[3413] ニューヨークに憑かれた作家の死

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《異空間にセーラー服を着たおっさん》

■映画と夜と音楽と...[575]
 ニューヨークに憑かれた作家の死
 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[575]
ニューヨークに憑かれた作家の死

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20130201140200.html >
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〈国際諜報局/ハリー・パーマーの危機脱出/10億ドルの頭脳/Tommy トミー〉

●大島渚監督の告別式の記事の横に常盤新平さんの死亡記事

毎回、死亡記事から始めるのは芸のない話だが、昨年末から気になる人が続けて亡くなった。佐藤允さんの死もエッと思ったが、年明けには大島渚監督が亡くなった。昨年、小山明子さんが出した本で闘病生活をしている大島渚監督についていろいろ知った。若き日の恋愛中の話や家庭での大島監督の素顔は、夫人ならではの愛情にあふれる描写だった。10代から見続けてきた監督だ。好きな映画もあるし、心に残る映画もある。

その大島渚監督の告別式の記事が朝日新聞に出たが、その記事の横に写真入りで常盤新平さんの死亡記事が載っていた。81歳だった。そうか、僕とは20歳の違いがあったのだ、と思った。常盤新平さんの名前を初めて見たのは、1965年のこと。中学2年生の9月初旬だった。僕は、まだ13歳である。あのとき、常盤新平さんは34歳の若さだったのかと、遠い昔、初めてEQMMを買ったときを甦らせた。

EQMMとは「エラリィ・クィーンズ・ミステリ・マガジン」の略称である。その日本版が、昔、早川書房から出ていたのだ。僕が初めて買ったのは1965年9月号だった。その年の12月号で「エラリィ・クィーンズ・ミステリ・マガジン」は終わり、1966年1月号から「ハヤカワズ・ミステリ・マガジン(HMM)」に誌名が変わった。現在は、単に「ミステリマガジン」となっている。

「エラリィ・クィーンズ・ミステリ・マガジン日本版」の初代編集長は都筑道夫さんであり、2代目が小泉太郎さんだった。小泉太郎さんは退職して生島治郎と名乗り「傷痕の街」を出版した。続いて「死者だけが血を流す」「黄土の奔流」を書き、「追いつめる」で初の直木賞を光文社にもたらせた。後に離婚したのだが、夫人だった小泉喜美子さんはそのままの名前を使い「弁護側の証人」で作家になった。

僕が初めてEQMMを買った頃、生島治郎さんの「黄土の奔流」が評判になっていた。ほんの2、3年前までは小泉太郎さんが編集長で、常盤新平さんが引き継ぎ三代目編集長になった。その頃の僕は雑誌の編集長に漠然と憧れていたから、「編集人=常盤新平」と出ていることを無前提的に尊敬した。凄い人なのだと思った。後に、常盤新平さんも早川書房を退職。翻訳家・エッセイストとして活躍し、自伝的な小説「遠いアメリカ」で直木賞を受賞する。

僕の本棚に数10年前から「ニューヨーカー短編集」(早川書房・刊)という3巻本が並んでいる。背幅が3センチはあるだろうか。3巻並ぶと10センチほどのスペースを占める。その中に掲載されている僕の大好きなアーウィン・ショーの短編「80ヤード独走」は、常盤新平さんの訳である。もちろん「夏服を着た女たち」も訳している。僕好みの本をいっぱい訳してくれた人だった。

常盤新平さんのエッセイも、ずいぶん読んだ。アメリカ(というよりニューヨーク限定か)についての様々な雑学は、常盤新平さんのエッセイで学んだ。常盤さんはニューヨークに憑かれているようだった。アメリカの雑誌や編集者についての知識は、ほとんど常盤さんの本から吸収した。やがて常盤新平さんは小説を書き始めるのだけれど、エッセイとほとんど文体が変わらなかった。

直木賞受賞作「遠いアメリカ」は、若き日の自分を描いた作品だ。岩手県に生まれ、田舎育ちのコンプレックスを抱えて遠いアメリカに憧れる青年。昭和30年代である。早稲田大学英文科の学生だったが、アメリカは遠かったことだろう。その小説を読んだとき、昔、エッセイでも同じようなことを書いていたなあ、と思ったのを憶えている。エッセイでは「私」とか「僕」といった主体を示す言葉をほとんど出さなかったが、小説も同じように書いていた。

●初めて買ったEQMMに載っていた様々なことに影響された

初めて買ったEQMMには、レイモンド・チャンドラーの中編「カーテン」が一挙掲載になっていた。長編第一作の「大いなる眠り」を先に読んでいたのかどうかは憶えていないが、「ああ、これが原形だったのね」と僕は思った。ただし、「カーテン」の書き出しは、「長いお別れ」の冒頭に似ている。チャンドラーは、中編をいろいろつなぎ合わせて長編に仕立てたのである。

