ローマでMANGA[65]1992年ローマ・わたしの仕事/midori

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初めての方へ:講談社のモーニング編集部で海外作家作品を掲載していたころの話。私はローマでこの企画の「海外支局」をしていた。ローマだから当然イタリア人作家の受け持ちでした。

この企画は海外作家に日本の漫画家と同じように、作品の企画段階から編集部と話し合って、書き下ろしを描いてもらうという前代未聞の企画でした。

当時はネットがありません。互いの情報も今ほどありません。国際電話とファックスと、時々編集者が現地へ出向く、というコンタクト方法でゆるゆるとミーティングをこなしていったのです。

イタリア現代マンガの立役者、イゴルトの作品制作過程の話を終えて、前々回、4月からマルチェッロ・ヨーリの話になってます。




●ヨーリが行く

1992年の7月に、ファックスを介し、初めて編集部とコンタクトを取り始めた。ヨーリの提案は自分自身を主人公にして、世界を旅行して様々な驚異に出会う、という作品だった。

このモチーフですでに作品を発表しているので、書き下ろしを基本にする編集部の意向には合わないものだったけれど、構想は面白いので日本向けに新たに構成しなおすのだったら検討するという担当編集者の答えだった。

この答えにポジティブ・シンキングのヨーリは「わ〜い、受け入れられた!」と幸せそうに反応してすぐに構成し直すことにしたのだった。

このテキストは、当時のファックスを引っ張り出してきて読み返しながら書いているのだけど、8月は量ががくんと減ってたったの5枚だ。その中の、私からの通信を見て、えらく暑い夏だったのを思い出した。

連絡が遅くなったことを謝りながら、90年ぶりの猛暑で37度から40度の気温で湿度が95%から100%とファックスに書いてある。この時、私は妊娠していて重い体を抱えながら猛暑を過ごすのはキツかった記憶が蘇ってきた。欧州全体が猛暑で、ギリシャではこのために人が亡くなったことを記憶している。

ヨーリは、構成はやり直すけれど、元の話にあったアフリカで出会う女性と息子の話は、自分にとって重要なのでぜひとも残したいと希望を述べる。ヨーリはこの後も何回か、担当編集者の意向をやんわりと回避している。

持ち前の柔らかい話術で、お話はわかるけれど僕にとってはこれこれこういう意味があるんです、と交渉して、結局受け入れさせてしまう。イゴルトが生真面目に真っ向から対決するのと好対照で、二人が仲良しさんなのもうなづける。

そして、このアフリカ女性の話も結局受け入れてもらったのだった。「日本の読者があっと驚くような話をお目にかけます!」と、担当編集者の受け入れ判断が間違っていないとフォローするのも忘れない。

9月に入るとイタリア勢のバカンスも終わり、気候もしのぎやすくなってファックスの量が増えている。本格的に編集部と打ち合わせに入り、翌月にフランス勢とミーティングをするためにパリへ行くので、その時にパリまで来る気があるなら打ち合わせをしましょうと言うことになった。

イゴルトがそもそも提案を編集部に持ち込んで、この企画にヨーロッパが入るきっかけになったのに、なぜパリなのか。

フランスにはBD(バンデシネ:まぁ、マンガのフランス語の言い方なんですが)があり、ヨーロッパではコミックス王国と言われているお国なので、プロの作家がたくさんいるというのが一つと、海外作家企画が出てから、フランスのアングレーム国際マンガ祭(< http://bit.ly/11MJ1Qb >)に、他の大手出版社とともに講談社も招待される、という偶然が重なった。

この機会を逃すまじと、日本の出版社に描く気がある人は作品を持って面接に来てくださいと通達を出してあった。

プロ・アマそこそこな人数が作品を持ってやってきた。この機会に、結局はプロばかり数人が候補にあがり、イタリアがもたもたしてる間にフランス側はすでにやり取りが始まっていたのだ。

