっくり。昼過ぎに出て夕方前に着く便ですが、その時間帯はお客が少ないのかなあ。

●長編ミステリ三作「愚者の夜・賢者の朝」「太陽が溶けてゆく海」「黄色い玩具の鳥」の配信を開始しました→Appストア「グリフォン書店」
●第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」受賞
既刊三巻発売中
「映画がなければ生きていけない1999-2002」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2003-2006」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2007-2009」2,000円+税(水曜社)
●電子書籍版「映画がなければ生きていけない」シリーズがアップされました!!
「1999年版 天地創造編」100円+税
「2000年版 暗中模索編」350円+税
「2001年版 疾風怒濤編」350円+税
「2002年版 艱難辛苦編」350円+税
「2003年版 青息吐息編」350円+税
「2004年版 明鏡止水編」350円+税
「2005年版 暗雲低迷編」350円+税
「2006年版 臥薪嘗胆編」350円+税
「2007年版 驚天動地編」350円+税
「2008年版 急転直下編」350円+税
「2009年版 酔眼朦朧編」350円+税
< https://hon-to.jp/asp/ShowSeriesDetail.do;jsessionid=5B74240F5672207C2DF9991748732FCC?seriesId=B-MBJ-23510-8-1
>

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■Otaku ワールドへようこそ![154]
河川敷にみる社会の原形 VS. システム社会の苦悩

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20120608140100.html
>
───────────────────────────────────

●河原の生活は社会の原型なのかも

広大な河川敷をもつ入間川にかかる長い橋。その下に住んでるおじさん、谷川鰤氏(仮名)。たんぽぽは美味いと主張していたけれど、実際のところどうなのだろう。まあそれは来年にでも試しに食してみることにして。

どうも河川敷の暮らしというのがまだピンと来ない。生活していく上で何が欠乏しているのかは、見れば分かる。電気は来てない。夜は真っ暗。水や食料の調達はけっこうな手間。生活保護は受けられない。いろいろ大変そうだ。

なのに、竹やぶの脇の車の中で暮らしている上田友浩氏(仮名)も、橋の下の谷川氏も、福祉のお世話になってアパート暮らしするよりも、こっちがいいと言っていた。いやむしろアパート暮らしなんてまっぴらごめんだ、ぐらいの調子で。欠乏するものを補って余りある何かがそこにはあるのだろうか。そこがどうにも分からない。

デザフェス出展用に人形撮影するのに、お二人のお住まいを使わせてもらっているので、こんなのが撮れましたというご報告も兼ねて、5/26(土)に再び行ってきた。この日は私一人で。姿はセーラー服。話をよくよく聞いてみれば、不便なんてもんじゃない実態が分かってきた。だめじゃん。無理じゃん。成り立ってねーじゃん。

まずは谷川さんちへ。この前は今にも降り出しそうな曇天だったが、この日は好天で、少し暑いくらい。着いたのは午後3時ごろ、傾きかけた赤っぽい日差しに照り出された谷川さんちもまた美しい。いたいた。会うのは2度目。前回は清水真理さんの人形の撮影で、いきなり行って、場所を使わせてくださいとお願いしたのであった。私のセーラー服姿をこの日に初めて見て「いい格好してるねぇ」とにやにや。

谷川さんは、近所の人にも本名を言っていない。栃木県の土呂部(どろぶ)出身。日光の奥のほうで、極寒の地のようである。若いころ出て以来、ぜんぜん戻ってないそうだけど。この前聞いたときは、そのへんで拾ってきたものを売って暮らしていると言っていたけど、その収入では、たまにラーメンを食うぐらいにしかならないらしい。何かの製作の作業場で、人手が足りなくなったときに臨時の労働力として呼んでもらえるのが主な収入源なんだそうで、最近ちっとも来てくれないと心配していた。

さて、この日は先客がいた。農業のノウハウを伝授しているとこから、畑をやっている人だとすぐに分かった。前回はK原氏と書いたが、草原耕作氏(仮名)としておこう。草原氏は、農家に生まれ育っているそうで、農業の知識が豊富だ。しかも面倒見がとてもいい。発泡スチロールの四角い容器を使って、ニラのミニ菜園をこしらえて、谷川さんちに置いてあげている。そして、幅の広い葉っぱが出るようにするためのノウハウを伝授しているのである。

