[3540] 恨みを歌うな・怒りを歌え!

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《「ひらく夢などありゃしねぇ」と絶叫するところで......》

■映画と夜と音楽と...[601]
 恨みを歌うな・怒りを歌え!
 十河 進




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■映画と夜と音楽と...[601]
恨みを歌うな・怒りを歌え!

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20130906140100.html
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 〈わが命の唄 艶歌/女子学園 ヤバイ卒業/おんなの細道 濡れた海峡〉

●ふたりの藤が絶頂期を迎えていた1969年

藤圭子と藤純子は同じ頃に人気の絶頂を誇ったんだなあ、と藤圭子の自殺のニュースを聞いたときに、そんな妙なことを僕は思った。1969年(昭和44年)に18歳でデビューした藤圭子は、ドスの利いた低音で「アタシの人生暗かった」と歌い、時代の気分を歌に託す若者たちに支持された。同じ頃、6歳上の藤純子は「緋牡丹お竜」として若者たちの憧憬を集めた。深夜の映画館で若者たちの絶賛を浴びていた。

自殺のニュースが出て、初めて藤圭子が僕と同い年だったことを認識した。僕が高校三年生のときにデビューした藤圭子はずっと大人びていたし、宇多田ヒカルの母親として再び注目された頃にもずっと年上だと思っていた。しかし、同い年だと知って、「そうすると、中島みゆきとも同じか」と妙な感慨が湧いてきた。40年以上歌い続けてきた中島みゆきと、10年足らずで引退した藤圭子の歌手としての人生が対照的に思えたのかもしれない。

藤圭子と言えば、間違いなく「圭子の夢は夜ひらく」が引用される。「十五、十六、十七と...」と胸に響く恨み歌だ。実人生を想起させるように、当時、彼女の貧しい生い立ちが流布されたものだった。藤圭子デビューの数年前に「艶歌」という小説を書き評判になった五木寛之は、彼女の歌を「怨歌」と名付けた。同じ頃、水前寺清子の歌は「援歌」と呼ばれた。その五木寛之は、藤圭子の死に際して朝日新聞に以下のようなコメントを寄せた。

──浅川マキ、藤圭子。時代のうつり変わりを思わずにはいられない。1970年のデビューアルバムを聴いたときの衝撃は忘れがたい。これは「演歌」でも、「艶歌」でもなく、まちがいなく「怨歌」だと感じた。ブルースも、ファドも「怨歌」である。当時の人々の心に宿ったルサンチマン(負の心情)から発した歌だ。このような歌をうたう人は、金子みすずと同じように、生きづらいのではないか。時代の流れは残酷だとしみじみ思う。日本の歌謡史に流星のように光って消えた歌い手だった。その記憶は長く残るだろう(2013年8月23日/朝日新聞)

藤圭子デビューの衝撃は、五木寛之に一編の小説を書かせた。「涙の河をふり返れ」である。ひとりの天才的な少女歌手がデビューする。不幸が彼女の歌に凄みを加える。実生活で不幸になればなるほど、彼女の歌は凄みを増していく。だから、周囲の人間は彼女を不幸に追い込もうとする。両親の不和をあおり、家庭を崩壊させ、好きな人物を遠ざける。そうして、彼女を不幸に追い込んだあげく...という話だったと記憶している。

五木寛之が登場するまで、きちんとした音楽小説はなかった。五木寛之はデビュー作「さらばモスクワ愚連隊」でジャズを取り上げ、初期には「海を見ていたジョニー」を始めとする多くのジャズ小説を書いた。そんな彼が歌謡曲、演歌の世界を描いたのが「艶歌」だった。演歌の伝説的なディレクター高円寺竜三の初登場である。それが、「海峡物語」「旅の終りに」と続くシリーズへと発展する。

