映画と夜と音楽と...[590]満足したらオシマイか?/十河 進

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〈キャンベル渓谷の激闘/ドクトル・ジバゴ/棒の哀しみ/青春の蹉跌/恋人たちは濡れた〉

●大きなホームセンターの一角に安売りDVD売り場がある

先日、散歩がてら近くのホームセンターにいった。大きな店で何でも揃う。園芸用品も日曜大工用品もあるし、ペットショップまである。僕は、いつも熱帯魚コーナーでじっと水槽を眺める。きれいに照明され、キラキラ光るネオンテトラや小さなエンゼルフィッシュが泳ぎ、ぶくぶくと泡が立ちのぼり、ゆらゆらと水草が揺れる。「癒される」とは、こういうことなのか。

そのホームセンターの一角に、安売りDVD売り場がある。時間があると掘り出し物はないかとタイトルを指でたどる。以前、若きダーク・ボガード主演の「キャンベル渓谷の激闘」(1957年)はここで見付けた。イギリス冒険小説の雄ハモンド・イネス原作の映画で、ずっと見たかったのに見る機会がなかったのだ。ラストシーン、イギリス正統派冒険小説らしいヤマ場がある。「やっぱり、こうでなくちゃ〜」と、思わず僕は独り言を口にした。

同じときに「ドクトル・ジバゴ」を見付けたので、おおっーと思って手に取ったら何とキーラ・ナイトレイ主演だった。デヴィッド・リーン監督、オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティー、ジェラルディン・チャップリン、ロッド・スタイガー出演の「ドクトル・ジバゴ」(1965年)は僕にとっては生涯の一本で、中学生のときから何度も見た。しかし、LDプレイヤーが壊れて見られなくなった(「ラーラのテーマ」が聴けなくなった)ので、DVDがほしかったのだ。




それにしても、キーラ・ナイトレイがラーラをやっているとは知らなかった。キーラ・ナイトレイは有名な文学作品のヒロイン役が多く、僕は「世界文学全集女優」と名付けているが、ノーベル賞作家パステルナーク作品にまで出演しているとは驚きである。ディケンズ、ジェイン・オースティン、イアン・マキューアン、カズオ・イシグロときて、これから公開される予定なのがトルストイ原作「アンナ・カレーニナ」(2012年)だ。

もちろん、僕はキーラ・ナイトレイ版「ドクトル・ジバゴ」(2002年)を買った(だって、500円ですよ)。映画としてはデヴィッド・リーン版にはおよばなかったけれど、ロッド・スタイガーが演じた役をサム・ニールが憎々しげにやっていて、これはこれで面白かった。サム・ニールの代表作「ピアノ・レッスン」(1993年)のときの彼の雰囲気に近かった。

さて、先日、棚を見ていて「棒の哀しみ」(1994年)を見付けた。その瞬間、僕は小躍りした。誰もいなかったら「ついに...見付けた!」と声をあげていたはずだ。それほど見たかった映画だった。980円、迷わず僕は手に取り、もう一本目に付いたコッポラの「コットンクラブ」(1984年)と一緒にカウンターに差し出した。こちらは500円だった。ダイアン・レインに申し訳ない。

後で知ったのだが、「棒の哀しみ」は今年の一月末にDVDが出たばかりだったのだ。それも安売り価格の980円での発売である。ベストセラー作家・北方謙三さんの原作なのに、何だかバッタもん扱いだなあ、と僕は少し気になった。画質もあまりよくない。正規版なのかよ、と気になった。監督の神代辰巳はすでに亡いが、主演の奥田瑛二は今や大物俳優である。まあ、安い分にはいいんだけど......

撮影現場の取材記事が「キネマ旬報」に載ったのを憶えていたので、バックナンバーを探したら1994年8月下旬号だった。この撮影のとき、神代辰巳監督は車椅子に座り、酸素吸入をしながら演出をしたという。取材記事と共に掲載されている現場写真では、確かに酸素吸入の透明な管を鼻に差し込んでいる。「棒の哀しみ」の公開は1994年の秋だったが、翌年の2月、神代監督は亡くなった。劇場公開作としては、遺作になった。

●入社面接で語ってしまった「青春の蹉跌」への思い入れ

僕が今の出版社の筆記試験に通り一次面接を受けたのは、1974年の暮れのことだった。狭い部屋に机を挟んで大勢の人がいた記憶があるけれど、入社後に確認したら編集長クラスの人たち6人が面接官だった。こちらはひとりだから、6人もいれば質問はあちこちから飛んでくる。僕は写真雑誌の編集部を志望していたのに、ある人が「君は応募書類に映画が好きと書いてあるね。最近、印象に残った映画は?」と質問し、するどく僕は反応した。

僕はすぐに「神代辰巳監督の『青春の蹉跌』がよかったですね」と答えたのだ。当時、僕が最も共感していた映画である。「どう、よかったのかね?」と、白髪頭のオジサンが突っ込んできた。僕の独演会が始まった。主人公の青年が雪の降り積もった山中で、妊娠した恋人を殺すシーンのカット割り、撮影アングルを克明に説明し、神代監督がいかに「生きていくことのせつなさ」を表現したかを、身振り手振りを交えて力説した。