私は草原さんと会うのは初めてだが、勝手知ったる谷川さんちのどこか奥のほうから、釣りなどで使う布張りの小さな折りたたみ椅子を引っ張り出してきて勧めてくれた。さらに水筒のキャップをコップにして熱いコーヒーをなみなみと注いでくれた。厳しい生活を営んでいる人から私なんぞが施しを受けるのは天罰が下りそうだが、人からの厚意はありがたく受けることにしている。薄くてコーヒーの香りがぜんぜんせず、やたらと甘ったるかった。

橋の下の暮らしに力尽きて死んだ人がいたと聞いていたので、そこをさらに聞いてみた。すると、実は3人いたそうである。谷川氏はここへ来てからまだ3年なのに。発見されたとき死後2か月経っていたという人は、水辺側のお隣りさんで、車の中に住んでいたという。運悪いことに、「2か月ばかり出稼ぎに行ってくる」と言っていたので、ご近所の人たちはてっきり行ったものかと思って「なかなか帰ってこないねぇ」なんて言い合っていたそうである。

谷川さんと同じ区画に一緒に暮らしていた人はまた別なのだそう。「次は俺の番かもなぁ」。えーっ、死ぬのは畳の上よりもこっちのほうがいいってことですかい? この橋は塗り替える予定があるとかで立ち退きを迫られていて、谷川さんが最後の一人だ。この前、生まれたばかりでまだ見ていなかったという子猫たち、母猫が高齢出産のせいかお乳が出なくて、どうも絶望的らしい。

次に、車の上田さんちへ。上田さんちの前にも草原さんの手になるミニ菜園ができていて、小さなナスが実っている。こっちの子猫たちはすくすくと育っていて、元気に跳ね回っている。まだ用心するということを知らず、構っても逃げないのだが、向こうから見張っている母猫が低く「うー」とうなり声を立てて威嚇してくる。「噛まれるぞ」と上田さん。

橋の下とは別に、倉庫みたいなところでも死んだ人がいたと聞いていた。その人は、犬をたくさん飼っていた。近くを通ると、犬がわらわら寄ってきて恐かったそうだ。近所づきあいしていなかった。その人が死んだ後には別の人が引っ越してきて暮らしているそうである。その人も近所づきあいしない。なんだか不気味だと言っていた。

探してみると、草むらの向こうにコンテナだかトラックだかがあるのは分かる。けど、そこへ行く道が見当たらない。このあたりにはマムシが生息しているのが分かっているので、草ぼうぼうのところに足を踏み入れる気はしない。

その人とは別に、車の中に暮らしている人がいるが、やはり近所づきあいしないそうだ。あいさつしに行っても返事もしないし、窓を開けもしない。「近所づきあいしない人は、だめなんじゃないかなぁ」と上田さん。「だめ」とは「人として程度が低い」ではなく「先がない」のニュアンス。

ここの暮らし、不便なんてレベルじゃない。生存確率が決定的に低いのだ。頑健で、生まれてこの方病気したこともなく、ここでの暮らしが13年続いているという上田さんが例外的なのかもしれない。もともと貯蓄が600万円あって、車は自分のものだというのも恵まれた条件に違いない。しかも几帳面な性格で、きれい好きなのだ。

ここに、社会というものの原形を見る思いである。生存確率のあまり高くない環境下では、単独で生活してすべてを自力でまかなおうとするのは得策ではない。どうにも立ち行かなくなったら行き詰って終わってしまう。けど、集団で支えあって暮らしていれば、個人個人には好調不調の波があっても、互いに補いあうことで、種としては安定維持しやすくなる。

つまり、原始社会の最も基本的な機能とは、互いに助け合うことにより「種としての生存確率を上昇させること」にあるのではあるまいかと思う。群をなすだけだったら魚や鳥だってなすけれど、助け合ってるってとこがポイント。河原の原始社会が発展していけば、いつかは独立国家になっていくのかもしれない。けど、今はまだ、その社会の内部を統制する法律もなければ政治体制もなく、経済原理もない。

