映画と夜と音楽と...[571]未知のことには謙虚でありたい
── 十河 進 ──

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〈八甲田山/首/兄貴の恋人/弾痕/赤頭巾ちゃん気をつけて/初めての旅/小説吉田学校〉

●35五年間見ていなかった大ヒット作「八甲田山」

昨夜から手にした新田次郎の「八甲田山死の彷徨」を読み終えた。新田次郎の小説は、50年ほど前に「強力伝」を読んだだけである。新田次郎はその名を冠した文学賞があり、評価の高い小説家だ。僕は昔から気にはなっていたが、なぜか読む機会がなかった。いや、正直に言うと、記録文学と評されることが多く、あまり興味を惹かなかったのだ。それに寒い(文字通り極寒の)話が多い。

数年前、数学者の藤原正彦さんの「国家の品格」がベストセラーになったとき、「凄いなあ、母子揃ってベストセラー出して、父親は新田次郎だし......」と思った。新田次郎の本名は藤原寛人。終戦時、満州でソ連軍に抑留され、妻の藤原ていは女ひとりで子供たちを連れて満州から引き上げざるを得なかった。彼女はその体験を「流れる星は生きている」として出版し、戦後のベストセラーになった。

藤原正彦さんは、ていに連れられて引き上げてきた次男である。戦後、抑留から戻ってきた父親は直木賞を受賞して小説家になり、母親はベストセラー作家で人生相談などを引き受ける文化人になった。その次男はエッセイを書く数学者となり、「国家の品格」が破格のベストセラーになった。そんな家族もいるんだなあ、というのが僕の率直な感想だ。

ところで、なぜ僕が今頃になって「八甲田山死の彷徨」を読み始めたかというと、先日、新聞に「BS朝日で完全版『八甲田山』放映」と出ており、「一度、見ておくか」と思って見始めたところ、引き込まれるように釘付けになったからだ。見終わってからもすぐに、もう一度見たくなるほどの「映画の力」に久々に打ちのめされた。



僕は「八甲田山死の彷徨」がずっと気になっていた。その小説が出版されたのは昭和46年(1971年)のことで、朝日新聞に載った大きな書籍広告を憶えている。書き下ろし作品だった。映画化されたのは、1977年だ。鳴り物入りの大作で、大ヒットした。以来、森谷司郎監督は、大作ばかりを手がけるようになる。

僕が「八甲田山」を見ていなかったのは、若き日のこだわりだった。「網走番外地」「唐獅子牡丹」の高倉健は、70年代に入り「新幹線大爆破」「君よ憤怒の河を渉れ」と役柄を広げた。しかし、「八甲田山」「幸せの黄色いハンカチ」「動乱」と、大作映画や山田洋次監督のヒューマンな作品ばかりに出るようになり、裏切られた気分になった僕は「絶対見ないぞ」と誓ったのだ。

ファンの勝手な心理ではあるけれど、反体制派のヒーローが体制側に寝返った気がしたのである。同じ思いを、僕は「八甲田山」を撮った森谷司郎監督にも感じていた。「首」「兄貴の恋人」「初めての旅」といった社会派の力作や瑞々しい青春映画を撮っていた監督が、宣伝費ばかりを大量に使う大作映画かよ、明治の陸軍の話かよ、という気分があったのだ。

「八甲田山」は、公開時にテレビCMが頻繁に流れた。北大路欣也が演じる神田大尉が「天は、ついに我を見放したか」と、吹雪の中で絶望の声を挙げるシーンがひっきりなしに流れ流行語となった。見ていない人にも、それが史実の映画化であり、200人近くの兵隊が雪の中で死んでいく物語なのだと伝わった。しかし、見ていない人は高倉健はどんな役? 誰が主役? という疑問を抱いた。

「八甲田山」が大ヒットしたことも、僕が今まで見なかった理由だ。へそ曲がりの僕はベストセラー小説やヒットした映画に背を向ける傾向がある。マイナー好み、B級映画好きは昔からだ。しかし、遅まきながら「八甲田山」の迫力には、素直に「おそれいりました」と頭を下げた。「申し訳ございませんでした」と森谷監督に黙祷し、「健さん、ごめん」と精悍な高倉健に見惚れた。

