映画と夜と音楽と...[586]あなたが...僕の目標でした
── 十河 進 ──

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〈『されどわれらが日々--』より 別れの詩〉

●小川知子の主演映画が公開されていた頃

──小川知子がいいぞ。すっかり、はまってる。
──「夕べの秘密」ですか? 僕は「初恋のひと」が好きですね。
──事務所でずっと聴いてるよ。
──広尾のお風呂屋さんの上でですか?
──あのビルから、移ったんだよ。
──そうですよね、三巻目の本、送ったのに住所不明で戻ってきました。

久しぶりに写真家の管洋志さんから掛かってきた電話は、そんな風に始まった。特に何か用事があったわけではなくて、「どうしてるかなと思って」だったという。僕の三巻目の本を送り戻ってきた後だから、3年前の春のことだと思う。管さんはずっと音羽の講談社の近くで事務所を持っていたが、数年前から自宅近くの広尾に事務所を移していた。

──小川知子が人気があった頃、管さん、もう日芸出てましたよね。
──人気があった頃って、いつだよ。
──70年代の前半ですね。「『されどわれらが日々--』より 別れの詩」とか、ルノー・ベルレーと共演した頃です。
──よく知ってるな、おまえ。あんなぶ厚い本が書けるわけだ。

あきれたように管さんは言った。管さんと映画や本の話をしたことは、ほとんどない。写真の話が中心だったけれど、管さんにはいつも様々なジャンルに対する深い知識と教養を感じた。仕事では、作家とのコラボレーションも多かった。一時期、村松友視(ホントは「示」に「見」)さんとはよく組んでいた。私生活でも親しかったのだろう、僕の会社から出した管さんの写真集の序文は村松さんが書いた。

序文の依頼状は僕が書いて、管さんに教えられたファックス番号に送った。しかし、送った後、僕はムラマツトモミを、「友視」と書いてしまったことに気付いたのだ。正しくは「示」に「見」と書かなければならない。有名な直木賞作家の名前を間違えた僕は、頭を抱えた。管さんに電話すると、「すぐ詫びのファックス入れれば大丈夫。とっても優しい人だから...」と、いつものように低く響く落ち着いた声で答えた。




それにしても、「管さんが...小川知子?」と電話を切ってから僕は思った。団塊世代なら小川知子ファンは多いだろう。管さんは、終戦の年の生まれだ。団塊世代よりは少し年上になる。小川知子が「『されどわれらが日々--』より 別れの詩」(1971年)に主演したとき、管さんは木村恵一さんと熊切圭介さんの写真事務所K2の助手をやっていたのではあるまいか。柴田翔の「「されどわれらが日々─」は、管さんの青春時代にベストセラーになった小説だから、案外、見ているのかもしれないなと考えて笑みが浮かんだ。

「『されどわれらが日々─』より 別れの詩」は橋本忍が脚本を書き、森谷司郎監督が映画化した。小説の中で使われ、多くの人が口にした「あなたが、私の青春でした」というフレーズが内容を象徴するように、左翼青年たちの挫折の物語である。青春、恋愛、革命、学生運動、当時の若者たちの最も深刻なテーマが、山口崇と小川知子という人気スターを起用して描かれた。今では、もう忘れられた映画かもしれない。

●数え切れない人に世話になってきたけれど

僕が社会人になって38年が過ぎた。数え切れない人に支えられ、世話になって何とかここまでやってきた。その長い年月の中で、特別に世話になった5人を挙げろと言われたら、間違いなく管洋志さんが入る。入社早々、僕のいた編集部に撮影の打合せでやってきた管さんに会ったのが最初だったが、そのことは管さんの記憶にはまったくなかった。今思えば、管さんは30になるかならない頃だったのだ。

その後、何度か事務所にも写真を受け取りにいったのだが、そのことも管さんはまったく憶えていなかった。単なる「お使いさん」だったからだ。僕が30を過ぎ、写真雑誌の編集部に異動になり、「母と子の自然教室」の撮影を担当していた管さんの写真を借りにいったときが、管さんが僕を記憶した最初だった。講談社の仕事が多かった管さんは、地下鉄の護国寺駅からすぐのところに事務所を構えていた。

毎年夏休みに何日間か、母子家庭の子供たちを招いて開かれている「母と子の自然教室」は三菱関連の企業が行っている事業だった。お姉さんの関係だったのか、管さんはその記録写真をずっと撮影していた。僕は事務所で膨大な写真を見ながら、それらから伝わってくる「爽やかさを感じる何か」に精神が高揚するのを感じたものだった。

ボランティアであり、企業にとっての社会貢献事業である。若かった僕は、そうしたものから善意を感じるよりは、「善行を施している自己満足」あるいは「利潤追求をする大企業のアリバイ」を読み取ってしまうひねくれ者だった。しかし、管さんの写真からは、そんなものはまったく感じなかった。自然の中で笑顔になっている子供たち、ボランティアのお姉さんたち、女手ひとつで子供を育てている母たちが生き生きとした表情で写っていた。

