映画と夜と音楽と...[575]ニューヨークに憑かれた作家の死
── 十河 進 ──

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〈国際諜報局/ハリー・パーマーの危機脱出/10億ドルの頭脳/Tommy トミー〉

●大島渚監督の告別式の記事の横に常盤新平さんの死亡記事

毎回、死亡記事から始めるのは芸のない話だが、昨年末から気になる人が続けて亡くなった。佐藤允さんの死もエッと思ったが、年明けには大島渚監督が亡くなった。昨年、小山明子さんが出した本で闘病生活をしている大島渚監督についていろいろ知った。若き日の恋愛中の話や家庭での大島監督の素顔は、夫人ならではの愛情にあふれる描写だった。10代から見続けてきた監督だ。好きな映画もあるし、心に残る映画もある。

その大島渚監督の告別式の記事が朝日新聞に出たが、その記事の横に写真入りで常盤新平さんの死亡記事が載っていた。81歳だった。そうか、僕とは20歳の違いがあったのだ、と思った。常盤新平さんの名前を初めて見たのは、1965年のこと。中学2年生の9月初旬だった。僕は、まだ13歳である。あのとき、常盤新平さんは34歳の若さだったのかと、遠い昔、初めてEQMMを買ったときを甦らせた。

EQMMとは「エラリィ・クィーンズ・ミステリ・マガジン」の略称である。その日本版が、昔、早川書房から出ていたのだ。僕が初めて買ったのは1965年9月号だった。その年の12月号で「エラリィ・クィーンズ・ミステリ・マガジン」は終わり、1966年1月号から「ハヤカワズ・ミステリ・マガジン(HMM)」に誌名が変わった。現在は、単に「ミステリマガジン」となっている。

「エラリィ・クィーンズ・ミステリ・マガジン日本版」の初代編集長は都筑道夫さんであり、2代目が小泉太郎さんだった。小泉太郎さんは退職して生島治郎と名乗り「傷痕の街」を出版した。続いて「死者だけが血を流す」「黄土の奔流」を書き、「追いつめる」で初の直木賞を光文社にもたらせた。後に離婚したのだが、夫人だった小泉喜美子さんはそのままの名前を使い「弁護側の証人」で作家になった。




僕が初めてEQMMを買った頃、生島治郎さんの「黄土の奔流」が評判になっていた。ほんの2、3年前までは小泉太郎さんが編集長で、常盤新平さんが引き継ぎ三代目編集長になった。その頃の僕は雑誌の編集長に漠然と憧れていたから、「編集人=常盤新平」と出ていることを無前提的に尊敬した。凄い人なのだと思った。後に、常盤新平さんも早川書房を退職。翻訳家・エッセイストとして活躍し、自伝的な小説「遠いアメリカ」で直木賞を受賞する。

僕の本棚に数10年前から「ニューヨーカー短編集」(早川書房・刊)という3巻本が並んでいる。背幅が3センチはあるだろうか。3巻並ぶと10センチほどのスペースを占める。その中に掲載されている僕の大好きなアーウィン・ショーの短編「80ヤード独走」は、常盤新平さんの訳である。もちろん「夏服を着た女たち」も訳している。僕好みの本をいっぱい訳してくれた人だった。

常盤新平さんのエッセイも、ずいぶん読んだ。アメリカ(というよりニューヨーク限定か)についての様々な雑学は、常盤新平さんのエッセイで学んだ。常盤さんはニューヨークに憑かれているようだった。アメリカの雑誌や編集者についての知識は、ほとんど常盤さんの本から吸収した。やがて常盤新平さんは小説を書き始めるのだけれど、エッセイとほとんど文体が変わらなかった。

直木賞受賞作「遠いアメリカ」は、若き日の自分を描いた作品だ。岩手県に生まれ、田舎育ちのコンプレックスを抱えて遠いアメリカに憧れる青年。昭和30年代である。早稲田大学英文科の学生だったが、アメリカは遠かったことだろう。その小説を読んだとき、昔、エッセイでも同じようなことを書いていたなあ、と思ったのを憶えている。エッセイでは「私」とか「僕」といった主体を示す言葉をほとんど出さなかったが、小説も同じように書いていた。