語っている途中から、僕は面接の場であることを忘れた。単なる映画マニアになっていた。ワンシーンを克明に描写する。主人公を演じたショーケン(萩原健一)と恋人役の桃井かおりがもつれるように雪面を滑り落ちていく。カメラが仰角で捉える。ショーケンは殺人者の顔ではなく、まるで自分が殺されるような表情だった...などと僕は語った。どれほどの時間そんな話をしたのか、自分でもわからなくなっていた。

それまで出版社ばかり10数社落ちていたから、その日、帰宅して「今度もダメだろう」と僕は思った。僕は23歳、映画の話になると夢中になった。若いだけにこだわりがあり、好きだとなると見境がつかなくなった。その年の夏に「青春の蹉跌」は公開になり、ロマンポルノの神代辰巳が初めて一般映画を撮ったと評判だった。僕は、数カ月後、銀座並木座で「青春の蹉跌」(1974年)を見た。晩秋だったから、主人公のせつなさが身に沁みたのかもしれない。

学生運動に挫折した主人公は、司法試験をめざして勉強している。女子高生(桃井かおり)の家庭教師を始めるが、その娘と日常的にセックスする関係になる。やがて司法試験にも順調に合格し、金持ちの娘(壇ふみ)と知り合い恋仲になり、大学に合格した女子高生と別れようとするが、彼女は妊娠したと言う。堕胎するにも手遅れで、主人公は心ならずもスキー場で女を殺し埋める。

よくある物語なのに、石川達三の原作は僕が高校生の頃にベストセラーになった。石川達三をバカにしていた僕(および友人たち)は誰ひとり読まなかったが、ベストセラーリストの一位を長く保っていた。だから神代辰巳監督が映画化作品に選んだことが意外だった。他の監督なら見にいかなかった。ところが、その映画は僕を打ちのめした。当時の若者たちの閉塞感を、見事に描き出していた。

いつも気怠そうな主人公にショーケンはぴったりだった。司法試験を受け、金持ちの令嬢と結婚しようという上昇志向にあふれた青年には見えなかった。すべてがどうでもいい、という風に生きていた。「エンヤトット、エンヤトット」というつぶやきが彼の気怠い動きに重なる。何もかもがどうでもいいのに、何かに促され心ならずも人を殺すことになる。悲劇なのに、声高に何かを主張するわけでもない。グジュグジュとつぶやき続ける映画...それが僕の気分に合致した。

●平凡な名前を持ち勤め人にしか見えないヤクザのボヤキ

「青春の蹉跌」から20年、「棒の哀しみ」はショーケン主演でもよかったかもしれない。「棒の哀しみ」の主人公であるヤクザの田中(奥田瑛二)は、間違いなく「青春の蹉跌」の主人公の20年後の姿である。彼は「エンヤトット...」とつぶやく代わりに、ブツブツと独り言を言い続ける。「俺はチンピラが性に合ってるんだ」と、自室の床を雑巾掛けしながら口にする。しかし、彼は田中という平凡な名前を持ち、普通の勤め人に見えるけれどヤクザの幹部なのだ。

19歳で組に入り中年になる現在までに数度、合計8年間は刑務所の中だった。「刑務所が長かったから、独り言いう癖、ついちゃったのかな」と、やはり掃除をしながらつぶやいている。彼の独り言が観客に何かを伝える。それは喋っている言葉の意味、そのままではない。独り言を言い続ける田中というヤクザの心の奥底にある、言葉では言い表せない何かを伝えてくる。

「青春の蹉跌」の主人公が「エンヤトット、エンヤトット...、松島ぁーの...」と節をつけて意味のないかけ声をつぶやくとき、彼のせつなさ、やるせなさ、不安、怖れ、閉塞した気分、何かを壊したいような衝動...が観客に伝わってきたように、田中というヤクザがのべつまくなしに喋る独り言が、彼の「生きるせつなさ」あるいは「心の空隙」を伝えてくる。こんな表現は、神代辰巳監督にしかできない。

「棒の哀しみ」の中に田中がビデオを見るシーンがある。そこに引用されるのは、神代監督自身の初期作品「恋人たちは濡れた」(1973年)だ。日活ロマンポルノの初期、神代監督が高く評価されることになった作品群の一本である。ひとりの青年が数年ぶりに故郷に帰り、映画館に職を得る。彼は「青春の蹉跌」の主人公のように、何もかもどうでもいい気分で生きている。

彼は、何人かの女と関係を持つ。といって、積極的に女と寝たい風でもない。すべてのことに熱意が持てない。当時の言葉で言えば「しらけている」のかもしれない。彼はつぶやくようにしか言葉を口にしない。女たちも気怠い雰囲気をまき散らす。男と女は出逢い、馬跳びをしたり、自転車に二人乗りをしてフラフラと漂う。そして、そんな意味のないシーンから、生きていることのせつなさ、やるせなさが伝わってくる。