長編の短期連載は、ジョルジュ・シムノンの「メグレと若い女の死」だった。3回にわたって連載され、後にハヤカワ・ポケットミステリの新刊として出た。この小説が僕が初めて読んだメグレ警視シリーズだ。何となく大人びたパリの雰囲気描写が印象に残っている。「無愛想な刑事」と呼ばれるパリ警視庁の刑事が出てきたと記憶しているが、その人物に対するメグレの態度が理解できなかった。13歳では無理だったのかもしれない。

レスリー・チャータリスの「セイント・シリーズ」もEQMMで初めて読んだ。「セイントと因業家主」という短編だった。セイント(聖者)を名乗る泥棒サイモン・テンプラーが主人公のミステリである。テレビで「セイント・シリーズ」が放映されていた頃だったろうか。テレビ版では、後に007ジェイムズ・ボンド役を務めるロジャーロムーアがセイントを演じた。

早川書房の社告頁もあり、当時はショーン・コネリー主演のジェイムズ・ボンド・シリーズが大人気だったことから、007シリーズの出版広告に一頁使われていた。「ゴールドフィンガー」が「ユナイト映画化」と出ているから、日本での公開前だ。最新刊は「黄金の銃をもつ男」だった。作者のイアン・フレミングはまだ存命で、新作が待たれていた。48年後の現在も007の新作映画が公開されているとは、イアン・フレミングも想像できなかっただろう。

大人向けの映画紹介を読んだのもEQMMが最初である。それまでは「明星」「平凡」といった芸能誌、「中二コース」「中二時代」といった学習誌での映画紹介記事しか読んだことがなかったのだ。EQMMには「EQMM5番館」という映画紹介コラムがあり、筆者は大伴昌司さんだった。9月号でとりあげられていたのは、「イプクレス・ファイル」「クマゴローの大冒険」「怪談呪いの霊魂 怪異ミイラの恐怖」「妖女ゴーゴン」「キスカ」の5本だった。

映画紹介では「イプクレス・ファイル」のタイトルで紹介されていたが、それは邦題を「国際諜報局」(1964年)と付けられ、その秋に公開になった。EQMMの表紙裏(業界で表2と呼ぶ広告スペース)に「国際諜報局」の広告が掲載されており、「暗殺!誘拐!二重スパイ! 霧深いロンドンの闇をぬって暗躍する国際スパイ網の疑惑を追う男......」とあった。

その広告の下半分にサングラスをかけた男の目の部分だけがアップで敷かれ、サングラスの片方に黒縁の眼鏡をかけコートを着た男がマシンガンを持って立っている姿が映っている。男はやや下からのサイド光(相手の車のヘッドライトだろう)を受けて怪しげな表情になっている。何となく期待させるシーンだった。その下に「マイケル・ケイン主演」と刷られている。僕は初めてマイケル・ケインの名を知った。

●マイケル・ケインは30年のときを経て同じ主人公を演じた

自転車で高松市中央町へ「国際諜報局」を見にいったときのことは、今でもよく憶えている。当時はスパイものが大流行で、007シリーズの大ヒットに続けと「電撃フリント・シリーズ」(ジェームス・コバーン主演)や「部隊シリーズ」(ディーン・マーチン主演)などが公開されていた。どの主人公も超人のように強くて、美女にモテモテだった。おふざけが過ぎて、今見るとアホらしくなるほどだ。

しかし、60年代半ばの中学生である。シリアスなスパイものを理解するには、まだ社会的な経験も知識もなかった。「寒い国から帰ってきたスパイ」の翻訳本が話題になり、東西冷戦時代のシリアスなスパイの世界を描いたと評判だったが、冷戦という認識が14歳になろうとしていた僕にはなかった。ベルリンに壁ができたことは知っていたけれど、都市の中に壁があるのがうまく想像できなかった。

しかし、背伸びをしたい年頃だ。ハヤカワ・ノヴェルズで出ていたレイ・デイトンの「イプクレス・ファイル」を買い、それを読んでから僕は映画を見た。原作は「わたし」という一人称の語り手が主人公で、どこにも名前が出てこない。彼は眼鏡をかけ、ちょっと太り気味のしょぼくれた男である。作者によると「なぐられたときの彼の反応は、わたし自身とそっくり。床に倒れてそのままなぐられている」男だった。

