ショート・ストーリーのKUNI[126]お佐代さん
── ヤマシタクニコ ──

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もしも自分以外の人間が考えていることや思いが目に見えたら──と想像したことはありませんか。

ある女性はそれができたそうです。仮に、その人を「お佐代さん」としておきます。お佐代さんは昭和初期の生まれで、小学校卒業後に生家の近くにあった工場で働き始めました。

こつこつと働き続け、30歳になっても縁談もなく、自分は一生結婚もせず工場で働くのかと思い始めたころ、ひとりの男性と知り合います。新しくやってきた工場長でした。お佐代さんより14歳も上で、お佐代さんの言葉を借りると「特に好きというほどでもなかった」そうです。離婚歴があるということも気になりましたが、請われて結婚します。その、夫となったひとの思いや考えが見えたのだそうです。

見えたといっても、どんなことを考えているかがつぶさにわかるわけではありません。ただ、見えるだけなのだそうです。

あるとき、夫が縁側でただ黙って座っていたことがあります。結婚して一年余り後に子どもが生まれ、その子がまだ学校に行ってなかったころだと言います。背後から茶を持ってきたお佐代さんは、夫の頭の周囲がぼうっとにじんで、しかも輪郭の一部がいくつかのこぶを従えたかのようにふくらんで見えるのに気づきました。(なんだろう)と思いながら「お茶ですよ」と声をかけると夫ははっと振り向き、同時ににじんだような輪郭もこぶも、すうっと消えました。──気のせいだったんだ。

しかし、そうではありませんでした。




そのことを忘れかけた頃、新聞を読んでいる夫の頭のまわりに青みがかった銀色の小さな物体が漂っているのを見ました。物体は三つあり、右のこめかみから頭頂部にかけて、頭蓋すれすれのあたりをゆっくりと収縮しながら動いていたそうです。お佐代さんは一瞬息をのむほど驚きましたが、すぐに思いあたりました。──忙しいからだ。

お佐代さんは結婚と同時に仕事をやめましたが、夫は数年後には工場長としての実績を買われ、本社に栄転していました。忙しいながらもどこかのどかなところのある工場と違い、本社は気が休まることがない、といつも言ってたそうです。

「疲れたなあ」時々、ひとりごとのように、そうつぶやいたりもしていました。──夫の頭の中は仕事がいっぱいで、それがついにあふれ出てきたのだ。なんと痛々しいことだろう。お佐代さんはそう思いました。いや、そう思うことにした、というほうが正確かもしれません。

お佐代さんは夫に少しでも元気になってもらおうと、食事に気を遣い、夜は気持ちの良いふとん、朝にはアイロンのきいたワイシャツと、心をこめた弁当を用意しておくことを自分に課し、夫が余計なことに頭を悩ませないようにしました。

それが妻の役目だと思っていました。すでに両親も相次いで亡くなり、自分にはもう夫しかいないのだから、大切にしなければという気持ちもありました。お佐代さんの世話のせいか、それからしばらくは妙なものが見えることもなく、平穏な日々が続いていました。夫の仕事も忙しいながらも順調に回り始めたようでした。

ところがそれから何年かたったある日、夫の頭のまわりにまた見え始めたのです。今度は右耳の後ろから後頭部一帯にかけて、虫のように飛び交うものがいくつも。お佐代さんはそうっと手を近づけてみましたが、触れたように見えていても何の感触も得られません。

夫は何も知らず、テレビの中のタレントを見て笑っていました。
「はははは。ばかだなあ」
その様子はむしろ以前より楽しそうです。
動揺を隠しながらお佐代さんも一緒にテレビのほうを向いて笑いました。
「ほんと。ばかみたいねえ」

夫はお佐代さんが用意したワイシャツにネクタイを締め、お佐代さんの作った弁当を持って毎日きちんと出かけていきました。でも、その頭の周りには常にいくつもの、さまざまなかたちの物体が浮遊しているようになり、その数も種類も増える一方で、はじめの頃から比べると大きくなっているのも気がかりでした。

夜、家のテーブルで黙々と食事をしているときも、夫の首から上には鉛色やくすんだ朱色、灰色や黒に近い色などさまざまな色の物体がふわふわと漂っていました。大きさは小豆粒大からせいぜい消しゴムくらい。

