[3501] 伏線がすべてつながる快感

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《求めているのは「システム内カオス」》

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 伏線がすべてつながる快感
 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[593]
伏線がすべてつながる快感

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20130621140200.html >
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〈アヒルと鴨のコインロッカー/フィッシュストーリー/陽気なギャングが地球を回す/ポテチ/極道めし〉

●伊坂幸太郎人気を裏付ける入社志望者たちの答え

会社でリクルート業務の担当になって10年が経つ。入社や退社などの人事も担当するようになったからだ。募集広告を出し、入社試験を作成し、試験日に立ち会い、書類選考をして面接の設定をする。一次面接から最終面接まで、すべて立ち会う。それだけ応募者を見ているのに、入社してから「こんな人間だったのか」と思うことも多い。短い時間の面接だけでは、人は判断できないとつくづく思う。

面接では、必ず質問することがある。「本が好きか」ということだ。出版社に入りたいのだから本好きだろうと思うと、案外、そうでもない。いろんな人がいる。タレントに会えると思って応募してくる人もいる。「本が好きだ」と答えた人には、「どんな本を読みますか」と続けて訊く。雑誌名をあげる人もけっこういる。ウームと腕組みしたくなる。「小説とか...」と答える人がいると、「どんな作家を読みますか?」と追い打ちをかける。

緊張しているのか、とりあえず「小説とか...」と答えたのかわからないが、「どんな作家?」と訊いて、すぐに返事が返ってきたことはあまりない。しばらく考える人が多い。考えた末「......とか」と自信なさそうに答える。意地の悪い僕は、「その人の作品をいくつかあげてみてください」とさらに追及する。僕も面接ではいい思い出はないが、応募者の人たちには「しつこい面接官だな」と恨まれているかもしれない。

ここ数年の面接では、「どんな作家を読みますか?」と訊くと、「伊坂幸太郎さん」と答える人が増えた。というか、ほとんどの人が「小説なら伊坂幸太郎さん」と答える。「山田風太郎」と答える人は誰もいない。僕は、伊坂作品をほとんど読んでいなかった。昔、「魔王」という中編を読んだことがあるくらいだ。それも、確認のための資料的な読書だったので、個人的な興味から読んだわけではなかった。

伊坂作品を読んでみようかなと思ったのは、「アヒルと鴨のコインロッカー」(2006年)を見たからだった。この映画がどのように気に入ったかは、「映画がなければ生きていけない」第三巻の「友よ、答えは風の中にあるか?」という回で書いている。その映画の何もかもが僕には気に入ったのだ。犯罪とまでは言えない事件があり、その謎だけで最後まで見せるし、ラストで鮮やかに違う世界に連れていってくれる。

ちょうどその頃、「ゴールデンスランバー」が話題になっていたので、初めて本屋さん大賞受賞作を読んでみた。あまり感心しなかった。以来、伊坂さんの小説は読んでいなかったが、文芸誌に掲載された作品をまとめた年度別アンソロジーに入っていた「PK」を読んで感心した。純文学系の雑誌に掲載された短編のようだが、元々、エンターテインメントの中に文学性を感じさせる作家ではあった。

伊坂作品はあまり読んでいないのに、伊坂幸太郎原作の映画化作品は9本中7本を見ている。どれも記憶に残る鮮やかなラストを持つ作品ばかりだ。原作をかなり膨らませた「フィッシュストーリー」(2009年)も、この物語はどう収拾するんだと心配しながら見ていたが、ラストにいたってすべての伏線がつながり、「ああ、そういう結末になるのね」と関心した。頬がゆるみ、ほのぼのした気持ちになった。

「フィッシュストーリー」には地球にぶつかる巨大な隕石の話があり、ロックグループがラストアルバムを作る物語があり、ロックグループのアルバムを聴く気の弱い青年が友人に女性を奪われる話があり、女子高生が「正義の味方」に救われる話がある。売れないロックグループが最後に出したアルバムには無音の箇所があり、謎のアルバムとして伝説になるのだが、数10年後、そのことが地球を救う。関連なさそうなエピソードが最後にすべてつながるのが伊坂ワールドだ。

●伊坂幸太郎の小説を4本も映画化している中村義洋監督

「陽気なギャングが地球を回す」(2006年)は、実にポップな犯罪映画だった。佐藤浩市が楽しそうにギャングを演じていたのが印象に残っている。物語の細かなところは忘れてしまったが、どんでん返しに次ぐどんでん返しがあり、実はこういうことだったのだという謎解きが逐次入ってきて、意外性に唖然としているうちに映画が終わってしまった。エピローグも楽しい。

