映画と夜と音楽と...[559]人はどんな方法でも死ねるものか?
── 十河 進 ──

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〈トップガン/リベンジ/リベンジャー/マイ・ボディガード/アンストッパブル/天使のはらわた 赤い陰画/人魚伝説〉

●「トップガン」の大ヒットから四半世紀が過ぎた夏に

やはり見出しは、「『トップガン』の監督」だった。四半世紀前、「トップガン」(1986年)は大ヒットし、若きトム・クルーズを大スターにした。さらに、あまりいい男でもなかったヴァル・キルマーを主演俳優に押し上げた。新人だったメグ・ライアンも注目され、一躍、人気女優になった。日本では織田裕二による二番煎じ映画「BEST GUY ベストガイ」(1990年)が公開された。

あれから四半世紀が過ぎ、トム・クルーズは大物スターとしてハリウッドに君臨し、織田裕二は「踊る大走査線」シリーズ最後の映画に主演している。そして、監督のトニー・スコットは「『トップガン』の監督が飛び降り自殺」と新聞の見出しに書かれることになった。8月19日、トニー・スコット監督はロサンゼルス郊外の橋から身を投げ、数時間後に海で遺体が見付かった。

へそ曲がりの僕は、ハリウッド製ヒット映画「トップガン」は見にいかなかった。後にビデオで見てジェット戦闘機の圧倒的なスピード描写には驚いたけれど、リドリー・スコットほどの映像的な特徴はないなと、さほど感心はしなかった。僕は監督の名前は気にもとめなかったし、リドリー・スコットの弟だとは知らなかった。トニー・スコットという名前を意識して見にいった最初の映画は、「リベンジ」(1990年)だった。

「リベンジ」は、当時の人気スターだったケヴィン・コスナーの主演作である。ヒロインは、ミステリアスな雰囲気をまとったマデリーン・ストウだった。日本人が好きになりそうなブルネット美女である。軍隊を退役したコスナーが訪ねるメキシコの旧友を演じたのが、名優アンソニー・クインだった。コスナーとクインの年齢差を考えると、二人が旧友だという設定に不自然さを感じたことを憶えている。

しかし、メキシコの暗黒街にも影響力を持ち、若い美人の妻を持っている富豪の設定だから、アンソニー・クインくらいの貫禄がないとつとまらない。クインは、妻を友人のコスナーに寝取られる役である。若く美しい妻は年上の夫に不満を感じ、やってきた若いアメリカ人のハンサムな元軍人に心を移すわけだから、配役としては三人ともピッタリだった。




僕は「リベンジ」という言葉を、この映画で意識したのかもしれない。「リベンジ」が一般的に使われ始めたのは松坂投手が敗戦インタビューで、「次の試合ではリベンジしますから」と言った頃からなので、もう少し後のことになる。もっとも、僕はマイケル・ウィナー監督のジェームズ・コバーンとソフィア・ローレンが共演した「リベンジャー」(1979年)が好きで、「リベンジャー=復讐者」という意味はずっと知ってはいた。

リドリー・スコットの弟だからきっといい監督だろうと期待して映画館に入ったが、残念ながら「リベンジ」はイマイチの作品だった。しかし、トニー・スコット監督は順調にキャリアを重ね、「デイズ・オブ・サンダー」(1990年)「ラスト・ボーイスカウト」(1991年)「トゥルー・ロマンス」(1993年)「クリムゾン・タイド」(1993年)「ザ・ファン」(1996年)とハリウッドのメジャー作品が続いた。

それらの映画に出たのは、トム・クルーズとニコール・キッドマン、ブルース・ウィリス、デンゼル・ワシントンとジーン・ハックマン、ロバート・デ・ニーロといったハリウッドの大物スターばかりである。彼らの信頼も厚く、映画会社からも期待されていたのだろう。映画をヒットさせる監督には、次々とプロデューサーから企画が持ち込まれるのだ。