さて、ヨーリ。9月のやり取りで、再構成を決めてカラー8ページで各話読み切り。11話で単行本にするという基本を決めた。ところがヨーリは、12話ではダメかと交渉し、編集部のOKを受けて嬉々としてシノプシスを作り、13話になっちゃった! と言ってきた。

編集も、しょうがないなぁ、という感じで、パリの会談までに幾つかネームができてると嬉しいけれど、まぁ、できてなくてもいいですという返事を出し、とりあえず受け入れることになった。ヨーリ強し。

●ミーティングの強み

直に対面するということは、仕事を進めていく上で、特に編集と作家という二人三脚の作業ではすごく大事な要素なのだと思う。人の表現は言葉だけではない。直に会うとその声の抑揚や、表情で言葉を補足する情報を得てより速く正確に伝わる。例え通訳を介しても。

私がちまちまとエッセイ漫画を描いていたとき、この同じ編集者が担当してくれて、ネームに対して意見をもらっていた。私の意図と若干ずれる要望を受けると、その意図を理解して構成し直すのがとても困難だった記憶がある。

ヨーリから堤さんがパリへ来ると聞いた仲良しイゴルトも、それなら僕も! と手を上げて、ヨーリと手に手をとって赴くことになった。

パリ会談に際して、ホテル予約などの作業はパリ在住の海外支局担当の女性が担当した。私はその女姓とイタリア勢二人の間の連絡を受け持った。

この会談にはもう一人のイタリア人作家がいた。 シルビオ・カデーロ、70年代終わりから80年代始めにかけて、イタリアでマンガのニューウェーブが起こった時に台頭した一人だ。
< http://www.cadelo.com/ >

このニューウエーブが、それこそ波が引くように去ってしまった後、カデーロのような独自な画風を持った漫画家は、イタリアで出版先がなくなりパリに越してしまったのだ。

ニューウェーブでイゴルトもヨーリもお仲間だったから、当然カデーロにも講談社でガイジン漫画家を探しているというニュースは伝わり、カデーロも会談に参加することになった。

カデーロは奥さんがフランス人で、フランスに住んでいるからフランス語は充分にわかる。それでも、編集者はこの作家の担当を私にしてくれた。

しかしながら、今回のパリ会談ではパリ支局に通訳をお願いしますので、という丁寧な断りがあって、なるほど人の間に立つ人はあちこちに気配りが必要なんだと、社会生活経験が豊富でない私にはしきりに感心した。

パリの会談でパリ支局担当者がいて、イゴルトもカデーロもフランス語がわかるのだから、私がノコノコ出ていく必要はないと思っていた。もちろん要請があれば喜んではせ参じたけれど。

でも、ひょっとしたら、私の担当なのに......という気持ちが少しあったかもしれない。気持よく仕事をしていくためには、こうした小さな亀裂をなるべく起こさないほうがいい。丁寧な物言いで断りを入れればそれで済むのだ。

会談が済んで10月19日、堤さんからのファックスで実りあったことを知った。

1)各回8ページ(前後編で16ページとなる場合もある)の「不思議な世界旅行」と題するオールカラーシリーズを描く。

2)主人公(ヨリ)を不思議なる世界のガイドとして描く。将来人間を救う力となるあるもの(それは人間、動物にとどまらず石でも道でもいい)をしっかりと絵に描き、それがその回のタイトルとなる。

3)週刊連載を希望。とりあえず3〜6話を貯める。プロローグを「ピエールと友達」のシリーズに描く(ピーエル・アランと昔から友達なので)。

ピエール・アランとは、当時モーニング編集部にいた日本語を解するフランス人編集者だ。当然フランスの漫画家の知り合いが多く、モーニング誌上で「ピエールと友達」というページを担当し、毎回違う作家に小編読み切りを描いてもらっていた。

堤さんのファックスは、事務手続きへ話題が移行する。

4)契約書を正本を英語、副本をイタリア語で作る。契約書の翻訳はやまねさんにお願いしたいと思いますが、いかがですか?

