ショート・ストーリーのKUNI[136]魚
── ヤマシタクニコ ──

投稿:  著者:


缶ビールを飲みながらスーパーで買って帰った弁当を食べ終えると彼にはもうすることがなかった。テレビに目をやると最近よく見る中年の男の俳優がコメンテーターとして何かしゃべっているところだった。にこやかに、時折手振りを交えてしゃべっている様子を見ていて思い出した。

こいつは、最近大口の脱税で逮捕された政治家とつながりがあるらしい。そのことはネットで読んだ。新聞やテレビではまったく報道されていないがネットでは周知の事実だ。値の張りそうなスーツを着て髪を整え、自宅は豪邸らしいが、その元になっているのは黒く汚れた金なのだ。腹の底のほうから怒りが熱い塊になってわいてくる。缶を傾け、残っていたビールをごくりと飲み干すと彼はテレビに向かって言った。

「ふざけんなよ」
「おまえみたいなやつがはびこってるから、この国がだめになるんだ」
ひとこと言うつもりが止まらなくなる。
「何様だと思ってる。おまえなんかにえらそうにものを言う権利があるのか! どうせ汚い手段でもって成り上がってきたんだろ! おれたちが何にも知らないとでも思ってるのか! くそっ」

缶をねじ曲げると2メートル先のゴミ箱に投げ捨てた。缶ははずれて床に転がった。水がはねる音がして彼がふりむくと「魚」が水槽の中でゆっくり向きを変えたところだった。ああ、そうだ。こいつがいたんだ。




ひと月余り前、彼の妻は子どもを連れて出て行った。何が気に入らなかったんだ、と聞く気にはなれなかった。一年前にあるデザインスタジオを解雇されてから、まともな仕事にありついていなかった。自分より技術もアイデアも劣るやつがどんどん仕事をしているのに。

わずかな蓄えは減る一方、家の中はぎすぎすする一方で、どうしていいかわからなかった。だから、妻と子どもが荷造りを始めても見て見ぬふりをするしかできなかった。そして、彼らは出て行った。自分たちのものはすべて、残さず運び出して。

ただひとつ残ったのがこの水槽だ。当初飼っていたしゃれた熱帯魚はとっくに死に絶え、澱んだ水がそのままになっていたものなので、持って行く気にもならなかったのだろう。

2週間くらいたったある日、ふと思い立ってその水槽を捨ててしまおうと彼が手をかけたとき、濁った水の中で何かが動いた。小さな魚だった。鉛色のうろこにおおわれた、わずか3センチほどの体。

───こんな魚、飼ってたのかな?
彼の疑念に応えるように、魚はぱしゃりとはねて水面に顔を出した。目が合った、ように思った。

それから捨てられないまま水槽は居間にある。彼は魚など飼ったこともない。飼い方を調べてまで飼う気もない。時々パンくずやクラッカーのかけらを入れてやると食べているようだ。少なくとも、まだ死んでない。それどころか、成長している。

彼は毎日、ひまさえあれば悪態をついていた。

コンビニで買い物をするとレジの店員が釣りを間違う。指摘すると「ああ」とだけ言って不足分を渡してくる。なんだこいつ。いったいこの店ではどんな従業員教育をしてるんだ。怒りが口元まで出かかるが、のみこんで家に帰る。

だが、買って帰った酒を飲んでいるうちに怒りはますますふくれあがり、おさまらなくなる。テレビではアナウンサーがニュースの読み間違いをする。彼は持っていた箸をアナウンサーに投げつけ「死ね!」と吐き捨てる。

「どいつもこいつも、なんでおれのまわりにはろくでもない、低レベルのやつしかいないんだ?! なんでおれの周りでばかり不愉快なことが起きるんだ? まるで、まるでおれをねらっているみたいに」

そう口にすると、そうとしか思えなくなる。歯車がかみあって回転を始め、どんどんどんどん速度が上がる感じだ。とまらない。

「そうだ、そうに違いない。ほかのやつらが何の悩みもなさそうな顔して生きていけるのは、おれみたいな人間にばかりしわよせが来てるせいなんだ! なぜなんだ!?なんでおればかりが損な目にあわなくちゃならないんだ。ああ、そうか......そうだ。だれかが......おれを憎んでいるせいなのか」

これまでにも、彼には思い出すたび胸くその悪くなること、こぶしがぶるぶる震えるのを抑えられないことがたくさんあった。職場でも、ふらりと入った店先でも、駅でも、往来の中でも。むかつくことが多すぎる。それはだれかが、なにかのために、彼を選んでやったことなのだ。そう考えれば辻褄があう。あれも、これも、すべてがつながってくる。

彼はまたテレビに向かって言った。わかっているぞ。わかっているぞ。自分をこんな目にあわせているやつらは大きな組織に属しているはずだということくらい。その組織はたぶん、おまえらメディアとつながっている。コンビニのむかつく店員も、何かに熱中しているときに限ってやってくるセールスマンも、何度もかかってくる間違い電話も、すべては大きな組織がおれにさし向けているのだ。おれは知らないうちにそいつらの標的にされている。

「おれが何もわからないとでも思っているのか!」
「おれを、甘くみるな!」
「おまえらの好きにさせるもんか!」

水槽の中で魚が動いたらしく、水がうねる気配がした。魚はすっかり成長して、いまでは30センチを超えていた。澱んだ水とよく似た鉛色の体が、澱んだ水をもわもわとかきわけて泳いでいる。水槽が狭そうにみえる。彼はしばし呆然とした。

───いつのまにこんなに大きくなった?