公平・平等という概念を唱える人もいない。互いに助け合うといいながら、ギブとテイクのバランスは、大きく崩れている。草原さんだけが、多大なる貢献をしている。けど、草原さんは、自分だけがいろいろしてあげているのに、みんなは何もしてくれない、などという不満を言ったりしない。あたりまえのように、人々の面倒を見てまわっている。もし、提供した価値と引き換えに代価が支払われる貨幣経済が回っていれば、草原さんは財をなしていたかもしれない。けど、実際には、貢献は無報酬である

このコミュニティにもし政治体制ができて、リーダーを立てることになったら、ふさわしいのは草原さんだと誰もが認めるはずだ。けど、実際には、リーダーという立場の者はいない。その点、社会の組織化の発達段階としては猿以下と言えるのかもしれない。

ここにあるのは、互いの存在を価値あるものとして認め合う、肯定的な空気。生存確率が高くないからこそ、まず生き抜くということに最優先の重きが置かれる。それも、競争を勝ち抜いて自分だけがサバイバルを果たそうという原理ではなく、互いに助け合うことで種としての生存確率を上げていこうという原理に基づく。

生存の基盤が安定してくると、次の段階として、公平・平等の原理が言われるようになってきたり、法律ができてきたり、政治体制ができてきたり、宗教が芽生えたり、他の部族と戦争を起こしたりするようになるのかもしれない。

低い生存確率という決定的なデメリットを補って余りあるものがもしここにあるとしたら、私の勝手な思い込みかもしれないけど、お互いがお互いの存在に無限大の価値を認める「承認」なのではあるまいか。他人からの承認が確保されているがゆえに、自己の存在価値をも自己肯定することができる。

現代の日本の社会は、長い歴史を経て発展してきただけあって、非常によくできている。生存確率が高い上に、個人の自由も最大限に尊重されている。せせこましい社会規範にしたがうことを強要して創造性や個性を許さない「世間」という名の怪物は、ほぼ絶滅させられている。全体の利益のために個は自己の利益や快楽の追求を慎み、ひたすら奉仕せよ、とはもはやあまり言われない。

アダム・スミスは、『国富論』(1776年)の中で、「神の見えざる手」という考え方を示している。利己心による自由競争は、法律などで抑制する必要はなく、なるに任せておけば、「生産と消費」は過不足のない状態へと自動的に導かれるはずだ、と唱えている。今の社会は、この経済原理が社会原理にまで拡張されたような状態であって、個のわがままが最大限に許容されて、しかもなお、高い生存確率が保たれているという、たいへんめでたい社会である。

なのに自殺がやけに多いという、この皮肉というか矛盾というか。日本の自殺者数は平成10年以来13年連続で3万人を超えている。社会は、全体の円滑な運営が損なわれることなく、個人の自由を最大限に尊重するという折り合いをつけながら、いい方向へ、いい方向へと発展を遂げてきたはずであるのに、その流れの中で、人は大事なものを失っていっているのであろうか。

それに、歴史的にも地域的にもまれにみるくらい生存確率の高い安定社会を築き上げているという点においては理想に近い形であるにもかかわらず、人々の間に不平不満が多いというのも皮肉な感じがする。それも、鉄道の運行が完璧になされていないとか、店の接客態度が気に入らないとか、自分よりもラクして生きてるやつがどっかにいるとか、テレビに韓国人がよく映るとか、そんなことで。

動物園に「ヒト」という檻を設けておけば面白かろうと思う。檻の中には数人の「ヒト」が入っていて、だらしなくくつろいでいるのである。見物する人はさぞかしイヤ〜な気分になることであろう。実践してみた動物園はあるようだ。いろんなタイプのヒトの檻をずらっと並べてみるのも面白いかもしれない。いっそのこと動物をやめてヒト園にしちゃうとかね。

マズローの欲求5階層説というのがある。生存にかかわる下位レベルの欲求が満たされると、社会帰属の欲求や名声・金銭・権力獲得の欲求といった上位レベルの欲求が芽生え、最上位には自己実現の欲求がある。この説にしたがえば、今の社会のようにある程度の安定性が確保された状態においては、人々の欲求はもっと創造的な方へと向いてしかるべきである。ところが、どうも実際にはそうはなってなくて、ごく少数のアーティストを除けば、たいがいはだらしなくくつろいでいたり、つまらないものに依存症のようにハマったりしている。

