映画と夜と音楽と...[549]「残酷物語」が流行った頃
── 十河 進 ──

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〈世界残酷物語/青春残酷物語/武士道残酷物語/仇討/幕末残酷物語/拳銃残酷物語〉

●映画が中心だった時代には記録映画さえ大ヒットした

「残酷物語」というタイトルの映画はいろいろある。その最初は、ずっと「世界残酷物語」(1962年)だと思っていた。ヤコペッティというイタリア人監督が制作した記録映画なのだが、当時の日本で大ヒットした。公開は昭和37年の秋だった。東京オリンピックの二年前である。世界の残酷な風習や狩猟などのシーンを集めたドキュメンタリーで、当時はそんな映画が人気を集めヒットしたのだ。

やはりイタリア映画だったが、「ヨーロッパの夜」(1960年)「世界の夜」(1961年)という記録映画があった。主としてヨーロッパのナイトクラブのショーを見せる映画である。もちろんストリップ・ティーズやヌードダンスがメインで、日本でも大ヒットした。今のテレビの役割を、当時は映画が果たしていたのだ。僕ら小学生は、そんな記録映画のイヤラシゲーな看板を見て、何だかモヤモヤしていたものだった。

「世界残酷物語」は、「モア」というテーマ曲が叙情的で、感傷を掻き立てられるようなメロディーだった。甘美な曲である。「モア」は大ヒットし、アンディ・ウィリアムスもロマンチックに歌い上げている。やがて、スタンダード・ナンバーになった。「世界残酷物語」は世界中でヒットしたのだろう。僕は「世界残酷物語」の看板も記憶している。何だかおどろおどろしくて、悪夢を見そうだった。

「残酷物語」というタイトルは「世界残酷物語」によって一般化し、それ以後、「××残酷物語」という映画がいろいろ作られたのだと思っていたが、調べてみると大島渚監督の「青春残酷物語」(1960年)の公開が一番早かった。60年安保真っ盛りの1960年6月の公開だ。「青春残酷物語」が「残酷物語」の嚆矢だったのだろうか。だとすれば、その後の映画タイトルに多大な影響を与えたわけだ。

「青春残酷物語」に触発されたのだろう、永島慎二という漫画家は「漫画家残酷物語」というシリーズを描いた。昔、永島慎二のファンだった僕は、すでに書店では見かけなくなっていた「漫画家残酷物語」を貸本屋で見付け、「どうしても欲しい」と店主に頼んで譲ってもらったことがある。先日、息子の書棚を見ていたら、最近復刻されたのだろうか、函入りの「漫画家残酷物語」が並んでいた。数年前、その永島慎二も亡くなった。




「青春残酷物語」は、永島慎二のような当時の若者たちに影響を与えたのは間違いない。若者として同時代に見た人は、今も最初に受けた衝撃の強さを語る。僕はずっと後、上京した18歳のときに名画座で見た。封切り公開から10年が経っていたが、「青春残酷物語」と大島渚の名はすでに伝説になっていた。上京し、名画座のプログラムにその映画のタイトルを見付けた僕は驚喜したものだった。

しかし、僕の期待が大きすぎたのか、すでに10年という時間のフィルターを経ていたからなのか、「青春残酷物語」は僕にはそれほど凄い映画とは思えなかった。バカなカップルが破滅していく映画にしか思えなかったのだ。青春時代に感じる閉塞感や苛立ち、あるいは破滅志向に共感する部分はあったけれど、どう考えても主人公の男女は思慮分別に欠けた愚か者としか思えなかった。

セックスを基準にして人間を描く(大島作品はすべてそうだけど)のが、僕には共感できなかったのだ。川津祐介が演じた大学生は、人妻とセックスして金を巻き上げるような男だ。中年男にホテルに連れ込まれそうになった少女(桑野みゆき)を助けたものの、彼女を川に投げ込み「俺と寝ないと助けないぜ」といたぶる。やがて少女と組んで美人局を始めるが、少女が妊娠すると堕胎させる。

ある典型を徹底して描けば普遍性を得る、というのがすぐれた小説や映画に共通することだ。たとえば「仁義の墓場」の狂犬のようなヤクザの無茶苦茶な暴力を見せつけられたとき、僕は「人間の業」のような普遍性を感じたものだった。しかし、「青春残酷物語」の(一般的モラルから見れば)不良青年と不良少女の明日なき行動は、普遍性を得て深い感銘を与えるまでには至らなかった。

しかし、今から振り返れば、いつの時代も青春を描くことは「個人を圧殺する社会(システム)」を描くことだと思う。村上春樹さんの有名になったイスラエルでのスピーチの言葉を借りれば、「卵と壁」を描くことである。「青春残酷物語」のふたりは未熟であったが故に、個人を主張しシステムに敗れたのかもしれない。強固なシステムに囲まれた若者の閉塞感は、確かに伝わってきた。今なら、そう思える。