映画化作品を見たときに意外だったのは、主人公に名前が付いていたことだった。ハリー・パーマーという名前だ。この名前は、マイケル・ケインが有名スターになるにつれ、彼自身と同化し、30年にわたって演じることになったキャラクターである。黒縁眼鏡で太り気味、身体能力も劣っていそうな英国スパイだ。マイケル・ケインには代表作は数々あるが、今はカルトムービーになった「国際諜報局」もそのひとつである。

レン・デイトンのスパイ小説は「わたし」という主人公が語るので、シリーズものなのかどうかはわからない。初期の数本は同じ主人公らしいが、そのことが重視されているわけではない。しかし、映画化はマイケル・ケインを使い「ハリー・パーマー・シリーズ」として公開された。3作目の「ベルリンの葬送」を原作とした「ハリー・パーマーの危機脱出」(1966年)、「10億ドルの頭脳」(1967年)と次々に制作された。

また、30年近い時間をおいて1994年に「国際諜報員ハリー・パーマー 三重取引」「国際諜報員ハリー・パーマー Wスパイ」がテレビ・ムービーとして制作され、日本ではWOWOWで放映された。さすがにマイケル・ケインも年をとり、動きは鈍くなっていた。元々、アクションで見せるシリーズではないが、それにしても30年後に同じ主人公を演じるのは無理があったのではないだろうか。もっとも、僕は懐かしさに包まれて見ていたのではあるけれど......

●ケン・ラッセル監督の気負いが感じられる「十億ドルの頭脳」

「国際諜報局」で印象的なのは、誘拐されていた原子力科学者を買い戻すシーンだ。地下駐車場に2台の車がやってきてヘッドライトを点滅させ、マシンガンを持った男たちが車の両脇に立つ。札束入りの鞄と科学者が交換される。そのシーンはライティングに凝っており、陰翳がゾクゾクする雰囲気を作っていた。セリフはなく、緊張感が漂う。その後、似たようなシーンはずいぶん見たが、あの映画のシーンは今も甦ってくる。

ハリー・パーマーが敵方につかまり、洗脳マシンの中に入れられて、当時としては斬新な光の点滅と音によって洗脳されるシーンも憶えている。「洗脳」という言葉を僕は「国際諜報局」で初めて知った。「アイム・ハリー・パーマー」と言い聞かせ、主人公は洗脳に抵抗しようとする。今見れば陳腐かもしれないが、中学生の僕に強い印象を与えた映像だった。

「ハリー・パーマー・シリーズ」で評判になったのは、3作目の「10億ドルの頭脳」である。原題も語呂がよくて、「ビリオン・ダラー・ブレイン」という言葉が僕の頭の中にこびりついている。カトリーヌ・ドヌーヴのお姉さんで「10億ドルの頭脳」が遺作になったフランソワーズ・ドルレアック、「わらの犬」(1971年)でダスティン・ホフマンの妻を演じる以前のスーザン・ジョージが見られる貴重な作品でもある。

「10億ドルの頭脳」の監督はケン・ラッセルだ。後の作品群から僕は「変態監督」と名付けているが、このときはテレビ界から転身した監督2作目だった。実質的なメジャー作品の監督デビューは、この作品である。ちなみに僕が彼を「変態監督」と呼ぶのは、親近感とリスペクトを込めてであることを断っておきたい。性的な世界に挑戦したケン・ラッセルはどんどん深みのある作品を作り、耽美的かつ不可思議な世界に入っていく。その才能は尊敬に値する。

「10億ドルの頭脳」のときは、「目にもの見せてやろうじゃないか」といういい意味の気負いがあり、斬新な映像を作り出してくれる。音楽にも関心が深いケン・ラッセルは、マーラーやチャイコフスキーを主人公にした作品を制作し、その後「Tommy/トミー」(1975年)という不滅のロック・ミュージカルを作り出すが、斬新な音と映像がケン・ラッセル作品の真骨頂だった。

●常盤新平さんと小林信彦さんと生島治郎さんのつながり

常盤新平さんはアメリカのサブカルチャー、小説や雑誌、出版社、編集者、それにギャングやマフィアについてはいっぱいエッセイを書いているが、映画について書いた文章は記憶にない。同世代であり、同じようにミステリ誌編集長として出てきた小林信彦さんとは対照的である。年齢は常盤新平さんの方が2学年上らしいから、小林信彦さんにとっては早稲田大学英文科の先輩になるのであるまいか。

生島治郎さんの「浪漫疾風録」は自分以外が全員実名で登場する自伝的小説だが、その中でEQMM編集長のところに、ライバル誌である「アルフレッド・ヒッチコックズ・ミステリ・マガジン(AHMM)」を創刊した中原弓彦編集長が挨拶にくる場面がある。中原弓彦と会った主人公は「何だ、小林じゃないか」と言う。生島治郎こと小泉太郎は、中原弓彦こと小林信彦と早稲田の英文科で同級生だったのだ。ふたりの少し上に常盤新平も在学していた。

