映画と夜と音楽と...[611]国家は個人に優先するか?/十河 進

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〈東ベルリンから来た女/善き人のためのソナタ〉

●1980年はポール・マッカートニーの逮捕で始まった

1980年の夏、僕は何をしていただろうか。その年の1月、ポール・マッカートニーが成田空港の税関において大麻不法所持で逮捕され、ポールは入国できず日本公演が流れた。ニューヨークのダコタアパート前でチャップマンがジョン・レノンを撃つのは、それから11か月後のことだからビートルズの四人はまだ全員生存していた時代である。

先日の朝日新聞の夕刊一面にポール・マッカートニーの日本公演の記事が載り、様々な世代がポールについてコメントを寄せていたけれど、大麻所持で逮捕されたときの記事を思い出すと隔世の感がある。海外のミュージシャンはクスリの問題があり、ローリング・ストーンズも長く日本公演が実現できなかった。だから、「太陽を盗んだ男」(1979年)の主人公(ジュリー)は、原爆を盾にローリング・ストーンズを日本に呼べと日本政府に要求するのだ。

話がそれた。1980年の夏である。その夏、モスクワ・オリンピックが開催されたが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して日本は参加しなかった。不参加を決めた5月末、今ではニュース番組のスポーツコーナーで「喝」とか「アッパレ」と言っている張本勲が、3000本安打を達成した。33年前だ。ミノルタカメラのテレビCMで豊満な水着姿を披露した女子大生は、今やクイズの女王と呼ばれ漢字知識を競っている。

その夏、向田邦子が直木賞を受賞したのは、よく憶えている。当時、僕は向田邦子の小説に熱中していた。あまり趣味が一致しないカミサンも向田邦子のエッセイや小説が気に入ったらしく、ふたりでよく読んでいた。結婚して5年、まだ子供もできていなかった。引っ越したばかりの都内の外れにある新築マンションで、30代を目前にした夫婦が日々をすりつぶすように生きていた。




仕事にも慣れた頃だったが、「小型映画」という8ミリ専門誌には逆風が吹いていた。ビデオカメラの出現である。カメラ部と録画部が別々になったビデオカメラはまだまだ高かったが、時代はビデオへ移ろうとしていた。「小型映画」は毎号部数を落とし、会社の上層部は編集部の人員を削減し、「何とかしろ」と編集部の尻を叩き続けた。今、思い返しても、あまりいい記憶はない。

その年、話題になったハリウッド映画は「地獄の黙示録」「クレイマー、クレイマー」であり、日本映画では黒澤明監督「影武者」や鈴木清順監督「ツィゴイネルワイゼン」だった。移動テントで公開され、その年の日本映画ベストワンになった「ツィゴイネルワイゼン」を僕もテントで見た。屋外上映の経験はあるが、テントの中で映画を見たのはあのときが初めてだった。

●1980年に独裁国家で生きていた女医の物語

「東ベルリンから来た女」(2012年)は、1980年の夏の出来事を描いている。ベルリンの壁が崩壊する9年前のことだ。「善き人のためのソナタ」(2006年)が日本公開されて6年がたったけれど、僕には未だにあの映画を見たときの気持ちが甦る。素晴らしい映画を見た、と出会う人すべてに言いたくなった。「東ベルリンから来た女」も、同じ時代、同じ社会を扱っている。やはり、いい映画を見たと伝えたくなった。

東ドイツの地方の町の病院。病院前のバス停でひとりの女が降り、庭のベンチに腰を降ろしてタバコを吸う。それを病院の窓から見ている髭面の医者がいる。「あの人ですか?」と言うと、後ろにいた無表情の男が「時間前にくる女じゃない」と答える。女はベンチで時間をつぶしているのだ。医者が「性格は?」と訊くと、「6歳なら、怒りんぼと言われる」と男が言う。謎めいた冒頭である。

女は、東ベルリンの大きな病院から飛ばされてきた女医バルバラである。当局に拘留され、友人たちも離れていったと冒頭の無表情な男が言う。その男は、女医を監視している秘密警察の役人だとわかる。女医は東ドイツ政府にとっては、好ましからざる要注意人物であるらしい。大病院の優秀な女医だったが、西側への移住申請を出したために左遷されたのだ。

その病院にいる小児外科の男性医師アンドレは、役人から女医の過去、拘留された事実、監視下にあることなどを知らされている。女医が孤立し周囲にとけ込まないため、「もっと馴染んだら...」と忠告する。しかし、女医は仕事熱心で患者には親身になるものの、あえて孤立した生活を送り、男性医師の好意も拒絶する。「あの女が心を開いたと、報告するの?」とにべもない。女は、すべての人間を信じていない。

