映画と夜と音楽と...[594]試練は子どもを鍛えるか?/十河 進

投稿:  著者:  読了時間:14分(本文:約6,500文字)


〈泥の河/少年と自転車/シモンの空〉

●心優しい少年になぜ過酷な試練が課せられるのか

僕は、毎朝、バスで近くのJRの駅まで出る。先日、バスに乗ったらいつも座る後部座席が埋まっていたので前の方に立った。見下ろすと、目の前の席が空いていた。思わず腰をおろすと、続いて乗ってきた中年のおばさんが目の前に立ち、僕の隣に座っていたおばさんに声を掛けた。座っている方のおばさんがキャーという感じで反応し、ふたりは偶然の出会いに沸き立った。

そのとき、僕の反対側の隣に腰掛けていた少年が腰を上げ、立っていたおばさんに「どうぞ」と席を譲った。僕は少年が座っていた席に移る形になり、僕の座っていた席におばさんが腰を下ろし、隣同士になったふたりは周囲のことなど目に入らない様子で話に熱中した。そのとき、僕はふたつのことに気付いた。僕が座っているのは優先席であること、少年の脚が悪いこと...である。

戸惑った。目の前で少年が、バスの揺れ以上に大きく上体を揺らしている。少年の足は、つま先立ちのようになっていた。少年が歩いているところを見かけたことがあったのを思い出した。ひと足ごとに上体が大きく振れる。その少年が席を譲り、僕が座っている? 「大丈夫?」と少年に声を掛けると、彼は「大丈夫です」と答えた。僕は立ち上がり「座った方がいいよ」と声を掛けた。

「大丈夫です」と少年は繰り返した。声の調子が強くなった気がした。僕は、少年を傷つけたのかと後悔した。プライドや自尊心...そんなことを考えずに、余計なことをしてしまったか、大きなお世話だったか、と僕は悔やんだ。しかし、今更、腰を下ろせない。そんな恥ずかしい真似はできない。だいたい、優先席に腰を掛けたのが間違いだった、と己を責めた。昔はバスや電車では、空席があっても決して座らなかった。60を過ぎて、さすがに座ることが増えた。




バスが揺れて、後ろの人に僕の背中が当たった。振り向くと、下の方に伸びる長い生々しい足が目の端に入り驚いた。そうだ、さっき腰をおろしたとき、斜め前に立っている若い女性が、お尻の肉がはみ出すほど短いジーンズのショートパンツを履いて、長い素足(ナマ脚という感じだったが、その言葉は嫌いなので昔からある美しい日本語を使用します)をこれ見よがしに見せていた。

誰も気にはしないのだろうが、そんな女性の後ろに立っていたのに気付いて、僕は落ち着かなくなった。横には脚の不自由な少年、後ろには長い素足の若い女性。バスが駅に着くまでの10分ほどを、ずいぶん長く感じたものだった。その間、さすがに誰も僕の目の前の空席には座らなかった。脚の不自由な少年も、ときどき僕の方をいぶかしげに見ながら立ったままだった。

バスが駅に着き、僕の前を少年が歩く。吊革につかまりながらパスを出す。バスから歩道に降りるとき、かなりの落差がある。ドアに手を添えて少年が慎重に足を出す。上体が左右に90度近く振れる。そのまま歩道を歩くが、見ているのが辛いほど少年の脚は不自由そうだった。僕は、彼を追い越した。何だか、涙が出そうになった。だが、それは決して同情ではなかった。

もう10代の後半なのかも知れない。カジュアルな服装だったし、斜めがけにしたバッグも今の若者風だった。彼は誰が見たってわかるほど脚が不自由なのに、知人に会ったおばさんが隣り合って話ができるようにと、優先席を譲った。そんな心優しい少年なのに、なぜ人より過酷な試練が与えられなければならないのか。ハンデを抱えながら生きる少年の矜持が僕を涙ぐませた。過酷な試練に、彼は負けていない。試練があるから、立派に育っている......

