映画と夜と音楽と...[579]堪忍袋の緒は切るためにある?
── 十河 進 ──

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〈切腹/上意討ち 拝領妻始末〉

●足の裏に向かって20分間インタビューしたことがある

40年近く勤め人をしているので様々な経験をしてきたが、人の足の裏に向かって初対面の挨拶をしたのは一度だけだ。広告写真の専門誌編集部にいた頃だから、もう20年近く昔のことになる。僕は40を過ぎたばかり。相手は有名なアートディレクターだった。

ある日、取材でそのアートディレクターのオフィスを訪ね、女性マネージャーに打ち合わせスペースに案内された。アートディレクターのオフィスらしいオシャレな空間だった。素敵にデザインされたオフィスだから、仕事を依頼にくるクライアントは「きっと素晴らしいデザインをしてもらえるに違いない」と思うのだろうなあ、などと部屋を見渡して想像した。

打ち合わせスペースには大きめのダイニングテーブルくらいの机があり、椅子が六脚ほど配置されていた。その片側の長辺に置かれた椅子に僕は腰を降ろした。「××は、ただいま参ります」とマネージャーは言って去ったが、なかなか××さんは現れなかった。10分以上が過ぎた頃、Tシャツに白っぽい綿パンをはき、裸足の××さんが現れた。何だか子供みたいな人だった。

──取材だって、最近○○(僕のいた雑誌の名前)はちっとも俺の作品のせねェじゃねえか。




そう言って××さんは僕の正面の椅子に腰を降ろし、両足をテーブルにのせて椅子の背にもたれた。わかりやすく言うと、ふんぞり返った。勢い、僕としてはその足の裏に向かって、挨拶をすることになる。「はじめまして、ソゴーと申します」と、僕は足の裏に頭を下げ「副編集長」の肩書きの名刺を足の横に置いた。顔を上げると、足の裏の向こうの目がじっと僕を見つめていた。

驚いたことにインタビューの間、僕はずっと足の裏に向かって質問することになった。××さんは椅子の背にもたれているから、頭の位置がテーブルにのっている足の裏より低いのである。時間にして20分ほどだっただろうか、どうしてもその取材をしないと特集記事が成立しない...というほどでもなかったけれど、腹を立てて席を立つほどのことでもないと自分に言い聞かせた。

売れっ子のアートディレクターだったのは間違いない。彼がアートディレクションした広告のポスターはアート作品として外国の美術館に収蔵されている、という話も聞いた(確かめたことはないけれど)。それにしても、こんな応対を誰彼かまわずにやっていたら、きっと怒り出す人もいるだろうなあ、と足の裏の窪みの当たりを見つめながら僕は考えていた。窪みが浅かったから、もしかしたら扁平足ぎみだったのかもしれない。

その話は、ときどき笑い話(自虐ネタ)として酒席で披露したりすることはある。もっと屈辱的なことにも遭ったし、理不尽に怒鳴られたこともある。とても笑い話になどできない体験もした。人には話せない。思い出すと、今での体の芯がカッと熱くなる。熱を帯びてくる。だから、その足の裏に向かってインタビューしたことで、僕はそんなに傷ついてはいないと思っていた。

しかし、20年たっても、そのときの映像が鮮明に甦るのは、やはり僕が強い印象を持ったからだろう。いや、何かが刻み込まれたのだ。やはり傷ついていたのかもしれない。そんなことを最近は思うようになった。少なくとも、一生忘れられない経験だったのは確かである。20年後の今も忘れていないのだから......。

●名作のリメイクはなかなか成功しないのだけれど...

先日、テレビ朝日で「上意討ち」(1967年)をリメイクして放映していたので、期待して見た。朝日新聞にも事前に大きな記事が出た。「最後の黒沢組 橋本さん脚本の完全版放映」という見出しだった。その見出しには違和感を感じた。「黒沢組? 小林組じゃないの」と、僕は強く異議申し立てをしたかった。確かに橋本忍は「羅生門」のシナリオで有名になった人ではあるけれど......。

小林正樹監督には「人間の条件」(1959〜61年)を始めとして多くの名作があるが、その中でも「切腹」(1967年)と「上意討ち 拝領妻始末」(1967年)は、滝口康彦の短編小説を橋本忍が脚色した時代劇の傑作だ。僕はどちらも好きだが、出来のよさで言えば「切腹」が上まわる。これは、最近、三池監督が「一命」(2011年)としてリメイクした。

名作はリメイクされる運命にある。しかし、なかなかオリジナルを上まわる作品に出会うことはない。テレビ版「上意討ち」も、モノクロームの美しく厳しい映像で描かれた小林正樹監督版には及ばなかったけれど主演の田村正和に味があり、何度か頬を涙が流れた。拝領妻になる仲間由紀恵もよかったし、久しぶりに見た緒形直人も耐える顔に厳しさがうかがえて適役だった。

