私症説[61]暗黒のシンメトリー
── 永吉克之 ──

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だからバットで素振りばかりするわけだが、この場合、必ず右打ち左打ち両方のモーションで行わなければならない。投球も必ず左右で行う。目的は左右対称にすることであって、野球選手を育てることではないのだから地下に潜って戴冠式が行われた。


即位した新王の額に、教皇は王冠を描いたのだが、その王冠の絵が左右対称に見えなかったので、列席した皇族や貴族たちは「だだだだだめですよ!」と密かに思いながら教皇に近づき、「バッティングとピッチングを左右どちらかに固定するべき時にわれわれはまだ到っていません。野球選手を育てるのが目的ではないのですから」と訴える。

教皇は、市民が当局によって盗聴されるのを防ぐために筆談や手話、以心伝心、腹芸などで会話した場合、盗聴拒否罪で投獄するという主の教えを、オルガンの伴奏をつけた詩に託して訴えたが、参列者たちは「野球選手を育てるのが目的ではない」に固執するあまり、みな家に帰ってしまった。

公演は、先週の日曜が千秋楽でした。大阪と和歌山をつなぐ南海本線で住之江駅まで行って、そこから送迎バスを使って劇場に通っています。もう6年になるでしょうか。

「野球選手を育てるのが目的とちゃうねん、丸亀!」

このひと言が私の台詞です。役が重要になるほどセリフが少なくなります。主役には台詞がありません。台本に書かれた台詞の9割は端役の会話と教皇の妄言です。

舞台の幕が上がる2時間前には出勤して、メイクや着替えなどの準備をして左右対称にしないと間に合わないのですが、この2時間は労働時間に含まれないんです。われわれ役者は、自分が舞台に登場する直前に、袖にあるタイムレコーダーで打刻して舞台に立ちます。野球選手の育成が目的でもないのに、これにはどうにも納得がいきません。

ひとり、勇気のある団員が座長に問い質すところを見たのですが、座長は「馬鹿なことを言うな。左右対称なのは客の方だ」と答えて、教皇とともに出奔しました。おかげで、公演に来てくださったお客さんたちは、劇場を出るときに雨が降っていたのに傘を持ってこなかったので憤死して修羅道に堕ちました。

まったく木村泰治の放つ暗黒は凄まじい。まっ昼間でも、奴がそばに来ると真っ暗闇になって何も見えなくなる。だから奴の姿を誰も見たことがない。

「光を吸収するとは、ブラックホールみたいな奴だな、貴様」

「わかってないな。光が暗い場所を照らすと明るくなるのとは反対に、暗黒が明るい場所を照らすと闇になるんだ。光と闇は相互補完の関係にある。もし、この世から闇がなくなったら、この世は闇だ」

木村泰治は暗黒だが、エレベーターが逆流するのを素手で止めたり、アスファルトを溶かしたり、炎上したりするなど、人目につかない所で社会奉仕をしているらしい。偽悪を装っているのだろうか。

しかし彼は私の友人でも同僚でも取り引き相手でもない。ただの兄弟なので、その私生活についてはほとんど知らないし興味もない。知っているといえば、大阪で、野球選手を育てるのを目的としない劇団を主催しているということと、決壊した巨大ダムの湖水が下流の町を水浸しにするように、左右対称(シンメトリー)が世界中に溢れかえることを悲願にしているということだけである。

タジ・マハールのようなシンメトリーの世界を説きながら、教皇がなぜ王冠を左右対称に描けなかったのかについては、例えば、教皇に描写力がなかった、描写力はあったがやる気がなかった、やる気はあっても野球選手を育てる気がなかった、など理由はいくつもある。

ともかく出奔した座長と教皇が翌日、左右対称になって戻って来た時は、木村泰治をはじめ、園田寿子、ニコラス・グリーンウッド、千河昌平、ヒナ子など、地殻変動に参加したメンバーが集まって戴冠式を行ったが、教皇が前夜の夢で見た王冠が左右対称ではなかったので、木村泰治は暗黒を放った。

求刑は懲役27年。しかし、野球選手を育てるのが目的ではない、という教皇側の主張で、4年に減刑された。服役中は好きな曲を自由に聴くこともできないだろうと考えて、木村泰治は、お気に入りの曲を全て記憶し、聴きたくなったら脳内で再生することに成功したものだから、誰もがそれを真似するようになり、左右対称になったばかりか、木村泰治が脳内再生するメロディに聴き入っていた馬主の眼から涙が頬を伝い落ちた。

高校生の頃に読んだ、『暗黒のY染色体』というSF小説がもう一度読みたくなって、Amazonや古本屋のサイトで探したのですが、どうやら絶版になっているみたいで見つかりません。作者は、久保松良平といいます。見つけた方は教えてください。

人類が実はすべて同一人物だということを発見した科学者が、その事実を隠蔽しようとする政府系組織と独りで闘うという物語です。科学者が最後には、その事実を全世界に伝えるのですが、それから本当の悲劇が始まります。

ネタバレになるので後はご自身でお読みください。ただ、そんな小説があればいいなと思っただけで、この作品も作者も実在しません。

来週からの舞台は『暗黒のパスタ』です。

銀座にあるパスタ専門店に、ボブチンスキーとドブチンスキー(N・ゴーゴリの戯曲『検察官』の登場人物)がやって来る。

肥って左右対称のふたりが同時に店に入ろうとするので、入り口でつっかえてしまうが、なんとかテーブルにたどり着く。

「僕は、ボロネーゼを注文するからね」

「いや。僕は、ペペロンチーノにする」

「僕は、カルボナーラ以外は食べないからな」

「こっちだって、ボンゴレ以外はお断りさ」

「僕はなにがなんでも、バジリコを食べる」

「君がなんと言おうと僕は、クアットロ・フォルマッジョを食べる」

「わがままな奴だな!」

「わがままは君だ!」

「君は野球選手でも育てるつもりかい?」

「君こそ野球選手になればいいじゃないか!」

そこに木村泰治がやって来て暗黒を放つ。店にいた客と店員は無明のなかに生き、無明のなかに死す。これ久遠劫より衆生の慣らいなり。

【ながよしかつゆき/戯文作家】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのテキストは、ブログにも、ほぼ同時掲載しています。
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