「アヒルと鴨のコインロッカー」はボブ・ディランの「風に吹かれて」が流れ、映画ならではの効果をあげている。若き濱田岳がいいし、瑛太のミステリアスぶりが印象的だ。最後の謎解きシーンで瑛太が「隣の隣だ」と言ったとき、そのトリッキーな伏線に「畏れ入りました」と脱帽した。トリックは、大仕掛けである必要はない。人の盲点をつけば、謎が明かされたときに人は目から鱗を落とす。「なるほど」と膝を打つ。快い裏切りに浸る。

それには「コロンブスの卵」的な発想が必要だ。ミステリを書くのは相当大変だろうが、伊坂幸太郎が人気があるのは日常的な物語が展開し、その中で鮮やかな意識の転換がなされるからではないだろうか。そして、これを特筆したいのだが、後味がいい。ヒューマニズムにあふれていて、作品に志を感じる。きっと、いい人なんだろうなあと思う。

そんな伊坂作品がよほど気に入ったのだろう、中村義洋監督は伊坂幸太郎の小説を4本映画化している。「アヒルと鴨のコインロッカー」「フィッシュストーリー」「ゴールデンスランバー」(2009年)「ポテチ」(2012年)と6年間で4本である。「ポテチ」には中村監督自身が出演しており、それは監督をイメージして伊坂幸太郎さんがアテ書きしたキャラクターだという。

伊坂幸太郎原作の映画化作品で僕が気に入っているのは、どれも中村義洋監督のものばかりだ。金城武が死神を演じた「死神の精度」(2007年)と、加瀬亮と岡田将生の兄弟が連続放火の謎を追う「重力ピエロ」(2009年)も面白かったけれど、どことなく深刻な雰囲気があり、もう一度見たいかと問われると首を振る。謎がわかってしまえば、改めて見る気にはならない。

もちろんどの作品もミステリアスでサスペンスフルなのだが、中村監督作品には笑いがある。サスペンスを感じつつ、頬がほころびてしまう。ニヤリとする。肩の力が抜けているのだろう。それでも、見終わって感動するのだから大したものだ。前述の「フィッシュストーリー」のめまぐるしい展開が、最後に収斂されていく鮮やかさは見事だし、思い出すと笑ってしまう。

「フィッシュストーリー」とは、英語で「ホラ話」の意味がある。釣り上げた魚の話は、どんどん大物を釣り上げたことになりがちだからそんな意味になったのだろう。「フィッシュストーリー」という本にまつわるエピソードが映画の中で描かれる。それも意外な仕掛けになっていて、すべてが伏線だったのがわかる。それにしても、よくこんなにいろんな伏線を考えつくものだ。

●とぼけた会話と絶妙の間に思わずニヤリとする

伊坂幸太郎原作、中村義洋監督の最新作は「ポテチ」である。東北大学に入学し仙台に住んで以来、伊坂幸太郎はずっと仙台在住で、小説の舞台もすべて仙台である。東北大震災のときには、仙台も大きな被害を受けた。「ポテチ」の仙台ロケのときにも、まだ地割れや傾いた電柱などがそこかしこに残っていたという。

「ポテチ」は短編集「フィッシュストーリー」に収められた書き下ろし短編だ。僕は映画が気に入ったので、確かめる意味もあり短編集を読んでみた。その結果、この愛すべき小品は中村監督のために書き下ろされたモノだと確信した。物語が映像的だし、映像化されたときの膨らまし方まで想定しているような短編だった。それに、中村監督のアテ書きキャラクターも登場する。

「ポテチ」は、上映時間68分の小品である。映画は映画館で一日に何回上映できるか、などで時間を計算される。長すぎると回転が悪いから、「もっと切れ」となるし、短いと料金がとれないなどと発想する。別に時間に金を払っているわけではない。面白ければ短くても文句はない。無駄に冗長な映画が多すぎる。そうは思いませんか?

主演は濱田岳。「伊坂幸太郎原作、中村義洋監督、濱田岳主演の映画にハズレなし」と言いたくなる。もっとも、小柄で気の弱そうな役が多い濱田岳は、今後の役柄に苦労しそうな気がする。その濱田岳が演じる今村が、公園のベンチで黒澤(大森南朋)と話しているシーンから映画が始まる。望遠レンズで明るい鮮やかな緑の背景をぼかした美しいオープニングだ。

ふたりの会話がとぼけている。会話の内容もおかしいが、間が絶妙でニヤリとする。その会話の中で黒澤がひとりで仕事をする泥棒であり、今村が親分と組んで仕事をする泥棒だとわかる。黒澤が「おまえの親分」と言うと、「親分じゃなくて専務です」と今村が訂正し、「会社作ったのか」「泥棒が会社作るわけないじゃないですか」と続く会話で笑ってしまう。

