映画と夜と音楽と...[558]1967年の「オール・マイ・ラヴィング」/十河 進

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〈抱きしめたい/HELP!4人はアイドル/ノーウェアボーイ・ひとりぼっちのあいつ〉

●しわの目立つポールがオリンピック開会式で歌った

ロンドン・オリンピック開会式の話題は、何と言ってもポール・マッカートニーが歌うことだった。今年6月で70歳になったポール・マッカートニーである。ジョン・レノンは30年以上も前に射殺され、21世紀になった途端ジョージ・ハリソンが死んだ。初期メンバーのスチュアート・サトクリフは、21歳で夭折。生き残ったのは、ポールとリンゴ・スターだけだ。ポールの顔のしわを見ながら、ずいぶんな年月が過ぎ去ってしまったのだと実感した。

ビートルズが日本でも知られるようになった頃、最も人気があったのはポール・マッカートニーだった。一番かわいかったからである。それに日本デビューしたとき、ジョン・レノンにはすでに妻子がいた。ポールは左ききのエレキベースがかっこよかった。ジョンとポールがマイクに向かって歌うと、ギターとベースのネックがハの字に広がる。観客席から見ると舞台の左側にジョンとポール、右手にリードギターのジョージ・ハリソンがいて中央奧にドラムスのリンゴ・スターがいた。

1964年、ビートルズの最初のシングル(ドーナツ)盤が日本で発売された。「プリーズ・プリーズ・ミー」と「アスク・ミー・ホワイ」のカップリングだった。初期の最大のヒット曲「抱きしめたい」は、僕はビートルズではなくスリーファンキーズのカバーで最初に聴いた。長沢純がリーダーで、もうひとりは手塚しげおだった。後年、「うっかり八兵衛」として知られることになる、高橋元太郎がいたかどうかは記憶にない。

オリジナルの「抱きしめたい」は、いつ聴いたのだろう。洋楽(当時は、そう言った)を熱心に聴き始めたのは中学生になる頃だから、1964年のことである。中学生になったばかりの4月に、NHKで「ひょっこりひょうたん島」が始まった。秋に東京オリンピックがあり、同じ頃に映画でヒットしたのは吉永小百合の「愛と死を見つめて」だった。その年、僕は初めて音楽雑誌「ミュージック・ライフ」を買った。




「ミュージック・ライフ」1964年3月号に「新人登場!! 『抱きしめたい』のビートルズ」という短い記事が掲載された。当時、日本で大ヒットしていた洋楽は、ベンチャーズの「十番街の殺人」だったと記憶している。ビーチボーイズにも、それなりのファンはいた。ローリングストーンズの記事も出始めてはいたが、彼らが日本で認知されるのは、1965年の「サティスファクション」まで待たねばならない。

「新人登場!! 『抱きしめたい』のビートルズ」は、「64年のイギリス突然変異とまで呼ばれているビートルズが、ロック・ビートの常勝軍はアメリカさまばかりじゃないとばかりに新年早々アメリカに殴り込みをかけたと思ったら、いやオドロキ。キャッシュ・ボックス、ビルボード、3週目にして第一位になってしまいました」という文章で始まっている。紋切り型で申し訳ないが、まさに隔世の感がある。しかし、どんなことにも「最初」はあるのだ。

ポールのガールフレンドだった女優ジェーン・アッシャー(1970年の「早春」では美しい肢体を披露してくれます)家の地下室で、ジョンとポールが作ったと言われる「抱きしめたい」は、1963年11月29日にイギリスでリリースされ、翌年の1月13日にアメリカでのデビュー・シングルとして発売になった。「抱きしめたい」はアッと言う間にヒットチャートをかけのぼり、ビルボードの一位を7週独占した。

「抱きしめたい」に続いて「シー・ラヴズ・ユー」が2週間一位になり、さらに「キャント・バイ・ミー・ラヴ」が5週間ビルボード誌の一位を獲得した。1964年2月から4月までの3か月、ビートルズがヒットチャート一位に居続けたのだ。ビートルズに一位を奪われたのはボビー・ヴィントンの「ブルー・ファイアー」であり、ビートルズから一位を奪ったのはルイ・アームストロングの「ハロー・ドリー」だった。

