武&山根の展覧会レビュー 不可知の顕現 ──【イメージの力─国立民族学博物館コレクションにさぐる】展を観て
── 武 盾一郎&山根康弘 ──

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武:こんばんは! ご無沙汰ですねー。

山:こんばんは〜。そうやね。2ヶ月ぶりですか。

武:2月に「佐村河内守ユニット」についてチャットしたぶりか。随分と昔に感じるな、話題の消費速度が速いのんかな。2014年度、どんな年になりそうですか?

山:えーと、その前に、前回の駒場寮の原稿はどうでしたか?

武:あー、昔話は結構難しいよね。十河進さんは凄いなあと思うよ。

山:ネタの数、とか。どうしても昔語りをすると同じ話になりがちやからなあ。

武:過去の輝きの強さとか、かな?

山:やっぱり同じ話ばっかりになってまうんちゃうかw

武:そっかw やはりネタ数の記憶力かあ。総じて同じジャンルを語るけど、個別のことをちゃんと描写できる文章力てことなんかなあ。

山:文章に限らないんですけど、要は似たものを見つける能力、と言うか習慣、やったりするんちゃうかな。えーと、なんやったっけ。あ、アナロジー。

武:アンジー? <
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山:似てない。何にも関連してない。
アナロジーが色んなところで活躍するような気がするんだが。

武:アンソロジーとも違うのか。。メタファーとアナロジーの違いがちと分からん。。

山:なんかややこしいけどね。単純に、人と話してて同じ話ばっかりされてもつまらんしな。稀に同じ話が繰り返される事による安心感、ってのもあるけど。

武:「同じ昔話」になっちゃうってのはさ、いっぱいある自分の過去のストーリーから「一話だけ」を残してあとは全て忘れちゃってるってことなんかな? すんごい思い切った捨象だよな。

山:全て忘れてる、ってことでもないんとちゃうか。喋ってたら思い出す、ってこともある。

武:あるある! 喋ると思い出すよね。ひとりで書いてると思い出せないんだよ。これってなんだろう。

山:言語化しようとするからやろね。

武:言語化に気をとられて思い出せなくなってしまうってこと? けど、「喋り」も言語化だよな。

山:「喋り」って必ずしも言語化でもないんちゃう?

武:ああ、そっか! 過去の記憶もそうだけど、アイデアとかもさあ、自分の中でもんもんやってるより、なんか喋ってる方がいいってのない? 非言語領域ってことなんかね。それがアナロジーってことか?

山:いや、違うんとちゃうかw 「アナロジーはその人の非言語領域の世界を垣間見せる事が出来る装置」とは言えるのかも知れないけど。

武:なるほど! アナロジーと非言語領域が出てきたけど、今回はなんだか、そういうテーマにぴったりの展示だよね!

山:今回は国立新美術館です。国立民族学博物館との共催ですねー。

武:アナログマ! <
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■【The Power of Image イメージの力/国立新美術館】を観て

山:僕は国立民族学博物館が好きで。家から近かったってのが大きいんやろうけど、よく行ってました。

武:近かったってのは羨ましいなあ。

山:大阪万博の跡地に建っているんですね。

武:太陽の塔の近くにあるんだ。

山:そうやな。「ビデオテーク」というのがあって、ビデオ見れるんですよ。NHKで放送されるような資料ビデオ。でも子どもですから、意味わからんしつまらないw たしかチケットみたいなのを入れるんやけど、それをただ入れたいが為に見ていた記憶が。

武:チケット入れるとどうなるん?

山:ビデオが流れる。でもビデオはつまらん。でもチケット入れたい。家にビデオとかなかったし。

武:インタラクティブなんだw

山:子供心には、それが良かった。結局、勉強のビデオを見させられる、という感覚ですが。

武:マンガアニメじゃないもんなw

山:でもなんか大事なことなんかなあ、、、とか思てた。

●言語以前の造形なのか

武:展示に行ってみましょうか。最初にボンと大きなパプアニューギニアの椅子、神像「カワ・トゥギトゥ」が展示されていて「つかみ」を担当してる。俺ね、案内文の冒頭にすんごいグッときたんですよ。
「人類の歴史は、イメージの歴史でした。イメージは文字に先行し、さらには言葉の源になったと考えられます。」勇気を貰ったんです。

山:うん、なんで?

