[3287] 「残酷物語」が流行った頃

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《しない善よりする偽善》

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 「残酷物語」が流行った頃
 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[549]
「残酷物語」が流行った頃

十河 進
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         〈世界残酷物語/青春残酷物語/武士道残酷物語/仇討/幕末残酷物語/拳銃残酷物語〉

●映画が中心だった時代には記録映画さえ大ヒットした

「残酷物語」というタイトルの映画はいろいろある。その最初は、ずっと「世界残酷物語」(1962年)だと思っていた。ヤコペッティというイタリア人監督が制作した記録映画なのだが、当時の日本で大ヒットした。公開は昭和37年の秋だった。東京オリンピックの二年前である。世界の残酷な風習や狩猟などのシーンを集めたドキュメンタリーで、当時はそんな映画が人気を集めヒットしたのだ。

やはりイタリア映画だったが、「ヨーロッパの夜」(1960年)「世界の夜」(1961年)という記録映画があった。主としてヨーロッパのナイトクラブのショーを見せる映画である。もちろんストリップ・ティーズやヌードダンスがメインで、日本でも大ヒットした。今のテレビの役割を、当時は映画が果たしていたのだ。僕ら小学生は、そんな記録映画のイヤラシゲーな看板を見て、何だかモヤモヤしていたものだった。

「世界残酷物語」は、「モア」というテーマ曲が叙情的で、感傷を掻き立てられるようなメロディーだった。甘美な曲である。「モア」は大ヒットし、アンディ・ウィリアムスもロマンチックに歌い上げている。やがて、スタンダード・ナンバーになった。「世界残酷物語」は世界中でヒットしたのだろう。僕は「世界残酷物語」の看板も記憶している。何だかおどろおどろしくて、悪夢を見そうだった。

「残酷物語」というタイトルは「世界残酷物語」によって一般化し、それ以後、「××残酷物語」という映画がいろいろ作られたのだと思っていたが、調べてみると大島渚監督の「青春残酷物語」(1960年)の公開が一番早かった。60年安保真っ盛りの1960年6月の公開だ。「青春残酷物語」が「残酷物語」の嚆矢だったのだろうか。だとすれば、その後の映画タイトルに多大な影響を与えたわけだ。

「青春残酷物語」に触発されたのだろう、永島慎二という漫画家は「漫画家残酷物語」というシリーズを描いた。昔、永島慎二のファンだった僕は、すでに書店では見かけなくなっていた「漫画家残酷物語」を貸本屋で見付け、「どうしても欲しい」と店主に頼んで譲ってもらったことがある。先日、息子の書棚を見ていたら、最近復刻されたのだろうか、函入りの「漫画家残酷物語」が並んでいた。数年前、その永島慎二も亡くなった。

「青春残酷物語」は、永島慎二のような当時の若者たちに影響を与えたのは間違いない。若者として同時代に見た人は、今も最初に受けた衝撃の強さを語る。僕はずっと後、上京した18歳のときに名画座で見た。封切り公開から10年が経っていたが、「青春残酷物語」と大島渚の名はすでに伝説になっていた。上京し、名画座のプログラムにその映画のタイトルを見付けた僕は驚喜したものだった。

しかし、僕の期待が大きすぎたのか、すでに10年という時間のフィルターを経ていたからなのか、「青春残酷物語」は僕にはそれほど凄い映画とは思えなかった。バカなカップルが破滅していく映画にしか思えなかったのだ。青春時代に感じる閉塞感や苛立ち、あるいは破滅志向に共感する部分はあったけれど、どう考えても主人公の男女は思慮分別に欠けた愚か者としか思えなかった。

セックスを基準にして人間を描く(大島作品はすべてそうだけど)のが、僕には共感できなかったのだ。川津祐介が演じた大学生は、人妻とセックスして金を巻き上げるような男だ。中年男にホテルに連れ込まれそうになった少女(桑野みゆき)を助けたものの、彼女を川に投げ込み「俺と寝ないと助けないぜ」といたぶる。やがて少女と組んで美人局を始めるが、少女が妊娠すると堕胎させる。

ある典型を徹底して描けば普遍性を得る、というのがすぐれた小説や映画に共通することだ。たとえば「仁義の墓場」の狂犬のようなヤクザの無茶苦茶な暴力を見せつけられたとき、僕は「人間の業」のような普遍性を感じたものだった。しかし、「青春残酷物語」の(一般的モラルから見れば)不良青年と不良少女の明日なき行動は、普遍性を得て深い感銘を与えるまでには至らなかった。

しかし、今から振り返れば、いつの時代も青春を描くことは「個人を圧殺する社会(システム)」を描くことだと思う。村上春樹さんの有名になったイスラエルでのスピーチの言葉を借りれば、「卵と壁」を描くことである。「青春残酷物語」のふたりは未熟であったが故に、個人を主張しシステムに敗れたのかもしれない。強固なシステムに囲まれた若者の閉塞感は、確かに伝わってきた。今なら、そう思える。

●武家社会の中で圧殺される個人を描いた残酷物語

僕が見た「残酷物語」というタイトルの映画は、他に三本ある。「武士道残酷物語」(1963年)「幕末残酷物語」(1964年)「拳銃残酷物語」(1964年)である。「武士道残酷物語」は巨匠・今井正監督で、原作は南条範夫、主演は中村錦之助だった。脚本を手がけたのが鈴木尚之で、ある家系をたどる形で江戸時代から現代まで七つのエピソードが描かれた。

