映画と夜と音楽と...[573]さよならをいって別れた友がいた
── 十河 進 ──

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〈ロング・グッドバイ/アスファルト・ジャングル/現金に体を張れ〉

●テリーとマーロウの関係は男同士の愛に見えるのか?

年明け早々の金曜日、久しぶりに新宿ゴールデン街「深夜+1」に顔を出した。新刊を届けるのと、日本冒険小説協会の古参会員である中田さんに一冊献本するためだった。8時の約束だったが少し早めに着き、カウンターに「映画がなければ生きていけない2010-2012」を置くと、カウンターの中からユースケくんが「またまた、ぶ厚いですね」と声を挙げた。

しばらくして中田さんがきて、「三巻目もまだ読み切れていないんだよ」と言う。「いいですよ、読まなくても...」と僕も笑いながら答えた。献本というのは、もらって迷惑なこともある。特に僕の本のようにぶ厚くて重いと、迷惑だろうなあとも思う。その夜にも話が出たけれど、一気読みしたのは亡くなった会長こと内藤陳さんくらいかもしれない。

久しぶりに顔を出した割には、はた迷惑も考えずに喋り散らしていると、カウンターのユースケくんが「これ、いいですよ」と「ロング・グッドバイ」のサウンド・トラックのcを掛けてくれた。「ld持ってるけど、プレイヤーが壊れてもう見られないんだ」と僕が言うと、「dvdは、出ていないんじゃないかな」と中田さんが言った。

その後、二時間もワイワイやっていたのだけど、その途中でなぜか映画館で痴漢に遭った話になった。中田さんも経験があるらしい。僕は18歳で上京したとき、当時、伊勢丹と明治通りを挟んだビルの地下にあった名画座でお尻を触られた話をし、「女の人と間違っているんだと思いました」と言うと、みんな笑った。その頃、僕はホモ・セクシャルとかゲイという存在を知らなかったのだ。




そう言えば、前回、五月の真夜中に「深夜+1」に顔を出したときは、隣にいたかなり酔った客に「ソゴーさん、奥さんいるんですか?」と訊かれ、「いますよ。子供もふたり」と答えると、カウンターの中にいたキクチくんが「えー、ソゴーさん、ずっと独身だと思ってました」と驚いた声を出した。もしかして、キクチくんは僕をゲイだと思っていたのだろうか。

確かに、数年前の内藤陳さんの誕生パーティのときに女装したキクチくんに、思わず「美人だなあ」と言ったことはある。まだ大学生のキクチくんは小柄で細面、鼻筋が通っていて少し吊りあがった目が涼しい。色が白いので、そのときの女装はよく似合った。作家の西村健さんが感心して「ヘンな気になるな」と冗談を言い、僕もつられて「美人だなあ」と口にしたのだった。

もしかしたら、あのとき以来、キクチくんは僕をゲイだと思っていたのだろうか。ゲイの人には何の偏見もないつもりだけど、自分がそう見られていたのだとすると何だか妙な気分だった。昔、一度だけ、夜の新宿で中年の勤め人風の男性に「ねえ、お茶、飲まない?」と誘われたことがあるが、あのときどう断れば相手を傷付けないかなんて考えたことを思い出した。

そんなことから、「ロング・グッドバイ」のフィリップ・マーロウとテリー・レノックスの関係は、現代から見るとまるでゲイのように見えるのかもしれないと連想した。「男同士が仲良くしていると、ホモだと言われるような世の中にいつからなった」と、「男おいどん」の主人公が嘆いていたが僕も同感である。もっとも、あのマンガでさえ40年も昔のことになった。

大人の男同士の友情は、相手に甘えないことで成立する。男女を問わず、愛情が、相手に甘えたい、相手のものになりたい、相手を自分のものにしたいという心理に傾くのとはまったく異なる。甘えない、迷惑かけない、頼らない。互いにそう思っているのだが、相手は自分のために命を賭してくれる。それが大人の男の関係だ。男同士の友情は、絶対的な信頼関係でしか成立しないきびしいものなのだ。