●子どもは環境を選んで生まれることはできない

その日の朝、僕は朝日新聞で「子どもたちの七人に一人が貧困」という記事を読んでいた。日本の子どもの貧困率は15.7%、数にして326万人の子どもたちが貧しさの中で生きているという。そんな社会状況を背景にして、先日、参議院本会議では「子どもの貧困対策法案」が全会一致で成立した。その一方では、昨年騒がれた生活保護の不正受給問題から派生し、生活保護法が改定された。

その日の新聞には、生活保護は受給していないが食べるものにも事欠く家庭に、食料を配っているNPOの代表である女性を取材した記事が大きく掲載されていた。その記事で紹介されていた貧困家庭のケースは、ふたつだった。どちらも片親の家庭である。10代のふたりの娘を抱える父親。リストラされ仕事がなく、半端仕事で日々を凌ぐ。真面目に働く意志があるのに、貧困から抜けられない。

もうひとつのケースは、ふたりの子どもと母親の三人家族。父親の暴力に耐えられずに逃げ出し、社会の隅で身を隠すように生きている。しかし、母親の働きには限界がある。そんな状況を読むと、僕は胸が苦しくなる。いつの時代にも貧困はあったし、悲惨な現実はあった。しかし、現代の日本で貧困であるということは、さらに不幸なことではないのか。

テレビを点ければ、一見豊かな日本ばかりだ。旅行番組やグルメ番組があり、芸人たちが脳天気に騒いでいる。僕が子どもの頃、日本はみんなが貧しかった。少なくとも僕の周囲には貧しい人が多かった。人は、周囲の環境の中でヒエラルキーを自覚する。周囲が貧しいと、それがスタンダードになる。当たり前だと思う。しかし、今はこれ見よがしに豊かさがあふれている。貧しい人間はより貧しさを感じ、みじめになる。

子どもたちが貧しいのは、彼らの責任ではない。「泥の河」(1981年)の主人公の父親(田村高廣)が言うように、「子どもは親を選べない」のだ。「泥の河」の少年は、貧しいながらも仲のよい食堂を営む夫婦の元に生まれたし、毎日、食べていくことはできる。しかし、向かいの川岸に停泊した「郭舟」と呼ばれる小さな舟に住む姉弟は、漁師だった父親が死んだ後、舟で体を売って生活をしている母親と暮らすしかないのだ。

貧しさは、親の責任である。しかし、その親だって、どんなに努力しても貧しさから抜け出せないのかもしれない。だとすれば、貧困にあえぐ子どもの存在は、大人たち全員の責任である。社会を構成する成人たちが等しく子どもたちに責任を持つべきではないのか。救うのは政治だ。「子どもの貧困対策法案」が成立したのはよいことだとは思うけれど、その法案に魂を入れなければならない。心底、そう思う。

●子どもを持てた人間だけに与えられる育児という特権

子どもを育てるのは、大変だ。何不自由なく育てたつもりでも、子どもには背かれる。それでも、僕は子どもを棄てて自分のやりたいように生きてきた方がよかった、とは後悔しない。子どもを育てるのは大変だが、子どもを持てた人間だけに与えられた特権だ。子どもを持つ幸せは、何ものにも代えがたい。子育ての記憶はいつまでも色あせない。いくつになっても、その記憶が親を幸せな気分にしてくれる。

子どもなんか絶対にイヤだと、生まない人もいる。ほしくて仕方がないのに、子どもに恵まれない人もいる。一方、生んでしまった子どもを棄てる親がいる。「本当の幸せ」だとか「自分探し」といった言葉や「やりがいのある仕事」「自分の夢」などという幻想が、無責任な大人たちを生み出しているのではないか。自分の現実を受け入れられない大人たち。「もっと幸せになる権利がある」と口にし、自分の幸福が最優先という価値観がはびこる。個人主義を突き詰めた結果なのか。