たいていは小麦粉を練っていいかげんにちぎったようなかたちでしたが、中には機械の部品のような人工物めいたかたちのものもありましたし、足を何本も持った生き物のようなかたちのものもありました。

お佐代さんはただあきれ、半ば恐ろしいような気持ちでそれらに見とれました。
「おい」
はっと気づくと夫は空の茶碗を差し出していました。あわてて茶碗を受け取り、炊飯器のふたを開け、あたたかなご飯をよそって差し出すと夫は不審げに
「何を見ていたんだ」
そう言う夫の口元も、目も、絶え間なく動くいくつもの浮遊物にさえぎられ、目を合わせることがかなわぬほどだったそうです。

──何が起こっているのかわからなかったけど、とてもさびしい気がした。元々無口で何も言ってくれなかったのが、いっそう遠くなっていくようで。お佐代さんはそう言います。

夫が会社から休養を命じられたのはそれから間もないころでした。仕事にミスが多くなった、ということで、早い話が肩たたきでした。まだ50代でしたが。

夫は毎日家にいて、ただテレビを見ていました。いつも頭の周囲半径十数センチくらいの範囲にうごめくさまざまな物体を伴いながら。夫が立ち上がったり、横になったりすると、その物体たちもざららっと一瞬傾いたりばらけたりした後、また夫の頭の回りに集まるのです。

やがて夫は入院しました。日常生活で必要な服を着替えたり歯をみがいたりということもできなくなり、それだけでなく少しのことにも腹を立てて大声でわめき散らしたり、暴れたりするようになったからです。お佐代さんはずいぶん悩みましたが、そうせざるを得ませんでした。

ある日、お佐代さんが病室に行くと、もはや巨大な蚊柱のような無数の浮遊物に取り囲まれた夫の頭部から怒りを含んだ声がしました。
「遅いじゃないか、ようこ」

お佐代さんはどきりとしました。それは離婚した前妻の名前だったからです。
「ようこじゃないわ。私よ。佐代」
「佐代?」
「ええ」
夫は横を向き、不機嫌そうな声で
「知らないなあ」

お佐代さんは悲しみでいっぱいになり、涙がはらはらとほほを伝うまま、ぼうぜんと夫の頭部とそのまわりのものたちを見つめました。丸いこぶのようなかたちのものは子どものころの思い出だろうか。ぎざぎざとささくれだったかたちのものはつらい仕事の記憶だろうか。つやめいて美しくみえるのは何かの欲望か。濁った色をした、貝殻のようなものはなんだろう。

──こんなに見えているのに、何もわからない。

お佐代さんは、もうどうでもいいと思いました。そして、浮遊しているものたちの中に手を伸ばしてみましたが、やはり触れることができません。ため息をつき、思い切って夫の頭の上で大きく口を開け、ゆっくり動いているひとつをのみこんでみました。

いえ、のみこむような仕草をしたのですが、不思議なことに本当にそれはなくなっていたのです。お佐代さんはうれしくなり、もうひとつ、もうひとつ、と唇と舌を使ってのみこみ続けました。自分の顔の上で奇妙な動作をする妻を見て、夫は笑い出しました。

「何をしているんだい」

お佐代さんも笑い出しました。お佐代さんは夫の笑っている顔がとても好きでしたから。気が付くと、夫の頭の周りをふわふわとめぐっていたものは元の何十分の一かに減っていました。お佐代さんはひと仕事を終えた気分で夫に笑いかけました。でも、夫はもう何の表情も浮かべなくなっていました。二度と言葉を発することもありませんでした。

その後もお佐代さんは毎日病室に足を運びました。夫の顔のまわりではほんのいくつかが弱々しく、頭部からゆっくりと数十センチも離れたり、また戻ったりする緩慢な動きをくりかえすだけになり、それでもお佐代さんはものを言わなくなった夫の着替えや食事の世話を続けました。

なぜそんな話を知っているか、とお尋ねですか。

そう、お佐代さんは私の母であり、その夫は私の父だからです。もちろん、私に父の頭のまわりのものが見えたことはありません。そんなものが見えるのは、その人を深く知りたいと願ったひとだけなのでしょうか。それとも、母は私にも作り話をしていたのでしょうか。

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