何年ぶりかでむかしつきあっていた女からメールがあったときは、魚はさらに大きくなっていた。彼は水槽のガラス越しにぶよぶよとふくらんだ魚を見ながら返信を打った。すぐにまたいい返事が来て、彼は返す。また返信がくる。会わない? 会おう。いつ? 今日でも。来いよ。おれひとりだから。

「へー。魚飼ってるんだ」
女は居間の水槽を一瞥して言った。
「ああ。別に飼ってるんじゃない」
「そうなの?」
「おれは魚を飼う趣味なんてない。時々はえさをやるけど」

言ってからはっとした。彼が曲がりなりにもえさのようなものを与えたのは最初だけで、すっかり忘れていた。少なくともふた月くらい、何も与えていない。

───なのに、なんでこいつはこんなに大きくなったんだ。

魚は長辺が70センチはありそうな水槽をきゅうくつそうに泳いでいた。いや、泳ごうとしてもがいていたというのが正しい。向きを変えるのもひと苦労のようだ。

「もっと大きな水槽を買ってほしいわよね、魚ちゃん」
女が魚に笑いかける。どっぷん、と水がうねる。

そのまま女との日々が始まる。女はこまめに食事をつくり、身の回りの世話をしてくれる。まったく違うペースで毎日が動いていく。悪くない。いつのまにか部屋が片付いている。どこかいいにおいがするのは花が飾ってあったりするからか。シャンプーやリンスが新しくなっている。おだやかに日が過ぎる。食べたことのない料理が出てくる。

「料理、うまかったんだ。知らなかった」
「うまくないわ。ふつうよ」
テレビで歌ってるのは最近売れているらしいグループだ。歌を聞きながらの食事か。いいかもしれない。だが。

「なんか様子が変だな、こいつ」
「変? 何が」
彼は水槽の中の魚を指さす。水槽はしんとしている。
「あら」

女も気づいた。魚が......縮んでいる。水槽からあふれそうだったのに、半分くらいにしぼんで、じっと底にうずくまっている。
「えさはやってるんだけど......」
「ほんとかい?」
「ほんとよ」
女はむっとして言った。
「病気かもしれないわねえ」

灰色の薄汚い魚に愛情を感じたことはなかった。出て行った妻や子どもは草花やベランダにやってくる小鳥にさえ名前をつけてかわいがっていた。愛情があれば名前をつけたくなるのかもしれない。彼は水槽にいるものを「魚」としてしか認識していなかった。どうすればそいつが喜ぶとかいやがるとかも考えようとしなかった。魚が同じ室内にいる状態を否定はしなかったがそれ以上ではなかった。

なのに、魚が急に元気をなくすと、そのことが頭を離れなかった。そして、黙り込んでそのことを頭の中でぐるぐるとめぐらせているうち、ふと「この女のせいかもしれない」という考えが浮かんだ。耳がぴんと立つ思いだった。まちがいない。彼は立ち上がった。

「何かおれにうらみでもあるのか」
男が尋常でない目をしているので驚きながら女は答えた。
「どういう意味?」
「あの魚に何かしただろ」
「してないわ」
「じゃあなんであんなに弱ってるんだ」
「知らないわ!」
「知らないはずがないだろ!」

彼は両の手にこぶしをつくり、ぶるぶると震わせていた。そんなことはひさしぶりだった。

「しらばくれるな。おまえも結局同じ仲間だったんだ。寄ってたかっておれをないがしろにしている。おれが、おれがいやな思いをして、いつもいらいらして、おれの毎日が、人生が台無しになればいいと思ってるんだ。そうだろ、正直に言えよ」
「なんのことかわからないわ」
「嘘を言うな!」
「嘘なんか言ってないわ」

女は泣き出した。彼はそれでも女をののしり続けたが、ふと首のあたりにぱしゃりと水がかかったので振り向いた。すると、彼は目を疑った。さっきまで水槽の底で縮こまっていた魚が倍以上にふくれあがり、今にも水槽のガラスを破りかねない勢いでのたうちまわっていた。

ぎらぎらと輝く鉛色のうろこにびっしりとおおわれ、はちきれそうな肉の塊が今にもこちらに向かって飛び出しそうだ。動くたびに水があふれ、水槽の回りはすでに水浸しになっている。うろたえる人間をあざ笑うように魚が口を開けると、鋭い歯が並んでいるのが見える。ああ! 彼は理解した。

───こいつは、人間の憎悪や敵意を吸収して成長するんだ。

彼は危険を感じ、自分を落ち着かそうとした。女をののしる言葉が自分の口から出るのをおさえた。そうだ。こうしていればこいつを制御できるはずだ。よし。制御するための方法さえわかっていれば、何も問題はない。彼は安堵しかけたが、それは計算違いだった。

「よくも、そんなことが言えたものね!」
涙をふき、顔を上げた女が激しい憎悪を込めて彼をののしり始めた。
「あんたみたいに人の心を理解せず、自分だけが被害者と思ってるような男はさっさと滅びればいいのよ! あんたなか大嫌い、あんたなんか、最低よ!」

魚は急激にその体をふくらませ、ついに水槽を破って飛び出した。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
< http://midtan.net/
>
< http://yamashitakuniko.posterous.com/
>

この頃急に暖かくなったが、ちょっと前、まだまだ寒かったときにカメラをぶらさげて近くの梅林に行った。見渡してもほとんど枝ばっかりだし、人もまばらだったのだが、それでもたまに、咲いてる梅がいた(いた、と書きたくなる)。おお、とカメラを向けて撮っていると、「咲いてますなあ」「いやあ、咲いてるやん」と、何人もの人に声をかけられた。「あっちのほうでも咲いてるで」と教えてくれる人もいた。花っていいものです。