「文は人なり」という言葉があるが、写真にも撮影者の人格は表れる。その写真から伝わってくる爽やかさは、無邪気な笑顔の母と子が写っているという要素だけではなく、撮影者の人柄から生まれているものだった。仕事として人物の写真を撮るのはむずかしい。相手が撮影を了解しているとしても、それを仕事として発表するのが前提だ。だから、スナップやドキュメンタリーとして人物を撮影する写真家には何らかの葛藤がある。しかし、管さんの写真はそんなことを軽々と超えているように見えた。

それから10年、写真雑誌の編集部にいた頃、僕は何かと管さんを頼った。時間ができると事務所に顔を出し、写真の話をした。そのときに、管さんの最近の仕事や予定しているロケの話なども出る。別の仕事で海外へいくという管さんに新型カメラを託し、「テストしてきてくださいよ」などと頼んだ。どういうわけか、管さんはどんな無理でも聞いてくれた。暖かい人だった。怒ったことは見たことがなかった。

富士フイルムがカラーリバーサルフィルムに力を入れることになり、新しいフジクロームのラインナップが揃った頃、アジアの撮影に出るという管さんにフィルムを託しテスト撮影を頼んだことがあった。微粒子の低感度フィルムとしてプロが愛用していたのは、コダックが出していたコダクロームが主流だった時代のことだ。管さんも「アジアの色はコダクロームなんだよな」と言っていた。

しかし、その撮影でフジクロームを使った管さんは、その後、新しいフィルムを使うことに熱心になった。探求心の旺盛な人だったのだ。同じ被写体をコダクロームとフジクロームで撮影したポジを事務所のライトボックスに並べ、丹念にルーペで覗き、それぞれの特徴を明晰に話す管さんの声が今も甦ってくる。その言葉を、僕はきちんと記事にできたのだろうか。

●大晦日の近い日光東照宮を真夜中に歩きまわった

管さんのおかげで得難い体験をしたことはいくつもあるけれど、極めつけは大晦日間近の日光東照宮を深夜に歩きまわったことだろうか。ある雑誌の大特集で日光東照宮を撮影した管さんはその奥深さに魅了されたのか、日光をテーマに何年もかけて撮影を続けていた。そんな話を聞いていた頃、暮れに事務所に顔を出したとき、「年末に家族と日光にいくんです」と話したら、「ちょうどその日は日光の撮影がある。よかったら見にこいよ」と管さんは気軽に言った。

年末年始休暇に入った初日、たぶん12月28日のことだと思う。僕は出版健康保険組合が運営する日光の保養所に家族を連れて出かけた。その夜も更けて全館が寝静まった頃、部屋のドアをノックする音がした。ドアを開けると管さんが立っていた。「フロントに誰もいないんで覗いたら、おまえの部屋番号が書いてあったから入ってきちゃったよ」と笑った。僕は慌てて身支度をし、なぜかふたりで足音を忍ばせて廊下を歩き、泥棒のように音を立てずに保養所を出た。

保養所は東照宮とは渓流を挟んだ対岸にある。そのときの助手が誰だったか忘れてしまったが、彼と管さんと三人でシトロエンに乗り東照宮に向かった。まだ午前零時にはなっていなかったはずだ。東照宮では、数人の宮司さんたちが迎えてくれた。東照宮の写真クラブの人たちだという。中には首から一眼レフを提げている人もいた。すっかり管さんとは仲良くなっていた。そう、管さんは仲間を作る天才だった。管さんに頼まれれば誰もが喜んで協力し、進んで被写体になった。

澄み切った冬の夜だった。幽かな光が幻想的に東照宮を浮かびあがらせる。頭を巡らせると、大木のシルエットが連なる森が見える。夜は日光東照宮を別世界にしていた。冷気が支配する。宮司さんたちの吐く息が白く浮かび上がる。正月支度をした東照宮を、深夜に眺めている不思議さが身に沁みた。現実なのだろうか、という思いが湧いてくる。

管さんは三脚を据え、一眼レフをセットする。長時間露光での撮影だ。何時間もシャッターを開いたまま撮影する。一台のカメラで撮影できるのは、ひと晩に数カットだ。その頃は、シャッターが開いている間ずっと通電しているタイプのカメラが多かった。管さんが使っていたのは、機械式でシャッターを開いたままにできるカメラのはずだ。そうでなければ、カメラのバッテリーが保たない。

陽明門の正面に立って眺めると、その延長上に北極星があると教えられたのは、そのときだったと思う。管さんは陽明門に向けてカメラをセットした。陽明門の背後の夜空に、北極星を中心にした星の軌跡が円弧を描いて写るはずだ。その絵柄を僕は想像した。幽玄な幻想の世界である。半村良の小説だったか、日光東照宮には徳川家安泰を願う様々な不思議な仕掛けがあるという伝説が浮かび上がってきた。

