映画と夜と音楽と...[598]巨匠たちに愛された女優/十河 進

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〈近松物語/山椒大夫/まあだだよ/東京物語/どん底/悪い奴ほどよく眠る/天国と地獄/赤ひげ/おかあさん/赤い鯨と白い蛇/東南角部屋二階の女〉

●「愛すればこそ──スクリーンの向こうから」という本

少し前に出た本だが「愛すればこそ──スクリーンの向こうから」という香川京子さんに取材してまとめた本を読んでいたら、ジャン=リュック・ゴダール監督が古今東西の名画の断片をつないで作った「映画史」(1998年)の中に、溝口健二監督の「近松物語」(1954年)のワンシーンが採録されていると出てきた。僕は、映画の長さに怖れをなして、「映画史」は敬遠している。まあ、たぶん見ないままで死ぬだろう。

どちらかといえば、僕は溝口健二監督作品が苦手である。苦手な理由は作品が放射するパワーが凄すぎて、見終わるとドッと疲れるからだ。代表作と言われる「西鶴一代女」(1952年)は田中絹代の鬼気迫る演技は認めるけれど、昔、見終わって名画座を出たときにはヘトヘトになっていた。

それでも戦後の作品が中心だが、代表的な数本は見ている。中では「近松物語」が好きだ。原作は近松門左衛門の「大経師昔暦」、おさん茂兵衛の悲恋物語である。京都の大経師は老舗の経師屋で、おさんは女主人、茂兵衛は手代、身分を超えた熱烈な愛の物語だ。

香川京子は、日本映画の黄金期の巨匠たちに愛された清潔感あふれる女優である。黒澤明、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男、内田吐夢、今井正、豊田四郎、渋谷実など、映画会社の枠を超えた出演作を残している。世界で上映される監督の作品に出ているので、海外でも知られた女優だ。




溝口健二監督作品には「山椒太夫」(1954年)の安寿役に続いての出演だが、娘役からいきなりお歯黒を塗り眉を剃ったご新造役になった。見比べると同じ年の映画とは思えない。昭和29年、彼女は23歳。少女も演じれば、若い人妻も演じる幅のある女優だった。

誤解と周囲の悪意から不義密通の汚名を着せられ、追い込まれて一緒に逃げたおさんと茂兵衛だが、逃避行の中で次第に心を通わせる。しかし、どこまでも奉公人としての分を守る茂兵衛に、感極まって「奉公人やない。私の夫や」とおさんが叫ぶ。慕情を告白する。

そのシーンが「映画史」で採録されたという。つつましやかなおさんが、ついに自らの縛りを解き放ち、激情を顕わにするシーンである。「近松物語」のハイライトであり、僕もこの場面で涙したのを憶えている。そのシーンについて、本の中にこんな記述があった。

──何度もテストを繰り返すうちに私、疲れて、走っていてバッターンと倒れちゃった。わざとでなく。そしたらカーッと気持ちが高揚してきましてね、夢中でぶつかっていったら、監督さんが『はい、本番行きましょ』って。余計なもの全部とって、純粋な気持ちになるのが大事で、監督さんも、それを待ってたんだな、と。今やればもうちょっとうまくできたかもしれませんが、ぶつかっていったことがおさんの一途さと重なって、それを監督さんも望んでらしたんじゃないかしら。

「近松物語」の香川京子は、女の歓びに次第に目覚めていく姿が印象的だ。身持ちの堅い大店の女主人だったが、奉公人との不義密通の疑いをかけられ、周囲の目にいたたまれずその相手と逃げる。逃げていく途中で奉公人を本気で愛し、不義密通の罪を犯す。やがて捕らえられ、ふたりは背中合わせに縛られて晒し者にされる。

しかし、馬に乗せられ刑場へ向かうおさんの顔は、歓びに輝いている。愛する男と一緒に死ねる至福の歓びが、彼女の全身からあふれ出す。

●川本三郎さんは「白いブラウスの似合う先生」と書いた

川本三郎さんの「君美わしく」という日本映画の黄金時代に輝いていた女優たちを紹介した本でも香川京子さんの人柄はにじみ出ていたが、「愛すればこそ──スクリーンの向こうから」も素直に気取らずに話しているのが印象的だ。そこまで飾らず美化せずに話すのは、大女優としてなかなかできることではない。黒澤明監督の「まあだだよ」(1993年)で内田百○の奥さんを演じたが、文豪をふんわりと包み込むような雰囲気だった。(○=門構えの中に月)

川本さんは「白いブラウスの似合う先生・香川京子」と章のタイトルをつけていた。確かに、そんなイメージが定着している人である。実際、タイプはそれぞれ異なるが、代表作と言われる何本かは教師の役だ。ただ、僕は白いブラウスの先生というと、小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)を思い出す。

最初と最後の尾道シーンにしか登場しない末の妹が香川京子だった。小学校の教師をしている末娘は、父母(笠智衆と東山千栄子)と一緒に暮らしている。東京の兄や姉のところにいく父母を見送ってから、母親の臨終シーンまで登場しない。だが、兄や姉に対する批判者として、彼女は重要な役である。