タイトルバックが終わり、泥棒に入っている今村が映る。彼は部屋にあったジムの機械で筋トレを始める。「何してんの」とあきれたような女の子の声が聞こえ、その意外性に驚く。「きみの仕事をしているときの姿を見るために、こんな服着てきたんだから」と、彼女(今村が「若葉さん」と呼ぶ)は服を見下ろす。今村と若葉は、人に会っても怪しまれないようにガス屋の作業服と帽子を身に着けている。

いきなり、大きな電話のベルが鳴り響く。観客を思わずビクッとさせる効果を狙っている。ふたりはギクリとして電話を見つめる。「前にもこんなことがあったね」と今村が言い、いきなりカットが変わると豪華なマンションの部屋に忍び込んでいる親分(中村監督)と今村がいる。バカな話をしていると電話が鳴り、その部屋の男に騙された女が留守番電話に恨み言を吹き込み、「あんたのこと遺書に書いて屋上から飛び降りる」と宣言する。

無視しようとしたふたりだが、気になって「今の番号にかけ直してみます?」と今村が言う。「死んじゃったのかな、もう」と受話器を持ってリダイヤルすると、「死んじゃったって何よ」と元気のよい女の子の声がする。「死んじゃうから」と言う女の子に今村は、いきなり「キリンに乗っていくよ。見たいだろ。仙台の街にキリンだよ。俺だったら見てから死ぬな」と説得するように語りかける。電話の横にキリンの置物がある。

カットが変わると、ビルの手すりを乗り越えようとしている女の子が「キリン、乗ってないジャン」と怒っている。「ていうか、あんた誰?」と彼女は続けるのだが、ここからのやりとりは笑えるし、ジーンとするし、間違いなく一見の価値はある。結局、彼女は飛び降りる気をなくすのだが、カットは瞬時に切り替わり、先ほどの空き巣シーンに戻り、「それ、アタシじゃん」と言う若葉の正面のバストショットになる。

●若葉のツッコミがあるから今村のボケぶりが際立つ

「極道めし」(2011年)を見たときに木村文乃の美しさを認識した。刑務所の同じ房にいる受刑者たちが、今まで食べたモノの中で最もうまかった記憶を語り合う設定のヘンな映画である。主人公のチンピラは意地を張って恋人を泣かせ、刑務所に入る。彼が同房の仲間に語るのは、恋人が作ってくれたオリジナル・ラーメンの味だ。彼女のラーメンを語るとき、彼の心を占めるのは悔いである。

数年後、釈放になった男は恋人を探す。ラーメン店を出すのが夢だった彼女は、自分の店を持っていた。帽子で顔を隠し、男はラーメンを注文する。それは、刑務所で仲間たちに語ったあの味だった。彼は涙を流す。彼女に自分の正体を明かすべきか...。そのとき、彼女の夫が子供を抱いて帰ってくる。男は黙って金を置いて店を出る。「ありがとうございました」と見送る木村文乃が輝くように美しい。

「ポテチ」の若葉を演じたのは、木村文乃である。しかし、「極道めし」のときとは、まったく印象が違う。「ぶっとばすよ」が口癖の威勢のよい女の子だ。泥棒と知りながら今村と一緒に暮らし、その仕事の現場を見にいく度胸もある。今村に「ヤバイよ、若葉さん。下ネタが中年男みたいだよ」と言われるように、あけすけな言い方をすることもある。

それだからこそ、「ポテチ」の大西若葉は素晴らしい。彼女のツッコミがあるから、今村のボケぶりが際立つ。今村が三角形をいたずら描きしているうちに「内角の和が180度になるのではないか」と気付き、わざわざコンビニに分度器を買いにいき大変な発見をしたと若葉に話すとき、若葉のツッコミで笑いが醸成される。「ポテチ」を見て僕は木村文乃はコメディエンヌをめざすべきだと思ったが、最近はテレビの恋愛ドラマでシリアスなヒロインをやっている。残念だ。

「ポテチ」では、最初に今村が忍び込んでいる部屋の持ち主が重要な伏線である。そこは仙台をフランチャイズとするプロ野球の球団に所属する尾崎選手の部屋だ。尾崎選手は今村と同じ町内の生まれで、同い年。高校時代は地元のヒーローとして甲子園で活躍した。今は控え選手として不遇に耐えているが、練習は欠かさない。今村は、誕生日まで同じ尾崎選手に思い入れている。

今村の親分は野球が好きで選手をやっていたけれど、一度もフライを捕ったことがないライパチ(守備はライトで打順は8番、つまり下手な選手の意味)だった。一方、黒澤や若葉は野球をまったく知らない。そんな野球好きやそうでない人たちみんなを満足させるラストが「ポテチ」には用意されている。僕は、不覚にも心地よい涙を流した。

だから、爽やかな気分を味わいたいときには、「ポテチ」をおすすめしたい。「ポテチ」を見ると、それ以降はポテトチップスを食べるたびにこの映画を思い出し、幸せな気分が甦る。だから、今夜もまたポテトチップスが食べたくなる。塩味でもコンソメ味でもバーベキュー味でも何でもいい。とにかくポテチを...、大量のポテトチップスを僕に......