60年代から映画評や書評を書いている小林信彦さんだから、どこかで「国際諜報局」について書いているのではないかと、「地獄の映画館」「われわれはなぜ映画館にいるのか」などを調べてみたのだが見付からなかった。原作については、「地獄の読書録」の中で「レン・デイトンの登場」という文章があった。当時、レン・デイトンはジョン・ル・カレと同じくらいの評価だったのだ。

そんなことを調べていたら、昔読んだ小林信彦さんの「1960年代日記」を思い出し本棚から探し出した。それは、1965年3月2日の記述だった。小林信彦さんは山川方夫の追悼文をEQMMから頼まれて送るが、一週間経ってゲラを確認したいと電話をしたら、相手が「編集長がモンダイがあると言っていたようで」と口ごもる。

編集長とは常盤新平さんだ。電話に出た常磐さんは、小林信彦さんの追悼文の中に出てくる「『週刊朝日』の仕事があったので...」という一文を取り上げ、「朝日新聞社関係の仕事をしているのを誇っているように見える」という。結局、「週刊朝日」を「週刊誌」と変えるのだが、小林さんは「驚いたのは、人の死についての文章で、まず、そういう〈感じ方〉する神経だ」と書く。この日記では、他にも辛辣に書かれている人は多いが、常盤新平さんも小林信彦さんも愛読してきた僕にとっては、少しショックだった。

このくだりは僕の裡に残り、自分が文章を書くときの戒めとなった。文章で「自慢しない、偉そうにしない、誇らない、人を傷付けない」というルールだ。もっとも、本人はそんなつもりはなくても、受け取る人は様々だから、僕の文章が自慢たらしいと思う人もいるかもしれない。そう言えば10年以上前になるけど、読者の方からそんなメールをもらったことがあった。なるべく気を付けているのですが、もしそう受け取られたのなら「ゴメンなさい」と言うしかありません。

ところで、このとき小林信彦さんが追悼文を書いた山川方夫さんは、自動車事故で急逝した新進作家で、僕が初めて買ったEQMMに「トコという男」が早川書房の近刊として告知されている。彼の事故については後輩の作家だった坂上弘さんが自伝的な小説「故人」で詳しく書いている。山川方夫さんはシャレたミステリアスな短編(ショートショート)を数多く書いた人で、僕は「親しい友人たち」という作品集冒頭の「待っている女」が記憶に刻み込まれている。

それにしても、人と人は様々なつながりがあるものだ。常盤新平さんは山口瞳さんを師とあおぎ、競馬や将棋が好きだったという。ニューヨークに憑かれた作家の意外な一面だ。常盤新平さんが編集長時代のEQMMには、リング・ラードナーやデイモン・ラニアンといった都会的で軽いユーモア小説もよく掲載されたし、雑誌「ニューヨーカー」掲載の短編も転載された。僕が中学生の頃からアメリカ−現代文学を読むようになったのは、間違いなく常盤新平編集長の編集方針のおかげである。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

ブクログやツイッターで「映画がなければ生きていけない」4巻目を「待ちわびた」とか「3年が待ち遠しかった」と書いてくれる人がいて、それはとても嬉しい。しかし、それって本だけの読者なのだろうか。最近は、メルマガではなくデジクリサイトで読む人が増えているようだけど...。

●長編ミステリ三作の配信開始→Appストア「グリフォン書店」
→以下でPC版が出ました。
< http://forkn.jp/book/3701/ > 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/ > 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/ > 太陽が溶けてゆく海

●第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」受賞 既刊4巻発売中
「映画がなければ生きていけない1999-2002」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2003-2006」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2007-2009」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2010-2012」2,000円+税(水曜社)

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「1999年版 天地創造編」100円+税
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不審人物扱い?! セーラー服着て赤坂へ

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おっさんがセーラー服を着て歩くのに、いちばん場違いなところと言ったらどこだろう? って、まあ、どこでもそうなんだろうけど。例えば、罰ゲームかなんかで、もう想像しただけで身も縮まるくらいのありえない場所を選定するとしたら? パリのシャンゼリゼ通りも歩いたし、テレビにも映ったし、エスカレートするにも手詰まり気味な感じもしていたワタシであるが。

友人から、結婚披露宴の二次会にお呼ばれした。場所は、赤坂にあるホテルニューオータニ内のレストラン「Gun-Ship」。ホテルニューオータニといえば、私の中では超高級ホテルとのイメージが定着している。はたして入れてくれるだろうか。ドレスコードとか、なかっただろうか。この格好が私の盛装なんですなんて屁理屈を携えていって、まかり通るものかどうか。ちょっとわくわくしますわな。

