ローマでMANGA[55]アモーレのその後
── midori ──

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前回、〈イタリアの漫画家、イゴルトが講談社へ売り込みに行って、「アモーレ」というタイトルのマフィアのファミリーに育った若者を主人公にした物語を、モーニング誌に掲載すべく制作が始まった」ということを書いた。

担当編集者とイタリア人作家のやり取りの間に私がいて、日本の(講談社モーニング誌の)MANGA制作をそばで見ていたというわけだ。そばで、というのはバーチャルだけども。

双方とも今までのやり方と勝手が違うので大いに戸惑った。手元に残っている通信の一番古いのが1991年8月21日のイゴルトからの手紙。1994年の1月11日のイゴルトからのFAXに「第5話のネームを送りました」と書いてある。

全編300ページの話で、1話30ページ。1991年の8月に掲載の話が始まって、2年5ヶ月経って5話目の話をしている。日本のマンガ家さんと新作の企画を立てて、掲載までこんなに長い時間をかけるものだろうか。

新人だったらありうるかもしれない。例えば、新人賞などでその存在を知られ、編集部からこれは、と見込まれて担当編集者がつく。双方ともやる気充分で熱心なやり取りが続くも、決定打にたどり着かなくて月日が流れる...というような場合。

新人で連載を持っていないから、雑誌の構成に影響はないからいくらでも時間がかけられる。イゴルトの場合もこれに似ている。担当編集者の堤さんはイゴルトを買っていたし、イゴルトは熱心に応えていた。

海外作家の作品を掲載する、というのは当時のモーニング編集部の命題の一つだったから、編集部も編集長も「イタリアの大御所の長編物語」を待っていた。担当編集者もイゴルトも「良い作品を作る」というプロ意識を持っているから、とことん話し合い、やり直しも辞さなかった。

そのやる気のせいで時間がかかった、といえる。日本とイタリアの時差と、いちいち通訳翻訳を介すことと、ワープロで打ってプリントアウトしてFAX、という手間暇も無関係とは言えないのだが。

関係あるのかないのかわからなくなってきたけど、日本に住んで、電話ででも直接やり取りが出来る環境と比べて、どうしても二枚クッション(時差と通訳)が入ると、少し遠くなり、ツーカーにならなくなるのは否めない。



これを打破するために、堤さんは何度かヨーロッパに来てヨーロッパの作家と直接会うように努めたし、イゴルトも事情が許せば日本に飛んだ。チャットが出来る今ならば、ずいぶん事情が違っていただろう。

●ヨーロッパの作家と日本の編集者が驚き合う

ヨーロッパのマンガ家は孤独な作業をする。イゴルトのように、ストーリーも作画も自分でやる人はよけいにそうだ。あ、ヨーロッパでは作画とストーリーが別々というのは普通で、作画にいたっては「鉛筆下書き係」、「ペン入れ係」、「彩色係」と担当がわかれているのも普通だ。担当が分かれている場合は、ストーリーを作る人がボス的役割。

「自作自演」の場合、出版社と作家が作品の内容についてあれこれミーティングをすることはない。雑誌形式ではなく、単行本で、出版社は作家が売り込んできた作品を出版するかしないかだけを決める。後は、作家の力量のみが問われる。だから、マンガ家は出版社と契約を交わした後は孤独に作業を進める。

日本の場合は事情が違う。大御所でも担当編集者がつくし、連載の企画から編集者と一緒に考えたりする。新人の場合は、作品企画ばかりでなくネーム(ストーリーボード)の不具合まで編集の口が入る。

「担当編集者はその作品の最初の読者」であり、まずは、作者の言いたいことが伝わるかどうかを念願においてネームを読む。編集者がその作家のことをよく知っていればいるほど、編集者と作家の相性が良ければ良いほど、ネーム段階での話し合いで作品が良くなる。

ヨーロッパの作家は孤独な作業が普通だから、「ネームを見せてくれ」でたまげ、そのネームでああだこうだ言われてさらにぶったまげる。否定的な意見に対して、たいてい「これはラフだから...」と言い訳し、編集者はその言い訳にたまげながらも「そんなことはわかっている」と言う。