ヨーロッパでは仕事に契約書はつきもの。講談社の、というか、日本の会社の習慣ではなかったけれど、契約書が当たり前の作家たちと仕事をするので作成することになった。

当然、元は講談社が国際室の力を借りて制作する。私にイタリア語訳の依頼が来たわけだ。法律など勉強したことがないけれど、断っても困るだろうと引き受け、ものすごく苦労しながら契約書を訳した。

事務手続きは契約書だけではない。

5)「寄稿家登録」の作業をやまねさんにお願いします。
・「海外寄稿家登録用紙」を送りします。記入してあるところを確認していただくと共に未記入の部分を記入してください。
・いただいた振込先のうち「支店名」がわかりません。聞いてみてください。
・裏面の「これまでの作家活動・作品歴」以下は「寄稿家登録」には必要ありませんが、今後の編集作業の役に立ちますのでできれば記入をお願いします。

寄稿者の住所氏名、原稿料の振込先などのデータを登録するお手伝いだ。登録用紙の記載項目を訳して、各作家にファックスし、記入してもらってファックスで返してもらう。それをまた日本語にすべきところは訳して編集部にファックスする。私の仕事は翻訳するだけだけど、こうした管理システムを身近に見てフムフムと納得するのは刺激だった。

【みどり】midorigo@mac.com
主に料理の写真を載せたブログを書いてます。
< http://midoroma.blog87.fc2.com/ >

このテキストで書いているのは1992年の出来事だ。11年前を振り返ることになる。この頃「ローマの生活」というエッセイ漫画も描かせてもらっていたし、子を授かってお腹に育てていたし、我が世の春という感じだった。

あの春はどこに行ってしまったんだろう? と、現在のほぼ無職状態を思う。このシリーズを書き始めて改めて思いを致すことになった。

担当のファックスに、「ヨリはさっそく制作作業を開始するのでプロローグか第一話のネームをいつ頃提出できるか聞いてください。」とあった。そして「三人の編集作業はやまねさんにお願いします」とも。

親切に編集作業と書いてくれたけれど、実際のところは編集作業補助だ。ネームをいつ頃提出できるか聞いてください、とある通り、言われたことをやっているだけだった。

つまり、仕事がたくさんあって、色々な人と知り合って、編集作業の一端を請け負って、それだけ。そこから先に踏み込んで、先につなげることをしてこなかった。その場その場で終わって、自分から何か考えることはせず、次の仕事が降ってくるのを待っていた。

昨年から書き始めたMANGAの構築法の本は、積極的に動く一環だ。MANGAを描くという夢は捨てられず、売るのではなく、イタリア人の友だちに見せるためと、小編を描いてFaceBookに載せてみた。

でもこれは、出版社に見せて何か否定的なことを言われなくて済むからだ。商業作品を作ることだけが作家のあり方だとは思わないけれど、私の場合は逃げ一方だったというのを、今更ながら痛感するのだった。

神様がいるかどうかは知らないけれど、「求めよ、さらば与えられん」というのはある気がする。

旦那の同僚が退職するので事務所の皆でお祝いをした。旦那に同僚の似顔を描いてと言われて描いた。
< http://bit.ly/18WT9yp >
お祝いに参加した人の一人が、その絵を見て結婚25周年の記念の絵を描いてくれないかしら、と言ってきた。報酬を払うからと。

34歳で漫画家としてデビューして2年で挫折した。60歳を目前に、イラストレーターでデビューするか。気軽に楽しんで、怖がらずに絵を売っていく道を探ることにした。

そんな折、エクセルで絵を描くという人の話をネットで知った。75歳で始めたとか?
< http://attrip.jp/95946 >
< http://www2.odn.ne.jp/%7Ecbl97790/ >