映画と夜と音楽と...[612]親を恨む
── 十河 進 ──

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〈みんなで一緒に暮らしたら/危険がいっぱい/コールガール/黄昏〉

●もっと気を使って育ててくれてもよかったのでは?

あのように育てられなかったら、こんな風にはなっていなかったな、と夜中に幼い頃を振り返って思った。母親を恨んでいるとまでは言わないが、もっと気を使って育ててくれてもよかったのではないか、と思う気持ちはある。自分が親になって親のありがたみはしみじみと身に染みたが、ときに親を恨む気持ちが起こってくることもあるのだ。

どのように育てられても、親に対しては感謝と同時に恨みのようなものが生まれる。60年以上たっても、自分の性格、生活習慣が赤ん坊の頃からの親のしつけや育て方によって形作られているのがわかり、違うように育てられていたら...と、甲斐ないことを夢想する。自我が形成されるまでは、生まれた環境が大きな影響を与える。最大の要素は親である。

どうも書き方が抽象的だ。卑近な例をあげよう。僕は、子供の頃から排泄について神経質な育てられ方をした。幼い頃、母親と外出すると「おしっこ、大丈夫? 今、いっときなさい」と、頻繁に言われた記憶がある。それは、僕がお漏らしをしたことがあるからだと思うが、僕の母親は「子供はお漏らしをするものである。神経質になることはない」と鷹揚に構えられなかったのだ。




幼稚園のときにお漏らしをした記憶がある。そのとき、母親にひどく叱られた。「だから、早めにいっておけと言ったのよ」ときつく言われ、小学校に入ったときはお漏らしするのが怖くて(母親に怒られるので)、休み時間になると尿意がなくても必ずトイレにいった。以来、大学まで休み時間には必ずトイレにいった。大丈夫そうだと思っていかないでいると、次の授業の途中から精神的におかしくなる。一種の強迫観念である。

おかげで、僕はトイレが近くなった。しかし、それは精神的なものだと自覚していた。大人になり、いつでもトイレにいける状態なら何時間でも平気だが、自由にトイレにいけない状況になると途端に精神的に不安定になり尿意を催す。僕が閉じこめられた場所が嫌いなのは、間違いなくそのことが原因である。だから、トイレ付きの長距離列車はいいけれど、バスや飛行機が苦手だ。おかげで、仕事以外ではほとんど旅行しない。

どんな男も多かれ少なかれ加齢によって前立腺が肥大し、50を過ぎた頃から排尿に変化が出る。60を過ぎると、新聞に出ている頻尿を治療する広告に目がいくようになる。最近は「ノコギリヤシ」に注目している。夜中に何度もトイレに起きませんか? という問いかけの広告である。先日、夜中にトイレに起きて幼児の頃からのことを思い出し、あんな風に育てられなかったら、こうはなっていなかったと数々の苦い記憶を甦らせた。母を恨んだ。

●親であることの苦労と大変さを自分のものとして実感

長男が生まれたのは、31年前になる。カミサンは実家に帰り、息子は高松の中央病院産婦人科で生まれた。生まれたという知らせが入り、高松に帰ったのは翌日のことだった。新生児室のガラスの向こうで、何人もの赤ん坊がきつく目を閉じ眠っていた。みんな同じように見えた。看護師が僕の子供を教えてくれた。そのときのことは、今でもよく憶えている。

ああ、俺は死ねないな、この子が一人前になるまで死ねないな、と思った。それまでの僕は、どちらかと言えばメランコリーを抱えて生きていた。「一日に一度、自殺を考えない奴はバカだ」という開高健の言葉を、いつも頭に浮かべる人間だった。将来の不安にさいなまれ、現実の生活から逃げたかった。自分が結婚し、仕事をし、生きていくことに現実感がなかった。

だが、ガラスの向こうのまだ目も見えない赤ん坊は、僕が育てなければ生きていけないのだ。その生きものは華奢で、脆くて、何かあればすぐに壊れてしまいそうに見えた。存在自体が庇護する人間を求めていた。少なくとも20年、いや大学を出るまで、僕はこの生きものを育てなければいけない。いや、そんな義務感ではなかった。それが親として当たり前のことだと実感した。