社会からの束縛が緩み、個人の自由が尊重されるのは嬉しいことには違いないのだが、それに伴って自尊心のレベルが高まっていくかと言えば、どうも別物のようである。現代の「システム社会」においては、結局、人間の位置付けはシステムに隷属し、システムを円滑に回すだけの代替可能な部品のようなものになり下がっているのではあるまいか。マルクスが唱えたのと同じ形ではないにせよ「人間疎外」が起きている。

そこでシステム社会そのものへの反省が起きるかといえば、そうはならず、システム社会で生じた問題は、システムをますます補修・強化することで解決を図ろうとする自己回帰のメカニズムが働く。恋愛の自由化はありがたいことだが、それによって実際には晩婚化、少子化が起きている。ならば「婚活ビジネス」で解決を図ろう、みたいな調子。システムそのものが巨大な一個の生物みたい。自律化し、絶賛肥大化中。

システム社会によって人々の自尊心がぼろぼろになっているのだとしたら、これから流行るのは「自尊心回復ビジネス」なのではなかろうか。私の個人的な感覚では、キャバクラやガールズバーなんて、何がいいのかちっとも分からない。雑談なんて基本的にタダですべきもんじゃんか、そんなのにもったいつけて金とるなよ、と思う。けど、そんなところに世の中の需要があるとしたら、それは一種の「自尊心回復ビジネス」なんじゃないかと思う。

現代社会は「監視社会」とも呼ばれる。人が人に興味をもつのは、こそこそズルしていないか監視することへと動機が行っていて、人々が互いに優れた部分を尊重しあった上で、深い相互理解へと向かっていきましょう、という動機が希薄になっていっているように感じる。ここでも自尊心はダメージを受けているようである。

『戦争を知らない子供たち』という歌があったけど、考えてみると、『戦争を知らない子供たち』を知らない子供たちは、生まれつきずーっと安定した社会に生きてきているわけだ。安全で便利なのが当たり前という前提で、細かぁいことが気になって不平不満が絶えないという構図なんじゃろかいなぁ。一度でも河原の生活みたいなのを体験すると「あっ」と気がつくこともあったりするんじゃないかなぁ、なんて。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。

ぜんぜん違うことを書こうと思ってたんだけど。話のマクラのつもりで書き始めたことが暴走して、もともと書こうと思ってたことにはかすりもしなかったよ。あはは...。

前々から「あるなぁ」と横目で見つつなかなか入る機会のなかった中野のメイドバー「Chez Alices」に先日、やっと行けた。靴を脱いで上がるところといい、カウンター席の後ろを通るにも体を横にしないとならない狭さといい、アットホームな感じ。人との距離が近いのだ。

オタクって、一般人に対してはちょっと身構えるけど、仲間と分かるといきなり垣根がなくなっちゃうようなとこがある。隣のにーちゃんと意気投合しちゃって、メイドさんから「いつも一緒に飲み歩いているんですか?」と聞かれるほど。「いやいや、今ここで会ったばっかですけど」。

カウンターの向こうの液晶パネルにアニメ『モーレツ宇宙海賊』(通称「モーパイ」)が映されている。これのオープニングとエンディングの主題歌を「ももいろクローバーZ」が歌っているのだが、隣のにーちゃん、ももクロの大ふぁんなのだ。それはもう熱く熱く、語る語る語る...。ケバヤシ的に抽象的に要約すれば、システム社会にうんざりした人々が人類愛を唱え始めるひとつのムーブメントなのかなぁ、と。

ごく最近になって、「ももクロ」の名を耳にすることが急激に増えたように感じる。人気、急上昇中なのか? 紅白に出そうな勢いとか? その前から、ライブのチケットの入手しづらさは相当なもんだったようで。もともと7千円のチケットがヤフオクで10倍とか。

そんなに見るのが困難なら、ちょっとフランスまで行って来ようかな〜、という気になり始めているケバヤシ。7月5日(木)〜8日(日)にパリで "Japan Expo" というイベントが開かれ、ももクロのステージがあるのだ。「ももクロ」といい「きゃりーぱみゅぱみゅ」といい、いいとこ選んで呼んでるよねー。日本文化のとんがってるトコ、っちゅうか。

しかも、4日間通しのチケットがたったの40Euroで、そのチケットだけでライブが全部見れちゃう。本当だろうかと思い、"Japan Expo" に質問を投げたらメールで返事が来たので、間違いない。すっげーお得じゃん!