日活映画「わが命の唄 艶歌」(1968年)で高円寺竜三を演じたのは、芦田伸介だった。主人公の若手ディレクター役は渡哲也。彼はポップス系の新人を手がけ、高円寺竜三は演歌の新人歌手(水前寺清子)をデビューさせる。映画が始まっても、伝説のディレクターはなかなか登場しない。初めて現れた高円寺竜三は、録音スタジオのソファに競馬新聞を顔に掛けて寝ころぶ。無頼な音楽ディレクターは、芦田伸介生涯の当たり役になった。

●演歌を「艶歌・援歌・怨歌......」と名付けたのは五木さんだった

高円寺竜三を巡る物語は、テレビドラマに引き継がれた。1971年、「涙の河をふり返れ」という連続ドラマが放映された。原作は「艶歌」であり、タイトルだけ「涙の河をふり返れ」と変えられたのだ。「艶歌の竜」こと高円寺竜三(芦田伸介)のブラウン管への登場だ。その頃、実際の歌謡界では藤圭子の出すレコードはすべてヒットしていたが、最初の結婚に失敗した時期だった。一年足らずで別れたカップルに様々な噂が飛び交った。

6年後、高円寺竜三は「海峡物語」(1977年4月〜9月放映)で復活する。「艶歌」では、主人公の若手ディレクターの友人だったルポライター(日活版では映像ディレクターに変更して若き藤竜也が演じた)が、北の町で伝説の「艶歌の竜」を見かけるところから再起の物語が始まった。ルポライターは中村敦夫が演じた、と記憶している。当時、残業の多かった僕はとびとびでしか見られず、録画などできなかった頃だからあまり憶えていないのだ。

さらに4年後、芦田伸介の高円寺竜三が帰ってきた。「新・海峡物語」(1981年10月〜12月放映)である。何と、この物語は現実の藤圭似子(藤圭子は再デビューでこの名前を使った)のカムバックを題材にしていた。高円寺竜三に深い怨念を持つ藤圭似子は、カムバックの条件に担当ディレクターとして「艶歌の竜」を指名したのだ。しかし、現実の藤圭似子のカムバックはうまくいかなかった。藤圭子は再びニューヨークへ渡る。

芦田伸介の高円寺竜三は、1988年に特別ドラマ「艶歌・旅の終りに」で一日だけ復活するが、結局、それが最後になった。後に小林稔侍が高円寺竜三を演じたけれど、小林稔侍は嫌いではないものの芦田伸介以外の「艶歌の竜」を見る気にはならなかった。結局、51歳で初めて演じた高円寺竜三を、芦田伸介は71歳まで演じたことになる。20年間かけて、ひとつのキャラクターを作り上げた。

藤圭子が藤圭似子という名でカムバックをはかったことと、それを題材に高円寺竜三の物語が展開したことで、藤圭子と高円寺竜三が僕の中では密接に結びついている。だから、藤圭子が死んだとき、当然、五木寛之から何らかのコメントがあるだろうと思っていた。朝日新聞は、それに応えてくれたわけだ。しかし、僕が思い出す藤圭子の歌は「夢は夜ひらく」ではなく、1971年1月末に11枚目のシングルとして発売になった「京都から博多まで」である。

藤圭子の自殺のニュースを知ったとき、僕が咄嗟に浮かべた歌も「京都から博多まで」だった。歌詞は、阿久悠の初期の名作である。「重い」と「思い切れない」を掛詞のように使う出だしが、聴く者の心を鷲掴みにする。三番の「ひとりしみじみ不幸を感じ」るのも藤圭子的で印象に残る。しかし、「夢は夜ひらく」ほどの怨念は感じない。「ついてないわ」と言いながら恋した男を追って、京都から博多へいく女の可愛さが表現されているからだ。

藤圭子は、1971年に前川清と結婚し、翌年に離婚した。1971年の年明け、恋する女の喜びを彼女は感じていたのかもしれない。当時の歌声は、決して不幸な女のものではなかった。大学生だった僕は、「京都から博多まで」が気に入り、毎日のように口ずさんでいた。あの頃、チェリッシュが「なぜにあなたは京都へいくの?」と歌ったように、なぜかみんな京都へいった(僕もよくいっていた)が、それに背いて藤圭子は京都を後にしたのである。