●自殺願望のある厭世観に取り憑かれた主人公を演出したトニー・スコット

トニー・スコット監督は橋の上に車を停め、欄干によじ登り、ためらうことなく飛び降りたという。車の中と事務所から遺書が見付かった。翌日、トニー・スコット監督は悪性の脳腫瘍と診断されていたと報道された。手術は不可能と医者が宣告したという。そうだとすれば、病気を苦に死を選んだということか。手術できない悪性脳腫瘍なら死を選ぶかもしれないな、と僕は納得した。

昔、山田太一脚本の「それぞれの秋」というテレビドラマがあった。父親(小林桂樹)が異常な言動をし始め、脳腫瘍だと診断される。父親は秘めていた気持ちをあからさまにするように、妻に向かって悪態をつき罵倒する。彼は自分の人生を悔いる言葉を吐き、どれだけ自分が家族のために犠牲になってきたかを嘆く。それは病気が言わせているのだと医者は言い、家族は回復後の父親にその言動を隠そうと口裏を合わせる。

トニー・スコット監督が悪性脳腫瘍だと知ったとき、「それぞれの秋」の小林桂樹の姿が浮かんだ。あんな風になるのなら自分で意識をコントロールできるうちに命を絶った方がいい、と僕は思った。あらぬことを口走り、狂人のような言動をし、延命治療だけを受けるくらいなら僕も死を選ぶかもしれない。自分の意志ではなく、心の奥底に秘めていた気持ちを心ならずも口にするくらいなら......

僕が「トニー・スコット監督、なかなかやるな」と思ったのは、「マイ・ボディガード」(2004年)を見たときだった。原作は新潮文庫から出ていたA・J・クィネルの「燃える男」(「火線上の男」と訳すべきだと思うけどね)である。冒険小説として評判になっていた物語を、デンゼル・ワシントンを主演にして映画化した。トニー・スコットは、デンゼル・ワシントンが気に入っていたのだろう、「クリムゾン・タイド」から最新作の「アンストッパブル」(2010年)まで、多くの作品で組んでいる。

原作では白人の設定だった主人公を、デンゼル・ワシントンに演じさせたのは正解だった。今や名優の域に達したデンゼル・ワシントンだが、「マイ・ボディガード」の頃はまだアクションが似合った。地獄のような戦場を見てきたために厭世観にとらわれ、自殺願望の強い元傭兵という深みが必要な役である。デンゼル・ワシントンは酒を飲み銃口をくわえる演技で、心の奥にわだかまる絶望を観客に伝える。

世界に絶望したとき、人は死を選ぶ。トニー・スコットも絶望したのだ。手術さえできない悪性脳腫瘍が彼に絶望をもたらしたのである。生きていても希望がないとなれば、人は「ためらいもなく高い橋の欄干を乗り越える」ことができるのだ。それは、とても深い深い絶望だったのだろう。愛する人たちがいればこそ、彼らに己で制御できない言動を見せたくなかったのかもしれない。

「マイ・ボディガード」では、絶望した元傭兵は南米の都市に住む金持ちの娘のボディーガードとして雇われる。彼にその仕事を紹介したのは、昔の仲間である。彼が絶望し死を望んでいることを知っている旧友は、彼に仕事を紹介することで再生させようとしたのだ。その仕事が9歳の少女の護衛だった。彼は自分に与えられた部屋で音楽を聴き、酒を飲み、オートマチックの拳銃の薬室に銃弾を装填し、銃口を己に向ける。

公開が8年前になる。撮影したのは10年近く以前のことになるだろう。その頃、トニー・スコット自身は自分が自殺することになるなど、想像してもいなかったはずだ。しかし、やがて死を選ぶことになる人間だったのだから、彼はデンゼル・ワシントンの自殺願望の演技をどう演出したのだろう。絶望した主人公の気持ちが伝わるシーンは印象的だった。今も甦ってくる。

「マイ・ボディガード」は主人公の絶望を観客に強く印象づけたからこそ、イノセントな少女によって主人公が再生していく過程に観客も喜びを感じるし、感情移入する。主人公と共に少女への愛を育む。主人公は屋敷のプールで少女に泳ぎをコーチし、少女が学校の競泳に出てトップでゴールしたとき、実の父親のように満面の笑みを浮かべる。彼は、愛する存在を得たのだ。この世に、ひとつの希望を見出した。少女の成長を見守るという希望を、生き甲斐を......