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

9月からの週3日出社に向けて、着々と手を打ちつつある。要するに、仕事の禅譲(受ける方がそう思っているかは不明だけど)である。もちろん、引き続き担当する仕事もあるが、日常的な業務は引き継がなければまわらない。陽気な総務が会社をまわす??

●長編ミステリ三作が「キンドルストア(キンドル版)」「楽天電子書籍(コボ版)」などで出ています/以下はPC版
< http://forkn.jp/book/3701/ > 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/ > 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/ > 太陽が溶けてゆく海

●日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」受賞のシリーズ4巻発売中
「映画がなければ生きていけない1999-2002」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2003-2006」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2007-2009」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2010-2012」2,000円+税(水曜社)
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■Otakuワールドへようこそ![177]
ポストシステム社会の幕開けの予兆か? 中高年の女装街歩きという現象

GrowHair
< http://bn.dgcr.com/archives/20130621140100.html >
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このところ、女装した中高年男性の目撃情報がツイッターに流れているのを目にすることが多くなってきている。

・こないだラフォーレにセーラー服着たおじさんいたわ
・元住吉にセーラー服おじさんいたらしい!!
・仕事で秋葉原にいる。たった今"セーラー服おじさん"とすれ違った。
・明石駅にコスプレじじいおったし笑 赤のセーラー服着てはった。

どれもこれも、私ではない。また、「赤いレオタードでおまるにまたがります」の @omaru_uwabaki 氏も急速に人々の話題に上るようになってきている。

もしかすると、情報が回ってくるのは氷山の一角で、実は前代未聞の一大女装街歩きブームが到来しつつあるのかもしれない。いやいや、到来してないかもしれない。しかし、ここは、到来しているという前提で、この社会現象について考察を加えてみたい。

中高年男性はなぜ女装して街を歩くのか。この問いは、個人的側面と社会的側面から、ふたつの問いに分解できる。第一に、個人の嗜好として内面から湧き起る「セーラー服を着たい」という願望の根源は何か。

第二に、今現在の日本のこの社会において、セーラー服を着た中高年男性が街を闊歩することは、社会がどのような問題を内包していることの現れであり、個人と社会との相互作用においてどのような化学変化がもたらされつつあり、社会の潮流がどこに向かっていることを示唆しているのか。

●個人的側面は、掘り下げてもつかみとれるものが埋まってない

まず、おっさんがセーラー服を着て歩くことの個人的動機について。いくつか仮説を並べてみよう。
(仮説1)変態だから。ビョーキだから。
(仮説2)人々の注目を集めたいから。モテたいから。
(仮説3)かわいくなりたいから
(仮説4)気分が高揚するから
(仮説5)オヤジギャグよりもタチの悪いジョークとして。

こうしてみると、なんだかありきたりで、普通な感じがしないだろうか。「変態」と言い切っちゃえば、仮説2から5まで、全部包含されてしまうようにも思える。

ただ、一口に変態と言ってもタイプはいろいろで、姿ばかりか心もしぐさもしゃべり方も何から何まで女性になりきりたいトランスジェンダー(transgender)系もあれば、女性の着るものが好きで自分も着てみたいフェティッシュ系もある。ウケをとりたいだけのお笑い系明るい変態さんもいるであろう。

ちょっと気になるのは猟奇系変態。そんなタイプの人が実在するのかどうか知らないけれど、欧米などでは、女装して公共の場を歩くような者がいれば、猟奇的な人なのではないかと疑い、警戒すべしと騒ぎ立てる人がいるようだ。潜在的に、幼児を性愛の対象としたいという願望や、女性や子供を暴力で支配したいという願望をもった危険人物であり、社会に野放しにしていてはいけないのだ、と。ほんまかいな。

いずれにせよ、どの時代やどの地域であっても、おそらくほぼ一定の出現率で、変態はいるものであろう。目につくところに出てくるかどうかは当人個人の問題というよりは、環境の側の問題が大きかろう。勤め先をクビになるなど、社会生活に支障を来たしたり、暴漢に襲われるなど、身の危険を感じたりするようではとうてい実行できまい。

なので、人知れずこそこそと女装をたしなんでいる人や、生活環境が許さずそれすら実行できないけれども密かにその願望を持つ人まで関心の対象とすれば、いつの時代にも、どの地域にも、そういう人は普通にうじゃうじゃいるような気がする。これ読んでるアナタもその一人だったりしませんか?