「東京物語」は、現代の家族崩壊に通じるテーマを60年前に描いている名作だ。医者になった長男(山村聰)は、子どもの頃から秀才だったのだろう。東京の医大を出て、そのまま東京で開業した。両親は長男に期待したに違いない。しかし、長男は下町の土手下で開業するわびしい町医者だ。長女(杉村春子)は美容院を切りまわしており、悪気はないが上京してきた両親を邪魔者扱いする。

老いた父と母はいくところがなく、戦死した次男の嫁の紀子(原節子)のアパートに世話になる。彼女だけが親身になって義理の両親をもてなす。戦死した次男の写真が部屋に飾られているのを見た父と母は、やさしかった次男のことを思い出す。その次男を忘れていない嫁に感謝する。

実の子への落胆と失意を抱えて、老夫婦は帰りの汽車に乗る。「わたしたちゃ......マシな方ですよ」と自分たちを慰めるように老妻が言う。だが、妻の具合が悪くなったため大阪で途中下車し、三男(大坂志郎)の家で休養する。少しよくなったので尾道へ帰るが、帰郷してすぐに母親が亡くなる。

葬儀の後、さびしそうな父親と子どもたちの会食シーンになる。ここで場をさらうのは、長女役の杉村春子だ。泣いていたと思ったら、いきなり母親の着物や帯を思い出し、「あれ、形見にもらうから出しといて、京子」と末の娘に言いつける。香川京子は、役名も京子になっている。

長女は「お父さん、長生きしてよ」と言った口の下から、父親が席を外した途端に「こういっちゃ何だけど、お父さんが先に逝った方がよかったわよ。京子が嫁にいって、お父さんひとりになったら......。お母さんひとりだったら東京にきてもらっても、どうにでもなったけど」と現実的なことを口にする。

はっきりしない長男やずけずけ言う長女を、ずっと批判的に見ているのが末娘だ。義理の姉の紀子に「ひどいわ。姉さんたち」と京子はこぼす。「悪気はないのよ。お姉さんたちにも自分の生活があるんだし」と弁護するが、紀子自身も親と子の関係を見つめ直している。いや、自分自身はどうなのか、と問いかけている。

「東京物語」のラストシーンは、東京へ帰る車中の紀子のカット、授業中の京子が紀子を思って窓の外を見るカット、海沿いを走る列車のカットなどで構成される。尾道シーンにしか出ない香川京子だが、見終わっても印象は強く残る。

●年齢を重ねていく香川京子を見るのなら黒澤作品がいい

香川京子を最も気に入っていたのは、黒澤明監督かもしれない。「どん底」(1957年)「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)「天国と地獄」(1963年)「赤ひげ」(1965年)「まあだだよ」(1993年)など、黒澤作品への出演は多い。年齢を重ねていく香川京子を見るのなら、この順番で黒澤作品を見るといい。

若い娘時代から若奥様の時代を経て、美しく歳を重ねた60代の彼女を見ることができる。先ほども書いたが、「まあだだよ」の奥さんは懐が深く、やさしく穏やかに夫を包み込む感じがとてもいい。浮世離れした夫のすべてを認めているのだ。百鬼園先生が羨ましくなる。

「赤ひげ」では、主人公の保本登(加山雄三)を身動きできなくし、カンザシで刺し殺そうとする狂女をゾッとする演技で見せてくれた香川京子ではあるけれど、「どん底」は別にして他の黒澤作品ではふんわりした上品な奥様役が多い。「悪い奴ほどよく眠る」と「天国と地獄」は、どちらも三船敏郎の妻を演じた。

特に「悪い奴ほどよく眠る」では世間知らずのお嬢様で、夫を熱愛している役だ。片足が悪く、杖なしでは歩けない。父親(森雅之)は、高級官僚から公団の理事長に天下りしたエリート。自分のせいで妹の脚を悪くしたことに負い目を感じている兄(三橋達也)は、妹を溺愛している。

この映画では「世間知らずのお嬢さん」であることが、物語を推進していくファクターになる。逆に言うと、状況をどんどん悪くしていくのが、香川京子が演じたピュアでイノセントな新妻なのだ。父親を信じ切っている香川京子は、父親の巧みな嘘に誘導され夫を窮地に陥れてしまう。観客は、「ああ、そんなこと言ったら、三船が殺されるじゃないか」と気が気じゃない。

すべてはお嬢さん妻の「無知」「世間知らず」「人を疑わないピュアな心」「悪人などいないと信じ切っているイノセントさ」が原因なのである。普通の女優が演じたらホントに観客の反感を買うかもしれない。香川京子自身が「愛すればこそ──スクリーンの向こうから」の中で「どんどん事態を悪くしている。じれったい役だわ」みたいなことを言っている。