●男同士の出会いと友情の成立が30頁を費やして描かれる

レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」(清水俊二・訳)は何度も読んだ。最近では、村上春樹さんの新訳「ロング・グッドバイ」を読んだ。最初に読んだのは、10代半ばである。まだ、ホモ・セクシャルやゲイの存在を知らない頃だった。「長いお別れ」は、主人公の私立探偵フィリップ・マーロウがナイトクラブの入り口で、酔いつぶれたテリー・レノックスと出会うシーンから始まる。

テリー・レノックスは、マーロウに放っておけない気分にさせる悲しみを漂わせた男だった。酔いつぶれ、連れの金持ち女に置き去りにされ、ナイトクラブの駐車係にバカにされている男を、マーロウは自宅に連れ帰って介抱する。マーロウは自宅玄関の長い階段を、酔いつぶれて正体をなくした男を引きずりあげなければならなかった。なぜ、初めて会った(というより、見た)男にそれほど親切なのか。

目覚めたテリー・レノックスは浴室にいき、「眼を細くして私を見つめながら、いったい自分はどこにいるのかと尋ね」るのである。マーロウが場所を教えると初めて名乗り、自分のアパートの住所を告げる。そのテリーにコーヒーを飲ませ、マーロウはアパートに送る。テリーのアパートは、息が詰まりそうで、よそよそしく、人間が住んでいるところとは思えない。

マーロウは「唇をかみながら車を走ら」せ、「私はめったに心を動かされない性質だが、彼はどこかに私の心をとらえるものを持っていた」と語る。マーロウの心を動かす何かを......テリーが持っていたのだ。それが何であるかはわからないのだが、マーロウの中にテリー・レノックスという男が刻み込まれる。テリーを女性に設定すれば、まるで恋愛小説のような始まりである。

しかし、男同士のつきあいはセックスが介在しないことで、恋愛小説には発展しない。チャプター2では、マーロウは酔いつぶれて道端に寝ているテリー・レノックスを、ふたりの警官が逮捕しようとしている現場にいき遭う。マーロウはテリーを救い、タクシーに乗せ、再び自宅に連れ帰る。マーロウは「ほんとの親友さ。酔ってるんじゃない」と警官に言う。

ときどき(頻繁に?)酔いつぶれる僕にも、「こんな友人がいればなあ」と思わされる心温まるエピソードである。酔いつぶれたテリーの側からすれば、マーロウほど身に沁みてありがたい男はいない。彼は何の理由もなく、見返りも求めず、ただ見過ごせなかったから酔っぱらいを介抱し、自宅に寝かせ、アパートまで送ってくれる。二度しか会っていないが、ほんとの親友なのだ。

そんな風にして、チャプター4まで(文庫本で30頁ほど)はフィリップ・マーロウとテリー・レノックスが、どのようにして互いに友情を抱くようになったかが語られる。ふたりは、ときどき開いたばかりのバーでギムレットを飲むようになる。テリーがギムレットについての蘊蓄を語り、それは後半の「ギムレットには早すぎるね」という有名なセリフにつながる。

テリー・レノックスとの出会いと友情の成立は、マーロウの回想として語られる。だからこそ、そこに哀切な雰囲気が漂う。その後の悲劇の予感が、読者の心を震わせる。チャプター3は、「もし私が尋ねて、彼が話してくれていたら、二人の人間の命が助かっていたかもしれないのだ。かならず助かっていたとはいえないのだが」という思わせぶりなフレーズで閉じられる。

●どんなに権力に痛めつけられても友は売らない

エリオット・グールドがフィリップ・マーロウを演じた「ロング・グッドバイ(1973年)は、小説のチャプター5から始まる。映画が始まるとすぐ、くわえタバコで倦怠感を漂わせたフィリップ・マーロウが現れ、深夜に飼い猫のためのキャットフードを買いにいく。エリオット・グールドは異色のマーロウだが、都会生活者のひとつの典型を造り上げている。