●武家社会の中で圧殺される個人を描いた残酷物語

僕が見た「残酷物語」というタイトルの映画は、他に三本ある。「武士道残酷物語」(1963年)「幕末残酷物語」(1964年)「拳銃残酷物語」(1964年)である。「武士道残酷物語」は巨匠・今井正監督で、原作は南条範夫、主演は中村錦之助だった。脚本を手がけたのが鈴木尚之で、ある家系をたどる形で江戸時代から現代まで七つのエピソードが描かれた。

今井正という監督は「青い山脈」(1949年)や「ひめゆりの塔」(1953年)「キクとイサム」(1959年)などを作った人で、その名を見ると「反戦」「社会派」といった言葉が浮かんでくる監督だったから「武士道残酷物語」は意外だった。しかし、この時期、今井監督は武家社会の理不尽さ、組織の中の個人というテーマを追及していたのかもしれない。翌年には「仇討」(1964年)という作品がある。

「仇討」は橋本忍のオリジナル脚本だが、タイトルが「武士道残酷物語」であっても違和感はまったくない。武家社会の中で次第に追い込まれてゆく主人公の悲劇がひしひしと伝わってくる。「組織と個人」というテーマは、永遠なのだ。江戸時代を舞台にすると、そこには「家」という要素が加わる。「一族のため、家のため」に個人としての人生は殺さなければならないのだ。

中村錦之助が演じた主人公は些細な注意をしたことから相手に逆恨みされ、果たし状を受け取る。相手を返り討ちにしたものの私闘として処分され、山奥の寺に「預かり」の身になる。しかし、殺された相手の弟が仇討ちにやってきて、主人公は再び相手を返り討ちにする。相手の一族は、末弟を討ち手にして仇討ちを主君に願い出て認められる。

主人公は、藩が認めた仇討ちの相手である。討たれる方は悪い奴でなけれぱならないから、主人公の悪評が立てられる。主人公は悪役にされ、藩中の憎しみが彼に集中する。藩主は「必ず討たせよ」と命じ、重臣たちは討ち損じないように大勢の家臣に加勢を申し渡す。日時が決められ、竹矢来をめぐらせた仇討ちの場所が準備されてゆく。

主人公の兄も家を守るために「立派に討たれてやれ」と、彼を犠牲にすることを決める。主人公は手向かいせず討たれようと覚悟して仇討ちの場に従容と赴くが、見物人たちから罵声を浴びせられ、石つぶてを投げられ、藩の侍たちが加勢の準備をしているのを見て、黙って討たれる決心が揺らぐ。やがて主人公は血まみれの闘いを始めるのだが、結局、ズタズタに斬られ襤褸のような死体になる。

中村錦之助の演技力は凄い、と僕は「仇討」を初めて見たときに感心した。僕が子供の頃に見ていた中村錦之助は、明朗で脳天気な時代劇ヒーローばかり演じていたが、「仇討」では目が落ち窪み頬にシャドウを入れたメーキャップで凄みを出し、目をギョロつかせ、必死の形相で最後の意地を見せた。そのリアルな錦之助から鬼気迫るものが伝わってきた。

江戸時代の武家社会を舞台にしているが故に、その物語に現代性を感じにくいところではあるけれど、「武士道残酷物語」「仇討」も結局のところ「個人とシステム」を描いている。昔風に言えば「義理(社会)と人情(個人)」である。個人の感情や夢や希望を圧殺するのは、いつの時代も社会や組織といったシステムの存在なのである。

●新選組の組織内の粛正や暗殺を描いた残酷物語

「幕末残酷物語」は、僕が敬愛する加藤泰監督の作品である。物語は、大川橋蔵が演じる青年武士が新選組に入隊するところから始まる。彼が見聞する新選組は、近藤勇や土方歳三が支配する暗黒の組織である。秋霜のように厳しい局中諸法度に縛られ、隊士は何かというと腹を切らされる。隊士の処刑が日常的に行われ、その介錯を主人公はやらされることになる。

タイトルは「幕末残酷物語」だが、内容は「新選組残酷物語」である。僕は新選組ファンだからこの映画を見ているのは辛かったのだけれど、描かれた内容は事実である。新選組は江戸試衛館の天然理心流の四人(近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎)に山南敬介、藤堂平助、永倉新八、原田左之助を加えた八人と、水戸浪士の芹沢鴨一派が立ち上げた組織である。

しかし、司馬遼太郎の「新選組血風録」が「油小路の血闘」から始まり「芹沢鴨の暗殺」に続くように、たった数年間なのに暗殺と粛正と内部抗争が続く歴史でもある。まず芹沢一派が粛正され、多くの隊士が処刑された。江戸以来の同志の山南が切腹させられ、藤堂平助は分派して出た伊東甲子太郎一派と行動を共にする。その伊東は油小路で土方らに惨殺される。