今井正という監督は「青い山脈」(1949年)や「ひめゆりの塔」(1953年)「キクとイサム」(1959年)などを作った人で、その名を見ると「反戦」「社会派」といった言葉が浮かんでくる監督だったから「武士道残酷物語」は意外だった。しかし、この時期、今井監督は武家社会の理不尽さ、組織の中の個人というテーマを追及していたのかもしれない。翌年には「仇討」(1964年)という作品がある。

「仇討」は橋本忍のオリジナル脚本だが、タイトルが「武士道残酷物語」であっても違和感はまったくない。武家社会の中で次第に追い込まれてゆく主人公の悲劇がひしひしと伝わってくる。「組織と個人」というテーマは、永遠なのだ。江戸時代を舞台にすると、そこには「家」という要素が加わる。「一族のため、家のため」に個人としての人生は殺さなければならないのだ。

中村錦之助が演じた主人公は些細な注意をしたことから相手に逆恨みされ、果たし状を受け取る。相手を返り討ちにしたものの私闘として処分され、山奥の寺に「預かり」の身になる。しかし、殺された相手の弟が仇討ちにやってきて、主人公は再び相手を返り討ちにする。相手の一族は、末弟を討ち手にして仇討ちを主君に願い出て認められる。

主人公は、藩が認めた仇討ちの相手である。討たれる方は悪い奴でなけれぱならないから、主人公の悪評が立てられる。主人公は悪役にされ、藩中の憎しみが彼に集中する。藩主は「必ず討たせよ」と命じ、重臣たちは討ち損じないように大勢の家臣に加勢を申し渡す。日時が決められ、竹矢来をめぐらせた仇討ちの場所が準備されてゆく。

主人公の兄も家を守るために「立派に討たれてやれ」と、彼を犠牲にすることを決める。主人公は手向かいせず討たれようと覚悟して仇討ちの場に従容と赴くが、見物人たちから罵声を浴びせられ、石つぶてを投げられ、藩の侍たちが加勢の準備をしているのを見て、黙って討たれる決心が揺らぐ。やがて主人公は血まみれの闘いを始めるのだが、結局、ズタズタに斬られ襤褸のような死体になる。

中村錦之助の演技力は凄い、と僕は「仇討」を初めて見たときに感心した。僕が子供の頃に見ていた中村錦之助は、明朗で脳天気な時代劇ヒーローばかり演じていたが、「仇討」では目が落ち窪み頬にシャドウを入れたメーキャップで凄みを出し、目をギョロつかせ、必死の形相で最後の意地を見せた。そのリアルな錦之助から鬼気迫るものが伝わってきた。

江戸時代の武家社会を舞台にしているが故に、その物語に現代性を感じにくいところではあるけれど、「武士道残酷物語」「仇討」も結局のところ「個人とシステム」を描いている。昔風に言えば「義理(社会)と人情(個人)」である。個人の感情や夢や希望を圧殺するのは、いつの時代も社会や組織といったシステムの存在なのである。

●新選組の組織内の粛正や暗殺を描いた残酷物語

「幕末残酷物語」は、僕が敬愛する加藤泰監督の作品である。物語は、大川橋蔵が演じる青年武士が新選組に入隊するところから始まる。彼が見聞する新選組は、近藤勇や土方歳三が支配する暗黒の組織である。秋霜のように厳しい局中諸法度に縛られ、隊士は何かというと腹を切らされる。隊士の処刑が日常的に行われ、その介錯を主人公はやらされることになる。

タイトルは「幕末残酷物語」だが、内容は「新選組残酷物語」である。僕は新選組ファンだからこの映画を見ているのは辛かったのだけれど、描かれた内容は事実である。新選組は江戸試衛館の天然理心流の四人(近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎)に山南敬介、藤堂平助、永倉新八、原田左之助を加えた八人と、水戸浪士の芹沢鴨一派が立ち上げた組織である。

しかし、司馬遼太郎の「新選組血風録」が「油小路の血闘」から始まり「芹沢鴨の暗殺」に続くように、たった数年間なのに暗殺と粛正と内部抗争が続く歴史でもある。まず芹沢一派が粛正され、多くの隊士が処刑された。江戸以来の同志の山南が切腹させられ、藤堂平助は分派して出た伊東甲子太郎一派と行動を共にする。その伊東は油小路で土方らに惨殺される。

「幕末残酷物語」は新選組の裏面史のように、組織内の暗黒面ばかりを描いていくのだ。そして主人公は、なぜか芹沢鴨暗殺の真相を突き止めようとしている。登場する近藤勇(中村竹弥)や土方歳三(西村晃)は悪役メークで、いかにも陰険で腹黒そうな人物に見える。沖田(河原崎長一郎)も陰湿で偏狭な殺人者だが、どこか懐疑的な人物に描かれていた。

主人公の正体を隠したまま物語は進行し、その謎が観客を最後まで引っ張るのだけれど、なるほど暗殺された側から新選組を描くとこうなるのだろうなあ、と見終わって納得する。新選組というのは鉄の規律を誇った組織だから、個人は駒になるしかない。感情を殺し欲望を抑制し、ただひたすら敵を殺すことに邁進した者だけが生き残る。組織にとって「組織の役に立つ人間」以外の存在価値はない。