●「艶歌の竜」ドラマでカムバックを図った藤圭似子だが

「新・海峡物語」ではドラマに出演した藤圭子だが、映画出演はほとんどない。出たとしても、流しの歌手として登場しヒット曲を歌うといったカメオ出演がほとんどだった。「藤圭子 わが歌のある限り」(1971年)という映画があるけれど、見ていないのでどんな内容かはわからない。扇千景、長門勇、天知茂といったキャスティングでは想像もつかない。もしかして、後に国会議員になる扇千景が母親役だろうか。

藤圭子は1970年に三本の映画に出ている。武田一成監督の「盛り場流し唄 新宿の女」が五月の公開、「ずべ公番長 夢は夜ひらく」が9月の公開、そして、沢田幸広監督の「女子学園 ヤバイ卒業」が暮れに公開になった。このプログラムを見ると、当時はスケバン映画が盛況だったのがわかる。そして、才能ある若手監督がそれらのイロモノ映画に起用されていた。

以前、「躯が汚れるなんて嘘っぱちだ」(「映画がなければ生きていけない」第三巻155頁参照)で書いたけれど、僕は70年前後に日活映画で活躍した夏純子が好きだった。その夏純子が女子高生を演じたのが「女子学園」シリーズだ。その当時の状況を反映し、ヒロインは学校権力や腐敗に対して積極的に行動し糾弾する。夏純子は、活動的な新しいタイプのヒロイン像を作り上げた。

沢田幸広監督は名作「反逆のメロディー」(1970年)と「関東幹部会」(1971年)の間に「女子学園 ヤバイ卒業」を撮り上げた。沢田監督は、アウトローたちに自分の思いを託したのと同じように、女子高生たちに自分の思いを仮託したのである。大人たちが眉をひそめそうなタイトルの映画で、若く才能にあふれた監督は社会に異議申し立てをしていた学生たちにシンパシーを表明したのである。

学生たちの反乱が世界的に盛り上がったのは、ベビーブーマー(日本では団塊の世代)と呼ばれる世代の若者たちが一斉に既存の社会に対して「ノン」と言い始めたからだった。それは、1968年に最高潮を迎えたが、1970年の安保反対闘争は不発で終わり、反乱の烽火は退潮していった。団塊の世代たちは東映の高倉健や藤純子に自己を仮託したが、その弟の世代である僕らは、日活末期のアナーキーな雰囲気が横溢する愚連隊やスケバンたちに思いを託したのだ。

思えば、藤圭子が登場した1969年は高揚期から沈滞期に向かい始めた頃だった。「怨歌」と呼ばれた歌に象徴される、世をすねた姿勢、実現されない何かに対する恨み、閉塞感など、ルサンチマン(負の心情)とくくられる鬱屈を若者たちは抱え始めていた。もちろん、それらは青春期に特有の心情ではあったけれど、当時、19歳だった僕は時代の気分として強く感じていた。藤圭子の「怨歌」は、そんな時代の気分にはまったからこそヒットしたに違いない。

●負の心情を描き出したにっかつロマンポルノの名作

負の心情を描き出すのがうまかったのは、藤圭子が出演した最初の日活作品「盛り場流し唄 新宿の女」を撮った武田一成監督だった。彼は次に名作「ネオン警察 ジャックの刺青」(1970年)を撮る。そして10年後、日活ロマンポルノの名作「おんなの細道 濡れた海峡」(1980年)を発表する。原作は田中小実昌(通称コミさん)のストリッパーものの短編だ。ストリッパーのヒモを演じる三上寛は、若い頃のコミさんにそっくりだった。

しかし、「おんなの細道 濡れた海峡」の物語を紹介しようとすると、僕は途方に暮れる。何をどう書いていいかわからないのだ。ストリッパー(山口美也子)とヒモがいて、ストリッパーにはダンナがいる。ダンナは小屋主で、駆け落ちしたらしいふたりが、ダンナのいる田舎町に戻ってくるところから始まったと記憶している。ストリッパーは、きちんとダンナと話をつけてこいとヒモに言う。

