映画と夜と音楽と...[554]映画について書き続けること...
── 十河 進 ──

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〈瞼の母/真田風雲録/車夫遊侠伝 喧嘩辰/明治侠客伝 三代目襲名/沓掛時次郎 遊侠一匹/緋牡丹博徒 花札勝負/緋牡丹博徒 お竜参上」〉

●すべての本を購入したい国書刊行会は謎の版元である

今年の「ブックフェア」は、国際展示場で7月5日から8日まで開催された。僕が勤めている出版社も出展したので、6日の金曜日と8日の日曜日に会場にいってみた。6日は仕事優先だったから自社ブースを見た後、「電子書籍フェア」だとか、「クリエイターズ・エキスポ」などを見てまわった。

その途中、各出版社のブースを詳細に見てみた。数年前、作品社のブースで高い本を見付けて八掛けで購入したが、「ブックフェア」の一般客の目当ては書籍の割引販売である。二割引は当たり前。最終日の夕方近くになるとスーパーマーケットのタイムセール並みの安売りが始まるという。

そこで、最終日の午後に改めてプライベートでいくことにして、「本を読むシェフ」ことカルロス兄貴を誘うことにした。メールすると「是非」という返事。カルロスは人文社会系(思想、哲学、宗教、歴史など)の本が好みで、渋谷のスペイン・レストラン「ラ・プラーヤ」の壁には、そんなジャンルの本が山積みになっている。

カルロスと最初にゴールデン街のバー「深夜+1」で会ったとき、何者かわからなかったが妙に哲学的な用語を頻繁に口にするのが気になった。ソフト帽に口ひげ、鋭い目つきをして片耳にダイヤのピアスである。堅気ではないと思ったが、スペイン・レストランのオーナー・シェフだとは想像できなかった。




その後、内藤陳さんの誕生祝いがカルロスの店であり、その店の壁に並んだ書物に圧倒された。昔、新潮社から出ていたマルセル・プルーストの「失われた時をもとめて」全巻揃いの箱入りセットが並んでいて、「これは凄いですね」と声をかけた。三島由紀夫の「豊饒の海」全四巻箱入りセットも並んでいて、どういう趣味してるんだ? と思ったのも事実だったけれど...

兄弟分の盃を交わすきっかけは、岡林信康の「友よ」という歌とタトゥーである。カルロスは大阪市役所には就職できない身体で、両の二の腕にタトゥーを彫り込んでいる。それもラテン語である。ラテン語を墨だけで彫っているのだが、そのタトゥーを見て感服し「友よ」を一緒に歌った後、「弟分にしてください」と頭を下げた。

堺正章の「チューボーですよ」に二度も「スペイン料理の渋谷の巨匠」として出演したほどのシェフだとは、兄弟盃を交わした後に知ったのだが、それより実によく本を読んでいるので脱帽した。読書歴を話すと共通する部分はあるが、今も思想書、歴史書、宗教関係の書籍などをよく読んでいて、「負けました」となることが多い。

今年の「ブックフェア」で目についたのは人文書関係の版元のコーナーである。ミネルヴァ書房、国書刊行会、みすず書房、勁草書房、法政大学出版局などなど、書店ではなかなか置いていない書籍がブースに並んでいた。五千円くらいの本が二割引である。「こりゃあ、カルロスを誘わなきゃ」と僕は思った。

そんないきさつで8日の午後2時、新木場駅でカルロスと待ち合わせ、3時前に会場に入った。まっすぐ人文書版元のコーナーをめざす。カルロスは法政大学出版局の白を基調にした書籍の愛読者であり、さっそく「マリア」という宗教関係の書籍を買った。その後、ふたりで国書刊行会のブースに入る。

国書刊行会は謎の版元である。すべての本を僕は購入したいくらいだが、その日は下見段階で目を付けていた本があった。ビル・エヴァンスの奇跡のピアノ・トリオのベーシストの伝記「スコット・ラファロ その生涯と音楽」と山根貞男さんの「日本映画時評集成2000─2010」だ。合わせて7,770円。パチンコなら大当たりなんだけどなあ。

●「著者謹呈」カードと見返しにサインが入った映画の本

山根貞男さんの名前を知ったのは、たぶん就職した翌年のことだ。1976年、今から36年前である。1939年生まれの山根さんは、まだ30代後半の気鋭の映画評論家だった。なぜ、僕がその名前を知ったかというと月刊「コマーシャル・フォト」という雑誌で映画評論の連載が始まったからである。

