デジタルちゃいろ[41] 美醜もしくは禁忌のようなものとの距離感/browneyes

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つい先日、とあるハリウッド・スターが交通事故死された。結構有名な方だったのかしら。正直、ワタシ自身は名前も存じ上げないほどの知識レベルなので、その方個人についての云々は何もない。

しかし、昨今のTwitterやfacebookを始めとするソーシャルメディアでは、日本国内に限らず、センセーショナルで過激なリアルタイム情報がよく流れるようで、この日はこの方の生々しくも損傷の激しいご遺体写真がぽんぽんと流れて来てた。


エロやらグロやらいささか禁忌なモノたちは、今も昔もそれなりにネットの裏の主要コンテンツであることは変わらないものの、ここ最近はところかまわず流れてくる時代になっちゃいましたね。影も日向も味噌も糞も一緒くた感。

ネット古参ぶる訳でも、言うほどネット古参でもありませんが、在りし日のインターネットというのは、その辺はきちんと住み分けされていたし、「嫌なら見るな」も成立し得てましたが、今はそれも敵わない気がします。なんだか「気質のやんちゃの方が余程危ない」と嘆く、そのスジのヒトみたいな心持ちですね。

なんて言ってますが、ワタシ自身は嫌だから見ない派かというと、むしろ、怖いもの見たさで見ちゃうタイプです。女子のほうがグロとかホラーとか怖いもの、耐性も好奇心も比較的強そうな傾向にある気がしますが、平均より若干そういったものに対する好奇心は強い方ではないかな、と思います。

余談ですが、不思議なことに、ここ数年──厳密にはいつからだろう、5年前後前くらいを堺に──グロ耐性はやや下がりました。あくまで「やや」ですし、それでもまだ平均よりはエグいのも見れちゃう方だとは思いますが。

昔はうわぁ、って言いながらも見れていたレベルのものでも、最近は一部、「これはヤバイ」と感じるものについては、見ないで通り過ぎる知恵がついた上に、そもそも自らそんな画像や動画を眺めに行くコトもほとんどなくなりました。

耐性みたいなものって、慣れとか場数で上がる一方のものだと思ってましたが、そうとも限らないのかな。何がきっかけでそんなビミョウな変化が起きたんだろう。我ながら不思議です。人って変わるものなんですね。

……などと、今回の事故写真が流れてきたのをトリガーにして、快不快の感情とは別に、自分が持ち合わせているグロや禁忌や醜悪なものにある種惹かれてきた、そのタブー見たさのような感覚の正体とは一体なんだろう、という方に頭が行ってしまい、ここでツラツラと書きながらまとまったらいいな、と思って書き始めているワケです。

考えてみたら好んで被写体に選ぶものたちも、ワタシの場合、美より醜に寄ったものが多いのですよね。明と暗なら暗を好むし、乾湿なら湿、哀と楽なら哀。明らかにネガティブに向かうのです。

ネガ好きなのかポジ嫌いなのか……果たしてどっちが主軸なんだろう。結果は同じでも、軸足の違いで実は大分違ったりもしそう。そもそも主軸はあるのか。

「美より醜」と言ったものの、ここで言う美と醜の概念自体がどうも自分の中の美醜とズレがあるかもしれない。あぁ、考えてみたら確かにそんな気がしてきた。意識したことないままに、言葉にする際の美醜は自分の中にある美醜の価値観とは違う、一般的(と思われる)ものさしに当てはめて語ってるフシはある。自分の中での美醜の価値観は胃の腑に収めたまま。

果たしてこの、無意識に感じてる美醜の感覚のギャップは実在してるのか、世間の代表とも言えるウィキペディア先生のご意見を聞いてみよう。

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□美 - Wikipedia
└< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E >

美(び、希: καλoν, 羅: venustas, bellus, 英: beauty)とは、「美しいこと」、あるいは「美しさ」であり、自然の事物等に対する感覚的に素朴な印象から、芸術作品に対して抱く感動の感情、あるいは人間の行為の倫理的価値に対する評価にいたるまで、さまざまな意味と解釈の位相を持っている。