「棒の哀しみ」の田中は、薄汚いヤクザだ。子分を言いくるめて鉄砲玉に仕上げ、身代わりでの自首を強要し、目を付けた堅気の若い女を犯して娼婦に堕とす。うまく話を付け出入りをまとめて組に貢献したのに、オヤジ(平泉成)から「自分の組を持て」と言われ本家の跡目を外される。跡目が決まった弟分にしつこく嫌みを言う。本家から預かった覚醒剤ルートと別に独自のルートを確立すると、本家に儲からなくなった覚醒剤ルートを恩を着せて返す。

田中は組織の中でのし上がる。目を付けていた堅気の娘を堕とした後、情婦(高島礼子)にやらせているクラブのソファの上をゴソゴソ動きながら、「不満がなくなってきた。不満がなくなると、どういうことになるのか、怖い気がする」と独り言を言う。彼の不満は本家のオヤジが死に、跡目を継ぐ弟分が自分に詫びを入れ、覚醒剤のシノギがうまくまわりだすことで解消されたのか? 不満がなくなり、現状に満足したのか? もう、独り言を言わないですむのか?

●不満がなくなった人間は堕落するだけなのだろうか?

----満足したらオシマイよ

昔、僕にそう強い語調で言った同級生がいた。何かにつけ本質的なことを、歯に衣着せず口にする女のコだった。その言葉がどういうシチュエーションで出てきたのか、今となっては何も憶えていないけれど、彼女がそう言ったときの口調も、抑揚も、表情も、言い終わった後の唇の輝きも、僕は甦らせることができる。そう、満足したらオシマイなのだと、そのとき僕も納得したからだ。

不満...という言葉が当たっているのかどうか。現状では充たされない何か、漠然とした隙間のようなものを多くの人は抱えている。あるいは、何らかの鬱屈したもの、ルサンチマン、正体のはっきりしない不安感、そんなものを人は胸に秘めて生きている。若い頃は特にそうだった。振り返れば、僕も強烈な飢餓感を感じていた。何かが充たされない。何かが足りない。そんなことが「生きるせつなさ」につながったのかもしれない。

結婚し子どもができ、安定した会社で仕事に自信がつき、己自身を壊してしまいそうなほど感じていた飢餓感はおさまったが、それでも何かが充たされない...という気分は長く残った。それは、誰もがたどる途だったのか? 歳を重ね、キャリアを積み、会社の役職が上がり、給料が増え、子どもが育ち、それなりの学校に入り、充ち足りた生活になったかに思える頃、それが故に「充たされない何か」を感じていた。

このコラムを書き始めた10数年前、僕はそんな「ミドルエイジ・クライシス」を迎えていた。いわゆる「中年の危機」だ。その頃のコラムを読み返すと、そのことがよくわかる。若い頃の僕は「青春の蹉跌」のショーケンのように鬱屈を抱え込み、飢餓感に充ちていた。それから20年経った中年の僕は、「棒の哀しみ」の奥田瑛二のように、心のどこかに空隙を感じながらブツブツと独り言を言うことで、「充たされない何か」と折り合いを付けていた。

60を過ぎリタイアを決めた今、自分にこれと言った不満がないことに僕は愕然とする。もうしばらく働く気もあったが、辞めて役に立つのなら...と思って決断した。ナンバーツーでの勇退だ。まさか自分が...と思うけれど、よくここまでがんばったと自分を誉めてもいい。年金が出るまで間があるので多少の不安はあるが、食べていけないことはないだろう。本も出したし、キンドルで長編ミステリも並んでいる。売れてはいないが、少しは夢に近づいた。

そんな自分を「そんなことでいいのか。満足したらオシマイだぞ」と問い詰めると、「満足はしていない。時間ができたらやりたかったことをやるつもりだ」と居直る。時間がどれだけ残っているかわからないが、やりたいことは残っている。しかし、田中のように「不満がなくなってきた」とは感じている。こだわりがなくなったからか、不満もない。もう、僕は「青春の蹉跌」のショーケンには戻れない。

「棒の哀しみ」のラストカットは、腹心の代貸(哀川翔)と本家を継いだ弟分(白竜)を両脇に従えて座る田中の姿である。田中がタバコをくわえると代貸がライターを差し出す。弟分もためらいがちにライターを出す。田中は弟分のライターで火を点け、充ち足りてタバコを吹かす。分家の組長が組織内で最高権力を握ったのだ。彼は満足してしまったのか。満足した人間は堕落する。現状を守ろうとするからだ。彼も、堕落するしかないのだろうか? そして、僕も......

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

そろそろ梅雨に入る。季節としては嫌いではないが、朝起きて雨が降っていると気分が沈む。通勤に90分かかるから、うんざりするのだ。バスも混むし、道も混む。電車の中では隣の人の傘のしずくがズボンの裾を濡らす。湿気が多くて、蒸し暑い。それでも梅雨がないと田植えができない。

●長編ミステリ三作が「キンドルストア(キンドル版)」「楽天電子書籍(コボ版)」などで出ています/以下はPC版
< http://forkn.jp/book/3701/ > 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/ > 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/ > 太陽が溶けてゆく海
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「映画がなければ生きていけない2007-2009」2,000円+税(水曜社)
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