映画版はマーロウとテリーの友情の成立はまったく描かず、猫を相手に独り言を言っている孤独なマーロウの生活と、金持ち風のテリーの対比からスタートするのである。テリー・レノックスは拳銃を片手にマーロウの自宅に現れ、自分をメキシコまで送ってくれと言う。原作を読んでいない人が見ると、テリーとマーロウがどういう関係なのか、よくわからないだろう。

しかし、映画版を原作から離れた眼で見ると、実に魅力的なオープニングだ。スーパーマーケットでキャットフードを探すマーロウ。高級住宅地からスポーツカーを出すテリー・レノックス。夜のハイウェイを車のライトがいき交う。「ザ・ロング・グッバイ...」と、太い声で歌う音楽が流れる。スクリーンから独特のニュアンスが漂い始める。

マーロウがメキシコ国境を越えてテリー・レノックスを送って帰ってくると、ふたりの刑事が待っている。このシーンはよくできていて、映画を見た後、何度も原作を読み返したが、そのつど映画のシーンが甦った。70年代前半の映画である。エリオット・グールドのマーロウはあくまで反権力であり、警察には徹底的に逆らうのである。

この後、原作では金持ちの妻を殺したテリーの逃亡を幇助したことで逮捕された、マーロウの取り調べと留置所の場面が続くのだが、そこで強く印象づけられるのはマーロウとテリーの友情である。もちろん、ハードボイルド小説であるから、べたべたとは書いていない。しかし、痛めつけられ留置所に入れられても、マーロウが口を割らないのはテリーのためなのだ。

──ぼくは彼のためにここにいるんじゃない。自分のためなんです。何も不平は言わない。ぼくの商売がなりたっているのは、何かで困っている人間がいるからなんです。事情はいろいろちがっても、警察には持ってゆけない理由があるからなんです。警官のバッジをつけたごろんぼうにとっちめられて降参したとわかったら、だれが仕事を頼みにくると思うんです。

マーロウは接見にきた弁護士にこんなことを言うが、本当は「友は売らない」という己のルールを守っているのだ。友人が殺人者だったとしても、権力に売り渡すことはできない。そのマーロウの心情を代弁するのが、新聞記者のロニー・モーガンだ。テリーが妻殺しを告白した遺書を残してメキシコで自殺し、釈放されたマーロウに「自宅まで送ろう」と申し出たモーガンは別れ際に言う。

──さよならをいって別れた友だちが一人いたはずだぜ。彼のために豚箱に入っていたとしたら、それこそほんとうの友だちだったはずだ。

●犯罪映画の名作群に出演した往年のスターを起用した

友の死を知ってもエリオット・グールドは常にポーカーフェイス、ほとんどのシーンはくわえタバコで表情を変えない。もちろんそれが狙いの小道具としてのくわえタバコなのである。だが、彼が友の死を悲しんでいるのはわかる。心の底で深く悲しんでいるのだ。ハードボイルドが多情多恨を裡に秘め、何でもないという表情を通す「やせ我慢」だとすれば、実に適切な描き方である。

テリー・レノックス事件が彼の自殺で都合よく終結した後、マーロウは原作で「夢の女」と形容される美人から「行方不明の夫を捜してほしい」と依頼される。夫のベストセラー作家のロジャー・ウェイドはアル中で、ときどき行方不明になる。妻のアイリーン・ウェイドを演じたのは、ニーナ・バン・パラントという女優だった。僕はこの映画でしか見ていないが、サラサラした長い金髪が印象的な人だった。

作家を演じたのは、スターリング・ヘイドンである。ジョン・ヒューストン監督の「アスファルト・ジャングル」(1950年)とスタンリー・キューブリック監督の「現金に体を張れ」(1956年)という、ハリウッド犯罪映画史上に燦然と輝く名作に主演したスターである。初めて「ロング・グッドバイ」を見たとき、この配役はアルトマン監督のこだわりだろうと思った。