美は一般に、「良いこと」従って、哲学的な表現では、「善」と何かにおいて関係するものだと言える。

言語表現について述べれば、〈中略〉数学者は、抽象数学であるリー群やイデアル理論に出てくる定理を美しいと述べる。〈中略〉また、日本語では、「姿ではなく、美しい心の持ち主」というような表現もする。

これらの言葉の使われ方から窺えることは、「美しいこと・美」とは、何か良いこと・快いことであるが、またそれは「優れたこと」であり、また「感動」を人に与える何かであるということである。

□醜 - Wikipedia
└< http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%9C >

〈中略〉しばしば醜さ(みにくさ)は嫌悪や恐怖を引き起こす。対義語は美である。精神的な醜の意味では恥と同義で使われる〈中略〉。〈中略>

醜さは主観的な美学の問題であるという主張もあり、美しいと言われたある人が別人にとっては醜いと捉えられることもある。しかしながら人間の醜さは性淘汰の一部や遺伝的・肉体的な健康の指標となっているというのが科学的分野からの見解である。

醜い・美しいという語は肉体美の欠如だけでなく、音楽や文学、人間の仕草などにも当てはめられる。

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ほらやっぱりそうなんだ!(勝ち誇ってる)「主観的な美学の問題」という主張もあるらしい。……という主張? うーん、なんだか弱いなw

いやいや、だって現代だって地球上のエリアによりけりでデブがブスになったり美人になったりするじゃない。時代や社会によっても美の基準なんて変化してくし、普遍的な美なんてどこにあるの。ココでそこについて独演してても意味ないので、ここでは美醜の価値観は主観的なもの、という大前提がありきにしよう。

それはさておき、世間代表としての美醜の概念、まぁ、だいたいこんな感じですよねー、とは思うものの、一点だけ微妙に同意できない感じなのが、美とは「感動」を人に与える何かであるということ、と書かれているあたりである。

今度は感動とは? が気になりだす。ああ、イマドキのオンラインの辞書って便利ね。

□感動 とは - コトバンク
└< http://kotobank.jp/word/%E6%84%9F%E5%8B%95 >

デジタル大辞泉
[名](スル)

ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること。「深い─を覚える」「名曲に─する」

大辞林 第三版
(名)スル

美しいものやすばらしいことに接して強い印象を受け,心を奪われること。「深い─を覚える」 「名画に─する」 「─的な場面」

大辞林 第三版を見ちゃうと、「感動」自体が「美」なしに語れないほど「美」に密接に関わってる言葉だったのか、と驚きますね。

ここでは敢えて「美」マターを無視して考えてみたいので、デジタル大辞林の説明を論っていこう。「深い感銘を受け」たり「強く心を動かされ」たりするものって、果たして美しいものはすばらしいこと……ばかりなのでしょうか。

うーん、どうなんだろう。美しいものを見てファァアアってなる、いわゆる「感動」って、確かに即効性はあるけど、ワタシの場合、心に残らないコトが多い。挙げ句に、どうもその感動の僅かな残滓に、後々イラっときてしまったりするコトも多い。

尤もそれは、安直な美に振り回された安直な己の感覚に対する怒りを、あちらに投げつけているだけかもしれない。でも逆に、安直じゃない美って、突き詰めたら人生でどのくらい出くわすものなんだろう。大概は安直でステレオタイプな美のようなものが溢れてるだけのような気がしてる。

翻って、醜いものや哀しいものを見た時の、脳内で瞬時に行なわれてるであろう、その事象がその状態に至るまでの色々を妄想してチクリと感じる「心の動き」とか、そっちの感覚の方が好きなんですよね。それに残る。

まぁ、脊髄反射というよりは、瞬間だったとしても、思考した結果なので、ある意味不正直な捻れた反応なのかもしれないし、それについてだって、ステレオタイプな何かは多分に含まれてるかもしれないけど。

この「心の動き」は「感動」か否か気になるところ。個人的にはこっちの方がよっぽど「感動」なんだけど、そうすると醜いものの方に美を感じてるコトになる。や、実際、自分の嗜好について、まさしく「醜いものの中にある美が好きっぽい」という表現をしてたことあるかも、そういえば。

ああほら、やっぱり主観の問題ですよ。だって、感動という心の動き自体、そもそも主観、ですよね。やっぱりもう、「美醜の基準は主観である。あなたの美学は否定されないが、それはあくまでワタシのものではない。お互い不干渉で。」それでいいじゃないか。