その夜、長男の誕生を祝ってくれるという高校時代の級友と飲み、実家に帰ったのは10時近くになっていた。両親は寝るのが早く、その時間では寝ているかと思ったが、そのときはまだ起きていた。自分の子供ができ、親としての気持ちを実感した僕は両親に向かって、「子を持って初めてわかる親の恩と言うけれど、本当だね」と素面だと照れて言えない言葉を口にした。

あのとき、僕は親のありがたみが身に沁みた。よく育ててくれたと感謝した。働いて家族を守り続けた父親に頭を下げ、腹を痛めて僕を生み、母乳を与え、毎日、面倒を見て育てた母親に心からありがたいと思った。僕は30だった。その歳まで、それほど親に感謝したことはなかった。初めて、親であることの苦労と大変さを自分のものとして実感した。

今、僕はあの頃の両親の年齢を超えた。あのときの赤ん坊は30を過ぎたが、まだ独身だ。10年ほど前、大学を出てブラブラしていた息子に意見したら、息子からメールがきたことがある。そこには、10代の頃、息子がなりたい夢を語ったとき、僕が発したひと言にひどく傷ついたと書いてあった。悲しいことに僕にはそんな記憶はまったくなく、人は傷つけることには無頓着なのだと改めて思った。恨まれていると自覚した。

娘も30近くになる。いろいろやりたかったこと、なりたかったものはあるようだがどれも続かず、親から見れば半端な生活をしている。大学入試に失敗し、娘と僕は進路のことで衝突した。子供にとって最大の敵は親だと言われるけれど、彼女にとって僕は敵なのかもしれない。僕が深夜に母親を恨んだように、娘には恨まれているだろう。親とは、そういう存在なのだと諦めている。

●数10年ぶりにフランス映画に出演したジェーン・フォンダ

先日、「みんなで一緒に暮らしたら」(2011年)というフランス映画を見た。クレジットのトップにジェーン・フォンダと出た。ジェーン・フォンダでフランス映画? と思う人がいるかもしれないが、元々、ジェーン・フォンダはフランス映画で活躍し、フランス人監督のロジェ・バディムと結婚していたのだ。だから、流暢なフランス語を話す。

僕が初めてジェーン・フォンダを見たのは、「危険がいっぱい」(1964年)だった。アラン・ドロン主演、ルネ・クレマン監督という「太陽がいっぱい」(1960年)のコンビだから、何の関連もないのにこんなタイトルを付けたのだ。モテモテの頃のドロンだから、ジェーン・フォンダを始めとして美女が何人も出てくる映画だった。しかし、「太陽がいっぱい」のクオリティを期待すると落胆する。

ジェーン・フォンダは「輪舞」(1964年)でロジェ・バディム監督と知り合ったのか、翌年に彼と結婚する。その後、アメリカとフランスで映画に出ていたが、バディムと離婚してアメリカに戻り「コールガール」(1971年)でアカデミー主演女優賞を獲得する。ちなみに原題は「クルート」で、主人公の私立探偵(ドナルド・サザーランド)の名前である。

さて、数10年ぶりにジェーン・フォンダが出た「みんなで一緒に暮らしたら」は、フランス映画らしいウィットとエスプリとアイロニーがあり実に面白かった。70代になった三人の男たちがいる。ひとりは社会活動に熱心な男、ひとりは女たらしの写真家、ひとりは学究肌の学者である。学者は少し認知症ぎみだ。ある日、独身を通してきた写真家が心臓発作で倒れ、息子によって施設に入れられる。

学者の妻がジェーン・フォンダ、活動家の妻がジェラルディン・チャップリン(懐かしい)である。ふた組の夫婦が写真家を見舞うが、活動家の男が施設の対応に憤慨して「こんなところに友人を置いておけない」と言い出し、五人で一緒に暮らすことになる。そこに、学者の巨大な愛犬の散歩役を引き受けた青年が加わり、コメディタッチでシリアスなテーマが展開されていく。

ここで、取り上げられるシリアスなテーマは、高齢化社会の問題であり、老人たちの介護の問題、尊厳死、老人の性、夫婦の関係、親子の関係などである。ジェーン・フォンダはアメリカからフランスに留学し、そのままフランスにとどまり結婚し、大学で教鞭をとってきたインテリ女性の役だった。エクササイズで鍛えた躯は相変わらずスリムで、70代半ばとは思えない。