●駅前留学仲間として二次会にお呼ばれ

友人の○黒さんは、かつて「駅前留学」をキャッチコピーとして掲げる英会話学校Novaで切磋琢磨しあう学友として、長いなじみであった。切磋琢磨というか、申し合わせなくても土曜の夜にはたいていいて、9時にNovaが閉店となると、放課後はたいてい飲みに行き、その後はたいていカラオケに行き、しばしば朝まで。考えてみると、NovaでよりもNovaの後で過ごした時間のほうが長かったのではなかろうかという仲間の一人である。

○黒さんには、デジクリのこのコラムで '09年6月12日(金)に登場してもらっている(今、読み返してみたら、別の仮名になってたけど、細かいことはお見逃しいただけると)。「翻訳実務検定 TQE(Translator Qualifying Examination)」を受けるというので、ちょこっとお手伝いしたのであった。この試験は、「プロ翻訳者へのパスポート」と謳われており、合格率わずか6%。生半可なことでは通らない。私のお手伝いがどれほどお役に立ったかはともかく、見事に合格しています。
< http://bn.dgcr.com/archives/20090612140100.html >

人類滅亡の差し迫った昨年12月15日(土)にNova仲間の同窓会で集まっている。高田馬場のさかえ通りにあるトルコ料理屋で一次会。若干の誤差を無視すれば、ほぼ女子会である。○黒さんの恋バナにきゃっきゃと盛り上がる。そのうち、「あれ? この会って○黒さんがダンナさんをお披露目するための集まりじゃなかったの?」とトボケ出す女子たち。お家でおくつろぎ中のダンナ様を急遽、引っ張り出していただけることになった。

二次会の途中から合流していただける話になって、カラオケへ。高田馬場の、新しくできたほうの「ビッグエコー」。ダメモトで言ってみたら、すんなり聞き入れられて、レディースルームへ。以前から切磋琢磨しあったのが功を奏したのか、みんな歌が上手で、いい感じで盛り上がっているところへダンナ様登場、さらに盛り上がる。

○友氏はアイドルオタクであった。特に「ももクロちゃん」(「ももいろクローバーZ」)に入れ込んでいるのであった。あ、なんか近しいものを感じる。ワタシゃ、フランスまで見に行ったクチだし。ももクロちゃんが紅白に出たとき、○友氏はテレビの画面の前でサイリウム(=光る棒)を振ってたそうで。こっちは登場いきなり涙腺が堰を切りましたわさ。本人たち、よく泣かなかったなーと思ったら、出番の後、みんなで大泣きしてたそうで。

そんな調子で、ダンナ様とも10年来の仲間みたくなったのであった。じゃ、披露宴の二次会には、私はセーラー服で行かせていただきますよ、はいぜひぜひ、ということで話がまとまった。

●食いやがってと言われましても......

ホテルニューオータニが、私にとって敷居が天井くらいの高さにある超高級ホテルとのイメージが定着したのにはわけがある。それは、忘れもしない(忘れてたけど)、'04年6月20日(日)のことである。

日曜であるにもかかわらず、仕事に駆り出された。会社の偉〜いお方であらせられる○谷氏から、悪いけど来てくれないか、と言われていたのである。よその会社の社長さんと営業トークをするのだけれど、技術的な話になったら説明してくれ、と。その社長さんも超ご多忙な方で、土曜にアメリカから帰国してホテルで一泊したら、翌日の便で中国に発つことになっているので、その日しかお会いできるタイミングがなかったのだそうで。

その社長さんが宿泊されている新宿で打合せした後、飛行機の時間までまだ少し余裕があるので、それじゃあ美味いものでも食べに行きましょうという話になった。日曜に出てきたご褒美ということか、「ケバヤシも一緒にいくか?」。「ワンっ」。タクシーで赤坂へ。

私もちゃんとスーツを着ているので、ふさわしくない格好ってわけではないはずなんだけど、なんだか私のようなシモジモの者が入ってくるようなとこではないぞ、という上流階級な空気に圧倒されて、非常に緊張した。ホテル内にある「久兵衛」というお寿司屋さんに入る。

回転しない普通のお寿司屋さんにもめったに入ることのない私であるが、そういうお寿司屋さんからもさらに一線を画する、空気に「高級」の二文字が印刷されているかのような、しゃきーーーんとした店構え。こちらから何かを注文したのではない。「苦手なものはありますか」と聞かれ「特にありません」と答えたのであった。