あっ、唐突に話し終わったw

でもまぁ、感覚的且つ主観的なところではそんな感じなんだと思ってます。身も蓋もないけど。

ごくごく個人的な体験としては更に、極端に美しいものしか見ようとしない人が、過去に身近にいたのの反動というのは多分にあると思ってます。

なんというか、美=良=善=優といった、まさに先のウィキペディアの解説の古コンボお化けみたいな、美から派生した諸々のポジティブライトに照らされた世界だけに、全ての人間がいるはずだし、いるべきだと決めつけているのがしんどかったのですよね。陰のない光って、手術室の無影灯みたいな世界? 気持ち悪くないの。

そのお陰で天邪鬼にも、美の中に身を置くコトを避けつつ、反対側から美を眺めたり考えたり表現したりし続けるのが好きなのかもしれない。美しいモノの中にだけいたら、感覚が鈍化してしまう恐怖感がそこには横たわってる気もする。

醜くても胸糞悪くても構わないので、まずは何でもありのままを見てみたい。皆が目を背ける場面にも美は存在してるんじゃないか、と、探りたい気持ちもあるのかもしれない。憧れはあるのかもしれないけど、自分自身のモノではない感覚があるのかも。美って。

そんな感じで各種ネガティブを愛するワタシではあるものの、だからって己の人生全てを薄明かりの中俯いて歩む趣味はないのですよね。

醜いものやグロいもの見るにつけ、泣いてても笑ってても喚いてても呪ってても、最後はああやってみんなただの肉塊や革袋になって塵になるだけなんだったら、それまでの道程はココロの喜ぶ歩みの方が、そりゃいいよね、ってしみじみ思います。

や、ホント、そこに至る道はさておき、死という結末ばかりは皆同様に決まってるので。

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■今回のどこかの国の音楽

□Serge Beynaud “Kababl?k?”
└< >

やー、来年のワールドカップ本大会の組み合わせが決まりましたね。日本はグループCの、順位的にはビリの4位ですかー。どれどれひとつ上の3位は……あらっ、コートジボワール! アフリカの! 別名アイボリーコースト! コートジボワールといえばクーペデカレですよ!

というワケで、コンゴのスークースと共にワタシのアフリカ大ハマりの大きな要因の二軸を努める、クーペデカレというジャンルの登場です。

コレは歴史的経緯も相まって大分新しい流行りジャンル。21世紀を目の前に政情不安に陥ってしまったコートジボワール、その際フランスに流れた移民の若者たちが、まずはフランスで流行らせたのが始まりなのだそう。その後、本国で流行に火が付いた、ある種の逆輸入的なジャンル。

政情不安の中、既にクーペデカレというジャンル内でも次々と新しい流行の波が起きていて、今は第4ムーブメントなのだそう。古いのもきちんと体系だって見てはいないけど、ここ最近のクーペデカレの動画を観るに、女子は(他国より更に)あられのない格好で尻を振ってるコトが多いですねー。この動画は大分控えめ。

紹介した曲も大分アフリカ賛歌っぽいですが、来年のワールドカップに向けて更に応援歌っぽい曲が量産されそうな予感がするので、ちょっと楽しみです。

【browneyes】 dc@browneyes.in

生業:アパレル屋→本屋→キャスティング屋→ウェブ屋&行政書士補助者などをしつつ なんでも屋(←いまここ)。
ライフワーク:なんでもない日常のスナップ。
□立ち寄り先一覧 < http://start.io/browneyes >
□デジタルちゃいろ:今回のどこかの国の音楽プレイリストまとめ
└< http://j.mp/xA0gHF >

ここ暫く自分が気の向くままに書いてる内容が、どうも暗すぎて気になってる。別に鬱々としているワケでもなんでもない。忙殺されながらもどちらかというと日々、へらへらきゃっきゃと笑って暮らしてる方だと思うのだけど。

あぁ、考えてみたら今日は愛猫の命日じゃないか。ヤツが呼んでるのだとしてももうちょっと待っててもらいたいところ。やだなー、ぽっくりいっちゃう予兆で無意識の遺書代わりになっちゃったらどうしよう……(とか書いとけば、きっと現実のものにはなるまい!)。