ハム速にやられた。
< http://hamusoku.com/archives/7143617.html
>

ハム速って2ちゃんのまとめ(だった)サイトのひとつなんだけど、見てる人けっこう多いみたい。感覚的には、このおっさんの存在を知る人が一気に増えた感じ。

軽く説明しておきますと...。出歩いているときに、見知らぬ人にいつの間にか撮影されて、ネットにアップされるなんて、よくあることで、ぜんぜん気にしてなかった。なので、6月2日(土)に池袋を歩いてたときの写真がツイッターにアップされていたのも、私にとっては別にいつものことじゃん、って感じ。撮られたのは例によって気づいていなかった。あるいは、その瞬間には「撮られたかな?」と思ったとしても、気にしてないもんだから、そのまま忘れてる。

投稿者は「おがさわら(@ogamai_0182)」だが、このアカウントはすでに消滅している。「池袋で、JKに遭遇なうwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwまじワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」というツイートで、写真が貼られている。

そのツイートが2ちゃんねらーの人に発見されて、そっちへ転載された。それがさらにハム速に取り上げられた。2ちゃんは投稿量が多いし、面白くないスレや発言がいっぱいあるのでとても読んでられないけど、その中から面白いのだけピックアップして再編集したまとめサイトは見に行くって人、けっこう多いみたい。

まとめサイトの記事を参照したツイートがたくさん上がった。1分間に60件ほど上がったときもあって、ありゃ、ずいぶん情報拡散しているみたいだなぁ、と思ったわけである。ネットの面白いとこだが、本人が自分から晒して「ほーらこんなことしちゃった、見て見て〜」みたいなのはほぼ黙殺され、拡散しない。「おめーの自己宣伝のお手伝いなんかしてやるもんか」という反発がはたらくのかもしれない。一方、本人と無関係の人が「こんなやつ見かけたぜ。マジキチ」みたいに晒すのはよく広まる。

私としては「よくもやりあがったなー」でもなければ「宣伝してくれてありがとう」でもなく、「こっちは好き勝手やってるだけなんで、見て騒ぐ騒がないは、ご自由にどうぞ〜」ぐらいの立ち位置。いや、正直なところ、2ちゃんに自分のスレが立つっていうのを一度経験してみたいなぁ、とは思ってたんで「わーい、達成♪」という気持ちもないではないが。実際に起きてみると、特にどうということもない。ネットでちょっと騒ぎが起きたからって、表へ出ればいつもと何も変わらず、平和は日常は続いていくのでありました。

ところで、まとめサイトに対して本家の2ちゃんがブチキレて、作為的な編集でトラブルを招いたのに謝罪もしない悪質指定5サイトに対して引用禁止宣言を出した。これを受けて、ハム速を含む5サイトは、2ちゃんのまとめ機能を停止している。

よそのサイトへの投稿を勝手に引っ張ってきて、アフィリエイトで稼ぐという「ビジネスモデル」に対する反発の声もあったけど、多くの人が見に行っているということは「ピックアップして編集する」という行為が付加価値を生んでいることの証左であるから、自分は何もせず、他人の労力を利用してラクして稼いでいる、というのとはちょっと違うと思うけどなぁ。けど、元記事の投稿者には一銭も入んないんじゃ、まあ、不満の声も上がるというものか。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
編集後記(06/08)

●詩人で作家の松浦寿輝の小説「不可能」を読む(講談社、2011)。あの三島由紀夫が生き延びていたら、という奇抜な着想で人の老いの可能性を探る8つの短編をまとめたものだ。主人公の「平岡」はなんらかの罪で無期懲役の判決を受け、入監して27年経て仮出獄した身だ。既に80歳を超えている。首には刀傷が二条残っている。ありあまる財で墓のようなコンクリート造りの家を建て、世間とは断絶し静かにそして気まぐれに生活している。地下室に設えたバーには、「S...君」と呼ばれる謎めいた青年がつくった6体の彫像を据えて酒を飲む。6体目は、平岡が隣接する竹やぶの中にある廃屋で出会った、首のない自分自身である。