女医を演じるニーナ・ホスという女優がいい。30代だろうか。自立した大人の女を体現する。誰も信じず、誰にも頼らず、自分の目的に向かって粛々と準備を進める。それでいてプロとしての職業意識が高く、患者に対しては献身的だ。無表情を通し、好意を示す男性医師に氷のような対応をする。

山根貞男さんは朝日新聞の映画評で「ハードボイルドと呼ぶべき非情な画面のあり方」と書いていたが、ヒロインの描き方はまさにハードボイルドである。寡黙で、無表情。しかし、その心の内には熱い感情が渦巻いている。それを、映像が同じように寡黙にストイックに描いていく。

●監視社会で生きる息苦しさが伝わってくる

「ハードボイルドとは何か?」と訊かれたら、「甘えないこと」と僕は答える。付け加えるなら「てめぇの牙は、てめぇで磨く」というフレーズだろうか。自分のことは、すべて自分で始末をつける。自分の傷は、自分で直す。言い訳はしない。女医バルバラは、秘密警察が市民を監視する社会の中で、自由を求めて西側へ脱出しようとしているが、そのすべてを自分だけで準備しているのだ。

その姿を映像は説明せず、クールに突き放したように描き出す。過剰にヒロインに寄り添わない。観客に媚びないし、扇情的でもない。淡々と描き出す。ヒロインの行動だけを見せる。寡黙でストイックな映像というと、ジャン=ピエール・メルヴィル監督作品が浮かぶ。見ていると自然と背筋がのび、姿勢を正さなければならなくなる冷厳なメルヴィルの映像とは違うけれど、共通するものはある。

ある日、バルバラは周囲に気を配りながら家を出て電車に乗る。電車の中の客をバルバラが見つめる。彼女にとっては、誰が監視者であっても不思議ではないのだ。あるレストランに入り、トイレでウェイトレスから包みを受け取る。帰りの電車で開くと、西側の紙幣の束である。メモが一枚、添えられている。

駅からは自転車に乗り、誰もいない場所で自転車を降り、墓地のような場所に包みを隠す。何が起こっているのか、何のための行動なのか、まだ観客にはわからない。しかし、強烈なサスペンスが漂う。風の音だけが静寂を破る。帰り着いたアパートの近くで秘密警察の男に呼び止められ、「遠出したようだな」と問い詰められる。

監視社会とは、そういうものなのだろう。「善き人のためのソナタ」は、監視する側の人間から東ドイツの社会を描いた。「東ベルリンから来た女」は、監視される側の息苦しさを描いている。そんな社会を拒否し、西側にいる恋人と暮らすために彼女は密出国を計画している。

だが、そこに東ドイツで誠実に生きている男性医師アンドレを登場させることで、映画はより幅を広げ、もっと深い何かを描き出す。ちょっと太めで、長髪、髭面の医師アンドレは、優秀で仕事熱心な小児外科医である。なぜ地方の病院にいるのか、彼の過去がわかるシーンもあるが、そんなことはあまり関係ない。

彼は医者になり、患者を救うことを第一の目的として働く誠実な男だ。そのための研究も怠らない。独身で、休日にも頼まれて往診に出る。その謝礼にもらった野菜で、自分で料理をする。読書家で、物静かで、感情を抑制できる人間だ。彼は、自由を求めて西側に脱出することなどは考えてもいない。自分のいる場所でベストを尽くそうとする。

僕とは正反対の人間だなあ、と映画を見ていて思った。車で通っているアンドレはバスを待つバルバラに「送ろうか」と申し出て拒否されても、彼女のアパートで見た調律していないピアノのために調律師を手配して「よけいなことをするな」と血相変えて怒られても、「私のことを報告するんでしょ」と冷たく言われても顔色さえ変えない。「やれやれ」という表情である。こんな男になりたいものだ。

●政治の本質を象徴的に言えば「敵は殺せ」に尽きる

たった33年前である。28歳の僕が会社上層部からのプレッシャーをぼやき、私生活での不幸を嘆いていた頃、東ドイツの地方の町の病院で、そんなドラマが本当に起こっていたのかもしれない。バルバラのように自由を求める人が大勢いたのだ。この映画から9年後、多くの人が自由を求めて西側へ脱出し、その勢いを止めることができなくなって東ドイツは崩壊した。ベルリンの壁はなくなった。

国家を崩壊させるほど自由への希求が盛り上がるのは、その国家の体制が限界を超えて国民を抑圧していたからだ。監視社会とは秘密警察など国家権力による監視だけではなく、互いが互いを監視する社会である。近隣の目を気にして生活しなければならない社会だ。当然、そこでは密告や告発が奨励され、普通の市民たちの間で疑心暗鬼が生まれる。誰も信用できなくなる。ビクビクして生きなければならない。