●初めて買ったEQMMに載っていた様々なことに影響された

初めて買ったEQMMには、レイモンド・チャンドラーの中編「カーテン」が一挙掲載になっていた。長編第一作の「大いなる眠り」を先に読んでいたのかどうかは憶えていないが、「ああ、これが原形だったのね」と僕は思った。ただし、「カーテン」の書き出しは、「長いお別れ」の冒頭に似ている。チャンドラーは、中編をいろいろつなぎ合わせて長編に仕立てたのである。

長編の短期連載は、ジョルジュ・シムノンの「メグレと若い女の死」だった。3回にわたって連載され、後にハヤカワ・ポケットミステリの新刊として出た。この小説が僕が初めて読んだメグレ警視シリーズだ。何となく大人びたパリの雰囲気描写が印象に残っている。「無愛想な刑事」と呼ばれるパリ警視庁の刑事が出てきたと記憶しているが、その人物に対するメグレの態度が理解できなかった。13歳では無理だったのかもしれない。

レスリー・チャータリスの「セイント・シリーズ」もEQMMで初めて読んだ。「セイントと因業家主」という短編だった。セイント(聖者)を名乗る泥棒サイモン・テンプラーが主人公のミステリである。テレビで「セイント・シリーズ」が放映されていた頃だったろうか。テレビ版では、後に007ジェイムズ・ボンド役を務めるロジャーロムーアがセイントを演じた。

早川書房の社告頁もあり、当時はショーン・コネリー主演のジェイムズ・ボンド・シリーズが大人気だったことから、007シリーズの出版広告に一頁使われていた。「ゴールドフィンガー」が「ユナイト映画化」と出ているから、日本での公開前だ。最新刊は「黄金の銃をもつ男」だった。作者のイアン・フレミングはまだ存命で、新作が待たれていた。48年後の現在も007の新作映画が公開されているとは、イアン・フレミングも想像できなかっただろう。

大人向けの映画紹介を読んだのもEQMMが最初である。それまでは「明星」「平凡」といった芸能誌、「中二コース」「中二時代」といった学習誌での映画紹介記事しか読んだことがなかったのだ。EQMMには「EQMM5番館」という映画紹介コラムがあり、筆者は大伴昌司さんだった。9月号でとりあげられていたのは、「イプクレス・ファイル」「クマゴローの大冒険」「怪談呪いの霊魂 怪異ミイラの恐怖」「妖女ゴーゴン」「キスカ」の5本だった。

映画紹介では「イプクレス・ファイル」のタイトルで紹介されていたが、それは邦題を「国際諜報局」(1964年)と付けられ、その秋に公開になった。EQMMの表紙裏(業界で表2と呼ぶ広告スペース)に「国際諜報局」の広告が掲載されており、「暗殺!誘拐!二重スパイ! 霧深いロンドンの闇をぬって暗躍する国際スパイ網の疑惑を追う男......」とあった。

その広告の下半分にサングラスをかけた男の目の部分だけがアップで敷かれ、サングラスの片方に黒縁の眼鏡をかけコートを着た男がマシンガンを持って立っている姿が映っている。男はやや下からのサイド光(相手の車のヘッドライトだろう)を受けて怪しげな表情になっている。何となく期待させるシーンだった。その下に「マイケル・ケイン主演」と刷られている。僕は初めてマイケル・ケインの名を知った。

●マイケル・ケインは30年のときを経て同じ主人公を演じた

自転車で高松市中央町へ「国際諜報局」を見にいったときのことは、今でもよく憶えている。当時はスパイものが大流行で、007シリーズの大ヒットに続けと「電撃フリント・シリーズ」(ジェームス・コバーン主演)や「部隊シリーズ」(ディーン・マーチン主演)などが公開されていた。どの主人公も超人のように強くて、美女にモテモテだった。おふざけが過ぎて、今見るとアホらしくなるほどだ。

しかし、60年代半ばの中学生である。シリアスなスパイものを理解するには、まだ社会的な経験も知識もなかった。「寒い国から帰ってきたスパイ」の翻訳本が話題になり、東西冷戦時代のシリアスなスパイの世界を描いたと評判だったが、冷戦という認識が14歳になろうとしていた僕にはなかった。ベルリンに壁ができたことは知っていたけれど、都市の中に壁があるのがうまく想像できなかった。