それは、どんな組織でも同じだ。命をとられることはないが、現代の会社組織だって同じである。株式会社という組織にとっては、会社の利潤確保に貢献した人間だけが評価されるのだ。そこに個人のメンタリティは存在しないし、個人の様々な事情だって関係ない。利益を上げる者、突き詰めればそれだけが組織に必要な人間なのだ。そして、組織のヒエラルキーを尊重する人間、違和感なく組織にとけ込める人間を組織は求める。

●大金を強奪する物語にも個人と組織の対立は存在する

「拳銃残酷物語」は、大藪春彦の小説を映画化した日活映画だ。当然、主演はエースのジョーこと宍戸錠である。大金の強奪計画を練り、仲間を集めて実行し、大金をつかんだ後の仲間割れ、裏切りを描く犯罪映画の王道のような物語である。当時のガンブームを背景に、拳銃やライフルの蘊蓄が語られ、派手な撃ち合いが展開する。お約束だが、今見てもワクワクする。

この手の物語を熟知している人には、予測がつく展開である。主人公(宍戸錠)はプロのギャングだが、彼が犯罪に手を染めた理由は愛する妹の手術費用を捻出するため、というお涙ちょうだいの理由が設定されている。当時の日本映画では、そんな情緒的な背景を設定しないと観客の共感が得られなかったのだろう。妹は純情可憐な松原智恵子が演じた。

彼を出所させ犯罪計画を持ちかけるのは腕利きの弁護士で、彼の背後には大ボスが控えている。ボスが準備のための費用を負担し、主人公はかつての相棒やいかがわしい仲間を集め、大金の強奪を実行する。乗り込んでいる警備員ごと現金輸送車を大型トラックに取り込み計画は成功するが、当然、計画通りにはいかない。仲間割れが始まり、ボスの裏切りがある。

ここでも、個人とシステムがぶつかる。主人公は妹の命を助けるために大金の強奪計画に乗る(個人的感情による目的)が、ボスを中心にしたシステムがその希望を阻み打ち砕く。主人公を取り巻くのは、利潤をあげる(大金を奪う)ことを目的としたシステムである。システムを構成するのはボスであり、その手先の弁護士であり、彼らが影響力を持つ人間と組織である。主人公は、結局、滅ぶしかない。

「青春残酷物語」を僕は同時代の映画として憶えていない。僕はまだ小学三年生だった。成長して映画青年になり、大島渚の伝説の映画として認識した。だが、「世界残酷物語」も「武士道残酷物語」「幕末残酷物語」も「拳銃残酷物語」も、封切りの看板を憶えている。ほんの数年の差だが、五、六年生の頃のことだ。その頃の僕は「残酷物語」という言葉の響きを記憶に留める感性を持っていたのだろう。

「世界残酷物語」のヒットで「残酷物語」という言い方が流行った頃、何かにつけて「××残酷物語」と口にした。たとえば、僕がすべって転びでもすると、誰かが「ソゴー残酷物語」といった風に言う。その言葉で、級友たちは囃したてた。たわいない話だが、人の痛みや失敗は囃したてるのに絶好な標的だったのだ。そこには、個人と社会あるいはシステム(他者たちで構成する何か)という対立構図がすでに存在した。

考えてみれば、人生そのものが、生きていくことこそが「残酷物語」なのかもしれない。人は、なぜ泣きながら生まれてくるのか。それは、「こんなひどい世の中になど生まれたくないという意思表示なのだ」と誰かが言った。続けて「地獄などない、この世を生きていくことこそが地獄なのだ」と他の誰かが言う。だとしたら、この世を生きることが、やはり「残酷な物語」なのだろうか。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

四国に帰郷。台風に追われるように欠航直前のANA機で19日に東京に帰ってきた。仕事が溜まっていて、原稿を送るのを忘れていた。もう木曜日である。

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■Otaku ワールドへようこそ![155]
ゲーミフィケーションは日本経済立ち直りの光明か?

GrowHair
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声を枯らして節電を呼びかけるよりも、節電ゲームという名のゲームを提供して遊んでもらったほうが実際の効果は高いかもしれない。政治家による公金不正使用を暴くために百万枚の会計伝票をチェックするという根気の要る作業も、ゲーム仕立てにしてネットで公開してみんなで遊んでもらえばちゃっちゃと片づく。実際これでイギリスの政治家10人が辞職に追い込まれている。

「ゲーミフィケーション」というバズワード(※)をこのところよく聞くようになった。4月18日(水)にゲーミフィケーションをテーマとする講演を聴講してきた。

※バズワード(buzzword):業界用語、ビジネス界の流行語。シナジーとかパラダイムシフトとかグローカルとか。だーっと流行ってぱたっと陳腐化することが多々あり、あんまり得意気に使うとかえって軽薄な印象を与える。ニューロもファジーも創発も、元はといえば科学技術用語だったのだが、ビジネス界の人が使うと、もうわけ分かんなくなる。「あの人はファジーな人だ」と聞くと「じゃあメンバーシップ関数を言ってみろ」と言い返したくなったものだ。ゲーミフィケーションはまだ流行初期なので、まともなほう。確立された用語はジャーゴン(jargon)という。空売り、ストップ安など。