映画版は三船敏郎(田村正和)、加藤剛(緒形直人)、司葉子(仲間由紀恵)、大塚道子(梶芽衣子)、仲代達矢(松平健)というキャスティングだった。僕が高校生の頃に東宝で封切られ、三船と仲代の対決シーンがポスターになっていた。僕は「拝領妻」という言葉の意味を理解できず、どんな話なのだろうと首をひねった。

それがずっと気になっていたのだろう、後年、すでに「切腹」も「上意討ち 拝領妻始末」も見ていたが、原作にあたりたくなって講談社文庫を買った。滝口康彦さんは九州在住の時代小説作家で多くの作品を書いている。しかし、僕は「切腹」の原作である「異聞浪人記」と「拝領妻始末」が入った短編集しか読んでいない。

前述の「一命」は原作を「異聞浪人記」と明記し、「切腹」の橋本忍のシナリオは使っていない。新しく脚色したのだが、どうしても前作と比べられるのは仕方がない。瑛太と満島ひかり(「切腹」では新人の頃の岩下志麻)が夫婦を演じて健闘していた。もっとも、いつものように三池監督の不可思議な演出に首をひねるところがあり、少し落胆した。「十三人の刺客」のリメイクは、よかったのになあ。

さて、三船敏郎が演じた主人公を田村正和が演じるわけだが、田村正和も年寄りの役が似合うようになった。性格が悪く、皮肉ばかり口にするきつい妻がいる。婿養子の主人公は、それに20数年耐えて家庭生活を送ってきた。映画版の大塚道子は、意地悪な姑役を得意としている女優だったが、田村正和版の妻は肉は付いたけれど僕の好きな梶芽衣子である。もっとも、きつい性格の姑役には向いている。

笹原伊三郎(田村正和)は剣の遣い手だが、家庭では妻に耐え、城中では上役の無理難題に耐え、ようやく隠居する年齢を迎えようとしている。彼の愚痴を聞いてくれるのは、親しい友であり剣ではライバルの浅野帯刀(松平健)だ。藩内では、ふたりが闘えばどちらが勝つかわからないと噂されている。そのことが、冒頭から描かれる。ラストシーンの伏線だ。

しかし、田村正和の日常は、とにかく日々之平穏にという生き方である。剣の能力など、生かしようもない。せいぜい藩主が入手した剣の試し切りを命じられるくらい。御用第一、上役の理不尽さに耐え、妻の皮肉に耐えている。息子の緒形直人がいじめられている妻に、「耐えられなくなりそうだったら、父上のことを思え。父上は、あの母上に20数年耐えてきたのだ」とまで言う。

●田村正和のノラリクラリぶりは三船敏郎には出せなかった味

ある日、田村正和は側用人の来訪を受け、藩主が子まで産ませた側室を疎んじ暇をとらせるので、その側室を息子の嫁に下げわたすと言われる。側室だった女を息子の嫁にすることは、田村正和も妻も乗り気ではない。「畏れおおいこと...」と、ノラリクラリと返事を延ばす。そのため、内々の意向だったのが大げさな藩命になる。藩命に背けば、お家断絶だ。

この田村正和のノラリクラリぶりは、三船敏郎には出せなかった味だ。三船敏郎は豪快なイメージが強すぎるのと、あの重厚な口調だから「耐えている」感じが希薄になる。田村正和は眉を八の字にして、心底困り果てた顔をする。上役の忠告にも決定的な拒否の言葉を口にせず、ノラリクラリと返事を引き延ばす。この「かわし方」が実に堂に入っている。

これは、勤め人の処世術である。どんな無理難題を言われても決して感情的にならず、冷静に耐えて相手を怒らせず、いつの間にか問題をうやむやにする。足の裏に向かってインタビューさせられたからといって、いちいち怒ってなどいられないのである(あっ、まだこだわってるなあ)。しかし、うやむやですむ話ではない。田村正和は窮地に陥る。

このままでは笹原の家がつぶされるというところまで追い詰められ、息子(これは映画版の加藤剛の方が適役)は、側室いちの方を拝領することを決意する。このあたりのディテールは映画版ではなかった。今回、橋本忍がテレビ版のために書き直したのだという。息子は父の困惑と家の安泰を憂い、藩主の側室を妻に迎える屈辱に耐えることにしたのだ。以前、一度だけ見かけたいちの記憶が甦る。

藩主の子まで産んだ側室なのに、なぜ彼女は疎まれたのか。産後の養生をして城中に帰ったとき、藩主の横に新しい側室がいたため逆上し、その側室の頬を打ち髪をつかんで引きずりまわした。部屋を出た藩主を追って、やはり頬を打ったという噂話が聞こえてくる。しかし、やってきたいち(司葉子の気品と仲間由紀恵の親しみやすさを比べると甲乙つけがたい)は、実にしとやかな武家の娘だった。

