映画と夜と音楽と...[577]31年後にする後悔
── 十河 進 ──

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〈1900年/太陽がいっぱい/シェルタリング・スカイ〉

●淀川長治さんの映画の本を初めて買った

淀川長治さんの「究極の映画ベスト100」が河出文庫から新刊で発売されたので買ってみた。淀川さんの映画の本を買うのは初めてだ。テレビの映画解説で充分だと思っていた。編集・構成は淀川さんと長い付き合いがあったという岡田喜一郎さんである。岡田さんの経歴を見ると僕よりひとまわり上だったから、改めて淀川長治さんとの年の差を実感した。淀川さんが存命なら、今年で104歳である。

淀川さんは、5・15事件のときに訪日中だったチャップリンと会った人だ。20世紀初めから亡くなる1998年まで映画を見続けた。戦前、ジョン・フォードの「駅馬車」(1939年)の宣伝を担当したこともある。戦後は「映画の友」編集長を経て映画評論家になった。僕が初めて見たのは、テレビ西部劇「ララミー牧場」の最後に出てくる「サヨナラおじさん」としてだった。

「ララミー牧場」の解説をやっていた頃から亡くなるまで、淀川長治という人に対する僕の印象は変わっていない。相当な年配に見えた。しかし、「ララミー牧場」時代の映像を見ると、きっと髪も黒々として若かったのだろう。印象が変わらないのは、ずっと喋り方が変わらなかったからではないだろうか。あの「サヨナラサヨナラ」の記憶を消すのは無理である。

僕の記憶が違っているのかもしれないけれど、「ララミー牧場」というと三ツ矢サイダーのCMを思い出す。「リボンシトロン」という飲み物のCMもあったような気がする。主演者のひとり、流れ者を演じたロバート・フラーに人気が出て来日したことがあった。そのときの大騒ぎの様子を芸能誌(「平凡」か「明星」だ)で読んだ記憶がある。

「ララミー牧場」は僕が小学生の頃に放映されていたが、中学生になった頃から「日曜洋画劇場」を見始めた。淀川長治さんがさらに有名になった番組だ。洋画の放映前に解説者として登場し、「あの場面、凄いですねぇ、コワイですねぇ」という独特の喋り方で視聴者の期待を煽り、放映後に登場して「サヨナラサヨナラ」とフェードアウトした。

以来、テレビの映画番組では解説者が登場するのが当たり前になった。僕が好きだったのは「日本映画の本当の面白さをご存知ですか」と視聴者を挑発し、いつも強面の怖そうな顔で解説していた元キネマ旬報編集長の白井佳夫さん、穏やかな話し方で知的な雰囲気が漂い髭が似合う品田雄吉さん、歯切れのいい解説だったが早くに亡くなった荻昌弘さんだった。




そう言えば今の会社に入ってから、僕は淀川長治さんには一度、荻昌弘さんには何度かお会いする機会があった。僕が今の出版社に入った頃、ビデオ雑誌の編集長だった大先輩が荻さんに心酔しており、何かというと「荻さんが...、荻さんが...」と口にした。ビデオカメラが隆盛になった頃、その大先輩は荻さんにビデオ作品コンテストの審査員をお願いした。

やはり同じその20歳先輩の編集長から聞いたのだが、僕が入社する10年以上も前から淀川長治さんには執筆拒否にあっているということだった。以前には、淀川さんに月刊「小型映画」という8ミリ専門誌にときどき原稿を書いてもらっていたが、あるとき、某編集者が原稿依頼にいき「埋め草に使いますから」と言ってしまったというのだ。

当時は、今で言う「囲み記事」「コラム」のことを「埋め草」と言った。活版印刷の時代だから原稿を鉛の活字で組み、スペースが余ったときに短文の囲み記事を書いて頁を埋めたことから「埋め草」と呼ばれたのだろう。印刷会社に出張校正し、さあ校了だ...となったとき、空いたスペースに「埋め草」記事をすぐに書けるのが優秀な編集者の条件だった。

「埋め草」には「穴埋め原稿」の意味がある。その編集者は無知だったのか、あえて口にしたのかはわからないが、かの淀川長治さんに「埋め草原稿」を依頼したのである。淀川さんは怒った。無礼だ、と編集者を追い返した。それ以来、僕の勤める出版社には「二度と原稿は書かない」となったのである。

●若い頃に一度だけ淀川さんと知り合える機会があった

淀川長治さんと一度だけ会ったのは、31年前のことだった。1982年の夏の頃だと思う。なぜ、そこまで限定できるかというと、ベルナルド・ベルトルッチ監督の6時間近くもある超大作「1900年」の試写会場でのことだったからだ。フランス映画社が輸入した「1900年」は、上映時間の長さばかりが話題になっていた。

ロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデューというアメリカとフランスの名優が共演し、イタリアの才人ベルナルド・ベルトルッチが監督したのだから、もっと早く公開になってもよかったのに、日本での公開は制作から6年も後のことだった。その頃はまだ、ロバート・デ・ニーロもドバルデューも若手俳優だったのだ。