●知らないものは大したモノではないと高をくくる傲慢さ

新緑や美しい紅葉に彩られた八甲田山と十和田湖のシーンにメインタイトルとキャスト・スタッフクレジットが重なり、日露戦争直前の青森旅団の官舎が映る。軍隊は旅団、師団、連隊、大隊、中隊、小隊と構成される。その部屋には師団長、連隊長、大隊長、中隊長たちがいて、熱弁を振るう大滝秀治が登場する。彼は師団の参謀長なのだろう。日露戦争を目前にして、雪中訓練の必要性を説いている。

この大滝秀治の長ゼリフが素晴らしい。口跡がよくセリフがよく聞き取れる。漢語の多いセリフなのになめらかに耳に入り、意味がすんなりと伝わる。このセリフだけで、なぜ無謀な八甲田山の真冬の踏破訓練が行われたか観客にわからせてしまう。簡にして要...、この言葉が当てはまるセリフだ。原作を脚色したのは「羅生門」や「砂の器」の名シナリオライター橋本忍。まさに名人芸......。

青森第五連隊と弘前第三十一連隊が呼ばれている。ふたつの連隊から雪中行軍隊を出し、雪の八甲田山ですれ違う計画を立てる。徳島大尉(高倉健)の第三十一連隊の雪中行軍隊は弘前から八甲田をめざし、神田大尉(北大路欣也)の第五連隊は青森から八甲田を踏破することになる。彼らは、共に優秀な指揮官であり、雪山への畏怖を抱き慎重な準備を進めようとする。

連隊同士を競わせるのは、軍隊の常套手段だ。中隊長である徳島大尉や神田大尉の直属の上司である大隊長たち(三國連太郎と藤岡琢也が演じる少佐たち)は、それぞれ相手に負けてはならないと檄を飛ばす。大佐クラスの連隊長(第五連隊長は小林桂樹、第三十一連隊長は丹波哲郎)は鷹揚に構えているが、それぞれ連隊の面目がかかっていると思っている。

神田大尉は雪中訓練の経験がある徳島大尉に教えを請うために、私的な訪問をする。そのシーンがあることで、後の雪中行軍の悲劇性が高まる。ふたりは胸襟を開き、共に知識を出し合う。徳島大尉は偏狭な軍人ではないから、少数精鋭にして準備は周到に...と、神田大尉に手の内を明かしてしまう。冬の八甲田の厳しさを知っているからである。

ふたりは、困難な使命を課せられたことを実感している。だから、会ったばかりでも互いに通じ合うものがある。共に相手を心配し、成功することを願っている。だが、そんな三十一連隊の計画を知っても大隊長は、こちらを油断させる作戦だろうと疑い、神田大尉の進言を拒否する。まだ映画は始まったばかりなのに、神田大尉の顔には悲壮感が漂いだす。

第五連隊の大隊長である山田少佐を演じる三國連太郎が、偏狭で頭の堅い精神主義の軍人の典型を創り出す。経験も知識もないのに、自己を過信する人間。知らないこと、未知のものに対して「どうせ大したことはない」と高をくくる傲慢な男だ。神田大尉や徳島大尉は、未経験のこと、未知のことに対して謙虚だ。周到に下調べをし慎重であろうとする。もっとも、世の中には山田少佐タイプの方が多い。

●こんなのが上司だったらやってられないと痛感した

僕は、以前、自分の机に「人は自分の知らないこと、経験したことがないことは、大したものでははないと軽んじる傾向がある」というギリシャの哲人の言葉を貼って戒めとしていた。どちらかと言えば、僕は知らないことや経験したことのないものに対して謙虚な方だと思う。何事も、なめてかからないようにしてきた。まず自分で経験してみて、あるいはよく調べてみて判断しようという人間だ。

だから、「八甲田山」を見ていて、山田少佐の愚かさに腹が立って仕方がなかった。三國連太郎がうますぎるせいでもあったけれど、「いるよなあ、こんな奴。こんなのが上司だったら、やってられないよ」と、神田大尉に代わって悔しい思いを噛みしめた。雪中行軍隊の指揮は神田大尉が執ることになっているのに、大隊長自らが出張ってくる。勝手に「前進」と号令をかけ、200名を死に追いやる。

徳島大尉の行軍隊は、30名足らずの編成だ。荷物も少なくし、防寒対策は念入りに行っている。弘前側から大きく迂回して、10日以上かかる日程を組む。地形を熟知している地元の案内人を立て、彼らを先頭に腰まで埋まるような雪の中を行軍する。万全の準備をして、計画を成功させようとする強い意志が徳島大尉にはある。それができたのは、彼がすべての決定権を持っていたからだ。

