ショート・ストーリーのKUNI[154]ドラマティック/ヤマシタクニコ

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ぐにゃりと目の前がくずれる感じがあって、なんだと思う間もなく、彼はその世界にいた。死にものぐるいで階段を下りる自分の足。容赦なくぶつかっては周りの人間から浴びせられる嫌悪に満ちた視線、舌打ち。次の瞬間、彼はひとりの女と真正面からぶつかり、ふたり重なって駅のホームに倒れた。

「すまない、私は」起き上がりながら言い訳を口にしかけると、女が言う。

「困っているのね。何だか知らないけど助けて上げる」

女は旧知の間柄であるかのように彼と並んで歩き出す。雑踏の中にもぐりこみ、柱の陰に入ったところで自分がかぶっていたニット帽を脱いですばやく男にかぶせる。後ろから見たら格好の目印になっていたであろう、頭頂部が薄くなった彼の頭はそれですっかり覆われる。

女は親しげに腕を組んでべったりと寄り添い、急にゆっくり歩き出す。にわか仕立てのカップルはたちまち通勤客の人並みに吸い込まれる。やがて、後方からだれも追ってこなくなったことを、彼は感じる。風景がスワイプする。




「チカンに間違われて腕をつかまれ、大声を出された」

「それで逃げたの? やってないんでしょ?」

「あたりまえだ。だが、だれかが何かの目的で私を陥れようとしている。少し前からそんな気配はあった。だから、とっさに逃げた。警察なんてあてにできない」

女はうなずく。

「いま捕まるわけにはいかないんだ。私には立ち上げたばかりの会社がある。そのことで誤解されることもあった。だけど、これは最後の夢なんだ。このために私はひたすら地味に、こつこつと働いてきた。やましいことは何もない。信じてほしい。ああ、何を言ってるんだ、会ったばかりの君に」

彼は苦笑したが、女は大きな目を彼に向けて一度まばたきしただけだった。

「どうでもいいわ。そんなこと。私、むずかしい話は苦手だし」

その夜は女のアパートに泊まる。自宅にも、ついこの間借りたばかりの事務所にも「やつら」がやってくるかもしれないと思うと近づけない。ウェブサイトの更新だけはなんとか続けられるが、どうなるかわからない。

一日、また一日とそんなふうに過ぎて、気がつけば彼はすっかり女のやっかいになっている。女の用意したベッドで眠り、女が料理したものを食べる。悪くないが、くやしさが薄らぐわけではない。

「なんでこんな目にあわなきゃならないんだ。長い間夢にみて、やっと始めた仕事なのに」

「あせらないほうがいいわ」

「私には残り時間があまりない。君にはわからないだろうが」

「わかるわよ」

女はいつも民族調の衣類を身に着けていて年齢不詳だが、案外年を取っているのかもしれない。派手な色使いのスカーフで結わえた髪に白髪がのぞくことがある。

女について彼は何も知らない。名前も「みさこ」としか明かさない。どんな字を書くのだろう? 美佐子? 美紗子? それとも、ミサ子? 彼は女にキスをしながら、自分が家に残してきた妻のことをまったく気にかけていないことに気づく。ああそうだ。ずっと前からそうだった。妻には何の未練も感じていない。いや、いまは感じる間もない。毎日が緊張感に満ちている。

「どうして私のような老人をかくまってくれるのだ。白髪頭の無様な年寄りを」

「別に無様じゃないし、そんなことどうでもいいじゃない。私たちは出会うべくして出会ったのよ」

女は自分が思っていたのと同じことを言う。この女ともっと若いときに出会っていたらどれだけよかったろう。だが、これはこれでいい。

と思っていると、まわりの世界が突然タイル状に分割され、右斜め上から左斜め下に向かってぱらぱらと変化し始め、その動きがとまったときには彼は見知らぬマンションの屋上にいる。

何か月かが経過したことを彼は理解する。まぶしい青空が頭上にひろがり、しみだらけのコンクリート面を強い風が何かをさらうように吹き、あらゆるものの輪郭が際立つ。彼は周囲に張り巡らされた鉄柵ぎりぎりに追いつめられているが、彼を追いつめているのは、なんとその女だ。駅で彼を救った、女。彼をかくまい、ともに暮らした、女。

「やっぱりそういうことだったんだな」

わけもなく名前を呼んでみる。み・さ・こ。

拳銃を握りしめた女は無言で、右の口角をほんの少しだけ上げて笑う。女には淡い光の中で見るに適した女と、今日のようにぎらぎらした光の中で見るに適した女とがいるものだと彼はそんなときに思う。

明らかに後者に属する目の前の女が、あまりに美しかったので。ああ、そうだ。美しい女に殺されることほど幸福な最後があるだろうか。自分はずっとそれを望んでいた。最高だ。

パン!