しかし、背伸びをしたい年頃だ。ハヤカワ・ノヴェルズで出ていたレイ・デイトンの「イプクレス・ファイル」を買い、それを読んでから僕は映画を見た。原作は「わたし」という一人称の語り手が主人公で、どこにも名前が出てこない。彼は眼鏡をかけ、ちょっと太り気味のしょぼくれた男である。作者によると「なぐられたときの彼の反応は、わたし自身とそっくり。床に倒れてそのままなぐられている」男だった。

映画化作品を見たときに意外だったのは、主人公に名前が付いていたことだった。ハリー・パーマーという名前だ。この名前は、マイケル・ケインが有名スターになるにつれ、彼自身と同化し、30年にわたって演じることになったキャラクターである。黒縁眼鏡で太り気味、身体能力も劣っていそうな英国スパイだ。マイケル・ケインには代表作は数々あるが、今はカルトムービーになった「国際諜報局」もそのひとつである。

レン・デイトンのスパイ小説は「わたし」という主人公が語るので、シリーズものなのかどうかはわからない。初期の数本は同じ主人公らしいが、そのことが重視されているわけではない。しかし、映画化はマイケル・ケインを使い「ハリー・パーマー・シリーズ」として公開された。3作目の「ベルリンの葬送」を原作とした「ハリー・パーマーの危機脱出」(1966年)、「10億ドルの頭脳」(1967年)と次々に制作された。

また、30年近い時間をおいて1994年に「国際諜報員ハリー・パーマー 三重取引」「国際諜報員ハリー・パーマー Wスパイ」がテレビ・ムービーとして制作され、日本ではWOWOWで放映された。さすがにマイケル・ケインも年をとり、動きは鈍くなっていた。元々、アクションで見せるシリーズではないが、それにしても30年後に同じ主人公を演じるのは無理があったのではないだろうか。もっとも、僕は懐かしさに包まれて見ていたのではあるけれど......

●ケン・ラッセル監督の気負いが感じられる「十億ドルの頭脳」

「国際諜報局」で印象的なのは、誘拐されていた原子力科学者を買い戻すシーンだ。地下駐車場に2台の車がやってきてヘッドライトを点滅させ、マシンガンを持った男たちが車の両脇に立つ。札束入りの鞄と科学者が交換される。そのシーンはライティングに凝っており、陰翳がゾクゾクする雰囲気を作っていた。セリフはなく、緊張感が漂う。その後、似たようなシーンはずいぶん見たが、あの映画のシーンは今も甦ってくる。

ハリー・パーマーが敵方につかまり、洗脳マシンの中に入れられて、当時としては斬新な光の点滅と音によって洗脳されるシーンも憶えている。「洗脳」という言葉を僕は「国際諜報局」で初めて知った。「アイム・ハリー・パーマー」と言い聞かせ、主人公は洗脳に抵抗しようとする。今見れば陳腐かもしれないが、中学生の僕に強い印象を与えた映像だった。

「ハリー・パーマー・シリーズ」で評判になったのは、3作目の「10億ドルの頭脳」である。原題も語呂がよくて、「ビリオン・ダラー・ブレイン」という言葉が僕の頭の中にこびりついている。カトリーヌ・ドヌーヴのお姉さんで「10億ドルの頭脳」が遺作になったフランソワーズ・ドルレアック、「わらの犬」(1971年)でダスティン・ホフマンの妻を演じる以前のスーザン・ジョージが見られる貴重な作品でもある。

「10億ドルの頭脳」の監督はケン・ラッセルだ。後の作品群から僕は「変態監督」と名付けているが、このときはテレビ界から転身した監督2作目だった。実質的なメジャー作品の監督デビューは、この作品である。ちなみに僕が彼を「変態監督」と呼ぶのは、親近感とリスペクトを込めてであることを断っておきたい。性的な世界に挑戦したケン・ラッセルはどんどん深みのある作品を作り、耽美的かつ不可思議な世界に入っていく。その才能は尊敬に値する。

「10億ドルの頭脳」のときは、「目にもの見せてやろうじゃないか」といういい意味の気負いがあり、斬新な映像を作り出してくれる。音楽にも関心が深いケン・ラッセルは、マーラーやチャイコフスキーを主人公にした作品を制作し、その後「Tommy/トミー」(1975年)という不滅のロック・ミュージカルを作り出すが、斬新な音と映像がケン・ラッセル作品の真骨頂だった。