当時、僕は「小型映画」編集部に在籍し、双葉十三郎さんの映画評の頁の担当で、毎月、原稿をもらっていた。もう何年も担当していたので、その頃はどこかの試写会場で原稿を受け取り少し話をするだけだった。少ししか話せないのは、いつも試写が始まる前の時間を指定されたからである。

その日も僕は双葉さんの原稿を受け取るために、銀座和光裏にあるフィルムライブラリーの試写室に出かけた。後に「川喜多記念財団」に変わったはずだけれど、その頃はまだ「フィルムライブラリー」と言っていた。「シネスイッチ」の入ったビルの上階だった。そこにある試写室はこぢんまりしていて、僕の好きなスペースだった。

その試写室で僕はロベルト・アンリコ監督の「ふくろうの河」、フランソワ・トリュフォー監督の「あこがれ」、アルベール・ラモリス監督の「白い馬」「赤い風船」などを特別に上映してもらったのだ。それは「小型映画」に登川直樹さんの解説付きで全カットを掲載するための連載の仕事だったのだが、とても幸せな時間だった。

さて、その日、少し早く着いた僕は試写室の前にある別室で待っていた。試写室の準備がまだできていなかったのだ。まず、おすぎとピーコがやってきた。そして、次に淀川長治さんが登場した。小さな人だった。評判通りニコニコしながら、そこにいた全員にほほえみかけ、「こんにちは」(「ごきげんよう」だったかも...)と言った。

知り合いであろうがなかろうが、そこにいる人には挨拶するとは聞いていた。しかし、僕は「あっ、淀川長治さんだ」と有名人に会ったぞ〜状態だったので、とっさに挨拶が返せなかった。オドロキが継続していたのだ。僕は黙ってうなずくのが精いっぱいだった。その瞬間、淀川さんは「無礼な奴だ」的な目をしたが、そのまま僕の横の人に挨拶をした。

そのとき、双葉さんがやってきた。淀川長治さん、双葉十三郎さん、野口久光さんは同世代であり、昔からの友人だと聞いていた。三人とも戦前から映画の世界に関わり、戦後は映画評論家として活躍していた。双葉さんと淀川さんは長い付き合いなのだと思っていたが、ふたりの出会いはあっさりしたものだった。僕は立ち上がり、双葉さんに挨拶をした。双葉さんが原稿を取り出した。

あのときの淀川長治さんの顔が忘れられない。テレビで見るニコニコした表情が、僕がきちんと挨拶を返さなかったために一瞬凍った。淀川さんは「ぼくは未だかつて嫌いな人に会ったことがない」という言葉を残しているけれど、無礼なことに対しては寛容ではなかったのではないか。そして、どんな映画も誉めたけれど、本音では言いたいことがいっぱいあったのではないか、と本を読んで思った。

●同性愛傾向を生前から明らかにしていた淀川さん

淀川さんが「太陽がいっぱい」(1959年)のトム・リプレイ(アラン・ドロン)とフィリップ・グリーンリーフ(モーリス・ロネ)の関係を、ホモ・セクシャルの視点から評論しているのを読んだことがある。「淀川長治 究極の映画ベスト100」の中でも「太陽がいっぱい」が取り上げられていて、その視点で語っている。かなり極端な見方である。

──ヨットの上でドロンが坊ちゃんを殺すところ。坊ちゃんが仕掛けたのね。あいつが俺を突いたら、エクスタシーを感じるかもしれない。ドロンは引っ掛かったの。これは男同士の最高のラブシーン。

これは、テレビの解説者として不特定多数の視聴者に語りかけていた淀川さんではない。「こうした映画を舌なめずりして見られるようになったら最高ですよ」と、映画耽溺者の本性を見せている。僕は、こちらの淀川さんの方が好きになった。この文庫本の中で語っていることのひとつは、映画を性的な観点で見ることである。特にホモ・セクシャルの観点は頻出する。

淀川さんの同性愛傾向は、今ではよく知られている。亡くなる前、自ら同性愛者であることを認める記述をしたり、発言もあったようだが僕は知らなかった。亡くなった後、そのことを知り納得した。淀川さんがベストワンにあげる「ベニスに死す」(1971年)の主人公の、美少年に惹かれる心情が僕には理解できなかったが、同性愛者だったヴィスコンティの視点が淀川さんの琴線に触れたのだろう。

「淀川長治 究極の映画ベスト100」の中には、もちろん「ベニスに死す」も取り上げられている。年代順に掲載されているが、1910年代から30年代までの映画が20本取り上げられているのは、淀川さんのセレクションならではだろう。淀川さんは、それらを公開時に見ているのだ。僕は15本しか見ていなかった。

40年代の映画は12本セレクトされていたが、僕が見ていたのは9本。50年代が19本中の18本、60年代が14本中の13本、70年代は10本中の9本、80年代が13本のうち12本、90年代が12本のうち10本だった。合計するとベスト100のうち85本を見ていた。これは多いのか、少ないのか。

60年代以降で選ばれているのは49本だが、43本は見ている。見ていない6本は見逃しているというより、あまり積極的に見たいと思わないもの、できれば敬して遠ざけておきたい作品ばかりだった。おまけに「カオス・シチリア物語」(1982年)という映画は、存在さえ知らなかった。タヴィアーニ兄弟、こんな作品撮ってたっけ?