息子といちは仲睦まじく暮らし、父親の田村正和は何かと冷たく当たる妻から嫁を守ろうとする。やがて若い夫婦に子供も生まれ、初孫に舅は頬をゆるめる。家督は息子に譲り、隠居の身である。穏やかで幸せな日々が過ぎてゆく。だが、藩主の長子が病死し、いちの産んだ子が世継ぎになる。いちはいずれ藩主の母になる存在だ。藩士の妻では具合が悪い。藩は、いちを返上せよと言い出す。理不尽な話である。

上役、家老、一族の者たち、妻、次男、すべてが主人公と息子夫婦の敵になる。藩命に逆らっては生きていけないからだ。笹原家は取りつぶし、一族にも累が及ぶと長老がやってくる。たまらないのは、いちである。自分のために笹原家に災難が及んでいる。しかし、城中に帰るなど考えられない。舅と夫だけが味方だ。だが、藩命に背くと上意討ちが待っている。舅と夫の命か、それとも...といちは煩悶する。ふたつの思いがせめぎ合う。

●「しかしだよ皆の衆、じっとがまんをしなければいけない」

組織の中で生きる個人は、多かれ少なかれ理不尽だと思うことにぶつかる。「理不尽だと思うこと」と書いたのは、何に理不尽さを感じるか個々人で違うことがあるからだ。あんな目に遭わされてよく我慢できるな、と見ている人が思っても、本人は案外平気でやり過ごしていることもある。生きる上でのこだわりは人それぞれだから、何が理不尽か規定するのはむずかしい。

逆に見れば誰がどんなことを理不尽と感じて我慢しているかはわからない。だから、社会人なら、組織の中で生きているのなら、すべての人は何らかの我慢をしている。耐えている。こらえている。僕だって、40年近い勤め人生活で多くのことを我慢してきた。ただ、僕の場合は感情的になりやすく、沸点は低いと言われてはいる。その僕でさえ、いろいろ耐えてきたのだ。

だが、人間には譲れない一線がある。ここだけは、我慢できないという限界点だ。耐えに耐え、こらえにこらえて生きてきた人間ほど、そうなった場合は後戻りできない。いわゆる、堪忍袋の緒が切れた状態である。一度切れたものは、修復できない。「上意討ち」の主人公は息子夫婦の絆の強さに打たれ、上意に逆らうことを決意する。その覚悟の強さが後半のドラマを盛り上げる。

倉本聰さんの初期のエッセイ集「さらば、テレビジョン」に、俳優たちを寸描した「心やさしき役者たち」というシリーズが載っている。その中の小林桂樹のエピソードが忘れられない。小林桂樹は若い役者たちを連れて、ニコニコ飲んでいた。「いいか、役者というものはな、何事も辛抱が肝心なンだ」と説教を始める。店に二人づれの酔客が入ってくる。

「オッ、小林桂樹だ! 小林桂樹だよ」とひとりが言い、「どれどれ、アッ、本当だ。小林だ!」ともうひとりが覗き込む。小林桂樹は「無礼な人間も中にはいる。時には不愉快な思いもする。しかしだ。しかしだよ皆の衆、ここが役者の辛いところだ。じっとがまんをしなければいけない」と笑顔で話し続ける。

酔客は図にのる。「こっちに面見せろ。ちぇッきこえねえフリしてやがる」とか「偉ぶっちゃってよォ」などとからんでくる。「君たち若いもンはすぐにカッとする。しかし役者はこういうことに慣れなければいかん。忍耐する。そして、何をいわれても、いつもニコニコ笑っている」と、小林桂樹は連れの若者たちに説教を続ける。酔客たちの暴言がエスカレートする。

──突然小林さんは言葉を切り、パッと立ち上がるや酔客の一人の胸ぐらをつかんだ。「堪忍袋の緒は切れるためにあるンだッ!!」

僕のことを「怒りんぼ」と呼ぶのは、会社の相棒である。僕は彼のことを「乱暴者」と呼んでいるからおあいこだと思うけれど、自分でも「怒りんぼ」だと実感する場面はしばしばある。生き方に対するこだわりが強いのかもしれない。かっこよく言えば、美学・美意識にとらわれすぎているのだ。譲れない一線が多すぎる。もっとも、足の裏に挨拶するくらいは我慢できますけど......。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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「キネマ旬報」3月下旬号、タランティーノ「ジャンゴ」特集頁に僕の「映画がなければ生きていけない」の広告が出ています。目立っているけど、恥ずかしいような、申し訳ないような気分。マカロニ・ウェスタンにオマージュを捧げるなら、主人公の名はジャンゴしかありません。両手をつぶされたジャンゴ(フランコ・ネロ)がガトリングガンを柩から取り出すシーン、ゾクゾクしました。

●長編ミステリ3作が「キンドルストア」「楽天電子書籍」Appストアの「グリフォン書店」で出ています/以下はPC版
< http://forkn.jp/book/3701/ 黄色い玩具の鳥
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< http://forkn.jp/book/3702/ 愚者の夜・賢者の朝
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< http://forkn.jp/book/3707/ 太陽が溶けてゆく海
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