女装というのは、その動機や形態があまりに多様すぎて類型化しようとしてもうまくいかないもののようである。女装者が10人いれば、20のタイプの女装がある、とまで言われている。なので、女装の動機を個人の内面に求めようとすると、一人ひとりの個別の物語の集積しか生じないということになってしまう。

一人の女装したおっさんがどこへ向かって歩いているのかは、割とどうでもよい。そのようなおっさんを生み出した現代の日本社会は、いったいどこへ向かっているのか。こっちのほうが重要そうであるからして、やはり、社会的な側面から女装を眺めてみるのが面白かろう。

●システム社会への過適応と不適応の二極化

女装の社会的側面を論考するに先立って、私が現代の日本の社会をどのように捉えているかについて、述べておきたい。過去に述べてきたことと、多少重複するが、お許しいただければ。

現代の日本の社会は、どういう点が特徴的であると言えるだろうか。ある時代のある地域の社会を特徴づけるものを見つけるには、人の命よりも重く扱われているものは何かと考えてみるとよい。かつては「イデオロギー」であった。社会評論家がよく「大きな物語」と称する特徴を有する時代のことである。

今は、「システム」なのではなかろうか。スイッチを入れれば電灯が点り、商店の棚には商品が並び、物の運送がスムーズに流れ、電車が定刻通りに走り、テレビをつければ番組が放送されており、高速回線で張り巡らされたコンピュータネットワークが生きており、犯罪が起きれば犯人が速やかに逮捕されて正当に裁かれ、政治が営まれ、経済が回り、福祉が機能する。社会が秩序立って回っている。

それはそれで大変結構なことだが、人間様の地位がどうなったかというと、システムに隷属してこれを回す役割を負った部品と化してしまいがちな傾向はないだろうか。それで役に立っているうちは、給料も支払われるし、自分は立派にやってるぞとの誇りも得られるから、いい。けれど、もし何かの事情でその場から自分が抜けたとしても、誰かほかの人が埋め合わせるだけで、システムは何事もなく回っていくであろう。

自分らしさを発揮して仕事しているわけではなく、ただマニュアルにしたがって動いてるだけだったってことになっていないだろうか。いつでも他人と交換可能なシステムの部品と化してないだろうか。つまりは、多分にコモディティ(日用品。交換可能な消耗品)化しているということではないだろうか。

人間よりもシステム様のほうが上位に君臨あそばされている社会。このことをもって、私は現代の日本社会を「システム社会」と捉えている。

システム社会を指向する考え方自体はたいへん合理的である。システム化されていない社会であれば、同じような問題が性懲りもなく起き続け、その都度、個別に対応しなくてはならない。問題の発生の防止は、一人ひとりの注意力に依存しており、緩んできたころにはまた同じ問題が発生する。

一方、問題を類型化し、それが起きないような仕組みを整え、機械化・自動化し、ルールやマニュアルを整備してみなが遵守することで解決すれば、問題の発生そのものを根源的に断つことができる。

これをどんどん積み重ねていけば、問題の発生は減少し、世の中は暮らしやすくなっていく。かくて社会は、便利で安全で清潔で公平でトラブルの少ない、安心で安定なものへと落ち着いていく。

そのシステム化傾向も、だいぶ飽和してきたんじゃないかという感覚がある。システムは、新規に立ち上げたり、大きく発展させたりする段階はもう通り過ぎていて、細かい問題を調整するために、細部へ細部へと詰めていく段階に来ているように感じる。

システム社会において、人は二極化している。過適応と不適応に。どんな社会であれ、適応できない人の側に立たされるよりは、適応しちゃった人の側に立つことができたほうが勝ちなのは言うまでもない。

仕事することを苦痛に感じることが少なく、社会から必要とされるので安定的な収入が得られ、手ごろな娯楽などで仕事モードと遊びモードのバランスがとれ、社会との折り合いがよいために精神的な苦痛をあまり感じずにラクに生きていくことができる。できることならそっち側に立ちたいものである。

システム社会に適応した人たちは、何かにつけ細かいところまできっちりと目配りすることができて、ものごとをほぼ完璧にこなしていくことのできる有能でバリバリな人たちというイメージがある。息抜きにおいても、あまり創造的な指向がなく、マス向けに商業化された娯楽で満足できている。

現実に即してものごとをテキパキと処理でき、細部までキッチリと考えが行き届いていることをもって、自尊心のよりどころとしている。ユルいやつ、自分に甘いやつ、しょっちゅうミスるやつ、細部の細部までルールを遵守しないやつを低くみることで、相対的に自分を持ち上げている。仕事がデキる人。考え方が合理的。あまり悩みがない。議論してもあんまり勝てそうな感じがしない。

一方、不適応側にいる人々は、なんかもやもやしたものを抱えているが、それは理屈ではなく、多分に感覚的なものであって、なぜ自分がこっちの側に来ちゃっているのかさえ、合理的には説明がつかない。けど、自分の中に、未解決の何かがわだかまっていて、仮にがんばってデキる人になれたとしても解消するような感じがしない。