●ビートルズの訪米を背景にした青春グラフィティ・ムービー

ビートルズは1964年2月7日に初めてアメリカに赴く。空港は大変な騒ぎになった。9日には「エド・サリヴァン・ショウ」に出演し、ビートルズの演奏が初めてアメリカのネットワークで中継され、アメリカ中に流れた。そのときの熱狂ぶりを背景にし、古き懐かしいヒット曲を散りばめて作られた青春グラフィティ・ムービーが「抱きしめたい」(1978年)である。

「抱きしめたい」の監督は、後に「バック・ツゥ・ザ・フューチャー」(1985年)で大ヒットを飛ばすロバート・ゼメキスだ。彼は僕より一歳年下だから、1964年のビートルズのアメリカ公演の大騒ぎをよく憶えているのだろう。当時の自分の年齢より少し上の少女(ナンシー・アレン)を主人公にして、ビートルズ騒動を背景に楽しそうにコメディを展開する。

ナンシー・アレンは後に「殺しのドレス」(1980年)や「ミッドナイトクロス」(1981年)など、ブライアン・デ・パルマ監督作品のヒロインをつとめ、「ロボコップ」(1987年)ではタフな女警官役をやることになるのだが、「抱きしめたい」のときは60年代の典型的なティーンエイジャーを地で演じている。少しふっくらした感じで何の屈託もなく、空港でキャーキャーとビートルズを迎える。

彼女はニュージャージーに住んでいる。ニュージャージーがどういうところなのかは知らないが、描写を見る限り田舎の風景である。小さな町のハイスクールに通う女の子がビートルズが出演する「エド・サリヴァン・ショウ」の観客として入れることになり、チケットが送られてくる。当時は、スタジオに観客を入れたテレビショウ・スタイルが人気があったのだ。「ルーシー・ショウ」「アンディ・ウィリアムス・ショウ」なども同じだった。

エド・サリヴァンという司会者がアメリカで人気があり、その番組に出演することがミュージシャンとしてのステイタスになると、当時、日本でも語られていた。エルヴィス・プレスリーもエド・サリヴァン・ショウに出演して、全国的な人気に火がついた。ただし、グラインドさせる腰を映さないために、歌っているエルヴィスはずっとバストショットだったと音楽雑誌で読んだことがある(確認したことはないけれど)。

ずいぶん経って、エド・サリヴァン・ショウに出演したビートルズの映像を見たとき、僕が驚いたのはエド・サリヴァンなる人物が強モテの悪党面で、ハンフリー・ボガートをもう少し醜男にした中年男だったことである。僕には、どう見てもニクソンにしか見えなかった。ニクソンを大統領にしたくらいだから、アメリカ人はああいう顔が好きなのかもしれない。

「抱きしめたい」はエド・サリヴァン・ショウを見るために、ナンシー・アレンが仲間たちとニューヨークをめざすところから物語が動き始める。ニューヨークという大都会への戸惑い、ビートルズが宿泊しているホテルに潜入してからのドタバタが展開される。ナンシー・アレンがビートルズの泊まっている部屋のベッドの下に隠れたあたりから、コメディ・タッチが絶好調になる。

音楽評論家の渋谷陽一さんが言うように、「ビートルズに本当に狂った年代の人間の書いたものはほとんど『私のビートルズ』を書いている」と僕も思う。「みんな『私のビートルズ』という私小説的な文章を書いてしまう」のである。ロバート・ゼメキスの場合は、それを映画にしたのだ。ナンシー・アレンを主人公にしているが、12歳のゼメキスの思い出が「抱きしめたい」には詰まっている。

●星加ルミ子という少女歌劇団の団員のような名前の編集長

月刊「ミュージック・ライフ」を定期で買っていた頃、編集長は星加ルミ子という、まるで少女歌劇団の団員のような名前の人で、やたらに誌面に登場した。今でも振り袖姿でビートルズの4人と並んで写っていた表紙をよく憶えている。僕は「ビートルズに本当に狂った」わけではないが、同年代の洋楽好きの人間としてそれなりに熱中はしたので、ビートルズの思い出を語ると私小説的になる傾向はある。