あとは、ぽんぽこぽんぽこ握って出されるのをぱくぱく食べるだけ。うんうん、美味いねぇ。ぽんと握ってぽんと出すって感じではなく、ひとつひとつに細かい細工が施される。柑橘系の果実の汁を一滴たらしたりとか。繊細な芸術品のようだ。

ずーっと後になって、飲み会の席かなんかで、○谷氏からそのときのエピソードが語られた。「ケバヤシの野郎、一人で3万円も食いやがって」と。えっ? そんな値段してたの? と、このとき初めて知る。あー、食いやがってと言われましても、出されたものはいただかないと......。

振り返って考えてみると、我々がいただいている間、後から入ってきたご婦人がいらっしゃった。ハイソっちゅうのか、セレブっちゅうのか、住んでる世界が違います、って感じの。で、「1万円で適当に握ってくださるかしら?」。こっちは「ほ〜ぅ、これはまた豪勢なことだなぁ」と思って聞いていた。ところが、意外と早く帰って行かれたのである。あ、実は我々のほうが、もっと豪勢にやっていたのですな。

そんなことがあって、あの空間は「価値」という概念が根底から異なる、オソロシイとこなんだ、というイメージが定着したワタシである。そんな異空間にセーラー服を着たおっさんを放り込んだら、いったいどんな反応が起きるのだろう。

●だいじょうぶなんですか?

シャイなワタシではあるが、あのころに比べりゃ少しは人並みに大胆さが備わってきたのかもしれない。セーラー服を着てホテルニューオータニに乗り込んで行くのが楽しみであった。今度こそ、あの空気に飲み込まれまいぞ。

1月26日(土)、17:17中野駅発のJR中央線快速電車に乗り、17:26に四ツ谷駅に到着。そこから歩く。二次会は18:00からなので、ほどよく間に合いそう。上智大学のほうへ向かう。

上智大学から帰る学生さんたちとすれ違う。この道を歩くのは、小学校卒業以来なのではあるまいか。小学校4年の後半から、四谷大塚進学教室に通っていた。平日の夜に中野本校で予習教室の授業を受け、日曜の早朝から上智大学でテストを受け、その後、解説講義を聞き、正午に解放されるというのがルーチンであった。

桐朋中学に合格し、順調に行ってればエリートコースに乗っかれてもおかしくはなかったはずなんだけど。40年後にまさかこんな大人になって、セーラー服を着て再びここに戻ってくるとは思いもしなかったよなぁ。どこでどう間違ってこうなったのだろう。あ、ちょっと目から塩水が......。

上智大学の正門前を通り、大学の敷地が尽きると、すぐ向こうにホテルニューオータニがそびえている。3方向に放射状に伸びる建物の上に円盤が乗っかっている。その向こうにガーデンタワーがあり、その向こうにガーデンコートがあり、その4階が会場だ。赤坂見附駅から行けばすぐなんだけど、こっちから行くと、一番奥だ。

入れてくれるかどうかが最大のポイントなんだけど、お呼ばれして行く以上、簡単に引き下がるわけにもいかないので、門前払いを食いそうになったら、パーティ会場に連絡してもらって、怪しい人じゃないと保証してもらおうか、と考えていた。

入るとすぐ脇に総合案内みたいな囲いがあり、中に人が入っている。「ガーデンコートへは中を通って行けますか?」と聞いてみる。大げさすぎるほどのスマイルを返され「はい、あちらでござます」。よしっ、入口突破だ。入っちまえばこっちのもんだ。

上流階級の人々は礼儀をわきまえているので、人をじろじろ見たり、大声で笑ったりしない。これがあたりまえとばかりに堂々と闊歩してりゃ、何の反応も起きず、空気は少しも揺らがない。もともとが芝居がかった空間だともいえる。

えーっと、宴もお開きになってから参加者の一人から聞いたのだが、実はずーっと、ホテルの人につかず離れず尾行されてたんだそうで。私がパーティの受付を通ってから、受付の人に聞いていたのだそうである。「だいじょうぶなんですか?」と。ぶっ。思いっきり不審人物扱いやんけ。

●どっちが主役なんだか

受付で参加者全員にサイリウムとクラッカーが渡される。新郎新婦入場は、アイドルがライブで登場するシーンに模して、という趣向なのだ。新郎友人としてその方面の人たちが5〜6人参加しているので、その人たちを中心として、アイドルシーンが再現される。ひざをついて、両手を斜め上に差し出してお迎えする。ならばと私も加わる。登場した新郎新婦はぶっと噴いてた。成功。新郎とぺちっとハイファイブ!

