ユーレカの日々[38]ぼくはロードショー運が悪い/まつむらまきお

投稿:  著者:  読了時間:12分(本文:約5,500文字)


ぼくはロードショー運が悪い。もともと、ケチな性分なので、1,000円以上出して見るロードショーには慎重な方だ。外食や買い物全般も同様なのだが、「特別いいものを得たい」という気持ちよりも「絶対に損はしたくない」気持ちが強い。いいものを見るために損失を厭わない、とは考えることができず、「失敗はないだろう」という選択で劇場に脚を運ぶ。

先日も、SF映画のロードショーを見に行った。あるレビューで絶賛していたので期待して見に行ったのだが、これがぼくとしては近来まれに見るほど大ハズレで、見ている途中から完全に興味を失ってしまった。そういえば前回劇場で見たものもハズレだった。その前も大ハズレ。あれ、最後にアタリだったのはいつだったっけ......?

劇場で映画を見るというのは、ロードショー料金を賭けた大バクチだ。そしてぼくはこのバクチにめちゃくちゃ弱い。ほとんど勝ったことがないのだ。星の数ほど映画はあるのに、どうも劇場で見るのに面白くないものを選んでしまう。なぜこんなにロードショー運が悪いのか。興味を失った映画の画面をぼーっと眺めながら考えてしまった。




●テレビだとなぜアタリが多くなるのか

テレビやビデオで見た映画の方がアタリが多いのは確かだ。まず、数が圧倒的に多い。テレビでは月に100本は映画が放映されているし、無料なのだからとりあえず録画しておく。

次にいつでも止めることができる。劇場だとお金を払った以上、最後まで見ちゃうのだが、テレビならちょっと見てつまらなければ、見るのを止めてしまう。レンタルでも、途中で興味を失って、返却してしまうこともある。

そういった映画は、そもそも記憶に残らない。ハズレには違いないのだが、思い出すこともないのでダメージが少ない。なので自ずと記憶の中でのアタリが多くなる。

そういえば昔、アナログレコードの時代。レンタルが登場する以前は、アルバムの曲を聞くことなく買うのが普通だった。ラジオやテレビで聞いたシングル曲がよかったからとか、前のアルバムがよかったからということで新譜を買う。考えてみればこの頃から、自分で買うのはハズレ、というケースが多かった。

同じアーティストのアルバムでも、友だちから借りたものはアタリで、自分で買うと外れる。どうやらこの頃から運が悪かったように思える。

買ったLPがハズレなのは本当に辛い。物質として手元に残るのが辛い。そのレコードを棚で見かける度に、自分の失敗を突きつけられるような気がして心が痛む。時間が経てば印象が変わるかも、とたまに聴いても、ハズしたという記憶が蘇り、なんともやるせない気持ちになってしまう。

今は音楽もDVDも、レンタルやネットでの試聴があるので、そういったことは少なくなった。レンタルで借りて、本当に気に入ったら特典付きの市販品を手に入れる。じゃあ、映画もテレビやレンタルで見るだけでいいと割り切れればシアワセなのだが、そんなことができればこんな原稿は書いていない。だってやっぱり劇場で見たいではないか。

特に3DやIMAXはロードショー価格も高価だ。高価ゆえに期待値も高いわ、外せば落胆も大きいわというジレンマを抱えている。IMAXなんかは一年遅れくらいのアンコール上映をもっと積極的にやってくれればいいのに。

●面白さとは期待値なのか

そもそも映画が面白いかどうかは、人の好みによる。いくら大ヒットした映画でも、まったく面白く感じられないというケースもあれば、逆にマイナーで評価されていなくても自分にとって最高の映画というケースもある。だから、自分の趣味に合いそうなジャンル、監督の映画を選ぶわけだが、それなのになぜかロードショーではハズレを引いてしまう。

たとえば昔、ティム・バートンにはまった。ビデオですべての作品を見た上で、劇場ではじめて見たのが「PLANET OF THE APES/猿の惑星」だった。よりによって、である。

好きという方もおられるだろうが、あれがバートン映画の上位にあるという方はほとんどおられないだろう。これに凝りて次回作は劇場スルーしたのだが、それが傑作「ビッグフィッシュ」だったりする。やはり運が悪いのか。