ダンナの小屋に出かけていったヒモは殴られ、ほうほうの体で逃げ出す。海辺の食堂に逃げ込むと女将が酒を飲んでいる。ヒモが一緒に飲み始めると、奧の座敷から情婦と寝ていた出稼ぎ漁師(石橋蓮司)がつまみを差し入れする。また、ヒモが断崖の道を走るバスに乗っていると、自殺しそうな女に金を無心され、絶壁の近くで降りた女につられて一緒に降りる。

ロマンポルノなので当然、ヒモは漁師の情婦とも自殺志願の女ともセックスをする。ヒモを演じる三上寛はストリッパーを含め三人の女と寝るのだが、公開当時にこの映画を見たとき「これでロマンポルノの目的を果たしているのか?」と疑問に思った。その描き方はまったく扇情的ではなく、「人間って悲しいね」という気分を起こさせるのである。それは、この映画全体を通じて感じることではあったけれど、セックスシーンがその象徴だった。

公開当時、「おんなの細道 濡れた海峡」を絶賛した映画評論家の山根貞男さんは、「生理の悲しさ」と書いた。「つまりこの映画では、あらゆる画面、あらゆる人物が、それ自体の生理をもって息づいているのだ」という。この映画で最も有名になったのは、バスを降りたヒモと漁師の情婦が並んでしゃがみ排泄するシーンだ。ヒモが小用を足すシーンもよく出てくる。食べる、セックスする、排泄する...そんな、人間の生理の生々しさを見ているうちに何だか切なくなってくる。

──題名がなにやら歌謡曲みたいだが、じっさい中味も、みごとな演歌を聞く感じに似ている。いや、にっかつロマンポルノの一篇なのだから、演歌ではなくて、艶歌とやはり書くべきか(山根貞男「生理の悲しさ」より)

そう、演歌とは引かれ者の小唄であり、敗者の恨み歌である。しみじみとわびしさが募ってくる歌が名曲とされる。しかし、歌い手の人生そのものが歌と共に立ち上がる藤圭子は、希有な存在だった。だから、10年足らずで引退したのではなかったか。初期の中島みゆきも「恨み歌」の歌い手ではあったけれど、途中から何かがふっきれたのか脳天気になり、「地上の星」のような応援歌を歌い始めた。だから、40年も歌い続けていられるのではないか。

藤圭子が歌った「夢は夜ひらく」は、多くの歌い手がカバーしている恨み歌である。藤圭子版より数年前にヒットさせたのは、園まりだった。他にも僕が好きなのは「恨み節」の梶芽衣子が歌う「夢は夜ひらく」である。ここでも、「恨み」は全開になる。だが、僕が学生時代からずっと40年間口ずさんできたのは、「三上寛の夢は夜ひらく」だ。すべてのフレーズが僕に何かを喚起させ、心を騒がせる。「ひらく夢などありゃしねぇ」と絶叫するところで涙が流れる。天を仰ぐ。唇を噛む。

33年前、「おんなの細道 濡れた海峡」で情けないヒモを演じた三上寛を見ながら、僕の頭の中ではずっと「三上寛の夢は夜ひらく」が聞こえていた。どんな人生にも、悲しみはある。切なさがある。だが、三上寛はそれを噴き出す怒りに代えて歌った。恨みではなく、怒りを歌った。恨みを歌えば...沈み込む。怒りを歌えば、人は自ら死を選ぶことはない。人生を終わらせたい衝動に耐えるのが生きることだとすれば、耐えるためには怒れ、怒りを歌え。三上寛のように......

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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62回めの秋がやってくる。秋に生まれたせいか、秋に向かう季節が好きだ。今年は、格別な感慨がある。39年間フルタイムで働いてきて、9月から週休4日になった。まだ始まったばかりだから、どれくらい時間があるかわからない。やるべき仕事は限定されたので、仕事の予定は立つのだが......