これには二つの事実が隠れている。一つはヨーロッパの作家、というかヨーロッパのマンガは絵の完成度が重要視されること。だから、編集者がラフを見てあれこれ言うのは、完成された絵を見ていないために良さを見抜けないのでは、と考えるのだ。

一方、日本のMANGAも絵が完成されて美しい作品の方がいいに決まっているけれど、テーマの切り口、語り口、キャラの面白さの方が重要視される。だから編集者はラフなネームで、物語のリズムや、キャラの感情が描かれているかどうかを見る。絵が完成されていなくてもそれは読み取れる。だから「これはラフだから」というヨーロッパ作家の言い訳にたまげるのだ。

この「絵が先か物語が先か」はMANGAの本質に関わるものであり、欧米マンガとの違いに関する話になる。このことは過去に書いているので興味のある方はこちら。
< https://bn.dgcr.com/archives/20080513140100.html
>

もう一つの事実は、雑誌形態。ヨーロッパには漫画雑誌がない。イタリアとフランスとスペインに、70年代の後半から80年代にかけてあったけれど消えてしまった。マンガは単行本、主に絵本のような大判で発行される。だから、ヨーロッパの作家は単行本の頭で作品構成をする。

日本の週刊誌、月刊誌にも短編読み切りはあるけれど、今回、イゴルトの作品は週刊連載として企画された。それはどういうことかというと、毎回の掲載時にその回の話のテーマと、次回へつなげる終わり方が要求されるということ。

そして、何度も書いているけれど、掲載できるページ数が決まっているということ。片起こし(見開きページで始めない)、その回の表紙にあたるページも必要という決まりもある。

ヨーロッパの作家は全体を一度に捉えて話をし、日本の編集者は雑誌掲載を踏まえて一話づつの構成を基に話をする。日本の編集者は、一度作家に「1話32ページまで」と言えばそれは不文律になると思っているし、ヨーロッパの作家は、一応全体を幾つかの章に分けていても、全体の構成から必要とみなせば一章のページを増やしたり減らしたりするのは当然と思っている。

こうした思考の違いがあることを認識するまで、堤さんとイゴルトだけではなく、他のヨーロッパ担当編集と作家達の間でもたまげ合いが頻繁に起こった。ちゃんと双方の言語を介す通訳が間に立っているのに、意思の疎通に時間がかかった。

私自身、日本のMANGAとヨーロッパマンガの違いを意識の上に登らせていなかったから、互いのたまげぶりにたまげつつも、なかなか助けの手を差し伸べられなかった。フランスのある作家は、プロとして長年やって来ているのに、今さらそんなにがたがた言われる筋合いはない! と怒って企画から降りてしまった。

1992年12月半ばのやり取りに、雑誌掲載を意識している編集者と意識していないイゴルトの戸惑いがよく現れている。「アモーレ」の第1話の原稿が完成し、第2話のネームのやり取りが済んで、原稿の完成へ向けていた。

同時に、話し合いの結果、マフィアとは何かという解説を含めたプロローグがあったほうがわかりやすいということになって、そのネームについてのやり取りだ。

プロローグの内容については「このプロローグをもって本編の物語が現実に支えられたものであることを読者に承知させられる」と編集者も満足だった。問題は提起したページ数だった。イゴルトは32ページを越えて、35ページから36ページくれと言ってきた(単行本脳である)。

編集者は雑誌の編成上不都合だ、どうしても32ページ以上必要なら、カラー4ページ+モノクロ32ページなら可能だと返答した(雑誌脳)。雑誌では、新連載や特に推したい作品を最初に持ってきて、カラーページでアイキャッチをすることはよくある。だから、イゴルトの新連載を巻頭カラーで掲載する(それを編集会議で何とか通す)と考えたわけだ。

イゴルトの返事は、カラーとモノクロ原稿が一つの章で混ざるなんて、単行本になった時に意味がない(単行本脳)、だった。単行本脳は、さらに、いっそのことプロローグを全部カラーにさせてくれ、そうすればプロローグがドキュメンタリーになり、その後の本編のフィクション(モノクロ)へつなげる意味も出てくるという提案をしてきた。

単行本脳発言はまだ続き、カラー32ページ一挙掲載ができないのはわかるので、8ページづつ掲載していけばいいと提案した。編集者は当然雑誌掲載の効果を考えて返事をする。