フランスやスイスは、先進国と呼ばれている。貧しい国ではないはずだ。しかし、ヨーロッパ型の個人主義を尊重しすぎたのか、人の心が貧しいのか、大人たちが堕落しているのか、今の日本と同じように大人が親としての責任を果たさず、自らの欲望を解き放つことばかりに熱中し、子どもたちを棄てる。投げ出す。邪魔にする。「少年と自転車」(2011年)という映画を見たとき、そんなことを考えた。

こぎれいな団地で、大人たちが少年を追いかけまわしている。ようやく捕まえた少年は野獣のように暴れまわる。「家に帰る」とわめく。「帰っても誰もいない」と、ひとりが少年に諭すように言う。彼らは児童養護施設の人間たちなのだ。少年はそこに収容されているのだが、「父親が待っている」と自宅へ戻ろうとする。彼は父親を信じ切っている。父が自分を棄てるはずがない。

少年は学校を抜け出し、再び自宅へいく。教師や係員が追いかけてくる。病院へ逃げ込み、待合室にいた女性にしがみついて逃れようとする。教師と係員は少年を納得させるために住んでいた部屋にいくが、誰もいない。少年が大切にしていた自転車もない。ある日、少年がしがみついた女性が、車に自転車を積んで施設にやってくる。少年の自転車の話を聞き、乗っていた近所の少年から買い戻したという。

彼女は、美容院を営むサマンサ。落ち着いた大人の女性だ。演じるのはクリント・イーストウッド監督作品「ヒア アフター」(2010年)で、津波に呑み込まれ蘇生するフランス人キャスターを演じたセシル・ドゥ・フランスである。特段の美女ではないが、好感の持てる知的な女性だ。喜んで自転車を乗りまわす少年が、「僕の週末の里親になってほしい」と頼む気持ちもわかる。といって、少年は彼女の親切につけ込んだだけなのだが......

「少年と自転車」を見ていて僕の脳裏に浮かんだのは、「なんて聞きわけのないイヤな子どもなんだ」という拒否感だった。少年は父親に棄てられたことを信じない。父親が少年の大切な自転車を売りに出したことを信じない。教師や福祉員たちの言葉に反抗し、学校を抜け出し、人にどんな迷惑をかけているか考えない。自分を棄てた父親を信じ、大人たちの親切を仇で返す。悪い仲間と犯罪に手を染める。サマンサがなぜそんな少年を受け入れたのか、僕には理解できなかった。

サマンサの助力で少年は父親と会える。しかし、父親は少年には「金ができたら迎えにいく」と言いながら、サマンサには「重荷なんだ。もう会いたくないと伝えてくれ」と言う。サマンサは「自分で言いなさい」と突き放す。父親は少年に「もうくるな」と言うが、父親を慕う少年は聞きわけない。サマンサはそんな少年に母親以上の愛情を見せ始める。悪い仲間に誘い込まれた少年を止めようとし、少年にナイフで傷つけられても彼女は少年を見棄てない。

●金を払って母親に抱いてもらおうとする少年の不憫さ

実の父親が子どもを重荷に感じ棄て去るのに、血のつながりのないサマンサは自分を傷つけた少年を受け入れ、警察沙汰を起こした少年のために多額の金を出し、実の親子のような関係になっていく。彼女にとって、少年はやっかいな荷物でしかないはずだ。少年のために恋人との関係も揺らぎ始める。しかし、彼女は少年のすべてを受け入れる。どんな罪を犯しても、自分の子ならすべてを受け入れる実の母親のように......

「シモンの空」(2012年)の少年シモンは、冬のリゾート地でスキー客たちのスキーやヘルメットやゴーグルなどを盗んで暮らしている。年の離れた姉とのふたり暮らしだ。金まわりのいいシモンは、すぐに仕事を辞めてしまう姉に小遣いを渡し、「ジーンズを買えば」などと大人びた口をきく。姉もシモンから金をもらうことに抵抗はない。シモンが何をして稼いでいるか知っているはずなのに、「少し貸してよ」と気軽に言う。