だが、ある日、少女は襲われ誘拐される。命をかけて闘ったにもかかわらず、主人公は撃たれて瀕死の重傷を負い、少女が連れ去られるのを遠のく意識の中で見る。回復した彼に少女の死が告げられる。己を鞭打つ自責の念、深い絶望と悔恨が彼を襲う。彼には、少女を殺した奴らへの復讐という新たな目的ができる。絶望から再起するまでがじっくりと描かれたから、何ものにも代え難い宝物を暴力によって奪われたときの、主人公の火を噴くような静かな怒りが観客に伝わるのだ。

●「人魚伝説」から26年後にロケ地で死を選んだ池田敏春監督

池田敏春監督に会ったのは、もう30年近く前のことになるだろうか。大学の先輩で役者をやっている河西健司さんの結婚披露パーティでのことだった。ミスタースリム・カンパニーというロック・ミュージカル劇団に所属していた河西さんのパーティには、様々な映画演劇関係の人たちがきていた。柴田恭兵、古尾谷雅人、その後離婚する宇津宮雅代と三浦洋一夫妻などである。

河西さんが初めて映画に出たのは、日活ロマンポルノ作品「女高生 天使のはらわた」(1978年)だった。そのときの助監督が池田敏春監督だ。僕が池田敏春という名前を刻み込んだのは、「天使のはらわた 赤い陰画」(1981年)を見たときである。凄い...と、僕は思った。力のある映画だと感心したし、暗いトーンの映像が斬新で、その才能を確信した。監督作としては、三、四作目だったと思う。

池田敏春監督のファンになった僕は、アートシアターギルドで制作したディレクターズ・カンパニー第一作めの「人魚伝説」(1984年)の完成を待ちかねて見にいった。原作は宮谷一彦のマンガで、宮谷ファンの僕はその長編マンガが気に入っていたこともある。海女の復讐譚をどのように映画化したのか、僕は期待した。主演は人気女優の白都真理で、体当たりの演技(要するにヌードを披露しセックスシーンがあるということだ)が評判になっていた。

「人魚伝説」は「天使のはらわた 赤い陰画」ほどには凄くなかったが、やはり才気は感じられたし、少しガッカリしたのは原作をかなり脚色していたことによるものだろうと僕は割り引いて考えた。水中シーンの多い作品だが、その水の使い方に工夫があり、どうやって撮ったのだろうと思わせるカットもあった。殺される夫が江藤淳、悪役が清水健太郎だった。

河西さんの結婚披露パーティで池田敏春監督を見かけたとき、河西さんに「紹介してくださいよ」と頼んだのはファンだったからだが、「人魚伝説」のあるカットつなぎについて訊いてみたかったのだ。腰にナイフをつけたヒロインが海に飛び込むと、次のカットで仇の屋敷のプールからヒロインが現れるシーンが印象に残り、その見事な編集に賛辞を伝えたかったのである。

紹介された池田敏春監督にそのことをミーハーなファンのように興奮してまくしたてると、監督は冷静に「そんな風によく言われるのだけど、実はあのカットの間に白都が海岸に上がるカットを挟んであるんですよ」と、僕の思い込みをただした。「えっ、そうでしたっけ」と僕は引っ込みがつかなくなり、「次作を待ってます」と取り繕うように言ったものだった池田敏春監督は、業界でも注目されていた。「人魚伝説」公開の年、角川映画は「湯殿山麓呪い村」(1984年)を池田敏春監督に依頼した。テレビスポットがひっきりなしに流れるような作品である。そのテレビスポットを見ながら、僕は「メジャー監督になったんだなあ」と感慨深いものを感じた。日活ロマンポルノから出た監督は多いが、ロマンポルノ作品自体はやはりマイナーだったのだ。

2010年の年末、池田敏春監督の訃報を知った。水死体が発見されたのは、12月26日だったという。行方不明だったというが、自殺なのは明らかだと聞いた。水死した場所は、「人魚伝説」のロケ地だったという。享年59。なぜ死んだのかはわからないし、人が死を選ぶ理由を他の人間(まして単なるファンだった人間)が推測できるはずもない。

●日本語には自決という覚悟を表現する言葉があるのだが...