●空虚な精神論より遊べるシステム

4月18日(水)18:00〜20:00、六本木にある国際大学 GLOCOM にて公開読書会『ゲーミフィケーション〈ゲーム〉がビジネスを変える』が開催された。講演者の井上明人氏はこの大学の客員研究員であり、『ゲーミフィケーション』(2012年1月15日、NHK出版)の著者であり、多数のゲーム機を所有するヘビーなゲーマーである。

用意された約40席がほぼ埋まっていた。約半数が井上氏の著書をあらかじめ読了していた。また、講義1時間に対して質疑応答時間が1時間とたっぷり取られていたが、途中で司会者から1件質問が出た以外は会場からひっきりなしに質問が出ていた。これらのことから、ゲーミフィケーションへの関心の高さが伺えた。また、終了時の拍手が大きく、終了後には名刺交換に並ぶ人が10人以上いたことから、本講演への満足度の高さが伺えた。

ゲーミフィケーションとは、ゲームを作ることではなく、ゲームのノウハウを実社会に適用すること。行動にゲームとしての楽しさという要素を加えることで、人々にその行動を促す。2010年ごろから言われ始め、井上氏が初めて聞いたのは2011年1月のこと。日本での事例がまだほとんどないため、海外の成功事例をいくつか挙げ、ゲーミフィケーションが広い分野で人々に行動を促す強いインセンティブになりうることを示した。

井上氏はゲーミフィケーションを力まかせに推奨するのではなく、批判的な意見も取り上げながらバランスよく解説し、ただゲーム化すればよいというものではなく、目的にマッチした実装形態を考えるべき、など実践的な注意点にも言及した。

著書の中で、紋切り型の言葉をもって人々に行動を促そうとしても効果が薄く、往々にして空虚な響きしかもたないことがあると指摘している。よく政治家が、社会問題について「国民一人ひとりが自分の問題として捉え、国民全体で考える主体的で能動的な取り組みが必要です」と言うけれど、ネットで検索をかけてみると、高齢化社会にも外交問題にも食の安全の問題にも同じことを言っている。これじゃあ、人は動かない。

昨年の震災直後、井上氏は電気メーターを1時間ごとに読んで節電効果を確認する行為をゲーム化したところ、節電という努力に楽しさという要素を加えることができ、ツイッターなどを通じて広まった。人を行動へと動機づけるゲームの力は、時として、言葉による呼びかけよりも実効性がある。

ゲーミフィケーションを政治に活用して成功した例として、2008年の米国大統領選におけるオバマ候補のキャンペーンが挙げられる。
< http://my.barackobama.com
>
上記サイトを立ち上げ、電話による投票呼びかけや口頭による献金の勧めなどの貢献の度合いに応じてステータスが1から10まで上がっていく仕組みを作った。これが当選のカギとなったと言われている。

これより以前には2004年、ハワードディーン候補が選挙運動のウェブサイトにゲームを取り入れている。サイトは今も生きていて、遊べる。
< http://www.deanforamericagame.com/
>
しかし、これはバーチャルな空間での選挙運動ごっこであり、実世界の運動とは連動しない。(狭義の)ゲーミフィケーションとは異なる。

イギリスの新聞社が政府の会計伝票を百万枚入手した。目を通しきれないので、スキャンしてウェブで公開した。これだけでは人々の関心が集まらないであろうから、見た伝票の金額の累計をスコアとしてランク付けするというゲームに仕立て上げた。見て怪しいと感じたらチェックを入れる。作業としては、単調で、少しも面白くない。が、結果として、公金私用などの不正が発覚し、10人が辞職に追い込まれた。

科学技術での成功例もある。酵素の折りたたみ構造に関する、知恵の輪のような未解決問題がたくさんあった。ウェブ上でゲームとして提示してみたら、人々が寄ってたかってチャレンジするようになり、10年間解けなかった問題が、3週間でかなり解けてきた。共著者名が1ページ以上に及ぶ異例の論文が提出された。

リアル世界の問題解決につながるところが、ゲームと違う。計測技術がひとつのキー。加速度センサーは鉛筆の先に露出した芯よりも小さい。ゲーミフィケーションの環境が整ってきたと言える。

ゲームが日本発で世界に広まった印象がある一方、ゲーミフィケーションは米国で開花している。日本ではまだほとんど事例がない。ゲームでも、日米間で流行る流行らないに相違があり、文化の違いによるものらしい。ゲーミフィケーションが日本に根付くかどうかは確定的ではない。導入にあたってはlocalization(地域に合わせた調整)が必要なのかも。

私はかねてより、依存症ビジネスに疑問を抱いてきた。商品やサービスが魅力的で、顧客が虜になるのは、まあ、いいとしても、あまりにのめり込みすぎて、ほんとうは抜け出したいのに、どうしても抜け出せない、という依存症のような状態になっているとしたら、ちょっと行きすぎなのではあるまいか。支払った金額に応じて、ちゃんと幸せになったのか、と。

井上氏は、ゲーミフィケーションと依存症との関係について、著書の中で少しだけ触れている。講義では掘り下げられなかったので、質疑応答の時間に、私から、そのあたりのことを聞いてみた。依存症自体、定義が難しいし、倫理的な観点から(ゲーミフィケーションを)どこまでやっていいかという線引きは難しい。徐々に飽きられるくらいがちょうどよい。まだ問題自体が顕在化していないので、今後、自然な形でガイドラインが固まってくるのが望ましい、という回答をいただいた。

終了後、名刺交換の列ができた。私も並び、話をしていただけた。講義や質疑応答では「オタク」という言葉を使うのを意図的に避けているように感じたので、その辺のことを聞いてみたかったのだ。ゲーミフィケーションのターゲットは、オタクではなく一般ピープル。オタクが堪能していたゲームの楽しさを一般に広めていく方向。人による程度の差はあっても、ゲームの楽しさは誰でも享受しうる普遍性あり。井上氏ご自身がヘビーなゲーマーで「オタク」と自認する。しかし、最近は「メタオタク」(※)だという。そのキーワードから、東浩紀氏を思い出した。それを言うと、東氏は井上氏の師匠であるという。なんとっ!