逆に今まで見た映画で最高の部類に入るものを振り返ってみると、そのほとんどはテレビで偶然見たものが多い。そういった作品は期待も予想も全くしていなかったのだから、波長が合えば印象は倍増する。同じ500円という現金でも、1,000円もらえると思っていたら500円だった時と、道端で500円拾った時では、ありがたみがまったく異なるのと同じだ。

期待せずに見たものが当たれば、ものすごく得した気分になる。反面、期待しすぎれば、落胆度がはげしい。期待というのは個人の勝手な妄想だから、そのようにならないのが世の常である。実にやっかいなモノだ。

●映画がつまらなかった時の楽しみ方

だからぼくは、ロードショーで見ると決めた映画は、事前情報をなるべく入れず見るようにしているのだが、それでも今回のようにハズレる時はハズレる。そんな時はどうするのか。なぜ面白くなかったのか、色々と考えるのが結構好きだ。

個人の制作物ならともかく、映画のように予算がかかったコンテンツは、そもそも面白くなりそうな企画しか世に出ない。面白くなりそうだから投資も集められるし、スタッフも工夫する。

結果がどんなにハズレでも、ネタは面白くなりそうな要素だらけなのだ。なので、あそこをああすればよかった、こうすればよかったと考えるのは結構楽しい。自分ならどう判断したのか、と想像することで、映画制作を追体験できる。

極端な話、作品がツマラナイ、と感じるということは、「自分の想像力は、この監督をはるかに超えていた」と思えばいい。そうだ、その映画が面白くないのは、自分が勝ってるということなのだ。

●中二病的評論

うーん、しかしそれはそれで、自分で書いていて、なんだかものすごく負け惜しみのような、中二病的な考えに思えてきた。

よく、映画評論家やレビューなどで、あの映画はこうすればよかった、あの監督はここがダメなんて事が書かれる。制作側はそれを見て、自分で作りもしないで言うのは簡単だよな、と言う。

たしかにあれこれ、アラを指摘するのは簡単だ。失敗したアイデアに、どうすればよかったというのも簡単だ。しかし、実際に作り手側に立てばそう簡単にはいかないのも事実だ。

実習で学生のマンガや絵本を見ているが、学生同士の意見交換での「ああした方がいい」という意見のほとんどは、表面的な部分にとどまる。モノの見方が浅く、その意見を採用すれば、他の部分が成り立たなくなることに気がつかないからだ。

映画でも、レビューサイトでの意見のほとんどはそのレベルであり、そこをその意見に合わせて改良すれば全体が面白くなるかといえば、まったくそうではない。消費者としてはそれでいいのだが、偉そうに指摘した気分になると、よろしくない。

考えてみれば今の世の中、他人を非難することばかりにみんなが夢中になっている。政治にしろ、経済にしろ、とにかく非難だらけ。ひとつは裏切られた感。自分が勝手に期待しておいて、そうではなかったことに不満をに思う。しかし、勝手に期待していただけで、結果が思い通りにならなかったからといってわめくのは子どもと同じだ。

もうひとつは非難することで、自分が優位に立っている感情が得られるからだろう。どちらにせよ、非難が横行すれば、萎縮する。何かをすることを避けるようになる。これはよろしくない。世の中がどんどんツマラナイものばかりになってしまう。

「映画がつまらなかったのは、自分の勝ち」という考え方はやはり単なる中二病なのか。考え方はキライじゃないが、それを世の中にまき散らすのは、あまりよろしくなさそうだ。

●評論には二種類ある

考えて見れば映画でもなんでも、評論やレビューには二種類あることに気がつく。ひとつは単なる愚痴、表面的な非難、自分の方が偉いやろ、という自慢。作品や人をバカにしたような書き方のほとんどがこれだ。こういった意見は何の役にも立たない。公の場で垂れ流すのは遠慮いただきたい類。

もうひとつは、対象となる作品の良し悪しとはまったく関係なく、論者の考え方や語り方が面白い、というパターンだ。こういった論者にとって、そのモチーフは素材に過ぎない。

それを通して語られる論者の意見そのものが、ひとつのエンタティメント、作品として成立する。とりあげられている作品が面白いかどうかという過程はどっちでもよくて、その人の評論、紹介の仕方が面白いということだ。

よく、非難否定するなら対案、次善策を出すべき、といわれるが、映画などの感想はそういうことではない。社会的、仕事としての課題ではないのだから、改良案を提案する必要は全然ない。作品を非難して優位に立とうとせず、その論者が、自分の映画体験を自分の言葉で語ってくれれば、それはとても面白く、有益な評論になる。