日本語には、自ら死を選ぶ行為を様々に言い表す言葉がある。「自殺(自らを殺す)」という言葉が一般的だが、高校生の頃に読んだ大江健三郎の小説で「自死」という言葉を知った。「自死を選ぶ」という言いまわしだった。また、「自決(自ら決める)」という言葉には潔さのようなものを感じるし、「自裁(自ら裁く)」という言い方にも同じニュアンスがある。

山田風太郎の「人間臨終図巻」は奇書であり名著であるが、太平洋戦争にこだわる風太郎さんらしく日本の軍人の最期を多く取り上げてある。その中に「五十七歳で死んだ人々」として、安達二十三(あだち・はたぞう)という陸軍中将が紹介されている。彼はニューギニアに派遣され、3年間の悪戦苦闘の末に敗戦となり、オーストラリア軍に対し降伏調印を行った。

その後、戦犯容疑者140名と共にラバウル収容所に入れられたが、「80キロあった体重は別人のごとく痩せ衰え、しかも持病の脱腸の悪化にたえながら、部下とひとしく炎熱の下に天秤棒をかついで水を運び、野菜作りに励んだ」という人だったらしい。その間、法廷に立ち部下のために弁明したが、自らも戦犯として無期禁錮の判決を受ける。

彼は「軍司令官としての任務が終わり次第自決の覚悟をしていて、短刀と毒薬を用意していたが、短刀は発見されて没収され、毒薬はある機会から効目がなくなっていることを知った。それを知ったとき彼は少し当惑した顔をしたが、すぐに、『なに、人間、死のうと決めたら、どんな方法でも死ねると思うよ』と」言っていたという。

そして、裁判が終わり最後になった8人が釈放帰還されると通知を受けた後、「収容所で軍服姿で北方の日本に向かって端座し、錆びたナイフでみごとに割腹した上、みずからの手で頸動脈を圧迫するという異常な精神力をふるって死の目的を達した」と、抑えた筆致の中に山田風太郎は敬意を忍ばせる。そして、短文の最後で山田風太郎は、このように書いている。

──終戦直後の昂奮時ならともかく、二年を経て、おのれの責任を全うしたと見きわめてから自決したのはみごとというべきである。太平洋戦争敗戦にあたって、かかるみごとな進退を見せた日本軍の将校はきわめて稀である。

文庫本で2頁しかない短文だが、電車の中で読んだとき、僕は本を閉じ、しばらく天井を見上げた。馬齢を重ねて涙もろくなっていたからである。安達中将の遺書の一節が引用されていた。彼は死んでいった無数の将兵たちを悼み、「君国の為とは申しながら、其断腸の思いは、唯神のみぞ知る」と書き、「若き将兵と運命を共にし、南海の土となる」と続ける。彼が自裁とも言うべき死を選んだのは、死んだ傷兵たちへの強い想いからだった。

こうしたエピソードに、僕ら日本人は「潔さ」を感じ、立派だと思う。感動する。自分もそうありたいと願う。だから、トニー・スコット監督の自殺が出身国のイギリスや仕事の場だったアメリカでどう受け取られようとも、「生き恥を晒すより死を選んだ」ことに敬意を表したい。最後の監督作になった「アンストッパブル」も、死を賭して(ほとんど自殺行為だ)事故を防ごうとする職人機関士の物語だった。

池田敏春監督の死については、2年近く経ってもあまり情報もないし不明なことが多い。しかし、僕は自殺という言葉は使いたくないのだ。自らを殺す...というのがなじめない。自ら死を選んだのであって、殺したのではない。自分の死を選ぶ自由はあってもいいだろうと考えている僕としては、生死を自分で決める意味として自決という言葉で捉えたい。

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ひとりでいることに馴れ、自宅ではほとんど自室に籠もる。家族がいない休日がくつろげるという悲惨(日本のお父さんにとっては当たり前?)な状況になっている。これでリタイアして、一日家にいることになったら大変だなあ。自宅でストレスがたまってしまうぞ。

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