いわゆる「自分探し」ってやつだろうか。大企業に勤めてデキる人になれたとしたって、しょせんはシステムの部品、コモディティにすぎないではないか。自分の価値って、そんなもんでいいのだろうか。もっと固有の何かってないんだろうか。

サラリーマンとなって、均質的な価値世界の場に埋もれるくらいなら、バックパックを背負って物価の安い発展途上の国々を転々と旅してみたほうが、まだしも自分らしさが発見できるのではなかろうか。

お金さえ出せば、出した額に応じて誰に対してもほぼ均質なサービスが提供される類の娯楽では、あまり楽しいと感じられない。なんかもっと創造的に生きることで、大きな喜びに浸れないものだろうか。

現実に即してキッチリと生きること、デキる人になって誇ること、あるいはシステム社会そのものに、なんともいわく言いがたいうんざり感がある。そのうんざりの中身は論理的に分析しづらいのだけれども。

解決できないどころか定義すらもできないもやもやを抱えてくすぶっていても、あんまり幸せになれない。じゃあ、システム社会適応側の人々は幸せになったのか。優越は快感ではあるかもしれないけど、幸せとは同一のものではない。

本をあまり読まないけど自分が書いたものを出版したい人、人の話を聞きたくないけど自分の話は聞いてほしい人、人には関心ないけど自分のことは深く理解してほしい人、人の歌なんか聞きたくないけど自分の歌はみんなに聞かせたい人。

結局、カラオケに行けば、順番に歌うというルールを導入することで、システム化して紛争を避けることはできるけど。やっぱりなーんか不全感、あるんでないかい?

●システム内カオス革命

前置きが長くなったが、中高年男性の女装街歩きの問題に戻ろう。社会的な側面からみたとき、社会の内包する問題との関係はいかなるものであるかを解き明かそう、という話であった。

社会の側の最大の特徴は、その反応にある。実に寛容で肯定的なのである。人々の生理的な反応としては、キモい、おぞましい、ぞわぞわする、だったとしてもおかしくはない。そうだとすると、リアクションとしては、「見苦しいもん見せびらかして歩くな!」とキツくののしられたり、距離を空けられたり、逃げて行かれたりということになりそうなものである。

ところが実際は、大笑いされる、衝撃的と言われながらも避けられるわけではない、写真撮影や握手を求められる、といった反応が主流である。これはどうしたことであろうか。というわけで、次なる問い。「現代の日本社会はセーラー服を着る中高年男性に対してなぜ寛容(許容的)なのか」。

ひとつには、もともと日本の伝統文化の中に女装の慣習があり、それほど抵抗がなかったというのがあるかもしれない。歌舞伎の女形とか、地域の祭りで女装者が街を練り歩く慣習とか。なので、多くの人の生理的な反応はキモい、ではなく、可笑しい、となるのではなかろうか。

で、ここからがちょっと飛躍した仮説になるのだが、システム社会へのうんざり感への共感がひとつの要因としてあるのではなかろうか。つまり、みんな漠然と、システム社会の閉塞感にうんざりした思いを抱いていた。そこへ、既存の規範から大きく逸脱した、変なやつが現れたもんだから、こりゃ面白い、となったのではあるまいか。

人々が求めていたものは「祭り」。それも地域の盆踊りみたいなのじゃ面白くなくて、閉塞感を吹き飛ばすような、ソーシャルムーブメントとしての祭り。それに類するのって過去になかっただろうかと思えば、江戸時代の「ええじゃないか運動」が近いかも。あんときも、女装したおっさんが街を練り歩く運動が全国に飛び火したようだし。

ええじゃないか運動の後に、明治維新が起きた。ということは、現代もまた、システム社会からの解放という革命の起きる前夜なのではあるまいか。

ポストシステム社会とは、いったいどんな社会であろうか。何も、システムをすべて破壊して、原始社会に戻れ、と言っているわけではない。先ほど述べたとおり、システム社会は、合理的であって、暮らしづらくなっていく方向では決してない。ただ、人間の地位がシステムの下に置かれていることが不満なだけだ。

低い位置に置かれているから、人々は自尊心が危機にさらされ、優越願望を抱いている。ところが、すべての人類が他人よりも優越しているというのは不可能な話で、決して満たされることはない。優越があれば劣等がある。AがBに優越するのなら、BはAよりも劣等である。全員の優越願望は、幻想によってしか満たされない。

例えば、生活していく上で生じるさまざまな案件を現実的にてきぱきと処理していることをもって誇りとする現実派な人々がいる。それはそれで確かに立派なことだ。手の届かぬ夢ばかり追い続けるのをやめ、現実に即して等身大な生き方ができる、それが大人になるってことだ。現実世界をちゃんと生き抜いていることをもって優越と捉えている。リア充。