しかし、神田大尉には愚かな上官がいた。軍隊としてのメンツを重んじる山田少佐は、200人もの人数を擁する中隊編成にし、その人数をまかなうための兵糧や炭など多くの物資を積んだ橇隊まで連れていく。おまけに大隊司令部が同行することになり、指揮権が混乱する。山田少佐が実質的に号令をかけ、神田大尉は従わざるを得なくなる。

事前の下見のときに神田大尉が依頼していた案内人を、山田少佐は「奴らは案内料がほしくて、案内人がいなければ遭難するなどと言っておるのだ」とにべもなく切り捨てる。「地図と磁石があれば充分。軍隊が案内人など必要とするか」と、軍隊の権威を振りかざす。ああ、根性だけで困難を乗り越えろ、という軍隊の悪しき精神主義は、すでにこの頃から発芽していたのだと僕は嘆息した。

「八甲田山」は、3時間近くある大作だ。ほとんどは雪の中を兵隊たちが歩いているシーンである。しかし、目を惹きつけて離さない。こんなに単純な話なのに凄い、と僕は思った。それは、雪中を彷徨い多くの兵隊が死んでいく悲劇が描かれる一方、八甲田の踏破に成功する徳島隊の物語があり、極限状態の中で様々な人間の典型が描かれているからだ。徳島隊にいる兵卒(前田吟)と、神田大尉の従卒を務める弟の兄弟愛も描かれる。

キャストのクレジットで高倉健、北大路欣也に続いて、三番目に加山雄三が出た。しかし、加山雄三は第五連隊大隊司令部の倉田大尉として、出発前に山田少佐に名前を呼ばれてチラリと映るだけで、映画の半分が過ぎてもセリフさえない。と思っていたら、後半、猛吹雪の中で神田大尉を力付け、励まし、中心的な存在になる。彼は上官である山田少佐抑え、神田大尉を補佐する。確かに、こういう人物もいる、と納得できる儲け役だった。

●原作にほんの少しの感傷を加えて感動させる

映画を見て原作が読みたくなることは、僕の場合、あまりない。しかし、「八甲田山死の彷徨」が読みたくなったのは、これが史実に基づく物語だからかもしれない。新田次郎のことだから、登場人物全員にモデルがいるに違いない。もっと詳細な情報がほしくて、僕は原作を読んでみた。その結果、いくつか気になったことが解明された。

まず、軍隊の序列は絶対だとはいえ、指揮官である神田大尉が山田少佐の愚かな指揮に対しての異議を呑み込みすぎたのではないか、ということである。それが故に神田大尉の悲劇性は高まり、北大路欣也の血を吐くような絶望のセリフに涙してしまうのだが、200名の兵士の命が失われようとするとき、もっと自分の信念を通してもよかったのではないか、と誰しも思うのではないだろうか。

原作で、そこは詳細に説明されていた。当時、士官は士官学校を出た士族出身者がほとんどだったが、神田大尉は平民出身で教導団を出て軍曹から累進して大尉になったのである。兵卒たちから見ると努力して出世した英雄だが、エリートである士官たちからは下に見られる存在だった。優秀だから大尉にまで昇進したのだろうが、エリート士官たちの中では引け目を感じていたのだ。

徳島大尉も雪の八甲田の中で、「自分は陸軍教導団出であります、士官学校出ではありませんと、自らを卑下した言い方をした神田大尉の劣等感が、なにかの禍いにならねばよいが」と心配するのである。同じ苦労をしている人間として、徳島大尉は神田大尉を心配し続け、映画の中では凍死した神田大尉と出会い幻の会話を交わす。神田大尉は雪に埋もれながら、責任を感じ舌を噛み自決している。

原作を読むと、やはり徹底した取材に基づく記録文学で、現実的な厳しさが描かれていた。映画には、ロマンティシズムを掻きたてる甘さが加えられている。だからこそヒットしたのだ。まず、映画では春や夏や秋の美しい八甲田山や十和田湖の風景が挿入される。それは徳島大尉の子供時代の思い出であり、死んでいく兵士たちが見る幻である。そこに、重厚な音楽が重なる。

また、厳しくストイックな徳島大尉が見せる感傷がある。峻厳な峠を越えるとき、徳島大尉は地元の案内人を雇う。さわ(秋吉久美子)という若い農家の嫁だ。さわは、兵隊たちもついていけないほどの早さで雪の峠を登り切る。平地に降り案内が不要になり「案内人は後尾に」と部下が進言すると、徳島大尉は「そのままでいい」とさわを行軍の先頭にする(これは、原作とまったく逆で映画的脚色だ)。