武:今のアートってさ、いや、アートに限らずさ、「言語」の再解釈で「イメージ」を使ってるんだよ。俺はね、絵(イメージ)ってのは言語より前の存在であると仮定してるわけ。
「言語未満の場所」「非言語の場所」なんかをずっと追い求めてきたんだけど、なんかマイノリティだし、流行らないし売れてかないよなあってツラく寂しかったんです。そもそも、絵(イメージ)が言語に先行してるってこと自体が間違いなのかもって弱気な気持ちを抱えてたんですよ。
けどさ、イメージてのは文字に先行してるんだよ! そもそもそうなんだよ。そんで、言語の前にイメージがあるんでいいんだよ。大丈夫だよ!って嬉しくなったんです。

山:と、「言語」によって思わされたわけですねw

武:そうそう。「言葉よりもイメージの方がより根源的だ」と「言葉」によって励まされたw けどね、最初のパプアニューギニアの椅子、イアトムルという民族にはすでに言葉を持っているわけだよね。「カワ・トゥギトゥ」という名前があるわけだし。

山:そうなんかな。

武:文字はわからないけど。なので、言葉の源となった造形物自体はおそらく「ない」んだよね。言葉を持った民族たちの造形物が展示されていたことになる。人間はイメージを言葉より古くから持っていたことを立証することはちょっと難しいよね。

山:でもその造形物はずっと昔から作り続けられてきたものかもしれない、それこそ言葉の前から、とか。それはわからないんだけど。

武:俺としては、言葉以前のものが創造されていて欲しいんだけど、どこまでが言語以前、非言語な造形なのか、ちょっと分からない。

山:言葉以前にものが創作されていたとすると、じゃあどうやってコミュニケーションとってたんや?

武:まあ言葉がなくてもコミュニケーションはとれるんだろうけど。声色とボディランゲージを言葉ではないと解釈するなら。その時すでに神像のような造形物を作っていたのか?ってことになるよね。矢じりとかは造形してたのか。

山:洞窟壁画の時代は言葉があったのか、とか。

武:ありそうだよな。洞窟壁画にはシャーマンが描いてあるし儀式があったんだから言葉はあるよな。

山:でもそれかってほんまはわからんやん。

武:ああ、そうか。だからといって言葉があったとは限らない、か。。。でね、イメージの大もとってのは信仰だと思うんよ。信仰とともにイメージが生まれた。そうすると信仰の原点は言葉ではないってことになるよね。

●イメージの源

山:例えばさ、蟻塚とか鳥の巣とか、なんでもいいけど、言葉を持たない動物も、何かは作るよね。主に住処なんやろうけど。

武:そうだね。造形するね。

山:それはイメージなのか?

武:イメージがゼロではないよな。だって巣を作れる場所や環境を選んでいるんだから、イメージというかなんかカンみたいなものが働いてるでしょ。けど、学習や訓練で身に付けてるワケではないよね、自然と作る訳だから。

山:その性質は最初からインプットされてるってことやな。

武:ひょっとして、作れない個体もいるのかもな。結果としてそういうのは子孫を残せないから、巣を作れない遺伝子は引き継がれないだろうけど。

山:例外は別として、じゃあ、人間が作るものってのは、インプットされているものなのか? もしインプットされているとしたら、集合無意識=イメージってことなのかな。

武:ほんの少し何か残ってるんじゃないのかなあ。

山:今回の展示をみると、やっぱりアウトサイダーアートとかも思い出す。似てるよね。

武:ああね。そこに面白さを感じるんだよな。

山:古代の人と話した訳でもなし、時代も違うのに似たものを作り出すってのは、同一のイメージを共有してる、ってことにはなるわけでしょ。そこに言葉は介在しないんじゃないか?

武:アウトサイダーアートとの共通性って「造形のつたなさ」だったりするのかな?

山:技術うんぬんの話ではない気はする。実際、つたなくないと思うよ。だっていきなりあの椅子作れないやろ。

武:少なくとも地面に置けないとならないからな。座れないとならないし。

山:いや、そう言うことじゃなくてw あのイメージを、自分が持てるのか?ってことです。

武:あのイメージは持ってないw どこから湧いてきてるのんか、すげえ不思議に感じる。どうしてそういうデザインになったか? 神の像だけど、人間を模してるわけだよね。で、なぜあのようなデフォルメになるのか? 

