データ・デザインの地平[23]個体単位システムが、日本を強くする
── 薬師寺 聖 ──

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●関係性を考慮しない絆礼賛は、他者の人生を捻じ曲げる

「絆」という一文字に、皆さんはどのようなイメージを持っているでしょうか。愛や友情といったポジティブなイメージのみを持つ人は幸いです。持ちつ持たれつの関係は有難いものです。

一方で、束縛や不自由といったネガティブなイメージを持つ人もいるでしょう。このネガティブな絆は、一方的な支援を助長させ、支援者ひいては社会を疲弊さる恐れがあります。

どちらも「絆」には違いありませんが、ポジティブな絆は「協力関係」の上に、ネガティブな絆は「依存関係」の上に築かれます。

両者の区別をつけない絆礼賛は、要支援者と支援者が依存関係にある場合、支援者に自己犠牲を強いる空気をつくりだしてしまいます。

その空気は、うつ病患者に対する「がんばれ」と同じ鞭です。「あなたしかいないのだから」「産んでくれたのだから」「血を分けたきょうだいでしょう」などと言われれば、支援者は「大丈夫」「がんばります」という答えを返す以外にないでしょう。

その結果が悲惨なものとなっても、第三者は「大丈夫、がんばります、と言っていたので、まさかこんなことになるとは...」と言うのです。

第三者と支援者が多対一の関係にあるとき、何気ない一言は積み重なって、時に、支援者の人生を捻じ曲げます。支援を優先した結果、「この少子化時代に」という非難を浴びながら、結婚せず、子を成さず、人生を終える支援者が増えていくでしょう。支援者が生を受けるまでに、何世紀もにわたって生命をつないできた膨大な数の祖先の人生の苦闘は、ないがしろにされてしまうでしょう。

絆の関係性が協力であれ依存であれ、これが昭和初期であれば、社会には受容するだけの器がありました。

なにしろ子供の数が多く縁戚や地域のつながりもあり、複数の支援者が、経済面・生活面(家事)・精神面(話し相手など)を分担して支援できたからです。仮に両親が病気になったとしても、長男が経済を、長女が家事を担うことが可能でした。

ところが今は、少子化と核家族化が進み、縁戚や地域のつながりも薄れ、経済面・生活面・精神面のすべてを一人の支援者が担うケースも少なくありません。電化製品やネット通販があるとはいっても、支援者の人生の時間が一日24時間であることは、昔も今も同じです。

支援を要する人々の存在が問題なのではありません。誰でも、出生前、出生後にかかわらず、不慮の事故や病気に見舞われる可能性はあります。支援のかたちが問題なのでもありません(*1)。

問題は、絆の美名のもと、特定の個人に対して無期限無償の支援を暗黙のうちになかば強制している社会と、それに適合するように構築されているシステムです。




●社会的弱者の定義を見直す必要性

絆の関係性を明確にするには、「社会的弱者」という言葉を再定義する必要があります。はたして社会的弱者とは、所得のデータの値の小さい人のことなのでしょうか?

命題の逆は必ずしも真ではありません。「AならばB」が真であっても、「BならばA」とは限りません。「社会的弱者は、所得の少ない人である」が真であっても、「所得の少ない人は、社会的弱者である」とは限りません。

たとえば、昨今増えている虐待で亡くなった子供の報道を思い出してください。彼らが、なんとか死を免れ成人して、働き始めたとします。一方、親は年老いて、生活費にこと欠くようになったとします。社会が子に対して「許して支援すること」をもとめると、改心していない親は「絆」を、依存を正当化する綱として使うとは考えられないでしょうか。

所得が少ない親は、データ上では経済的弱者でしょう。が、支援者たる子の人心を掌握して動かすという、特殊で高度なスキルを持つ社会的強者かもしれません。

一方、良心と罪悪感のために言動を支配されている支援者は、多くのヒトが持ち合わせているはずの「精神的な支配から逃れるスキル」を獲得できていない社会的弱者かもしれません。

どちらを社会的弱者と定義するのが妥当なのか......誰が明確な答えを持っているというのでしょう?

●リアルと法とシステムの不整合

さらに、社会的弱者の定義を複雑化する問題があります。それは昨今増えている、再構築される縁戚関係です。

リアルの現象が想定外の変化をすると、法と、その法に基づいて構築されるシステムが追い付いていかず、システムに蓄積されるデータは、リアルを表現するものではなくなってしまいます。

具体例をあげて説明します(説明用のフィクションです)。たとえば、二つのステップファミリーの世帯があるものとします。

世帯Aの構成員は、A子さん、A子さんと元夫B男さんとの子のA太さん、再婚相手のA男さんです。

世帯Bの構成員は、A子さんの元夫B男さん、再婚相手のB子さん、B子さんの子のB菜さんです。

世帯Aが困窮し、A太が実父B男に支援をもとめたとき、世帯Bは、どのような支援をすべきでしょうか? また、どのような支援が社会的に望ましいでしょうか?