「平岡」は「自然に死んでいるようにして俺はただここにいるだけだ」「すべては観念なのだ、この世界そのものがことごとく観念でありイメージであり、そこには堅固な手触りを備えた『現実』の個物などいっさい存在しないのだ」と諦念を抱きながらも「気分がくるくる変わりやすいのは老耄の徴候だろうか」と思ったりもする。8話中5話までは、三島由紀夫らしい男が老いとどこまで和解できるかがテーマのようである。ここで終わってもいい。静かな実験的小説はいちおうまとまる。ところが、これから後は妙に動きが加速し、まるで推理小説のようになっていく。題名の「不可能」は案外文学的なこむずかしいものではなく、「平岡」と「S...君」が仕掛けた完全犯罪「首なし死体のテレポテーション」を指すのかもしれない。この展開はなにかのパロディだろう。

著者は一筋縄ではいかぬ人物らしいので、この物語は壮大なしかけがあるのかもしれないが、わたしは見抜けない。5話までと、それ以降ではテイストが変わる。静から動に変わる。静パートだけでお腹いっぱいである。だって観念的すぎてよくわからないのだから。でも、久しぶりに文学読んだなあと満足感がある。動パートでは文学論が難解だったが、ミステリーはわかりやすい。でも、こっちはやっぱり、なくてもよかったかな。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062170280/dgcrcom-22/
>
→アマゾンで見る(レビュー6件)

●ハム速のコメントが好意的でイイw 足をほめられてるw まとめサイトでは、まとめる側で意見やニュアンスを誘導できるのが怖いな〜とは思う。まとめサイトで興味を持って(というより反感を持って。女性蔑視ばかりだった)元スレを見に行ったら、少数派の(まとめる側の主張したい)意見だけを取り上げていたのだとわかったことがある。

品川のレジで。「楽天Edy」という見慣れぬロゴがあった。大阪では見かけないので、東京だからだろうか、品川は楽天のお膝元だもの〜と話していた。今日になって、その日からEdyが楽天Edyに変わったことを知った。そりゃ大阪でもどこでも見かけなかったわ。/大阪にないといえば、ルノアール。ルノアールもEdyとは......。/そういや旅の窓口は楽天トラベル、イーバンク銀行も楽天銀行になったんだよなぁ。/私はiD派。iPhoneなのでカード型。貼るタイプの電子マネーシールは売ってるけれど、2,980円も払う人っているのだろうか。こういうシールをサービス提供側が配布すれば行き渡るだろうに。iDはコンビニや近くのスーパー、ドラッグストアなどで使う。食品や日用品という必需品でポイントがたまる。iD決済特典としてその場で洗剤2本をもらったりしたこともある。メインのクレジットカード(VISA)は、iDと紐付けしていて、たまったポイント(利用額の1%)をiDバリューとして決済金に充当。カード利用だけで、なんとなく消えていく日々のお金が減らせるのって助かるよ。レジもスムーズ。ええ、せこいと思われてもかまわなくってよ! 欲しいものは悩むけれど、人への出費は惜しんでいないつもりさ。あっ、市・府民税はファミマTカードで決済して、Tポイント還元よ。ポイントはためるのを楽しまず、すぐに使うのよっ。ポイントは現金じゃないのよ、利子は付かないのよっ。ヤマダやソフマップのポイントを流して落ち込んだ人を複数知っているわ。そういやファミマクレジット株式会社も、ポケットカード株式会社に名前が変わるんだよなぁ......。(hammer.mule)
< http://www.rakuten-edy.co.jp/company/index.html
>
ビットワレット株式会社から商号およびブランドを変更しました
< http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2012/06/08/12828
>
楽天3万5000店舗にEdy決済
< http://www.ginza-renoir.co.jp/edy/
>
ルノアールEdy
< http://www.softbankselection.jp/onlineshop/product/detail/003430.html
>
他にはWAON、nanaco用がある。はがれおちるリスクはないのかな?
< http://www.ft-w-card.jp/
>
合併しての社名変更
< http://www.smbc-card.com/mem/addcard/id-portal_otokucheck.jsp
>
コアラだったけどね
< http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51720892.html
>
情報系の独立行政法人が攻殻機動隊になってる件
< http://tenro-in.com/blog/extra/245
>
本屋の嫁入り