●瑞々しい感性を持ち続けたイノセントな人だった

淀川さんのセレクションを見ていると、この人は最期まで瑞々しい感性と柔軟な頭脳を持ち続けていたんだなと思う。淀川さんが80歳を過ぎていた90年代作品に選ばれた「髪結いの亭主」(90年)「シェルタリング・スカイ」(90年)「テルマ&ルイーズ」(91年)「ピアノ・レッスン」(93年)「日の名残り」(93年)「スモーク」(95年)「キッズ・リターン」(96年)など、頭が堅い人は絶対に選びそうにない。

それ以外に選ばれている90年代作品は「シザーハンズ」(90年)「アダムス・ファミリー」(91年)「さらば、わが愛/覇王別姫」(93年)「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」(93年)「オリーブの林をぬけて」(94年)であり、守備範囲の広さがよくわかる。ハリウッドの異端派ティム・バートン監督とイランのアッバス・キアロスタミ監督が並んでいるのである。

中でも「シェルタリング・スカイ」について語っている淀川節がとてもよくて、ああ、そうだったのか、と啓発されることしきりだった。「シェルタリング・スカイ」はベルナルド・ベルトルッチ監督作品で、僕にとってはとてもお気に入りの映画なのだが例によって難解な部分や謎があり、うまく人に語れない作品だったのだ。淀川さんは、そこを明確に分析していた。

──愛というもの、愛にしがみつく夫婦の姿を、厳しいタッチで見せました。変な言い方ですが、西洋人の愛というものがよくわかる。この「嵐が丘」のような怖い鬼のような愛。ベルトルッチの見事な名作です。

僕は世界の古典の中で「嵐が丘」が大好きなのだけれど、ここで「嵐が丘」に通じる愛(妄執)を描いていると指摘されたことで、「シェルタリング・スカイ」に抱いていたモヤモヤしたものがスッと消えた。夫(ジョン・マルコヴィッチ)が死んだ後、魂が抜けたようになって砂漠をさまよう妻(デブラ・ウィンガー)の姿が甦ってきた。

原作はポール・ボウルズの世界的ベストセラーだそうだが、僕は読んでいない。ベルトルッチの映像的不可解さをそのまま感じたかったからだ。ベルトルッチ作品は謎に充ちていて、その謎が心地よい。「シェルタリング・スカイ」も美しいサハラ砂漠の映像に酔わされ、不可解な人間関係を見つめるうち、さらに深い謎に包み込まれる映画だった。

作曲家の夫と劇作家の妻が、ひとりの青年を伴って北アフリカを旅する。芸術家の夫婦だからなのか、それぞれに自意識が強く複雑な関係である。そこに青年が加わるから、人間関係はさらに錯綜する。夫は現地の女を買い、妻は青年と関係する。夫婦の間に愛は存在するのかと気になりながら見ていると、夫婦は共に離れ難いと思っているらしい。

やがて、夫が熱病に冒されて死ぬ。妻の彷徨が始まる。砂漠をさまよい、現地の隊商のような集団に拾われるが、現地人の誰にでも躯を開く。「愛と青春の旅立ち」(1982年)のリチャード・ギアとのコンビで、一躍青春スターとなったデブラ・ウィンガーもすでに30半ばになり、ハードなセックスシーンで不思議なエロティシズムを漂わせる。

その妻の状態を淀川さんは、「無のような何もない透明人間になった」と指摘している。夫婦の行き詰まりを感じていたのに、妻は夫の死によって愛を甦らせたのだ。だが、その愛の対象は、すでにこの世に存在しない。「嵐が丘」のヒースクリフが死んだキャサリンを求め続けたように、「シェルタリング・スカイ」の妻の魂も夫を求め続ける。だから、肉体はもう不要なのだ。

ウーン、やはり「サヨナラサヨナラ」だけの人ではなかった。僕は今までテレビ解説者としての淀川さんしか知らなかったことを猛省した。あー、あのとき、たった一度会えたあのとき、きちんと挨拶を返し、親友だったという双葉さんに改めて紹介してもらい、社名を告げたうえで遙か昔の先輩編集者の無礼を詫び、映画の弟子にしてもらうのだったなあ、と31年後に僕は悔いた。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

世の中は65歳定年でいろいろと騒がしい。年金の支給年齢を繰り上げたいから政府が打ち出したことだが、東京都は70歳に定年延長した企業に奨励金を出すという。いずれ70歳になるのだろうけど、何だかマラソンのゴールが少しずつ延ばされているみたいでうんざりする。

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