山:あのイメージってなんや? ってことですよね。

武:パプアニューギニアの風景が関係してることは確かだよね。

山:環境はあるんやろうね。

武:そこに棲息してる動植物をサンプリングしてリミックスして擬人化させた、と。現代に生きる俺の頭ではそう考えてしまう。けど、その方法は言語を前提にしてるよな。言語が生まれる前のイメージって、そうやって何かを分類してないだろうから、動植物の種類、つまり名詞という言語性で区分してないから、イメージをサンプリングしようがないもんな。

山:解釈をしようとすると、どうしたって言語に頼るが、ただイメージしようとすると、必ずしも言語は必要としない、とは思うが。

武:言語を放棄したイメージを持つこと自体が難しい。

山:解釈しようとするからでしょ。

武:解釈を放棄しながら思考するは難しい。

山:思考じゃなくて、想像。

武:「顔」を見分ける能力って言語以前だよね。男か女かもパッと見た瞬間に見分けられる。遺伝子的死活問題ですからw

山:そうかもね。なぜあのイメージなのか、ってとこに戻りますが、今回の展示の造形物でも、形として特に強調されるのは、「顔」ですね。「眼」もかな。
で、僕も昔、ずっと顔ばっかり描いてた時期があって。なんでなのかよくわからないけど。その時は自分の解釈として「自画像」と言ってたりしたんだけど、必ずしも自画像じゃないんだな。ある雰囲気に、なんとか到達しようとしていた。

武:確かに俺も顔描くの好きだった。目もね。顔を描いていって辿り着きたい雰囲気って「意識のない顔」だったりしない? 「我」のない顔。

山:それは僕はちょっと違うかも知れないが、大きな括りとしては、表現なり創造なりの手段としての「顔」、ってのはあるんやろうね。

武:言語より前のイメージとしての「顔」ね。

山:やはり人間にとって、「顔」というのはすごいインパクトがあるんだろう。

武:コミュニケーションがそこに集中してるんだろうね。シッポとかないし。身振り手振りもあるけど、「顔」が圧倒的なんだろうな。プロローグ「視線のありか」では、お面がいっぱい展示してあったよね、造形が面白いんだけど、どんな心情なのかを表現してるワケではない感じするよね。

山:個人の心情を表わしている、ってことではないんやろうけど、感じるものはあるよ。畏れとか、驚き、とか。

武:畏れた表情を表現してるってわけじゃあないでしょ。

山:いや、それを表現してるんじゃなくても、それを観た者が結果的に感じる、ってこと。

●みえないもののイメージ

武:第一章「みえないもののイメージ」は、精霊たちの像がいっぱい並んでいて、ここが一番好きだったんだけど、人間風なんだよね、精霊や神像。で、その顔と身体は何かを表現してるのかっていうと「メッセージ」は感じないんだよね。
神や精霊を造形している、てことはそこに信仰があるわけで、信仰が豊かさを持つためにはやっぱりなんらかの「物語り」である神話が必要なわけで、そういう言語的なところがあるんだろうけど。けど、メッセージ性は感じない、というかね。

山:「そうしなさい」ではなくて、「そうである」ってことなんかな。現代のも一緒に展示されてたじゃないですか。「イメージ」という観点から一緒に展示されてたんだろうけど、それらはいきなりメッセージ色が強くなる。

武:イメージが言語でしかなくなる、てことなんかもね。

山:不思議なんだけど、言語的に解釈しようとしてしまうのかな。イメージとして直接入ってこない、というか。変なバイアスがかかっちゃうのか。

武:意味が分かっちゃうからかもな。あとさ、神像とか精霊とかって人体をデフォルメさせてるじゃないですか。抽象化とか。そういう造形や絵だったりするじゃないですか。
で、美術としてはさ、具象があってから、具象を経てから、造形がデフォルメされたり、抽象化されてく、的な流れってあるじゃないですか。「抽象化は進化」みたいな。けどさ、イメージてのは、もともと抽象やデフォルメからスタートしてるんだよね。

山:なんやろ、再現に重きを置いてなくて、顕現が重要ってことなんとちゃうか。具象というのは、つまり再現性のことやろ。

武:神や精霊は見えないじゃん。再現しようがないw

山:だから顕現する。再現じゃなくて。

武:ただ、やはりそこは難しいよな、人体をある程度トレースしてるわけで。なんらか再現の要素もあるっちゃあ、ある。

山:そうか。

武:動物を象った造形もあったよね。再現を基準に想像を加えて造形してるのか、顕現を基準に再現性を持たせてるのか。の違いなんかな?

山:再現不能のものを顕現させるために、形を借りてくる。再現不能なんだから、そもそもデフォルメも抽象もないのかも。

武:なるほど。デフォルメという概念も抽象化してる自覚もないだろうけど、結果として、抽象化してデフォルメしてた造形に至っている、と。そうすると、現代でもその手法で造形物が作れる、てことになるわけだけど、どうなんだろ。「再現を用いずにイメージしなさい!」って出来るのかな?