それはそれでよいのだが、コンピュータゲームになんか興じる人々というのは、現実と仮想の区別のつかなくなったゲーム脳のアブナイ人たちだ、とか言い出すに至っては、言っている側にかえって無知からくる危うさを感じてしまう。ホントに現実を見てるの? 人をナメるのもいい加減にしなさい、と言いたくなってくる。

現実派の対極には抽象派な人々がいる。現実に即して生きるだけなら、そこらの動物だってやっていることにすぎない。抽象的な領域でものを考えることこそ、人類に与えられた至高の精神の営みである。形而下的、即物的な生き方は動物的であって、低級だ。

私は大学で数学を専攻していたころ、電気を専攻する人から「同じ理系でも理学系(数学・物理など)と工学系(電気・電子など)とではずいぶん考え方が違うね」と言われて、「そりゃもう貴族と土方ぐらい違うさ」とうっかり本音を言って反感を買ってしまったことがあるけど。

数学は精神の貴族、と実は思ってたりする。夢をほどほどにして現実に即して生きるのが大人だ、とか言ってる連中を心の中では思いっきり馬鹿にしてたりする。

現実派と抽象派は、それぞれ自分のほうが上だと思い込むことで、互いの幻想が保たれている。かくして、成り立たないはずの優越願望の全員満足が成り立っている。しかし、これはあくまでも幻想なので、気がついた瞬間に雲散霧消してしまう。

なので、両者の間ではコミュニケーションをとってはいけない。互いに侮蔑しあっているのが分かっちゃったら、互いに面白くない。触らないのが平和。コミュニケーションの不全によって、かろうじて保たれる自尊心。

かくて、情報の流通は、どんどん小さなセグメンテーションへと細分化されていく。情報は、同じ幻想をもった人々によるセグメント(=カプセル)の内部においてはほぼあまねく流通するが、セグメントを越えてはなかなか流通していかない。セグメント毎に、それぞれ異質な情報が流れるため、それぞれの幻想がますます強化されていく。幻想共有カプセル。

自尊心が保たれていることと、幸せになることとは、ちょいとばかり別だったりする。モニタ内に映し出された二次元キャラに萌え萌えしている「オタク」と、スイーツを前に「私たち、こんなに自分を磨いているのに、どうしていい男がまわりにいないのかしら」などと言っている「スイーツ(笑)」なお姉さん方とは、カップルの成立しようがない気がする。

本当に幸せな人は、自分よりももっと幸せな人がいたら許せない、とか、自分は優越していなければ気が済まない、なんて思わないような気がする。全員が優越側に立つなどという不可能なことが成立しなくたって、全員が幸せになることは可能なような気がする。

人々は、システム社会による人間の地位低下や、細分化された情報流通カプセルの閉塞感に、漠然とながら、うんざりしている。求めているのは解放。祭りだワッショイ。

システムそのものを破壊して原始に戻るのではなく、細分化されすぎたカプセルを一度ガラガラポンして、自由な風通しのよいコミュニケーションに興じたい。求めているのは「システム内カオス」。そんな時代の幕開けの予兆なのではあるまいか。え? 何が? って、セーラー服を着て街歩きしているおっさんたちが。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
< http://www.growhair-jk.com/ >

やはりタレント並みに多忙な日々が続く。平日に3日連続で、仕事帰りにセーラー服に着替えてイベントに出たりとか。

6月11日(火)には、新宿のロフトプラスワンでのイベント「すったもんだがありまして、6/11にロフトプラスワンファン感謝デー第二弾を開催させて頂きます(仮)」に出させていただいた。

前々から一度あの場に出てみたかったので、大喜びで舞い上がっていたが、考えてみると芸人でもなんでもない私には、見せるべき芸が何もない。去年フランスに行ってきたときのことを、ごくごくフツーの調子でレポートした。割と好評だったよう。

6月12日(水)は「赤坂GENKI劇場」でアイドルのライブ。ネットの番組で生放送された。

6月13日(木)は「日刊サイゾー」(紙媒体ではなくウェブ版のほう)の取材で、キャンディ・ミルキィさんと対談。キャンディさんは、かつて女装雑誌「ひまわり」の編集長だった女装界の大御所である。

そんなすごいお方と対談を組んでいただけて光栄の限り。システム社会と女装について論じかけたものの、うまく考えがまとまらなかった。そこで考えなおして、今回ここに書いてみたというわけ。

私がドキュメンタリー映像になった。VICE MEDIA から。
予告編。2万アクセス。
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本編パート 1/2。5万アクセス。
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本編パート 2/2。2万アクセス。
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VICE MEDIAはカナダを拠点として、世界30か国に支部をもつメディア。英語で字幕がつき、世界からアクセスされている。