司会の河合隆司氏は、テレビや映画の出演歴も豊富な俳優さん。背筋がぴんと伸びて、髪は五分刈り。さわやかな印象だ。何事にも積極的にツッコミを入れまくってようけ笑わせてくれる。「とても電車に乗って来れないようないでたちでありがとうございました」と、さっそくこっちに矛先が。「乗って来ましたけど」。

新郎新婦によるウェディングケーキ入刀。後に、切り分けたのをみんなでいただくのだが、まずは新郎新婦がお互いに食べさせるという儀式。新婦から新郎への「あ〜ん」の発声は、新郎の務め先仲間方面からのリクエストにより、私から。裏声を使い、高音から入って下がってまた上がるスウィートな「あぁ〜〜〜ん」。わぁい、ウケたウケた。

新郎新婦それぞれのお知り合いから2名ずつによるスピーチ。私はもともと頼まれてなかったのだけど。スピーチの最中に、こっそり司会者に「私も3分間だけ時間をくれませんか?」。飛び入りをたくらむ。なにしろ「あいつはいったいどっちのどういう知り合いだよ?!」とみんな疑問に思ってるに違いない。説明しておかねばなるまい。

指名してもらえた。「頼まれてないのにしゃしゃり出てまいりました」とごあいさつ。Nova時代のことや、年末のカラオケのことなどを語る。新郎がアイドルに入れ込んでるって話はすでにずいぶん出たけど、新婦も実はカラオケに行くとピンクレディーを振りつきで歌ったりしてノリノリなんですよー、と暴露。大いに盛り上がる。後の人、やりづらくてごめん。

続いて登場したのは、プロのミュージシャン。かつてKUSU KUSUのボーカルだった川上次郎氏。新郎新婦と向き合って椅子を置き、ギターを抱えて弾き語り。2曲演じていただけた。ところどころ歌詞が差し替わっていて、新郎新婦の名前が入ったり、時事ネタで笑わせてくれたり。落ち着いてごく自然に歌いこなしちゃう、堂々たる歌いっぷり。

宴がお開きになると、新郎新婦が出口に立ち、帰り際の出席者たち一人一人にあいさつする。出口付近が混み合っている間、残って待つ人々で、私の撮影会状態に。まるでアイドルかマスコットのような人気ぶり。

なので、私が出るのはほぼラスト。新郎「完全に持って行かれた」。あー、主役を完全に食っちゃいましたかね。思い出に残るというよりは、記憶にこびりついて離れない宴になったのではあるまいか。

●スイートルームで三次会

新郎新婦が宿泊するのは、ガーデンタワー34階のスイートルーム。ごく近しい仲間たちが10人ばかり呼ばれて、そこで三次会。

おお、夜景がきれい。新宿の高層ビル群と張り合う高さで、間には低いビルばっかな感じ。ルームサービスのメニューが、まるでゲームのような非現実感で笑える。お茶漬けが2,100円とか。

新郎新婦は朝から挙式と披露宴と二次会とで長い一日だったに違いない。けど、新郎は少しも疲れた様子はなく、率先して立ち働いてくれる。アイドルの応援で耐久力が鍛えられているのだろうか。新婦はお色直しして普段着で登場。くつろいでいた。

むしろこっちがべろんべろんであんまりよく覚えていない。二次会でも際限なく飲みまくってたっけ。お開きになった後でも、残った酒を自分でついで飲んでたもんなぁ。三次会でもけっこう飲んだかな。地方から来て同じホテルに宿泊するという女性3人を残して、私は最後においとまする。

また尾行されてたのかどうかは分からないが、すんなり出られた。23:38赤坂見附駅発、東京メトロ丸の内線中野富士見町行に乗る。地下鉄の中で思い出し笑いして、一人ニヤけてたかもしれない。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。

女子高生のトモエ(仮名)が痴漢をとっ捕まえて警察に突き出した話を前回1月18日(金)のこの欄に書いた。どこの「学校」の女子高生かはあえて伏せていおいたんだけれども。

1月27日(日)、秋葉原や池袋や新宿などの「JKリフレ」店17店舗がガサ入れを受け、15〜17歳の少女76人が保護されたという。そう言えば、去年の7月6日(金)配信号で書いてるんだけど、6月17日(日)の夕刻、セーラー服を着て新宿歌舞伎町一番街通りを歩いていて、セーラー服を着た女の子が客を引いているのに出くわしていた。
< http://bn.dgcr.com/archives/20120706140100.html >

「やーいニセ女子高生」とからかうと、本物だという。現役ばかりによる「女子高生の喫茶店」なんだそうで。入ってみたら、どっからどう見たって怪しいサービスなんかありようもない健全店であった。その後も、この欄に書くネタでも仕入れられないかという下心で、たま〜に行くことがあったワタシである。うっかり平日の仕事帰りに普通の格好で行ったりすると、すごいびっくりされて大笑いされたりとか。