少なくとも、僕が生きてきた日本はそうではなかった。若気の至りで世間の目を意識することは皆無ではなかったが、別に法を犯しているわけではないので警察に通報される怖さを感じたことはない。顰蹙を買うことはあったかもしれないが、それによって国家に拘束される危惧を感じたことはない。しかし、戦前の日本は違った。国家は隣組などの地域組織を利用して、監視社会を作り上げていた。

ひとつのイデオロギーや宗教によって支配された国、つまり独裁国家はその体制を維持することが最優先される。どんな権力もいつかは取って代わられる、というのは歴史の事実だ。その歴史の必然に抗うために、どんな権力もなりふり構わず個人を抑圧する。埴谷雄高が「幻視の中の政治」で看破したように、政治の原理は「敵は殺せ」である。体制に反対する者、覆そうとする者、逃れようとする者を抹殺するのが、政治の本質なのである。

政治は程度の差はあっても、すべて同じ原理で動いている。絶対的多数を獲得した最近の自民党の動きを見ていると、そのことがよくわかる。多様性を認める政治などは存在しない。ある考えに同調するグループが多数派を獲得しようとし、多数派を占めることに成功すると、己の考えを実現するために反対勢力を押さえ込む。抽象的な意味で「敵を殺」そうとする。もっとも、それは人間社会の本質なのかもしれない。

●主人公たちは最後に崇高な自己犠牲を選択する

人は、自己中心的なものから逃れられない。自己中心的な個人が寄り集まり、同じ考えに同調してグループを成し数が増えると、その考えを検証さえしなくなる。どんどん先鋭化し、自分たちは正しいと思い込む。自分たちの考えに同調しない人間たちを「敵」と見なし始める。究極は、「敵は殺せ」になる。最近の「ヘイトスピーチ」も同じ根から出ている。

第二次大戦後、スターリン独裁下のソ連によってドイツは二分され、東ドイツは共産主義の国家として成立した。僕は民主主義が完全だなどとは思わないが、共産主義というひとつのイデオロギーだけで成立した国家よりはマシだと考えている。そこには、共産主義的イデオロギー以外は排除する体制しかあり得ないからである。結果、その体制に従わない人間は、隔離され、排除され、最後は抹殺される。

したがって、その体制に従いたくない人間は、表面上は体制に対する従順さを装いながら生きていくしかない。隔離されたくないから、殺されたくないから自己の考えを隠し、体制に従う振りをして生きねばならない。何かを隠して生きることは辛い。人間を卑屈にする。解放されたいと願う。危険を冒しても、自由に生きられる世界へ脱出したいと望む。

しかし、それほどの思いを抱いていたのに、バルバラは西側への脱出の日、思いもかけない行動に出る。「ハードボイルドとはやせ我慢であり、惻隠の情を持つこと」であるとするなら、それは、実にハードボイルドな行動である。己に対してはやせ我慢を張って甘えを許さず、しかし、他者に惻隠の情を持つ。それは自己犠牲であり、何の見返りも期待せず誰かに尽くすことだ。

「善き人のためのソナタ」も「東ベルリンから来た女」も主人公たちは、最後に崇高な自己犠牲を選択する。どんなに自己中心的であっても、人は「他者への愛」のために自分の命を差し出すこともある。もっとも、それは、グループではなく個人だからできたことだと思う。我が尊敬する心理学者の岸田秀センセイは、次のように書いている。

──自己中心性から脱した成熟した生き方とは...(中略)...他者の基準に服従するのではなく、自分の基準を持ち、自分の基準に基づいて生きるが、しかし、それを普遍的に正しい基準と見なして他者に押しつけるということをしない生き方であろう。世界の国々を眺めてみるに、この成熟した段階に達している国は一つもないようである。(岸田秀「古希の雑考」所収「日本人および日本国家の生き方」より)

【そごう・すすむ】sogo1951@gmail.com < http://twitter.com/sogo1951 >

原稿を書き終わったら、ポール・マッカートニーが日本に到着したとラジオで言っていた。71歳である。翌日の朝刊には一面トップでポールのカラー写真が載っていた。「法被」と「ハッピー」をかけた見出しが...。オヤジギャグよりひどいぜ、朝日新聞さん。

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< http://forkn.jp/book/3701/ > 黄色い玩具の鳥
< http://forkn.jp/book/3702/ > 愚者の夜・賢者の朝
< http://forkn.jp/book/3707/ > 太陽が溶けてゆく海

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