その連載を始めたのは、現在のデジクリ編集長である柴田さんだったと思う。僕が入社したことで切望していたコマーシャル・フォト編集部に異動できた柴田さんは、いろいろと新しいことを始めていたが、山根さんの映画評の連載もそのひとつだったのかもしれない。見開き2頁の連載だったが、その頁は目立った。

目立った理由は明確である。そこだけデザインのテイストが違ったからだ。その頁は完全版下で入稿しているらしかった。特別な書体を使った写植文字が貼り込まれ、独特のデザインが展開された。時評で取り上げた映画のスチールも大胆な形でカットされていた。デザイナーの名前は鈴木一誌とクレジットされていた。

鈴木一誌さんの名前は、山根さんとセットで憶えた。鈴木一誌さんは杉浦康平さんの弟子だという。納得した。杉浦康平さんも独特のデザインをするが、そのテイストは鈴木さんにも引き継がれていた。20年以上も後、僕は鈴木さんを取材するのだけれど、山根さんの頁のデザインをやっていた頃、まだ20代半ばだったと知って唖然とした。すでに、鈴木さんのデザインは完成されていたからだ。

僕の手元に山根貞男さんの「映画狩り」(1980年11月発行)と「映画が裸になるとき」(1988年6月発行)という本がある。「映画狩り」を開くと、見開き頁に藤純子の横顔が縦位置で印刷されている。表紙裏を上にして本を持ち直さないと、「お竜さん」こと「矢野竜子」の凛々しい横顔は正しく見られない。

「映画狩り」を開くたび、その見開き頁を見て「ああ、鈴木一誌さんのデザインだなあ」と思うけれど、その見返し頁に銀のサインペンで「柴田忠男様 山根貞男」と書かれてあるのを見て昔のことを思い出した。その本は連載担当者だった柴田さんに山根さんが献本したものであり、それを僕が譲り受けたのである。

そのときの光景は、今も甦る。「ソゴーさん、あげるよ」と柴田さんは僕のデスクにきて、「映画狩り」を差し出した。表紙に「沓掛時次郎 遊侠一匹」の中村錦之助と「緋牡丹博徒」の藤純子が描かれていた。僕は挟まれていた「著者謹呈」のカードと見返しのサインを見た。「いいんですか」と顔をあげる。「いいんだよ〜」と、30を過ぎたばかりの柴田さんが答えた。

●1976年「コマーシャル・フォト」から始まった山根さんの時評

「映画狩り」に掲載されている「コマーシャル・フォト」初出で最も古い文章は、1976年12月号に載った「大衆を愚弄する映画」というものだった。「大島渚監督『愛のコリーダ』と市川崑監督『犬神家の一族』が、同じ10月16日(1976年)一般公開された」と始まっている。大昔の話である。

「映画狩り」には、「コマーシャル・フォト」で1976年から1978年まで連載された文章が再録されていた。その他には「キネマ旬報」「ムービー・マガジン」「映画芸術」などに掲載されたものだ。あとがきで山根さんは「本書はわたしのはじめての映画評論集であり、1969年から79年までに書いた文章で構成されている」と記している。

山根貞男さんの「コマーシャル・フォト」の連載を僕は見本誌ができるたび真っ先に読んでいたが、その連載は当時のトップには不評だった。トップが嫌った理由が僕にはわかった。「コマーシャル・フォト」全体のデザイン・テイストと鈴木一誌さんのデザイン・コンセプトが水と油で違和感があった。

その見開き頁だけが、まるで別の雑誌のようだった。杉浦康平さん(およびその系列の人たち)は独特の肉厚な書体を使う。写植にも凝るから、専任の写植オペレーターが本文さえ手詰めで打つ。その結果、本文部分に異様な濃度が醸し出され、濃密な頁が展開されることになる。

当時のトップは映画好きでもあった。僕は映画に詳しいと思われていたので、当時、社長室にいくとよく「今月の山根ナントカの原稿は読んだか」と不機嫌そうに訊かれたものだ。「はい、いつも真っ先に読んでいます」と、へそ曲がりの僕は答える。「どう、思う?」とトップはとりあえず僕の評価を確認する。