気が付くと午前2時をまわっていた。数か所にカメラを据え終えた管さんは、ようやくひと息をついた。東照宮に詳しくない僕は、どこをどう歩きまわったのか、まるでわからなかったが、自分が二度とできない体験をしているという高揚感があった。「宿までソゴーを送ってやってくれ」と、助手の人に言う管さんの言葉で現実を取り戻した。

「大日光」という写真集が刊行になり、池袋の東武百貨店(だったと思う)で大々的に「大日光 管洋志写真展」が開かれたのは、その数年後だっただろうか。僕は写真展の仕掛けの大きさに感心した。管さんは、大仕掛けな写真展が好きだった。原宿ラフォーレで開催したバリ島の写真展のときには、大きなパネルを天井から吊り下げ、バリ島から影絵を操る人、民族音楽を奏でる人たちを呼んだことがあった。

●パーティで偶然会う機会を待っていたのに

4月11日の夕方、仕事を終えてパソコンをダウンさせる前に最後のメールチェックをしたとき、日本写真家協会から入ったメールのタイトルに思わず声を挙げた。管さんの訃報だった。その瞬間、暮れの日本写真家協会のパーティに欠席したことを悔やんだ。出ていれば、管さんには会えたのだ。昨年、写真家の和田直樹さんが新宿ニコンサロンで写真展を開いたとき、久しぶりに管さんに会えるだろうと期待してオープニング・パーティに顔を出した。

和田さんの写真展の前に「管さんがガン治療に通っている」とは聞いていた。心配はしていたが、特別に連絡するのもはばかられ、写真展のオープニングパーティで偶然会うという機会を待っていたのだ。しかし、その夜、管さんには会えなかった。「夕方に見にきてくれて、今日は放射線治療にいくといって帰られたんですよ」と和田さんに教えられ、僕はひどくがっかりした。管さんの元気な笑顔が見たかった。

管さんと親しかった数人の会社の先輩に訃報を転送した。その転送メールには「絶句です」としか書けなかった。気が動転しているのがわかった。今まで何人かの親しい人の死を知らされたが、こんなに衝撃を受けたのは初めてだった。地に足がつかない状態でフロアを出て、帰宅の電車に乗った。電車の中で携帯が鳴り出し、見ると先ほどメールした先輩の名前だった。電車を降りて掛け直すつもりで、受信を切った。

駅でリダイヤルすると、予想外の声が「あっ、ソゴーさん。帰宅途中にすいません。和田さんという写真家の方から緊急で連絡したいと電話があったもので...」と言う。先輩の声を予想していた僕は、わけがわからなくなった。この声は社員のIくんだと思った瞬間、ようやく僕は理解した。先輩の在職中の電話番号から社員のIくんが電話したので、先輩の名が出たのだ。携帯電話のリストを僕が修正していなかったからだった。

僕は和田さんがIくんに伝えた携帯電話の番号に改めて電話した。電話に出た和田さんに名乗り「管さんのこと?」と言うと、「伝わってましたか。新聞やマスコミには知らせないということらしいのですが、ソゴーさんは別だから...」と和田さんが言った。その言葉で涙があふれた。管さんとの30年が甦った。「家族葬となってたけど、お通夜にいけば焼香できるんだよね」と鼻声で訊いた。「もちろんです」と和田さんの声が聞こえた。

不意に、小川知子に関する会話が浮かび、「あなたが、僕の......でした」という言葉が頭をよぎった。だが、そこにどういう言葉を入れればいいのだろう。管さんには数え切れないほどの恩義はあるが、「恩人」ではしっくりこない。兄貴、先生...様々に思い浮かべ、「無頼」の人斬り五郎が敬意を込めて口にする「先輩」という言葉が浮かんだ。いや、違う。やはり「目標」がふさわしい。僕は...管さんみたいになりたかった。管さんみたいに自由に軽やか、そして穏やかに生きたかった。

──あなたが...僕の目標でした

いろんなことを教えてもらった。無理を聞いてもらった。多くの人を紹介してもらった。人生の岐路で指針を示してもらった。自然体で生きる姿を見せてもらった。それから......スコットランド取材の後、「本場のシングルモルトがあるから事務所にこいよ」と呼んでもらった。土門拳賞が内定したとき、他に喜びを共にする人がいるはずなのに、なぜか僕に電話をもらった。もちろん、その夜は飲み明かした。

電車の駅を出て自宅へ向かうバスに乗り、窓に顔を寄せ暗い外の風景を眺めながら、僕は「そよ風みたいにしのぶ...」と小川知子の「初恋のひと」を口ずさんだ。電話の向こうで、管さんが笑っていた。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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安らかな顔をした管さんと最後のお別れをしてきました。それにしても僕の前に数百人。僕の後ろに数百人。あんなに大勢の弔問客を見たのは初めてです。誰からも愛されたひとだったと改めて感じ入りました。

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< http://forkn.jp/book/3701/
> 黄色い玩具の鳥
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> 愚者の夜・賢者の朝
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