だが、清潔感あふれる彼女が演じたからこそ、悲劇性が高まったのだ。権力の悪辣さが際立ったのだ。腹心だった秘書を娘と結婚させ、自宅で同居しているのにもかかわらず、男が自分に復讐するために近づいてきたのを知った父親は、溺愛する娘が心から夫を愛しているのを承知しながら抹殺を企てる。わかりやすい図式の作品で黒澤作品の中ではあまり話題にならないが、香川京子のシーンは輝く。

●70代になった香川京子が見られる二本の作品

僕が見た一番若い香川京子は、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」(1952年)の長女役である。成瀬作品では「銀座化粧」(1951年)に出ているが、僕はまだこの作品を見ていない。「おかあさん」で香川京子は、田中絹代の娘を演じた。父親はクリーニング職人。戦災で焼けた店を再建することを目標に頑張る昔の男だ。だが、頑張りすぎて死んでしまう。

一家には胸の病を患う長男もいたが、母恋しさに病院から逃げ帰り死んでしまう。残された母親は父の兄弟弟子だった職人(加東大介)に手伝ってもらい、細々とクリーニング屋を営む。香川京子の下に次女がいて、母親の妹(中北千枝子)の息子も預かっている。中北千枝子は戦争未亡人なのだろう、自立するために美容院で修行している。戦後7年目の映画である。

この映画で香川京子は花嫁姿を見せる。中北千枝子の練習台になるのだ。文金高島田に結い上げ、着付けの練習として花嫁衣装も身にまとう。淡い思いを寄せる近所の男友だち(岡田英次)がやってきて驚き、失恋の思いを抱いて帰っていく。彼の母親が結婚祝いを持って訪れる。貧しい話の中で笑えるエピソードだった。ペロリと舌を出す香川京子が可愛い。

「おかあさん」のとき、香川京子は20歳か21歳だ。それから半世紀以上が過ぎ、70代になった香川京子を僕は「赤い鯨と白い蛇」(2005年)「東南角部屋二階の女」(2008年)で見た。驚くほど印象が変わらない。「まあだだよ」のときから比べると、まったく変わっていないのではないかと思えるほどだ。

「赤い鯨と白い蛇」と「東南角部屋二階の女」は、どちらも面白く見た。「赤い鯨と白い蛇」の監督は、当時すでに70代になっていた「せんぼんよしこ」だ。初めての劇場公開作品である。しかし、その名前は僕が子どもの頃によくテレビドラマのクレジットで見た。テレビ草創期の女性ディレクターとして有名だった。香川京子が演じた役は、監督の分身だったのではあるまいか。

せんぼんよしこも香川京子も戦争を体験した世代だ。香川京子は女学校時代に勤労奉仕で戦闘機の部品を作っていた。せんぼんよしこも似た体験をしているのではあるまいか。「赤い鯨と白い蛇」は海辺の取り壊される予定の古い家で、一夜、たまたま一緒に過ごすことになった五世代の女たちの物語だ。老女役の香川京子は、戦争中の出来事を語る。

「東南角部屋二階の女」の池田千尋監督は香川京子とは50歳ほどの差があり、ほとんど孫の世代だ。この映画を撮ったとき、監督は20代後半だった。この映画には戦争体験世代として、ふたりの役者が出演している。香川京子と高橋昌也である。僕は、最初、主人公の祖父役の髭面の老人が高橋昌也だとは気付かなかった。

莫大な借金を背負った会社員(西島秀俊)は、祖父が保有する土地を売ることを企てる。祖父の家に隣接して一軒のアパートが建っている。土地は祖父の名義だが、アパートは近所で小料理屋を営む女将(香川京子)の持ち物だった。主人公の会社の後輩(加瀬亮)や住むところのなくなったフードコーディネーター(竹花梓)がそのアパートに転がり込み、ふたつの世代の物語が動き出す。

香川京子の役は、高橋昌也の弟の許嫁だった女性である。弟は戦争で亡くなり、戦後ずっと高橋昌也と助け合いながら生きてきた。許嫁の義兄の土地にアパートを建て、その家賃と小料理屋の収入で生活してきたのだ。戦争によって人生が変わってしまった世代である。やがて、若者たちの現代の物語と老人たちの戦争中の物語が交わり始める。

香川京子は昭和6年(1931年)の生まれ、戦争中は勤労動員に駆り出された。ある日、女学校に戦闘機乗りの青年が訪ねてくる。特攻出撃が決まった青年は、自分が乗る戦闘機の部品を作ってくれた礼を言いにきたのだ。翌日、女学校の校舎の上を飛ぶ編隊の一機が羽を左右に揺らして去り、香川京子は涙で見送る。

そんな体験を語れる女優はもう絶滅状態だけれど、映画の中では永遠の命を与えられている。だから、新作と一緒に昔の映画も僕は見続ける。今は、それが可能になったのだから......

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

夏風邪を引いた。鼻水が出て、喉が痛い。夏休みが明けると、連載も15年目に入る。14年間で600回。一回平均6000字として360万字。昨年秋までのコラムは、四冊のぶ厚い本になった。一冊に400字原稿用紙換算で2000枚ほど詰まっている。よく書いたものだ。

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