※メタオタク:オタクについてのオタク。一般にAについてのAをメタAという。メタ議論、メタ数学など。

東氏と私の衝撃的な出会いって、デジクリに書きましたっけ? コミケで東浩紀の名前を掲げた同人誌を売っている人がいる。あの社会学者で早稲田大学教授の東氏が同人誌に寄稿して、それがこんなとこで売られてる? 怪しい。「これ、本当に東さんが書いたんですか?」「はい、私が書きました」。えっ、ご本人? 絶句。

それはともかくとして、私自身、この講義は意義深かったと感じた。ゲーミフィケーションという言葉をちらほら聞くようにはなってきたけど、正確な定義(ゲームとの区別など)や、幅広い分野にわたる実践例があることはほとんど知らなかったという、早いタイミングで開催されたのがよかった。早すぎたら聴講者が集まらないであろうから、ちょうどいいタイミングだったと言える。

今後、ゲーミフィケーションが爆発的に普及し、どんな商売にも適用するのがあたりまえになっていきそうな可能性を感じるが、一方、依存症などの社会問題を誘発しないかという懸念も感じた。まだここ1年ほどのバズワードにすぎず、方法論も確立されておらず、先行きは予測しづらい部分が多いので、今後も動きを見ていきたい。

さて、この講義があったのが4月18日(水)だったわけだが、ゴールデンウィークが明けてみると、コンプガチャの件でGREEとDeNAの株が急落し、ストップ安になっていた。そうら見ろ。とは言わないけど。ネットでは「終わったな」「虚業ざまぁ」と、いい感じの騒ぎになっていた。

5月28日(月)には明治記念館でクール・ジャパンに関する講演会があり、4人の講演者のうちのひとりはGREEの社長である田中良和氏であった。これも聴講してきた。

●コンプガチャ問題なんて蚊に刺されたみたいなもん?

5月28日(月)、信濃町の明治記念館にて、「第17回ブロードバンド特別講演会」が開催された。NPO法人ブロードバンド・アソシエーション(BA)が主催して年に2回開催される講演会の第17回。今回は"どうなる?「クール・ジャパン」コンテンツのブロードバンド展開、海外展開"というテーマで、産・学・官から著名な4人が講演した。

「学」から慶応義塾大学教授の中村伊知哉氏、「産」では漫画・アニメ界から(株)手塚プロダクション社長の松谷孝征氏、ゲーム界からグリー(株)社長の田中良和氏、「官」から経産省の伊吹英明氏が、それぞれ30分、30分、20分、20分、講演を行った。また、4人によるパネルディスカッションが行われた。

明治記念館の「曙の間」に約400席が設けられ、9割以上の席が埋まっていた。ちなみに前回第16回は同じ会場で"どうなる? 放送のデジタル移行後の放送・通信融合の行方"のテーマで開かれており、会場参加379名、ネット視聴約400名、アンケート調査で有意義との回答が95.2%と発表されており、この講演会シリーズ自体への関心・評価の高さが伺われる。

来場者は、ダークグレーの高級そうなスーツにノーネクタイという姿が多かった。講演者によれば、聴講者は「各界のお歴々」とのこと。あー、私は何でもないただのオタクです、すいません。

連休明けに急落したGREEの株価は下げ止まってはいるものの、まだ回復はしていないこのタイミングで、田中社長の演題が「グリー成長の軌跡」というのが皮肉な感じがした。来場者への配布物の中にGREEの企業理念が書かれた名刺ほどのサイズのカードがあり「インターネットを通じて、世界をより良くする」とある。これも、コンプガチャに数10万円をつぎ込んだ人たちは幸せになったのだろうかという疑問に照らせば、やはり皮肉に感じられる。

しかし、講演では、田中氏はコンプガチャのことに触れず、GREEの成長を滔々と語った。
・グリーは設立から8年の会社
・ビジネスよりは個人的な趣味としてSNSを運営していた
・ある程度大きくなって会社設立した
・世界に拠点を作っていっている。サンフランシスコに400人。
・昨年一年間で、テレビCMの放送回数はトップ
・従来のインターネットビジネスでは、日本で成功しても海外展開がうまくい
 かなかった。ゲームは世界で競争力ある
・10億人が利用するサービスを作ることが目標

田中氏から受けた印象は、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読んだときと共通するものがある。ああ、あのシリコンバレーメンタリティね。

パネルディスカッションになると、司会の中村氏は「コンプガチャのことをどこまで聞いていいものやら」ととぼけて会場を大笑いさせていたが、水を向けられた田中氏は、しおらしく「反省してます」と述べていた。モバゲが急成長していく中で、ユーザが増え、加減が分からずにのめり込みすぎちゃう人が出てくることについて、もっと感度高く対応すべきだった、というような意味のことを述べた。