「ここまできたら、大丈夫」とさわが村に帰るとき、徳島大尉は隊を整列させ「案内人殿に対し、かしらーみぎ」と号令をかける。兵士たちは一斉に捧げ銃をし、徳島大尉は不動の最敬礼で感謝と敬意をさわに表明する。去っていくさわの笑顔は、「八甲田山」における唯一の救いだ。秋吉久美子のアップショットは、かつて内藤洋子、酒井和歌子、森和代のリリシズムあふれるアップを撮った、森谷司郎監督ならではのワンカットだった。

●「八甲田山」を見ながら30数年前を思い出した

森谷司郎監督とは、一度だけお会いしたことがある。あれは、僕が今の会社に入って数年たったときだ。「小型映画ビギナーシリーズ」という8ミリの特集誌編集部にいたから、森谷監督は四季の風景を撮るために一年がかりで「八甲田山」を撮影していた頃ではなかっただろうか。その日、僕は「小型映画ハイテクニック・シリーズ」編集部の助っ人として狩り出された。

「小型映画ハイテクニック・シリーズ」は8ミリだけでなく、16ミリも扱う特集誌だった。「映画制作入門」といった、本格的な映像制作の方法をまとめた特集号も出していた。当時のT編集長の関係からか、東宝関係の人がよく執筆していた。黒澤明作品で有名な中井朝一キャメラマン、岡崎宏三キャメラマンの記事もよく載っていた。岡本喜八監督の絵コンテやインタビューが掲載された号もあった。

そのときは、森谷司郎監督の「初めての旅」(1971年)をテキストにして、誌上で映画作りについて講義してもらう予定だった。そのために「初めての旅」を試写室で上映してもらい、そのスクリーンを写真撮影するのである。すべてのカットを撮影しなければならないが、上映は一回限りだ。そこで二台のカメラで撮影することになり、僕が狩り出されたのである。

確か、銀座和光裏のフィルム・ライブラリーにあった試写室だった。僕は試写室の後ろ、映写窓のすぐ下で105ミリレンズを装着した35ミリ一眼レフカメラを三脚にセットし、三脚の足をガムテープで床に固定して動かないようにした。三列ほど前の椅子に森谷司郎監督が座り、改めて自作を見ることになった。上映が始まる前に、「大変だね」と監督から声をかけられた。

「初めての旅」は、好きな映画だった。森谷司郎という名前は「赤ひげ」(1965年)の助監督として憶えたが、初めて見たのは「首」(1968年)だった。酒井和歌子を見るために「日本の青春」(1968年)にいき、併映の「首」を見たのだ。僕は16歳、高校二年だった。続けて「兄貴の恋人」(1968年)「弾痕」(1969年)「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1970年)と見続けた。

好きな監督ではあったけれど、そのとき何を話したかは憶えていない。上映が終わって僕が何かを質問し、監督がそれに答えてくれた。そのときの森谷監督の表情は今も甦る。しかし、監督の取材は編集長が担当したので、僕はほとんど話してはいない。それでも、監督が53歳の若さでなくなったときはショックだった。遺作になった「小説吉田学校」(1983年)が面白かっただけに、とても残念に思った。

若い頃のこだわりで見ていなかった「八甲田山」を見ながら、そんなことを思い出した。見ていない映画に対して予断を下すのは傲慢だったな、未知のこと、未経験のことに対して謙虚だと自分では思っていたけれど、僕は見てもいない映画を嫌っていたのではないか、それでは冬の八甲田山を甘く見た、傲慢で愚かな山田少佐と同じではないか、と改めて自戒した。肝に銘じた。胸に刻んだ。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

今年最後のこの原稿は、12月15日に書きました。12月21日に配信予定です。僕の「映画がなければ生きていけない2010-2012」の見本は12月26日頃に届く予定です。年明け1月10日には、書店に並ぶことになっています。よければ、買ってください。ネット書店では予約受付中です。グリーンの表紙画像も出ています。

●長編ミステリ三作の配信開始→Appストア「グリフォン書店」
→以下でPC版が出ました。楽天コボ版、キンドル版も予定しています
< http://forkn.jp/book/3701/
> 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/
> 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/
> 太陽が溶けてゆく海

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