それはいいのだが、コメント欄がちょっとばかり荒れている。こいつは危険人物だから野放しにしてはいけない、というようなコメントがちらほら。中には佐川一政氏と同系列のように言う人まで。1981年のパリ人肉事件の犯人。VICEは今年の1月、佐川氏のインタビュー映像をYouTubeに上げている。言われっぱなしではちょっとなぁ、と思ったというのも今回のを書いておこうと思った動機のひとつだったり。

6月15日(土)渋谷でライブがあり、二度の出演の合間にラーメンを食べてきた。「唐そば」。店主の長村(おさむら)氏は、早稲田大学数学科の同じ研究室にいた先輩である。あのころから「ウチの親父の作るラーメンはほんっとに美味い」と言っていた。長村氏は東芝に就職したが、辞めて父親の店を継いだ。北九州から渋谷に進出。かつては行列ができるほどの評判の店だったが、今もそこそこ繁盛している。うん、めっちゃ美味い。行列の固有値分解のできるラーメン屋。


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編集後記(06/21)

●西尾幹二「中国人に対する『労働鎖国』のすすめ」を読む(飛鳥新社、2013)。二部構成で、第二部「『労働鎖国』のすすめ」は1989年にカッパビジネスで刊行、1992年にPHP文庫で再刊された内容そのままの再録である。その本を読んだ当時、外国人労働者の問題は、単なる労働問題でも経済問題でもなく、安全保障の問題であり、文化防衛の問題である、という主張に戦慄しながら全面的に賛意を表したものだった。内容はいまも全然古びていない。底抜けに危機感の薄いノーテンキ国家・日本は、外国人労働者について有効な対策を講じないまま今日を迎えている。

筆者は24年も前に、やがて日本は何億という中国人に飲み込まれるという恐れを予言していた。それがすでに杞憂でなく現実のものとなっている。「これ以上の事態の悪化を抑えるべく、国民的規模で考えていただきたい、そう思って本書を取りまとめた」とあとがきにある。本書の第一部が「中国人に対する『労働鎖国』のすすめ」で、全体の1/4である。これを読むと、いやはや日本の現状はじつに危機的であることが理解できる。絶望感を抱くほどである。

危機の一例。在日中国人は68万人超。永住権をもつ中国人は16万人、日本人を配偶者に持つ永住者予備軍を加えると26万人。彼らはいつなんどきでも、中国政府の「国家動員法」による指令があれば一斉蜂起する。長野の聖火リレーで中国大使館が50台のバスを仕立てて5000人を結集させたり、3.11後に中国大使館が約3万人を集団帰国させたりしたのが実例で、中国政府から命令が下ればイナゴの群れが日本を蹂躙する。在日中国人はかくれ人民解放軍である。こんな状況を何の備えもせずに放っておいていいのか。

あえて「中国人に対する」という限定付きの意味は、「わが民族がいかに生き延びるか、民族的アイデンティティをいかに死守できるのか、いわば生死を賭したぎりぎりの最後の戦いの言葉であり、予言の句である」と著者。これを人種差別、民族侮辱だなどという批判をする日本人がいたら、よほどの莫迦である。ところが、そんな莫迦が政界にもマスコミにも、ばかにできないほどいるのだ。この恐ろしい本、読むべし読むべし!(柴田)

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中国人に対する「労働鎖国」のすすめ


●街の小さな書店にて。幼稚園ぐらいの男の子がパパと一緒にいた。パパは雑誌コーナーで物色。すぐ後ろは絵本コーナー。男の子が、舌ったらずの可愛い声で「おとしゃん、ポケモンの絵本買ってもいいよね。」と声をかける。いいよね、は疑問符ではない。んー、「○○っていいよね。」のイントネーション。断定じゃなくて、同意を求める「いいよね」。

幼児なのに、もう「お父さん」呼びさせてるんだーと感心。なんだろう、パパと呼ぶより可愛いぞ。そして声が下から聞こえてくるのもいい。何度も何度も彼は繰り返す。パパは自分のことに夢中で聞き流している。

そんなに欲しいのか。ポケモンって人気なんだなぁ。この頃ってアンパンマンを卒業する頃か。しかしなんて可愛い声なんだろう。あー、もー、おばちゃんが買ったげる! と何度言いたくなったことか。

何度も無視された彼は、そのうちに半泣きになりながら訴えかける。でも言葉は相変わらず「おとしゃん、ポケモンの絵本買ってもいいよね。」だ。欲しいから買ってとは言わない。泣きわめいたり、だだをこねたり、暴れたりしない。ここのママは、パパに物を買って欲しいと言わないか、買う時は同意を求めるのかもしれない。幼稚園だって「書きなさい」じゃなくて「書くと楽しいね」みたいな促すような感じなのかも。可愛いなぁ。まだ小さいし、だだこねてもいいのに〜。(hammer.mule)