「アスファルト・ジャングル」は、宝石強盗を企む男たちの物語である。情婦役でほんの少し出演する、デビュー当時のマリリン・モンローが見られることでも知られている。「現金に体を張れ」は競馬場の売上金を強奪する男たちの物語で、こちらは登場人物たちの同じ時間の行動が、視点を変えて何度も描かれる手法を確立したことで知られている。

もちろんスターリング・ヘイドンが何者か知らずに見たって面白いが、そんな出演暦を持つスターリング・ヘイドンが作家を演じることで、映画はまた独特なニュアンスを醸し出す。「どうでもいいけどね...」という感じで演じているエリオット・グールドのマーロウと、作家らしい貫禄を出すスターリング・ヘイドンのやりとりは本筋とはあまり関係ないが、原作のテイストが感じられるシーンだった。

背景になる、作家の海辺の自宅が素晴らしい。アメリカではプライベート・ビーチが認められているから、ときどきこんな海辺の家が登場する。ガラス張りのリビングから出ると陽光あふれるテラス、テラスを降りるとサラサラとした白砂のビーチ、そのまま波打ち際へ続いている。初めて見た大学生のとき、「あんな家に住みたいなあ」と憧れた。この映画を見たくなる理由のひとつに、あの家がある。

●賛否両論が噴出した「ロング・グッドバイ」のラストシーン

映画版「ロング・グッドバイ」がチャンドラー・ファンの間で物議を醸すことになったのは、マーロウ像の受け取り方の違いもあるけれど、主にラストシーンの改変が理由だった。賛否両論というより、否定的な意見が多かった。公開当時、僕もそう思ったひとりだ。これでは「ギムレットには早すぎるね」というセリフが言えないじゃないか、と多くのチャンドラー・ファンは思ったことだろう。

ちょうど今、昨年暮れに村上春樹さんの新訳で出たチャンドラーの長編第一作め「大いなる眠り」を読んでいるところだが、長編の全訳をめざすほどのチャンドラー・ファンであり、映画好きである(それも私立探偵ものの名作「動く標的」がお気に入りの)村上さんの「ロング・グッドバイ」評を訊いてみたいものだ。あの、ラストはどう思います? 村上さん。

高かった頃のレーザー・ディスクを買い込むくらいだから、もちろん僕は「ロング・グッドバイ」は気に入っている。しかし、さっきも書いたようにラストは納得いかなかった(車に乗ったマーロウとアイリーンがすれ違うラストシーンは気に入ったけれど...)。ところが、何度か見ているうちに、この映画はこう終わるしかないのではないかと思い始めた。

マーロウとテリー・レノックスの関係は、互いに甘えない大人の付き合いだ。自立した大人たちが交わす友情は、「おまえと俺は親友だ」などと言い合う必要はない。開いたばかりのバーのカウンターに並んで腰を降ろし、カクテルのレシピについて話すだけでわかり合える。「金があるんだ。だれが幸福になりたいなんて思うものか」とつい自嘲しても、聞かなかった振りをしてくれる。

暗黒街映画ばかり作ったフランスの映画監督ジャン=ピエール・メルヴィルが言ったように、人生は愛と友情と裏切りという三つの要素でできている。友情には、裏切りがある。友は売らない、裏切らないのがマーロウの生き方だったが、それは必ずしも友情を抱いた相手にも通じるルールではなかった。そう考えたとき、無表情を続けるエリオット・グールド演じるマーロウの心情が僕には理解できた。

彼は、許せなかったのではない。怒りに駆られたのでもない。友人としてのルールを破ったことを、相手に理解させたかったのだ。謎解き映画だから詳しくは書けないが、映画版が描いた物語の最後としては、あれ以外になかったと今の僕は思う。原作と映画は違うし、あのように始まった物語はオリジナルの結末にするしかなかったのだ。大人の男の友情はきびしいもの......そう身に沁みた映画だった。

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寒い日が続いています。成人の日も冷たい雪が降り続け、気の毒だなあと思いながら窓の外を眺めました。僕には成人の日の記憶が全くないことに、そのとき気付きました。あの日、何をしていたのか? たぶん四畳半の下宿でいじけていたんだろうなあ。

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