両世帯の構成員のリアルでの面識や行き来、子の年齢、養子縁組の状況、職業も含めたさまざまなケースについて、それぞれの人物の心情を考えるのではなく、リアル、法、データにおけるつながりを考えてみてください。

もし、A太がA男さんと養子縁組をしていないならば、民法では、「直系血族及び兄弟姉妹は、互に扶養する義務がある。(民法第八七七条)」ため、実父B男はA太を支援します。

その結果、世帯Bの家計が苦しくなれば、「夫婦は同居し、互に協力し扶助しなければならない。(民法第七五二条)」ため、B子はB男を支援します。

が、B子にはA太の扶養義務はありません。また、世帯Bの構成員が、世帯Aの構成員A男を扶養または扶助する義務はありません。間接的には支援した形となったとしても。法の上での絆は、曖昧です。

では、システムにおける絆はどうかといえば、データ上では、B子の戸籍謄本の筆頭者はB男で、その謄本にはA太が含まれ、B子からA太を容易にたどることができます。

さいきんしばしば、DVあるいはモラルハラスメントにある夫婦の、被害者側の転居先情報の漏えい事件が発生しているのは、担当者の職務意識だけでなく、このようなリアルと法とデータにおける関係性の曖昧さに原因があるように思われてなりません。

現行の民法は、旧来の、死別しない限りは添い遂げる家族構成の上に成立しています。が、それは、現代日本の人間関係には必ずしも当てはまりません。

特定のヒトを支援者と定める方法は、もはや限界でしょう。絆の範囲の検討や絆の解除のために失われる膨大な時間とエネルギーを、生産的な活動に振り向けられるようなシステムに変えなければ、社会は疲弊する一方でしょう。

●世帯単位から個体単位のシステムへ

先に述べたように、社会的弱者が誰なのかという判断は、難しいものがあります。ならばいっそ、現在では一意なものとは、"常識的な意味での"ひとつの個体とされているのですから(*2)、一個体をひとつの単位とするシステムに変えていく方が妥当なのではないでしょうか。

たとえば、支援の義務の範囲を狭めて、同一世帯内での親と未成年の実子に限定し、成人になれば、親子であろうと兄弟であろうと社会を構成する一個体として扱い、困窮時には社会全体で支えるようにするなどです。

縁戚に要支援者がいないヒトにとっては、社会で支えるとなると、突然不利益が降りかかってくるように感じるかもしれません。が、長い目でみれば、支援者の良心と義務感に頼ったシステムでは、社会的な損失は増えるだけでしょう。

なぜなら、支援者が自分の人生を後回しにしたがための損失は、世代を追うごとに膨らんでいくからです。他者を支援しようとする良心を持つ者が子孫を遺さないことは、社会的な損失ではありませんか。もちろん少子化にもつながります。

もし、万が一我が国をリードするような優れた研究者候補の学生が、縁戚の経済支援のために、専門とは無関係な報酬のみ目当ての仕事に長年従事する状況になったなら、その損失ははかりしれないでしょう。

さらに、要支援者と支援者の二人で一人分の人生を生きたのでは、アクティブな人口は実際の人口より少なくなり、税収が減るのではないでしょうか。要支援者と支援者の関係は一対一ではなく、(生活面や精神面の支援についてはロボットの開発などを積極的に推し進めて)多対一にしなければ、経済は立ち行かなくなるのではないでしょうか。

社会のインフラを担うシステムの構造を、世帯単位のトップダウン型から一個体単位に変更し、各個体ノードが独立して成立するシステムに変更する必要があると考えます。

もっとも、そのようなシステム下にあっても、我々の多くは、ほんとうに困っている人を見過ごすことができません。支援の義務がなくなったからといって、我々が「助けたい、なんとか力になってあげたい」と思う心を失くすことはないでしょうから、ポジティブな意味での絆が失われる心配はないはずです。

絆の美名「のみ」を強調するのではなく、絆のプラスの面は強化し、マイナスの面は断ち切って社会全体で支え合う、個体単位のうえに成立するシステムが、いま必要とされているのではないでしょうか。

*1:幼い子供が親に甘える子供時代を送らず、親の生活面と精神面の支援をする「親子逆転」の形は、しばしば問題視されます。が、筆者は、個人にとっては必ずしも全てのケースでその形が問題となるわけではないと思っています。

なぜなら、時間が過去から未来へ流れているわけではないという観点では、親が子を世話することも、子が親を世話することも同じだからです。ただし、それが原因で子が孫を持たない場合、社会的には少子化問題につながるでしょう。

*2:技術進化によりヒト自身がデバイスとなった暁には、一意なものの定義はゆらぎます。
(本連載を参照)
第2回「そのデータは誰のもの?」
< https://bn.dgcr.com/archives/20110124140300.html
>
第3回「子ノード化する脳」
< https://bn.dgcr.com/archives/20110214140400.html
>
第4回「多重CRUDの脅威」
< https://bn.dgcr.com/archives/20110314140200.html
>)。
いずれは、存在(sein、読みは"ザイン"、ドイツ語で存在)の属性を定義するための世界標準仕様が必要になります。

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絵・音・詩・文・コードを扱うフリーのクリエーター、思索家。エンジニアリング会社を経てデザイン事務所に勤務後、XML1.0勧告翌月に退職して開業。科学技術や医療・福祉分野のXML案件を手がけながら、書籍や記事を多数執筆(PROJECT KySS名義)。現在は、受託業務から独自開発にシフト中。
Microsoft MVP for Development Platforms - Client App Dev (Oct 2003-Sep 2013)