1966年6月末、ビートルズは羽田に到着した。ゼメキスの「抱きしめたい」と同じ光景が東洋の果ての国際空港に出現した。宿泊はヒルトンホテル。周辺にはグルーピーの少女たちがたむろし、厳重な警戒が敷かれた。コンサート会場は東京オリンピックのために建設された武道館だったが、「日本古来の武道のために建てられた神聖な場所で、長髪の小汚い毛唐のコンサートをやるとは何事か」と右翼は騒ぎ、テレビの「時事放談」でも取り上げられた。

僕は、エメロンシャンプーを買ってシールを貼って応募すると、ビートルズのコンサートチケットが当たるというのをテレビCMでやっていたと記憶していたが、調べてみると「ライオン歯磨きと東芝レコード、日本航空がチケット頒布」をやったらしい。「ミュージック・ライフ」66年6月号によると、福岡、大阪、千歳から羽田までの日本航空の往復チケットを購入すると、ビートルズのコンサートチケットが景品でもらえたという。航空運賃がよほど高かったのだろう。

その頃になると、僕も熱心なビートルズ・ファンになっていた。その年の正月、僕は「HELP! 四人はアイドル」(1965年)を見た。映画雑誌でも評価が高く、リチャード・レスターは有望監督として期待されていた。僕は友人とふたりで、早朝から映画館(名前だけは「高松スカラ座」と大仰だった)のチケット売り場に並んだ。アルバム「HELP!」は映画公開の半年ほど前にリリースされ、すでに「イエスタデイ」はスタンダードになりつつあった。

ビートルズの音楽性が変化し始めたのは、このあたりからだと思う。「ラバー・ソウル」「リボルバー」とアルバムが立て続けにリリースされ、ジョージ・ハリスンはインド音楽に凝り、シタールという楽器を習うためにラヴィ・シャンカール(今やノラ・ジョーンズのお父さんと言った方が通じるけど)に弟子入りしたという話が伝わってきたり、二度と4人でコンサートをやることはないとジョンが語ったなどという記事が「ミュージック・ライフ」に載り始めた。

そして、1967年の夏、アルバム「サージャント・ペッパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」が発売され、スタジオ録音で電気的に創られた音楽がビートルズ・ファンにショックを与えた。同じ頃、ドアーズの「ハートに火をつけて」とジェファーソン・エアープレインの「シュールリアリスティック・ピロー」が発売になり、ロック史上「マジック・サマー(奇跡の夏)」と呼ばれることになるのだが、音楽的に先鋭すぎて当時の僕には理解できなかった。

●名女優クリスティン・スコット・トーマスが演じたミミ伯母さん

僕の手元に「ビートルズ ラヴ・ユー・メイク」という、1984年に早川書房から出版された上下二巻のハードカバーがある。ピーター・ブラウンとスティーヴン・ゲインズの共著になっている。ピーター・ブラウンのプロフィールを見ると、「リヴアプール時代からブライアン・エプスタインの元で働き、ジョンとヨーコの結婚式で介添人をつとめた」とあるから、早い時期からビートルズの近くにいた人物らしい。スティーヴン・ゲインズはジャーナリストとある。

その本は、ジョン・レノンの最初の妻であり、ジュリアン・レノンの母であるシンシアが旅行から帰宅すると、オノ・ヨーコが自分のバスローブを身に着けて夫と朝食を摂っている場面から書き起こされている。ずいぶんショッキングなシーンである。シンシアはジョンがリヴァプール・アートカレッジに通っているときに知り合った、いわゆる糟糠の妻だ。

そこから、シンシアの回想が始まる。ジョン・レノンの少年時代が語られ、複雑な出生の事情が明かされる。ビートルズの歴史を語るとき、やはりジョン・レノンの生い立ちから始められるのだなあと、最初にその本を読んだときに僕は思った。やがてクォリーメンを結成し、少年時代のポールと出会う。ジョージ・ハリスンがクォリーメンに加わった年、19歳のシンシアは18歳のジョンと出会うのだ。