「面白いですねえ、あんな観点は僕には思いつきません」と答えると、トップは苦虫を噛みつぶしたような顔をして、「どこが面白いんだ。ひとりよがりじゃないか。勝手なことを書いているだけだ。偏見に凝り固まった映画評だ。そうは思わんか」と、まだ50代で元気いっぱいだったトップは言う。

今から振り返れば、僕もフェアではなかったと思う。毎回、独特の観点で日本映画を時評する山根さんの文章には感服していたし、そんな視点で映画を深く見ることを教えてくれた山根さんだったが、一般的な観客が読んだとき、その先鋭的かつ戦闘的な文章にはついていけない部分が確かにあった。

当時のトップは、ある意味で素直な映画好きであり、一般的な見方をする人だった。僕のような黒澤嫌いを標榜するへそ曲がりの映画マニアではなく、黒澤明の作品群を名作(正しい評価です)だと素直に受け入れていた。僕のようなマイナー好み、B級映画びいきではなく、山田洋次が作るような正統的な作品を評価した。

山根さんはマイナーな映画、B級アクションを高く評価するところがある。当時も「最も危険な遊戯」(1978年)などを絶賛した。確かに村川透監督と松田優作が組んだ「遊戯」シリーズはよくできていて僕も大好きだったが、一般的な名作かと問われると「そういうレベルでの評価じゃないから」とムニャムニャと口ごもる。

だから、父親と同じくらいの年齢だった当時のトップに、「あれがわからないんじゃ...」という気持ちで「山根さんの原稿は面白いですよ」と、あえて逆らうように答えていた若き日の僕はフェアじゃなかったのだ。「どうせ、若い人間の感覚はわからないでしょ」と最初から高をくくっていた。しかし、そういうことに気付くのは歳を重ねたからである。手遅れだなあ、まったく。

●山根さんは加藤泰作品を無前提的に評価したと感じるが...

山根さんの時評には共感することが多かった僕だが、首をひねることもあった。それは加藤泰作品に対する評価である。山根さんは、加藤泰作品を無前提的に評価した。加藤泰監督の最後の作品になった「炎のごとく」(1981年)を、その年の邦画のベストワンにあげた映画評論家は山根さんだけだった。僕も加藤泰監督と鈴木清順監督を神とあがめてはいたけれど、山根さんには「ひいきのひき倒し」を感じた。

「キネマ旬報」1982年2月下旬号に「1981年度ベストテン」が発表になっている。誰がどの作品に何点を入れたかわかる表組も掲載されている。山根さんは「炎のごとく」に10点(つまり1位)、鈴木清順監督作品「陽炎坐」に9点(2位)を入れている。その年のベストワンは「泥の河」、2位が「遠雷」、そして3位が「陽炎坐」だった。

僕の手元にある二冊目の山根さんの本は「映画が裸になるとき」で、これは「コマーシャル・フォト」連載の二代目担当者だったHさんにもらったと記憶している。柴田さんはHさんに担当を渡したのである。映画に対する知識や熱意はHさんの方が上まわっていたから、Hさんは原稿を受け取りにいくと必ず山根さんと話し込んでいたらしい。

そのHさんが担当した頃の原稿を中心に、「映画が裸になるとき」は構成されている。80年代に書かれた文章である。その本の第一部は山根さんが加藤泰監督、工藤栄一監督と海外の映画祭に招かれたときのことを書いた文章でまとめられている。楽しそうな旅の話だ。

第三部は「加藤泰のために」と題された章で、「『炎のごとく』をめぐる断章」と「最後の加藤泰」というふたつの長い文章が掲載されている。山根さんの加藤泰監督およびその作品に対する深い思い入れが伝わってくる。加藤泰監督が1985年6月17日に68歳でなくなったことから、その追悼と鎮魂の想いを込めた評論集ではないだろうか。

第二部が時評の文章で、あとがきで山根さんはこう書いている。「IIは本書の中心をなす部分で『コマーシャル・フォト』連載の時評を主に、年度総括、作品論、エッセーなどが、ほぼ執筆順に並べられている。「コマーシャル・フォト」の時評は、1976年1月から1984年12月まで9年間にもわたってつづき、わたしはその間、成果のほどはともかく、その連載時評を書くことで自分の映画思想を鍛えてきたつもりである」

その後、山根さんは日本映画時評を書き続けることをライフワークとする。1986年10月からは「キネマ旬報」で時評を書き始めた。そして、先日、僕はブックフェアで国書刊行会から「日本映画時評集成2000─2010」が今年の1月に刊行されていたのを発見したのだ。図書目録には、近刊として「日本映画時評集成1976─1989」「日本映画時評集成1990─1999」が予告されていた。