実は、前述のトモエの話も、そこで仕入れたわけで。ガサ入れのニュースを知って、お店のウェブサイトへ行ってみると、つながらないではないか。えっ? その店までやられたの? まさか今度はトモエ本人がケーサツのご厄介ではあるまいな。

1月28日(日)に行ってみると、ちゃんと営業していた。「ガサ入れにあったのかと思った」と言うと、店長「あれはリフレ店だけで、ウチは喫茶店だから」。そうだよねぇ、悪いことしてるわけじゃないんだから。

ウェブサイトにつながらなかったのは、ホスティングサービスがたまたまダウンしていたからのようで。しかしトモエは試験期間中で店には出てきてないそうで。じゃいいや、と入らず、店の前で店長と立ち話しただけで帰ってきた。


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編集後記(02/01)

●山本博文「『忠臣蔵』の決算書」を読む(新潮新書、2012)。赤穂浪士の吉良邸討ち入りについては、関係史料が豊富に蓄積されているという。それを活かして史実の解明や、当時の武士の倫理観や心性を探ることができる。筆者は、赤穂事件の研究では見過ごされがちな「経済的側面」から事件に迫っている。こういう視点の忠臣蔵解釈を初めて読んだ。

最終的に四十七士が吉良邸討ち入りという大プロジェクトを遂行できたのは、資金的裏付けがあったからである。忠義だけでは首はとれない。相談や連絡のための江戸と上方間の旅費、江戸のアジトの維持費、その間の生活費、討ち入り実行のための武器や道具の購入費など、その1年9か月の間に半端ではない金がかかったはずである。それはどう賄って、どう支出していたのか、考えてみれば大きな疑問である。

筆者は大石内蔵助が遺した「預置候金銀請払帳」を中心に考察を進める。この史料は、大石が討ち入り直後に亡君浅野内匠頭正室・瑶泉院に提出した決算書というべきもので、研究者にはよく知られている。この史料で赤穂浪士の金銭の使用状況を見ることにより、事件の知られざる一面を明らかにするとともに、元禄武士の生活感覚にも迫ることを目指したという。

大石が藩財政処理を終えて会計を締めたとき、手元に残ったのは700両足らず(約八千数百万円)だった。これが軍資金になるのだが、仏事、御家再興工作費、旅費・江戸逗留費、江戸拠点購入などで、討ち入り計画以前に6割以上の金が消えた。また同士たちの生活補助費が約2割である。

金が尽きたとたん、このプロジェクトは失敗するだろう。時間との勝負でもある。大石はものすごいストレスだったと思う。軍資金を適切に管理して使い、立場も考えもさまざまな同士たちを長期にわたって統制してきた大石の力量はもっと評価されるべきだろう。この本で当時の貨幣制度、物価感覚がわかりとても興味深い。忠臣蔵はまだまだ色んなアプローチがあるんだな。(柴田)

< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106104954/dgcrcom-22/ >
「忠臣蔵」の決算書


●続き。Amazonのケースつきのものにした。ケースなしの方が、調べるまでの手間がひとつ省けるのだが、汚したり壊したりしそうなので、ついているものを選んだ。いらなかったら外せばいいんだし。同じ住所だけど、甥それぞれ別々に送ってもらう。自分宛のプレゼントだと意識してもらうため。

で、届いた日に電話があったのだが、甥二号は「DSみたいなやつ」という印象を持ったらしい。DSのおかげで、勉強グッズのイメージが薄れてる。ありがとう、任天堂! 音楽を流したり、百ます計算で遊んだそうな。甥一号は「ありがとう」の後、「うん」しか言わない。届いたばかりのおもちゃを触りたくて、会話しているのに上の空。母や妹は、「私も欲しい〜!」。

靴はサイズの関係で甥四号と甥二号行き。えっ、甥三号にはプレゼントなし? 甥三号は四月から小学生なのに。

甥一号と二号は自ら開いては、電子書籍の中を探検しているらしい。調べる感覚はなさそうだ。百科事典でカブトムシの写真を出して、模写していたり。子供って本当に好奇心旺盛だなぁと。飽きずに、学科勉強の時にも活用してもらえるといいな。

で、甥一号。カッコウの鳴き声を聞いて、「この鳥、交差点の音を真似してる」と言ったらしい。これがわかってもらえただけでもプレゼントして良かったわ。(hammer.mule)

< http://casio.jp/exword/products/XD-D2800/ >
買ったのはこれ。XD-D2800
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アマゾンならケースつきのセットがある
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公式ショップなら名入れサービスがある