逆にそういった論を、作品の評価として見るとおかしくなる。浜村淳の映画紹介が面白いのは、映画が面白いのではなく浜村淳が面白いのだ。映画のCMがよかったのに本編がハズレだったのは、CMがよかったのであって、作品がダメでもCMの評価は下げるべきではない。

なによりも、すぐれた評論が面白いのは、その論者が物事の楽しみ方を存分に知っているのがわかるからだ。いいものも、悪いものも楽しんでいる様子が伝わってくるのだ。

●期待している時が一番楽しい

ああ、そうか、そうなのだ。ずっと避けてきたので、うっかり忘れていた。映画そのものには、たしかに当たり外れがあるのだが、事前に「期待して、あれこれ想像している時」も楽しいではないか。それも映画体験の一部ではないか。

予告を見たり、宣伝に触れたりして、その映画に興味を持つ。大作であればあるほど、事前に様々な情報が流れてくる。それに触れるたびに、期待が膨らむ。その過程が楽しくないかといえば、ひょっとしたらこれが一番楽しい時だ。旅行なんかも、行く前に色々調べることが旅の始まりである、というが、あれと同じだ。

マンガや小説でも、読者は話の結末が気になって、先を読み進める。話の展開から色々と先を想像して、話を楽しむ。じゃあ、話の結末だけわかれば読まなくていいのか、というとそうではない。そこに至る過程を楽しむことが、物語を楽しむ、ということだ。

オチがはっきりしなくても、面白い物語はたくさんある。オチが明らかな、たとえば主人公が勝つとわかっていても、面白いものは面白い。

そうかなるほど、ぼくはロードショー映画の見方を根本的に間違えていたのかもしれない。期待の方法を取り違えていたのかもしれない。

映画を楽しむには、なるべく前情報を得ず、偶然見た方がいい。そう考えて、見ようと思った映画の予告や宣伝はなるべく見ないようにしてきた。しかし、それは話のオチが気にいるかどうかだけを、バクチしているのと同じだ。事前情報なしに見ても、つまらないものはつまらない。

逆にこう考えてみてはどうだろう? 気になるロードショーであれば、事前情報にどっぷりと浸かる。その監督の前作などもチェックし、想像を極限まで高める。その過程は間違いなく楽しい至福の時間である。この時間を存分に楽しむのだ。そうすれば、映画そのものが面白くなくても、楽しい映画体験をしたと言えないだろうか。

作品という結果ばかりに目をやって、その過程全体を避けてきた。当たり外れでしか考えられなくなって、自分のロードショー運を嘆いていたのだ。

●まるごと楽しもう

というわけで、ぼくのロードショー運の悪さだが、そんなに悲観的になる必要がないように思えてきた。過去数々の駄作を見てきたわけだが、その分、自分の物を見る眼や、創造力がレベルアップしてきたはずだ。期待値が大きすぎてがっかり、という場合も、事前に十分に楽しんでいたのだ。

世の中には映画でもマンガでも小説でも、ダメなコンテンツが山のようにある。じゃあダメなモノがなくなればいいのか、というとそうではない。いい作品しかなければ、想像力は刺激されない。見て満足するだけだ。

それよりも、駄作も良作も、もっと楽しもう。事前の期待も、見終わってからの感想も含めて、コンテンツを楽しむということだ。映画と自分、どっちが勝ったかではなく、だれが優れた作者だからではなく、どれだけ楽しめているかを競おう。

今回見た映画は本当につまらなかった。でも、そのおかげでこの原稿が上がったのでよしとしよう。

【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学准教授】
< twitter:http://www.twitter.com/makio_matsumura >
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ユーレカ、前回も36で今回38。実は数えてみたら数があわなくて、34回めが2回ありました。すんません。しかし38回かぁ。我ながらよく続いている。続けていられるのは、今回の映画の話と同じく、書くこと自体を楽しんでいるからなのだけれど、ちょっとは結果も欲しくなる。感想とか、出版とか、コラム原稿依頼とか、ください(笑)

さて、今回の原稿で今年はおしまい。今年も色々めんどくさい話に付き合ってくださってありがとうございました。来年もめんどくさい話を楽しんで書きたいと思ってます。皆様よいお年を。

・34回めが2回あるのはわたしのしわざです。すんません。回数間違えはほかでもやってます。サイトの更新も遅れに遅れてすんません。(柴田)