「プロローグは一回で掲載したほうが読者に与えるインパクトは大きい。また、仮にオールカラーで掲載するとしても、32ページのものを機械的に8ページづつ分けて掲載すればいい、というものではない。32ページ以上必要だと理解したから4ページカラーを提案したが、32ページで収まるのならモノクロ32ページでお願いしたい」

(日本の)雑誌脳があれば、プロローグを何ページにするかのやり取りで三日間無駄にしなくて済んだわけ。

この頃、イゴルトはボローニャにアトリエを持っていた(今はパリ)。プロローグを描くにあたってマフィアに関するかなりの資料を集め、壁には歴代ボスとファミリーの顔写真を貼り、友好関係や敵対関係を示す矢印でつないで「カラビニエリ(イタリアの国家憲兵)の捜査室みたいだよ」と言っていた。↓こんな感じ
< http://www.sicilia24h.it/droga-e-truffe-a-finanziarie-maxi-operazione-dei-carabinieri-52-arresti_103498/
>

マフィア発祥の中世から、アメリカでの拡大、第二次大戦でのイタリアへの逆輸入というマフィアの歴史。マフィアのファミリーの構成。構成員に成るための儀式など、多角的にマフィアの予備知識を32ページで解説した秀逸な構成になっていた。

【みどり】midorigo@mac.com

ちょうどこれが掲載される日、40日間預かった日本の小学生が帰国のために旅立つ。ホットスポットからイタリアへ保養へ来た34人のうちの一人。ボランティアをやっている知り合いに頼まれて引き受けた。

11歳で親兄弟から離れ、言葉も習慣も知らないところへ一人で置かれて、なんだかそのほうがかわいそうに思える。もっとも、親からしてみれば、「怖い怖い」放射線を浴びさせるよりは、僅かな期間でも「健康な」土地へ避難させたいとわらにもすがる思いで子を国外に出すのだろう。

国内でもそうした保養の受け入れ先があるようだけ、ど日本から出さないと親が安心できないのか、国内では「放射能が伝染る」とか、言われるのか。

福島の事故から、色々読んで低放射線では健康に害が出ない、という説を私の脳みそは受け取った。ただ、この子にしても、事故以来鼻血が出たり下痢をしたりするようになったという。そのキーワードで検索してみて、粘膜に放射性物質が付着すると、その粘膜の細胞を壊して、つまり表皮が壊れて鼻血になることはあるようだ。

なる人とならない人がいるわけで、どうも免疫力のせいではないかと理解した。抵抗力をつければ、ちょっと放射性物質が余計にくっついても表皮が壊されないと思ったので、毎日乳酸飲料をあげてみた。

というのも、昨年の秋から便秘対策でヨーグルトを毎朝欠かさず食べ始めたら、今年の春、ほとんど花粉症に苦しまなかったのだ。花粉症も免疫に関係があると読んだので、つながってると理解した。ちなみに便秘も解消した。そのせいか、ローマが「健康な土地」なのか、鼻血は出なかった。

親から離れた11歳は、当初、きちんとお辞儀をして朝の挨拶をし、言われたことはやり、殆ど喋らず動かず、手間はかからないけど大丈夫かしらと思わせる子だった。その内、私にはポツポツと学校の友達のことや、家族のことを話しだし、息子のプレステで遊んで居場所を見つけたような感じになってきた。

イタリア人である旦那や、息子や、週末に泊まりに来る舅にはどう接していいのか戸惑うらしく、まるで存在しないかのようになるべく彼らを見ないようになったのに気がついた。挨拶だけでいいからと、イタリア語のおはようや、簡単にチャオでいいことを教え、日本語でもいいと言ったけど、どうしても見てみないふりをする。

大人の方からお願いと頼んで、旦那と息子に先に声をかけてくれるようにしてもらった。ほぼ40日経った今、時々ポツッとイタリア語の単語を口にし、かんべんして! というくらい私におしゃべりするようになった。人は慣れるもの。

それでも、こんなに遠くまで出すほどのことなのか、と、私の脳みそは納得できないでいる。11歳、しっかりしてる子でもまだ親が必要な年だよ、と思う。34人のうち、一番小さい子は7歳。一人でイタリア人だけの家庭にいる。

主に料理の写真を載せたブログを書いてます。
< http://midoroma.blog87.fc2.com/
>