●加藤泰監督から直接聞けた貴重な言葉が記憶に刻まれた

山根さんが「コマーシャル・フォト」で日本映画時評を連載している頃、僕は月刊「小型映画」という8ミリ専門誌の編集部にいた。1981年の春先のことだった。神とあおぐ加藤泰監督がひさしぶりに新作「炎のごとく」を撮ったというニュースが届いた。僕は期待して試写会に出かけた。

「炎のごとく」は間違いなく加藤泰監督の作品であり、他のどんな監督にも表現できない情感にあふれていたが、かつての加藤泰監督作品のきらめきには及ばなかった。しかし、それは僕の期待が大きすぎたのだと得心し、新設した「監督インタビュー」の頁に加藤泰監督に出てもらおうと、東宝宣伝部に連絡した。

どんな大物監督でも新作のパブリシティ時期であれば、部数の少ない専門誌のインタビューでも受けてもらえる。古巣の東映ではなく東宝の制作で「炎のごとく」を撮った加藤泰監督に会うために、僕は日比谷の芸術座の上階にあった東宝宣伝部を訪ねた。31年前のことだが、あのときの緊張感は今も憶えている。

高校生のときからの神だった。「瞼の母」(1962年)「真田風雲録」(1963年)「車夫遊侠伝 喧嘩辰」(1964年)「明治侠客伝 三代目襲名」(1965年)「沓掛時次郎 遊侠一匹」(1966年)「緋牡丹博徒 花札勝負」(1969年)「緋牡丹博徒 お竜参上」(1970年)を監督した加藤泰が、僕の目の前に坐っているのだ。

監督は肩すかしを感じるほど優しい人だった。伝説的な現場での厳しさはまったくうかがえなかった。そして、最後に自分がいかにヘボな8ミリカメラマンであるかと語ってくれた。監督は愛娘を8ミリカメラでずいぶん撮影したのだという。「それはスタッフには見せられまへん」と京都弁で笑った。僕の雑誌へのサービス・トークだった。

改めて僕は神に心酔した。信者になった。信者になったのに、厚かましくも「へぼな8ミリカメラマンに言いたいことを原稿にしませんか? 連載をお願いできませんか」とつけ込んだ。監督は快く引き受けてくれ、インタビューが載った次の号から、「ローアングルのキャメラアイ」という見開き連載が始まった。

加藤泰監督の連載が始まって数回が過ぎた頃、Hさんが「山根さんが『小型映画』送ってくれと言っていた」と言う。山根さんは「加藤泰監督が連載を引き受けるなんてホントに珍しい。資料にするから連載開始の号から送ってほしい」と言ったという。「映画業界誌じゃなくて、アマチュア向けの雑誌だからじゃないですか」と僕は答えたが、誇らしさがジワリと湧きあがってきた。

そのときの連載は、雑誌が休刊し10回で終了した。休刊した数ヶ月後、加藤泰監督作品の特集上映と監督の対談がアテネ・フランセで開催されることを知り、その控え室を僕は訊ねた。監督が笑顔で迎えてくれた。「すいません。連載途中で...」と僕が頭を下げると、「惜しいことしましたなあ」といつもの優しい喋り方で慰めてくれた。

控え室の少し奥で、その夜の対談相手である山根貞男さんが怪訝そうな表情で見ていた。山根さんはスキンヘッドで、薄めのサングラスをかけている。以前に試写室で見かけたときもそうだったから、それがいつものスタイルなのだろう。僕は挨拶をしようかと思ったが、監督も紹介してくれる様子がなかったので、そのまま部屋を出た。

数年後、加藤泰監督の訃報に接した。朝日新聞の記事には、「工藤栄一監督、山根貞男氏ら親しい人たちと親族とで密葬」とあった。京都の自宅にうかがったときの加藤泰監督が目の前に浮かんできた。叔父である山中貞雄監督の評伝を執筆中だった。以来27年の月日が過ぎ去った。山根さんの著書を買うと、今も加藤泰監督の思い出が甦ってくる。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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僕のこの連載は、1999年の夏休み明けから掲載になったので、デジクリの夏休みがくると「一年経ったなぁ」という感慨が湧く。夏休み明けからは14年目に入ることになるのだけれど、いつまで続けられるかなと思うことが最近増えました。

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