山:なんだろ、作られたモノそのものが重要な訳じゃなくて、そこから喚起されるイメージが重要ってことで、モノは「神様(仮)」ってことなんかな。

●イメージの創り方?

武:その「喚起されるイメージ」って共有できるんかな? もし仮にそうだとして、そういう造形物を作る訓練ってどうやりゃいいんだ? 「喚起されるイメージ」って、受け手によるわけでさ、自分でそれを確かめられないw

山:解釈をしない訓練すればいいんじゃない?

武:どうやりゃいいんだ? 解釈をしない訓練ってやり方あるんか?

山:ただ解釈しなけりゃいいやんw

武:解釈って自動なんだよ! 勝手にやっちゃうんだよ。

山:頭の中で言語化をやめる、ってことかな。

武:言語化つったってオートマチックに連鎖反応してまうじゃん!

山:その連鎖を断ち切ればいいやんw

武:だから、どうやって!

山:知らんがな! 頭の中で「わーわー」言わないようにすればいい。

武:「わーわー」言うのは自動なんだよ。

山:自動だと思い込んでるんやろ。

武:おー、なるほど。

山:例えばすごく嫌なことがあったりしんどかったりすると、頭の中で理由付けを始めちゃったりするよね。誰かのせいにしたり、自分を卑下したり。

武:するする。

山:それを一旦止めて、「すべて意味はない」って思ってリセットする。

武:リセットむずい。理由付け物語が勝手に始動して勝手に物語を展開させていくんですよ。んで、もうそういうのシンドイから、それを消しに回るw 二度手間ww

山:言葉で消しに回っても、結局根っこは消えてないんだよね。否定してるだけで。

武:そうなんよ、だからまたむくむくと物語りが展開するw

山:だから「意味は、ない」ってことにするw

武:あー、てことは俺は「意味はない」とは思ってないわけだ。

山:「意味がある」ってことにしてしまうと、どうしても「期待」がまじっちゃうからね。「ほー」って観てたらいいんじゃない?w 

武:悪いことを思い描いちゃってもそれを眺めてるんか?

山:いいことを思い描いてもそうするんだけどね。

武:むずいw

山:いい事も悪い事も同じやからね。

武:理屈では分かるが。。

●エピローグ「見出されたイメージ」

山:なんか話がずれてきたがなw あ、あとエピローグ「見出されたイメージ」は良かった。作品じゃなくて、実用的資料を作品のように展示するという、自己言及的な。美術館という人格がなんか考えてる、という生物的なイメージが湧きました。

武:インスタレーション的に展示してるやつだっけ? あれよかったね。空間感は気持ちよかったよ。美術っぽさ、アートっぽさ、てのは、コンテンツ(作品)に宿るのではなく、見せ方に宿るってことで、ことアーティストってのはだから、コンテンツ制作に心血注ぐより、見せ方をうんと考えれば「アート」になってしまう、てことをバラしてるしね。

山:この言い方で伝わるかどうかわかんないけど、ああいうもそもそ動いてる感じが好きやな。そうすると博物館や美術館は「墓場」ではなくなる。

武:で、その見せ方のところがまた、非言語的な要素も必要で。

山:新美はコレクションがない、ってことも関係してるのかな。仮設足場的な発想。

武:実際の生活道具ってところがリアリティを持たせてるんじゃないのかな。

山:実はアート、作品よりも説得力あったりするかもな。

武:あの展示方法で、展示されてるコンテンツが、いわゆる現代アート作品だったら「ふーん」かもよ。

【The Power of Image イメージの力/国立新美術館】
< http://www.nact.jp/exhibition_special/2013/power_of_images/index.html
>

会期:2014年2月19日(水)〜6月9日(月)10:00〜18:00 金曜日は20:00まで
火曜日休館 4月29日(火)5月6日(火)は開館、5月7日(水)は休館
4月19日(土)は「六本木アートナイト2014」開催にともない22:00まで開館
入場は閉館の30分前まで。
観覧料(税込):当日1,000円(一般)、500円(大学生)

【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/地道】
アーティスト歴15年目の2010年初個展から4年、二度目の個展やります!
線譜展『レイ ─零・Ray・霊─』
期間:4月24日(木)〜26日(土)・5月1日(木)〜3日(土)・5月8日(木)
〜10日(土) 10:00〜17:00
場所:アートスペース「FLATFILE」長野県長野市桜枝町883
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/20140402/1396431687
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【山根康弘(やまね やすひろ)/ようやく一段落】
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