「ノーウェアボーイ・ひとりぼっちのあいつ」(2009年)を見たとき、僕はそのハードカバー二巻本を思い出した。ジョン・レノンは生まれてすぐに伯母に引き取られ、母を知らずに育つ。伯母のミミは厳格な女性で、ジョンの母親である妹のジュリアのような享楽的な生き方を認めず、ジョンに母親のことは教えていない。ミミを演じたのは、名女優クリスティン・スコット・トーマスである。

クリスティン・スコット・トーマスは「イングリッシュ・ペイシェント」(1996年)で注目され、「モンタナの風に抱かれて」(1998年)でロバート・レッドフォードと共演し、「ランダム・ハーツ」(1999年)ではハリソン・フォードと共演した。「唇を閉ざせ」(2006年)「ずっとあなたを愛してる」(2008年)など、フランス映画にも出演しているイギリス女優だ。我が子を殺した罪で15年服役してきた女性を演じた「ずっとあなたを愛してる」では、素晴らしい演技を見せた。

ちょっと骨格が目立つ印象のあるクリスティン・スコット・トーマスだが、「ビートルズ ラヴ・ユー・メイク」の巻頭に掲載されている実際のミミ伯母さんの写真を見ると、とても雰囲気が似ている。「可愛がっていた猫スキを抱いた1964年のミミ伯母さん」と、そのポートレートにはキャプションが添えられている。クリスティン・スコット・トーマスは、実在のミミ伯母さんを演じるために役作りをしたのだろう。

厳格なミミ伯母さんだったが、ジョンを深く愛していたことは映画を見るとよくわかる。ジョンにギターを買い与えジョンが喜ぶと、彼女自身も喜んでいるのがうかがえる。クリスティン・スコット・トーマスは無表情のように見えて、視線やほんのちょっとした仕草で感情表現をするのだ。ジョンに反抗されたときの悲しみも、視線の動きだけで表現した。

「ノーウェアボーイ・ひとりぼっちのあいつ」は、厳格に育てられた孤独な少年ジョンが母親が近所に住んでいるのを知って会いにいき、彼女に音楽の楽しさを教えられ、仲間を集めてバンドを結成し、やがてポール・マッカートニーと出会ってハンブルグへ公演に赴き、ブライアン・エプスタインに出会うまでのビートルズ前史が描かれる。ブライアン・エプスタインがマネージャーになったビートルズは、破竹の勢いでトップにのぼりつめる。

それは、「へぇー、そうだったんだ」という興味で観客を引っ張る部分もあるけれど、ひとりの少年の精神の彷徨を描いた青春映画としてもよくできていた。ジョン・レノンを演じたアーロン・ジョンソンが雰囲気を出していて印象に残る。ポール・マッカートニーを演じた俳優は少年っぽくて、デビュー当時のポールを思い出させた。やはり、ビートルズはジョンとポールが作ったのだなあ、と「ノーウェアボーイ・ひとりぼっちのあいつ」を見て改めて実感した。

45年前、宮谷一彦というマンガ家が月刊COMの月例新人賞を受賞してデビューした。その受賞作「ねむりにつくとき」は、若きサックス・プレイヤーの話だった。彼は、深夜の海辺で少女と出逢う。少女は「ジョンとポールの『オール・マイ・ラヴィング』を吹いて」と、少年にリクエストする。少年がサックスを吹くコマからは、名曲『オール・マイ・ラヴィング』が聴こえるようだった。

宮谷一彦のマンガは1967年に発表になった。「サージャント・ペッパーズ・ロンリーハーツ・クラブバンド」が発売され、ブライアン・エプスタインが謎の死を遂げた年である。暮れにはポール・マッカートニーがジェーン・アッシャーと婚約した。その頃、「ビートルズの『オール・マイ・ラヴィング』」とは言ったが、「ジョンとポールの『オール・マイ・ラヴィング』」という言い方は、とても新鮮だった。だから、今も僕の記憶に残っている......

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

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