「幕末残酷物語」は新選組の裏面史のように、組織内の暗黒面ばかりを描いていくのだ。そして主人公は、なぜか芹沢鴨暗殺の真相を突き止めようとしている。登場する近藤勇(中村竹弥)や土方歳三(西村晃)は悪役メークで、いかにも陰険で腹黒そうな人物に見える。沖田(河原崎長一郎)も陰湿で偏狭な殺人者だが、どこか懐疑的な人物に描かれていた。

主人公の正体を隠したまま物語は進行し、その謎が観客を最後まで引っ張るのだけれど、なるほど暗殺された側から新選組を描くとこうなるのだろうなあ、と見終わって納得する。新選組というのは鉄の規律を誇った組織だから、個人は駒になるしかない。感情を殺し欲望を抑制し、ただひたすら敵を殺すことに邁進した者だけが生き残る。組織にとって「組織の役に立つ人間」以外の存在価値はない。

それは、どんな組織でも同じだ。命をとられることはないが、現代の会社組織だって同じである。株式会社という組織にとっては、会社の利潤確保に貢献した人間だけが評価されるのだ。そこに個人のメンタリティは存在しないし、個人の様々な事情だって関係ない。利益を上げる者、突き詰めればそれだけが組織に必要な人間なのだ。そして、組織のヒエラルキーを尊重する人間、違和感なく組織にとけ込める人間を組織は求める。

●大金を強奪する物語にも個人と組織の対立は存在する

「拳銃残酷物語」は、大藪春彦の小説を映画化した日活映画だ。当然、主演はエースのジョーこと宍戸錠である。大金の強奪計画を練り、仲間を集めて実行し、大金をつかんだ後の仲間割れ、裏切りを描く犯罪映画の王道のような物語である。当時のガンブームを背景に、拳銃やライフルの蘊蓄が語られ、派手な撃ち合いが展開する。お約束だが、今見てもワクワクする。

この手の物語を熟知している人には、予測がつく展開である。主人公(宍戸錠)はプロのギャングだが、彼が犯罪に手を染めた理由は愛する妹の手術費用を捻出するため、というお涙ちょうだいの理由が設定されている。当時の日本映画では、そんな情緒的な背景を設定しないと観客の共感が得られなかったのだろう。妹は純情可憐な松原智恵子が演じた。

彼を出所させ犯罪計画を持ちかけるのは腕利きの弁護士で、彼の背後には大ボスが控えている。ボスが準備のための費用を負担し、主人公はかつての相棒やいかがわしい仲間を集め、大金の強奪を実行する。乗り込んでいる警備員ごと現金輸送車を大型トラックに取り込み計画は成功するが、当然、計画通りにはいかない。仲間割れが始まり、ボスの裏切りがある。

ここでも、個人とシステムがぶつかる。主人公は妹の命を助けるために大金の強奪計画に乗る(個人的感情による目的)が、ボスを中心にしたシステムがその希望を阻み打ち砕く。主人公を取り巻くのは、利潤をあげる(大金を奪う)ことを目的としたシステムである。システムを構成するのはボスであり、その手先の弁護士であり、彼らが影響力を持つ人間と組織である。主人公は、結局、滅ぶしかない。

「青春残酷物語」を僕は同時代の映画として憶えていない。僕はまだ小学三年生だった。成長して映画青年になり、大島渚の伝説の映画として認識した。だが、「世界残酷物語」も「武士道残酷物語」「幕末残酷物語」も「拳銃残酷物語」も、封切りの看板を憶えている。ほんの数年の差だが、五、六年生の頃のことだ。その頃の僕は「残酷物語」という言葉の響きを記憶に留める感性を持っていたのだろう。

「世界残酷物語」のヒットで「残酷物語」という言い方が流行った頃、何かにつけて「××残酷物語」と口にした。たとえば、僕がすべって転びでもすると、誰かが「ソゴー残酷物語」といった風に言う。その言葉で、級友たちは囃したてた。たわいない話だが、人の痛みや失敗は囃したてるのに絶好な標的だったのだ。そこには、個人と社会あるいはシステム(他者たちで構成する何か)という対立構図がすでに存在した。

考えてみれば、人生そのものが、生きていくことこそが「残酷物語」なのかもしれない。人は、なぜ泣きながら生まれてくるのか。それは、「こんなひどい世の中になど生まれたくないという意思表示なのだ」と誰かが言った。続けて「地獄などない、この世を生きていくことこそが地獄なのだ」と他の誰かが言う。だとしたら、この世を生きることが、やはり「残酷な物語」なのだろうか。

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