姉を演じているのは、レア・セドゥ。フランスの女優だ。どこかで見た顔だなと思い調べてみると、下半身麻痺の女性が回復する奇跡を描いた「ルルドの泉で」(2009年)の遊び好きの看護婦をやっていた。男好きのする顔なので、「シモンの空」の男にだらしない役に抜擢されたのだろうか。「ミッション・インポッシブル/ゴーストプロトコル」(2011年)では敵役だったし、「ミッドナイト・イン・パリ」(2011年)ではがらくた市の売り子だった。

姉は汚い言葉で男に悪態をつくような女だが、男なしでは生きていけない。次々に男をつくり、少年と暮らす部屋に連れ込む。そんな姉を少年は受け入れ、媚びるように金を渡す。しかし、ある日、新しい姉の恋人とドライブに出たとき、少年は「姉ではなく母親だ」と打ち明ける。原題は「L'ENFANT D'EN HAUT SISTER(姉の子ども)」となっていて、最初からネタをバラしている。

子持ちだと知られたくないために、彼女はシモンに姉だと言わせていたのだ。10代で妊娠し、周囲に反対されながら本人も「生みたくなかった」のに生んだ子だ。シモンにも「生みたくなかったのよ」と平気で口にする。「あんたは重荷だ」と言い、シモンの気持ちなど考えない。自分の欲求のまま生きている。仕事は長続きしないし、生活費さえシモンの盗みに頼っている。

ある夜、シモンが彼女の部屋を覗き「お金を出すから一緒に寝ていい?」と言う。だが、彼女は拒否する。シモンがさらに上乗せした額を言う。金に釣られて、彼女は受け入れる。しかし、ベッドではシモンに背を向ける。「抱きしめて」と言うシモンに応えない。シモンが彼女の背中に抱きつく。見ていて不憫さが募る。シモンが捕まることがないように......と、祈る思いで僕は感情移入した。

翌日、シモンから手に入れた金で泥酔した彼女は野原で失神している。失禁し、ひどい匂いだ。彼女を見付けたのは遊んでいた子どもたち。シモンを手伝って、彼女を部屋に運び入れる。運ぶのを手伝ってもらった友だちに「見るなよ」と言って、彼女のジーンズを脱がせるシモンの身持ちを想像するといたたまれない。だらしなく無責任な母親を持ったために、12歳のシモンは大人になるしかない。それでも母親に甘えたくなるときはある。

「少年と自転車」の少年とサマンサが本当の親子のように遠慮のない関係を築き上げたのとは対照的に、「シモンの空」(2012年)の母と子はまるで傷つけ合うことで生きている意味を感じ合っているような関係だ。「あんたなんか生みたくなかった」と言う母親に、シモンは「あんたはひどい母親だ」と言い返し、そのことによってさらに傷ついている。

世界中で、子どもたちは試練に耐えている。だが、試練は子どもたちを鍛えるのではないか。試練を乗り越えた子どもたちは、強くなるのではないか。何ものにも負けない人間になる。試練が子どもたちを育てる。矜持を教える。そうであってほしい。僕は、そう思いたい。でなければ、世界はあまりに辛すぎるし、不公平だ。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

「今期いっぱいで退任。9月から顧問で週3日出社」と印刷会社や用紙会社の担当者の人たちに話すと、決まって年齢を聞かれる。20世紀のちょうど真ん中に生まれたので、60年代が10代に重なり、激動の70年代が20代に重なる。21世紀になり50代を迎えた。その21世紀が、もう13年も過ぎてしまった。

●長編ミステリ三作が「キンドルストア(キンドル版)」「楽天電子書籍(コボ版)」などで出ています/以下はPC版
< http://forkn.jp/book/3701/ > 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/ > 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/ > 太陽が溶けてゆく海

●日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」受賞のシリーズ4巻発売中
「映画がなければ生きていけない1999-2002」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2003-2006」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2007-2009」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2010-2012」2,000円+税(水曜社)

●電子書籍版「映画がなければ生きていけない」シリーズもアップしました!!
「1999年版 天地創造編」100円+税
「2000年版 暗中模索編」から「2009年版 酔眼朦朧編」まで 各350円+税
※電子書籍版はhonto.jpなどで購入できます。