反省しているとは言っているものの、意地の悪い受取り方をすれば、カジノを経営すること自体は悪くない、ギャンブルにのめり込みすぎて人生を棒に振っちゃうやつの自己責任、と言い張るのに似た、自身の責任逃れの弁のようにも感じられる。

しおらしいのはそのときだけで、全体の調子はかなり強気。コンプガチャの件、実は蚊に刺された程度にしか思ってないんじゃなかろうか、とさえ感じられた。数年単位の長いスパンでみれば、ほんのちょっとしたつまづき程度のことなのかもしれない。客観的にみれば、株価が回復しないのはふたつの懸念からだ。

コンプガチャがもともと違法だったってことになると、過去まで遡って不正な利益の返還を求められ、そうなれば武富士みたいなことになりかねない。そうならないとしても、コンプガチャの廃止を決定したことにより、収益構造にどの程度の影響が出てくるのか、今の段階では不透明である。

けど、日本の経済は低迷して「失われた20年」と言われ、特に日の丸半導体や液晶ディスプレイが苦境にある中、成長の光明が見えるのは、ゲームなど、コンテンツビジネス方面だという点は多くの人が思っているところであろう。ビジネス界の人々の関心がクールジャパン方面へ集まっているのを感じる。手をこまぬいていれば、海外勢にパイを全部かっさらわれるだけなのは目に見えている。日本経済立て直しのためにも、GREEのような会社ががんばらなくては、という田中氏の弁にも一理ある。

ところで、あれだ。講演会終了後に名刺交換の列に並べば、GREEの田中社長の名刺がもらえたってことだな。さすがに気後れして並べなかったよ。ああ、このシャイな性格をなおしたいっ! 持ってたら、居酒屋あたりで見せびらかして自慢できそうではないか。「田中の良ちゃんってばよぉ」みたいな調子で。って、このミーハーな性格をなんとかすべきか。

●「しない善よりする偽善」──偽善システムはいかが?

ゲーミフィケーションが今後日本で流行るかもしれない、ということで、私もひとつビジネスアイデアを練ってみた。本気で成功すると思っているのならこんなところには書かずに黙ってさっさと自分で実施しているところなんで、まあ、そんなもんだと思ってください。

現代のシステム社会に生きる人々の心の中には、何か満たされないもやもやした不全感が住みついている。もっと極端な言い方をすると、自我が危機に陥っていて、なんとかして立て直そうと必死である。他者の中から優れた部分を発見し、そこに敬意を払うとともに、自己研鑽の励みとする、なんていう美徳は、心に余裕があってこそ実践できること。自我がどっしりと座ってないときは、どうも考え方がせせこましくなる。

他者の中から無理矢理にでもダメな部分を見つけ出して、相対的に自分のほうが上であると自己説得しつづけていないと、自己の価値が溶解消滅してしまうんではなかろうかという恐怖にでも駆られているかのようにみえる。そんな人たちが互いにマイナス面をチェックしあって、「監視社会」になってきている。

そういう中にあって、よい行いはあまり注目されず、多くの人が社会に「認められたい」願望の不全に陥っているのではなかろうか。本来、善行とは人知れず黙って行ってこそ善行であって、それをみずから喧伝してイメージアップに利用しようとするのは「偽善」と呼ばれ、上品なことではない。けれど、周囲がそれを発見して褒めるという偶発的なイベントが起きづらくなっている現代では、システムが代行してもよいのではなかろうか。

というわけで偽善システム。慈善事業への寄付、ボランティア活動への参加などの善行をシステムが個人史として記録していき、金額や時間に応じて点数化してランキングする。寄付金額や奉仕活動時間などに基づいて善行を点数化するための基準をシステム設計者があらかじめうまく制定しておく。

各個人は、まず参加登録し、日々の善行を申告する。システム側はそれをデータベース登録し、各個人の善行の点数を累積していく。月別、地域別、年齢別、善行のタイプ別など、様々な切り口から集計し、それぞれ上位100人をリアルタイムで表示する。年末には「偽善大賞」を発表する。

このシステムに参加すれば、偶然誰かに発見してもらわなくても、自分の行った善行はシステムに記録され、いつでも誰でも検索可能な形で公開されている。

震災の後、ネットでは、他人の不用意な発言をあげつらったり、娯楽系の活動やイベントを批判して「被災者への配慮を欠く」と叩く発言が多くみられた。が、ほんとうに思いやりの情から出てきた言葉なのか、単に他人を叩いて快感を得ているだけなのか、その発言をみるだけでは区別がつかなかった。また、企業サイトではトップに「被災者にお見舞い申し上げます」とお決まりのあいさつ文が掲げられたが、行動を伴っていたかどうか。言葉だけではなく、ちゃんと汗を流しているという裏付けがないと説得力に欠ける。

そんなとき、偽善システムに入って、発言者をちょちょいと検索して、貢献度点数を見てみればよい。大した社会貢献もしていないのに、ネットで大口を叩くやつがいたら、口先ばかりだと笑ってやればよい。逆に、ネットでの自分の発言に重みをもたせるためには、まず社会貢献して偽善システムのランキングを上げておいたほうがいい。

善行の底流にある心が、真の利他心であろうと、自分のランクアップの追求であろうと、善行を施すという行為が大事なのであって、それさえあれば、社会は人々の貢献の恩恵にあずかることができる。このシステムがある程度以上の規模で活用されれば、社会は全体としていい方向に進むのではあるまいか。