●常盤新平さんと小林信彦さんと生島治郎さんのつながり

常盤新平さんはアメリカのサブカルチャー、小説や雑誌、出版社、編集者、それにギャングやマフィアについてはいっぱいエッセイを書いているが、映画について書いた文章は記憶にない。同世代であり、同じようにミステリ誌編集長として出てきた小林信彦さんとは対照的である。年齢は常盤新平さんの方が2学年上らしいから、小林信彦さんにとっては早稲田大学英文科の先輩になるのであるまいか。

生島治郎さんの「浪漫疾風録」は自分以外が全員実名で登場する自伝的小説だが、その中でEQMM編集長のところに、ライバル誌である「アルフレッド・ヒッチコックズ・ミステリ・マガジン(AHMM)」を創刊した中原弓彦編集長が挨拶にくる場面がある。中原弓彦と会った主人公は「何だ、小林じゃないか」と言う。生島治郎こと小泉太郎は、中原弓彦こと小林信彦と早稲田の英文科で同級生だったのだ。ふたりの少し上に常盤新平も在学していた。

60年代から映画評や書評を書いている小林信彦さんだから、どこかで「国際諜報局」について書いているのではないかと、「地獄の映画館」「われわれはなぜ映画館にいるのか」などを調べてみたのだが見付からなかった。原作については、「地獄の読書録」の中で「レン・デイトンの登場」という文章があった。当時、レン・デイトンはジョン・ル・カレと同じくらいの評価だったのだ。

そんなことを調べていたら、昔読んだ小林信彦さんの「1960年代日記」を思い出し本棚から探し出した。それは、1965年3月2日の記述だった。小林信彦さんは山川方夫の追悼文をEQMMから頼まれて送るが、一週間経ってゲラを確認したいと電話をしたら、相手が「編集長がモンダイがあると言っていたようで」と口ごもる。

編集長とは常盤新平さんだ。電話に出た常磐さんは、小林信彦さんの追悼文の中に出てくる「『週刊朝日』の仕事があったので...」という一文を取り上げ、「朝日新聞社関係の仕事をしているのを誇っているように見える」という。結局、「週刊朝日」を「週刊誌」と変えるのだが、小林さんは「驚いたのは、人の死についての文章で、まず、そういう〈感じ方〉する神経だ」と書く。この日記では、他にも辛辣に書かれている人は多いが、常盤新平さんも小林信彦さんも愛読してきた僕にとっては、少しショックだった。

このくだりは僕の裡に残り、自分が文章を書くときの戒めとなった。文章で「自慢しない、偉そうにしない、誇らない、人を傷付けない」というルールだ。もっとも、本人はそんなつもりはなくても、受け取る人は様々だから、僕の文章が自慢たらしいと思う人もいるかもしれない。そう言えば10年以上前になるけど、読者の方からそんなメールをもらったことがあった。なるべく気を付けているのですが、もしそう受け取られたのなら「ゴメンなさい」と言うしかありません。

ところで、このとき小林信彦さんが追悼文を書いた山川方夫さんは、自動車事故で急逝した新進作家で、僕が初めて買ったEQMMに「トコという男」が早川書房の近刊として告知されている。彼の事故については後輩の作家だった坂上弘さんが自伝的な小説「故人」で詳しく書いている。山川方夫さんはシャレたミステリアスな短編(ショートショート)を数多く書いた人で、僕は「親しい友人たち」という作品集冒頭の「待っている女」が記憶に刻み込まれている。

それにしても、人と人は様々なつながりがあるものだ。常盤新平さんは山口瞳さんを師とあおぎ、競馬や将棋が好きだったという。ニューヨークに憑かれた作家の意外な一面だ。常盤新平さんが編集長時代のEQMMには、リング・ラードナーやデイモン・ラニアンといった都会的で軽いユーモア小説もよく掲載されたし、雑誌「ニューヨーカー」掲載の短編も転載された。僕が中学生の頃からアメリカ−現代文学を読むようになったのは、間違いなく常盤新平編集長の編集方針のおかげである。

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