●ジェーン・フォンダが父親のために企画した映画

以前にも紹介したけれど、「黄昏」(1981年)でジェーン・フォンダは父親のヘンリー・フォンダと共演した。ジェーン・フォンダが父親のために企画した映画だと言われている。それは、子供の頃から大きな溝ができていた父親との和解のための作品だった。ジェーン・フォンダの実母は、ヘンリー・フォンダの女性問題に悩んで自殺した。父親はまもなくその女性を妻に迎え、まだ10代前半だったジェーンは父を憎んだ。

ジェーン・フォンダは名門女子大ヴァッサーを出ているから、きっと聡明な女性なのだろう。バディムと離婚し、ハリウッドで活躍を始めた頃にオスカーも獲得したが、70年代には反戦、反体制、女性解放運動の闘士としても名を馳せた。その過激とも見える行動も、名優ヘンリー・フォンダに対する複雑な想いから派生していると言われたことがある。

「黄昏」は、老夫婦の話である。教育者として生きてきた老人ノーマン(ヘンリー・フォンダ)は湖の近くの別荘で静かに暮らしている。長年連れ添った妻(キャサリン・ヘップバーン)だが、長い人生の間にはいろいろな出来事があった。それでも、今は落ち着いた老夫婦である。そこへ娘(ジェーン・フォンダ)が新しいパートナーと息子を連れてやってくる。

父親と娘は長く不和が続いており、どちらも素直になれない。相手の言葉を皮肉なニュアンスで受け取り、当てこすりのように感じてしまう。その間にいて、母親は気をもむだけだ。最初に何かきっかけがあったのだろうが、細かなことが積もりつもって関係はこじれてしまっている。他人なら縁を切ってしまえるが、父親と娘となるとそうはいかない。ますます、関係はこじれていく。

この映画のとき、ヘンリー・フォンダは76歳、ジェーンは44歳だった。そして、映画の中で父親と娘が和解するシーンでは、虚構と現実が交錯し互いに本当の涙を流したという。川本三郎さんの「アカデミー賞」(中公新書)には、若い頃のジェーン・フォンダの父親に対する想いが「ヘンリー・フォンダ マイ・ライフ」から引用されている。孫引きで恐縮だが、以下のようなものだ。

──父に対する反抗は、本当のところ、ヨーロッパにいったときに終わってい
たのです。ヨーロッパへいったとき、わたしは自立できました。おそらく、だ
からこそヨーロッパへいったのでしょう。たぶん、ヨーロッパ行きは、ヘンリ
ー・フォンダの娘という立場から逃れたい気持ちと関係があったと思います。
自立できることを証明するための行為です。

ジェーン・フォンダがフランスへ渡ったのは、20代後半だった。それから15年以上たって、彼女は父親と和解するために、そして父親にアカデミー主演男優賞を取らせるために「黄昏」を企画した。1982年、アカデミーはヘンリー・フォンダに主演男優賞を与え、病床にあったヘンリー・フォンダの代理としてジェーンはオスカー像を受け取った。

その夜、ヘンリー・フォンダ邸にテレビカメラが入り、心臓病でベッドにいるヘンリー・フォンダにジェーン・フォンダがオスカー像を手渡すシーンが全米に中継されたという。それからほどなく、長い確執の末に娘と和解したヘンリー・フォンダは77歳で永眠した。最後は、幸せな親子関係だったと思う。

現在、ジェーン・フォンダは、「黄昏」を撮影していた頃の父親と同じ年齢になった。彼女自身にも子供がいる。彼女は、その頃の父親の心境に想いを馳せることもあるのだろうか。そんなことを考える僕自身、両親の息子であり、ふたりの子供も父親であることを、日々、身につまされている。

【そごう・すすむ】sogo1951@gmail.com < http://twitter.com/sogo1951
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週3日出社で3か月近くが過ぎ、さすがに慣れた。このところ、休日の生活(読書、映画と音楽鑑賞、原稿書き、散歩、家事)がメインになり、社会生活が意識から遠のいていく。長くても、来年末には完全リタイア生活かな?

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