不謹慎だと怒る声はあるであろう。もちろん、不謹慎である。こんなビジネスがもし成功したら世も末だよなぁ、という皮肉のつもりで言っている。けど、その皮肉がヒョウタンからコマのように化ける可能性がないでもない。

ツイッターだって、社会を皮肉るシステムにしか見えないんだけどなぁ。他人の言うことにいちいち耳を傾けたくなんかないけど、自分の言うことは何が何でも他人に聞かせたいって人が多すぎる。人がしゃべっている途中でも、おっかぶせてしゃべってくる。そんなにまでしてしゃべりたい内容はいったいどんなもんであろうかと聞いてみれば、ちっとも重要でもなく、面白くもない。

そうまでして自己存在を他人の意識の中になすり込みたいあんたって、自我がそうとうヤバいとこまで危機に陥ってますな。って、そんな人が普通にうじゃうじゃいる。もう、穴でも掘って、その中へ向かって一人でしゃべっててくれよ。その穴が、まさにツイッターである。使っているうちに、いつかハタと気がついて恥ずかしくなるんじゃなかろうか。と思って見てるのだが、そうでもなく、けっこう長く流行っている。

こんな皮肉システムが流行るんだったら、偽善システムが流行ってもおかしくないと思うのだが、いかがだろう。まあ、私は自我が安定しているので、ツイッターも偽善システムも必要ないんだけども。って、ここにこんだけ長々と書いてから言ったんじゃあ、説得力ないか。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。

'05年、旅のガイドブック「ロンリープラネット」のテレビ版東京編の収録で、川村正樹氏という方と知り合った。イベント屋さん。株式会社C-MIXの代表取締役。中野サンプラザ9階にオフィスがある。
< http://c-mix.jp/
>
その川村氏からメールで知らせが来た「中野にバーをオープンしました」。
おーっ!

「CAFE & BAR PATIO」というお店。
< http://nakano-patio.jp/
>
行ってみた。あ、やっぱりメイドさんがいるわけね。

静かで落ち着いたムードの英国風バー。メイドさんの衣装も格調高さと萌え要素を兼ね備えた、マキシ丈にひらひらエプロン。さすがぁ、分かってらっしゃる。って、私の好みに合わせたわけじゃないか。

バーテンダーは男性。ジンさんという。ノンアルコールのカクテルを何か、と注文したら「赤い月」というのを作ってくれた。最後に上から注いだグレナディンが底へと降りていく。あえて混ぜないことにより、すっぱさの効いたさわやかな風味から甘みへと和らいでいくのが楽しめる。

バーテンダーは自分を投影したボトルを一本置いておく習わしがあるそうで。奥から取り出したジンさんのは「VAT 69」。重税が緩和されてウィスキー文化が広がり始めた19世紀英国では、「オフィシャル」と「ボトラーズ」という二種類の業者があった。前者は蒸留所直売、後者は自由にブレンドして好きな樽に詰めて売る。あるボトラーズが100種類のブレンドを作ってみたところ、第69番のが一番おいしかったことから、この名がつけられた。いつもベストなものを、という思いでジンさんはこれを選んだという。

ここにいると、せかせかした気持ちがどっかへ蒸発していく。

商業寄りから病的なのまで広範なテイストの作品がものすごい点数集結してカオス状態、毎度圧倒的なパワーで迫ってくるデザフェスだが、5月に見た中でとりわけ風変わりで面白かったのをひとつご紹介。人々がアートだとは思ってもいないものを持ち込んでアートだと言い張っていると、あーら不思議、アートになっちゃいました、ってとこが現代のアートの一側面としてある、という前提がひとつ。デザフェスのショバ代はミニブースでも21,000円もするので、あんまり軽い気持ちでは参加できない、という前提がひとつ。

そのミニブースには、ほぼ何もなかった。何の変哲もない会議用テーブルが何の変哲もなく置かれている。その上には、アメが一個。薄いビニールのようなのに包まれて一個だけで密封されてる、あれ。脇には紙が置かれ、手書きで「← Take Free」と書かれている。「ご自由にどうぞ」と。どうぞと書いてあっても、バスケットに山積みになっていれば、その中から一個取って行きやすいが、一個だけぼろっと置かれていては、ちょっと手が出ない。

テーブルの向こうには若い外国人男性が座っていて、その奥に、もう一人、若い外国人男性が座っている。逡巡していると、手前の男性が黙ったままスマイルを送ってきて、顔の横でパーにした右手を車のワイパーのようにガシャコンキシー、ガシャコンキシー、とわざとらしく振ってくる。まあ、"Welcome" ってことなんだろうけど。

このまま通り過ぎて、何も分からずじまいというのも、後々まで疑問が残り続けそうなので、恐る恐る手を伸ばしてみる。すると、手前の男性が、伸ばした私の手の甲を素早い動きでぴしゃっと叩いて、ぱっとアメをつかみ、びりっと包みを破り、ぽんっと自分の口に放り込む。唖然。

くっそー、なんなんだよ! 涙目。しばらーく沈黙した後、英語で言ってやった「アメリカ人だろ、知ってたよ!」。奥の男性が腹を抱えてひーひー大笑い。今度は手前の男性が涙目。しばらーく沈黙した後、ぼそっと言った「イギリス人」。わははー。......って、聞くの忘れちゃったよ。結局この展示で何を訴えたかったんだい?