彼の意識はそこで途切れる。

「お父さん!」

「あなた!」

病室で医師が臨終の時刻を告げ、すすり泣きが始まり、彼の一生が終わった。不思議なのは彼の表情だ。苦悶に満ちているようで、同時にこの上ない幸福感に包まれているように見えた。

彼は末期がんに侵されていた。2週間前から歩くこともできず、そのベッドで寝たきりであった。



彼の妻がDD社を訪れたのはそれから3か月後のことだ。夫の遺品を整理していてふと見つけた領収書の、住所を頼りに探し当てたその事務所は、単に契約の手続きをするだけのものらしく、部屋には簡素なテーブルと椅子、ロッカーがあるだけだった。やせた男がひとりパソコンに向かっており、突然現れた妻を見た。

「失礼ですが、こちらはどういうお仕事をされているのでしょうか」

「と言われましても。当社は紹介制になっております。また、一般の方にお話できる範囲は限られておりますが」

「夫がこちらと契約を結んでいたようですが」

妻が領収書──乗用車が一台買えるほどの金額が記されている──を見せると男は納得したようだった。

「当社はひとことで申しますと、顧客のみなさまにご希望通りの最後をお届けすることを業務としております」

「希望通りですって?」

「はい。最近は自分の人生の最後は自分らしくと考える方が増えています。葬儀の仕方、お墓のこと、また医療面では延命治療についての意思表示をあらかじめ明らかにしておくとか。そういったことも大切ですが、なにより大切なことは、最後のそのときをどんな気持ち、どんな状況で迎えるかということだと思うのです。

最後のそのときはお花畑が見えるとか、光のトンネルが見えるとか、あるいは自分の一生がパノラマのように見えるとか、さまざまな説がありますが、そうかもしれないしそうではないかもしれない。簡単に信用するわけにいきません。それよりは自分の希望通りの世界を体験しながら、その中で迎えることが技術として確立さえしていれば、それにまさるものはありません」

「あやしげな会社ね」

「どのように思われようとかまいませんが、われわれはきわめて真摯な気持ちで取り組んでおります」

「希望通りって、平穏な気持ちで旅立つことができればそれでいいんじゃないのかしら?」

「それがそうではないのです。当社に来られるほとんどのお客様は、これまでの平凡な人生では到底得られなかった体験を、せめて最後にと望まれます。多くの人が、実はもっとドラマティックな人生を生きたかったと思っている。

そうはいっても、生きているうちはさまざまなしがらみや責任がありますので、リスクを避けるのは当然です。だが、もうそんな必要もない。となれば、映画の主人公になったような気分で最後を迎えるのも悪くない...そこで、うちのような会社の存在意義があります。ちなみに当社の名称のDDとはDramatic Deathの略でございます」

「夫も、そんな最後を?」

「契約の内容について明かすことはできません」

「いまお聞きしたようなことがすべてうそかもしれないわね。だって、実際にどんな最後だったかなんて、本人にしかわからないじゃない。いったいどうやったらそんなことが可能なのかも、あやしいものだわ。こんな高いお金を払わせておいて」

「技術的なこともお話できません。契約者のいくつかの臓器にしかるべき装置を接続しておき、いよいよそのときだと察知された瞬間に作用するようになっている、としか。

どんな長い夢も実際には一瞬でみると申します。人生最後の壮大な夢も、体感としては何か月、何年にもわたるものでもほんの短い時間にみることができるのです。もちろん、事前にデモヴァージョンで体験していただいております。クオリティの高さは保証いたします」

妻は思い出していた。最後のとき、ベッドの夫がかすかに唇を動かしたこと。自分を呼んでいるのかと思ったが、そうではなかったこと。み・さ・こ、と聞こえた。誰なのか。そして、夫の満ち足りた表情。

「夫も、それまでの生活とまったく違った状況を希望したのね?」

「くわしくは申せませんが、ご本人の希望をできるだけ盛り込みましたので...そうですね。そう言ってよろしいかと思います」

自分は何だったのかと、妻は思う。結婚して35年。仲のいい夫婦で通ってきた。夫や子どもの世話に明け暮れ、たくさんのことを犠牲にしてきた。なのに、夫はそれらの思い出とともに最後を迎えることを拒否したのだ。悔し涙がこぼれた。DD社の男はそれを見逃さなかった。

「いかがでしょう。奥様もこの際、契約をお考えになられては。ご夫婦ということで特別に割引させていただきますが...」

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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居酒屋でゆでたそらまめを初めて食べて、おいしかったので自分で買って、初めてゆでてみた。笑われるかもしれないが、この年になっても初体験することが多い。というか、知らないことが多すぎる私だ。

で、ゆでるより蒸し焼きにすればと言われ、そうか、やってみようと思って少し経ってからいつものスーパーで探したら、もう売ってなかった。そらまめのシーズンは短いんだ。そんなことも知らなかった私である。