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> 黄色い玩具の鳥
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編集後記(09/06)

●暑くてたまらんから、「ジャックと天空の巨人」DVDを見た。おとぎ話の「ジャックと豆の木」の映像化かと思ったら全然違った。もっとも「豆の木」に出てくるのは巨人ではなくて鬼だったし、ジャックときたら鬼の宝物を盗み、豆の木を切り倒し、追って来た鬼を殺しちゃう不道徳このうえない話だったのを思い出した。この映画はわたしの知らない「巨人殺しのジャック」という別のおとぎ話をミックスさせたもので、天空に住むのは残忍な人食い巨人になっている。しかも彼らはかつて地上にやってきて人間を食らっていたようだ。

ジャック(狩野英孝に似てるw)ら地上チームが巨大樹を登り、着いたところが双頭のボスに率いられた巨人の国で、汚くて醜悪な連中が群れをなしているが、なぜか♂だけ。どうやって繁殖してきたんだろう。それはともかく、巨人対人間、人間対人間のスリリングな闘いがあり、ジャックと姫、騎士団長は巨大樹を伝って地上に向かうが、地上では巨大樹を切り倒しはじめた。どうなる3人! もちろん無事に(トリッキーに)地上に下り立つのだが、思いもかけぬ展開で巨人軍も天空から下りて来るではないか。

ここからあとの巨人100対城の兵隊300の壮絶な攻防は見ものだ。巨人の動きは自然でダイナミック。みごとな映像だ。嗚呼、圧倒的に人間が不利! 主役ペアも巨人ボスにつかまって絶体絶命! どうなるんだ! しかし、ここで起死回生の......。いやー、うまいもんです。始まってしばらくイマイチだったが、巨人が現れてからはテンポもよく、ハラハラドキドキ怒濤の展開。面白かったなあ。見応えあったなあ。主役2人がもっと素敵だったらなあ。

この大作に便乗した、アルバトロス版「ジャック・ザ・ジャイアント・キラー 空飛ぶ城と天空の王国」DVDも見た。これはもうひどい出来で。豆の木を上ったジャックの見たものは、悪の女王シリーナが巨大怪獣を魔法で操り支配している「雲の王国」だったっての。王国なのに国民は一人もいないぞ。ハウルの動く城も出て来るw。空から降って来たのは恐竜の大1小3だったかな。それが1ダースに満たない軍人たちと戦うのだが、もう見ていられないほどお粗末で。果ては主人公がポンコツのロボットを操縦し......。間違ってレンタルした人は怒り狂うだろう。わたしは確信犯だからなんとかもちこたえた。(柴田)

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●続き。クオリティ、ああクオリティ。頭の中で声が回る。「ああ、絶対才能ないわ」「どこかで見た感じ」「誰々さんっぽい」「受けそうなのに逃げればいいんじゃないの?」「流行を取り入れればそれなりに見えるよ、しようよ」「悩んでも結局同じようなのしか作れないくせに」「案を100も200も考えてどうする」「シンプルにしたら手抜きに見えるのは下手ってことよね」「この仕事向いてないわ」「そもそも、なぜこの仕事をやろうと思ったの?」「これ終わったら転職しよう、うん、そうしよう」エトセトラ、エトセトラ。

仕事はツラくて、難しくて、めんどくさい。簡単なものなんて来ない。楽勝なんていうのは来ない。来ても記憶から消えている。出来上がると、とても嬉しい。でもそれまではしんどい。うんうん唸り、たくさん調べ、要望に沿ったものに、いや要望以上のものにしたくて悩む。結果が出なくて悩む。向いてないとか、バカだとか、下手だとか、なぜもっと勉強しなかったんだとか、現実逃避も始まる。気力がなくなったり、やたら眠くなったり、お腹が痛くなったり、掃除したくなったり、大声を出したくなったり、運動したくなったり。......このネタ続く、のか? (hammer.mule)