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編集後記(06/22)

●江田憲司「財務省のマインドコントロール」を読む(幻冬舎、2012)。著者はみんなの党の幹事長、テレビで見せる歯切れよい弁舌はナイスだが、なぜか大物政治家の風格がなく官僚のようだ。と思っていたら、元通産省の人で前回の消費税増税(3%→5%)の現場にも橋本総理側近として立ち会っている。いわゆる「脱藩官僚」だ。当時と比べて、今回の民主党政権と財務省による「増税プロセス」がいかに杜撰なものであることか。その義憤も込めて、財務省とそのパペット政治家(野田総理のこと。繰り人形のことではなく、パーなペットという意味 by財務省)たちによる「増税一直線」の流れをくい止め、日本の「覚醒」の一助にしたいというのが、この本を書く動機だ。

「日本の財政は破綻寸前だ」「増税しなければ国債が暴落し、金利が急上昇して経済もムチャクチャになる」「医療や年金など社会保障財源も賄えない」「問題を先送りしていると子や孫に負担のつけ回しをすることになる」「このままだとギリシャの二の舞になる」──新聞、テレビではおなじみの、増税推進派の脅し文句だが、これは「常識」ではない。日本だけで喧伝されている「非常識」「珍説・奇説のたぐい」であることがよくわかった。わたしはこの本で「覚醒」した。

序章:財務省によるマインドコントロールから目を覚ませ! 第一章:「増税しないと破綻」キャンペーンの嘘をあばく!─財務省による10の「増税マインドコントロールを解く/増税しなくても10年間で80兆円を賄える 第二章:財務省支配のカラクリ 第三章:この国のかたちを変える! という構成で、その展開はスムーズ、見出しもシャープで引き込まれる。とくに重要な部分はゴチックにしてあるから、それを拾い読みするだけでも内容はほぼ理解できる。ときどき現れる「みんなの党」の宣伝がご愛嬌。でも、どうしてTPP推進なのか、そこがわからない。(柴田)

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●ちょうど一ヶ月前に後記で書いた「K-POP in 豊岡・神鍋高原」は中止に。企画会社が倒産し、PR会社は一方的に契約解除され、チケットの払い戻しなし。申込順で良席がとれると耳に挟み書いたんだけど、買った人がいたらごめんなさい。計画倒産じゃないかという噂まで出ているわ。

宝塚で銀英伝をするという話は書いた。先行画像がいい感じで期待していた。他の主要人物はまだかな〜と待っていたらポスターが出ましたよ、奥さん! レスリー・キーの写真ですよ。主要人物はビジュアル的には、ええ感じではないでしょうか。同盟の制服ってこんなにキラキラゴテゴテしてたっけ? とか、アンネローゼ様はどこ? とか、ロイエンタールは黒髪ロングを期待していたのに、とか細かいところはいいのです、ええ。アンネローゼ様がいないのに、アンスバッハがポスターにいるのは、先行写真の二人写りでキルヒアイスがいなかったのは、大人の事情です。今回はラインハルトとヒルダを演じる二人のトップ披露公演。ヒルダがアンネローゼ様を演じるキャラであれば、アンネローゼ様になっていたでしょう。トップ二人の恋愛ものにならないことを、ビジュアルに負ける内容でないことを祈る!/AKB48のまゆゆが好きなのは、赤毛のノッポさんを演じる人。/雪組の「JIN 仁」も楽しみだな〜。/「双曲線上のカルテ」のチケットがとれなかった......。(hammer.mule)
< http://kageki.hankyu.co.jp/ginga/
>
銀河英雄伝説@TAKARAZUKA
< http://kageki.hankyu.co.jp/revue/img/gineiden >
先行画像。大きなのは消えてしまった〜
< http://kageki.hankyu.co.jp/revue/
>
大劇場だと仁は10月から。今日からロミジュリ、次はサン=テグジュペリ
< http://gineiden.jp/stage.html
>
舞台「銀河英雄伝説」実行委員会のん

< http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20120612/1041473/
>
「マーケティングが効かなくなった」って本当?
< http://jp.techcrunch.com/archives/20120619facebook-mobile-ads/
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Facebookのモバイル広告は有効だった。クリックスルー率13倍、売上11倍
< http://japan.cnet.com/news/commentary/35018366/
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MSのタブレット「Surface」の第一印象
< http://www.atmarkit.co.jp/fwcr/design/meeting07idea.html
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おばかアプリのいいアイデアあります。

< http://jp.techcrunch.com/archives/20120619evernote-by-the-numbers-34m-users-1-4m-paying-and-how-different-platforms-pay/
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Evernote。ユーザーは3400万人、140万人が有料とさらに急成長続く
< http://blog.prtimes.co.jp/yamaguchi/2012/06/cannes_pr-lions/
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カンヌ国際広告祭PR部門でグランプリを受賞、生活保護受給率60%プエルトリコを変革しようとした銀行の話
< http://alfalfalfa.com/archives/5612453.html
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ミク、カンヌ国際賞を受賞! 世界公式認定へ
< http://irorio.jp/sousuke/20120621/13840/
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世界初!「人が近づくと扉が透ける冷蔵庫」が中国で新登場
< http://news.2chblog.jp/archives/51696515.html
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アメリカ軍が開発したサイボーグの「蚊」がヤバすぎる