Otaku ワールドへようこそ![202]肖像権とパブリシティ権─変な格好で出歩く人が知っておきたい法知識
── GrowHair ──

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おっさんがセーラー服を着て往来を闊歩するのは、道徳的な見地に立てば、さほど推奨すべき行為ではないかもしれない。しかしながら、それを禁ずる法律が存在するわけではないことから察するに、たとえ社会的にみてマイナスの価値を有するにせよ、その絶対値は無視してよいほど微々たるものとみるのが、まあ、妥当な線であろう。

ところが、セーラー服を着て往来を闊歩するおっさんの存在がだんだんと世の中に知られるようになってくるに至って、その知名度が、お金に転換可能な価値とみなしうるようになってきている。つまり、経済的価値を有すると。当初は思いもよらなかったことである。

思わぬ利得にあずかれること自体はいいことに違いないのだが、反面、やっかいなことも同時に連れてきてしまっている。そこに価値が存在すれば、その価値が不正に利用されないようにするために保護する、法的な基準が制定されているわけで。これが実にややこしいのである。

今のところ、法的な権利をめぐって争う事案が実際に私の身の上に起きているわけではないので、取り越し苦労だとか自意識過剰だとか言われればそれまでである。しかし、いつ起きないとも限らず、気にせずに遠ざけておくわけにはいかない気がする。

それにしても、セーラー服を着て往来を闊歩するごくごく普通のおっさんが、マイナスから、無害を通り越して、プラスの価値を生み出すようになろうとは! 最初っから狙ってやってたなら天才と言えよう。狙ってなくてやってたなら変態と言えよう。まさに天才と変態は紙一重である。




●ウハウハと背中合わせのやっかい

当初意図してなかった形で懐にお金が転がり込んでくるという、そのこと自体は「ウハウハ」という言葉で表現しても間違ってはいないが、その量的な方へと視点を移せば、笑いが止まらないどころか、笑いが止まっちゃうくらい微々たるもんなんである。

その割に、リスクはそれなりについてくるもんだから、気苦労が絶えない。まず、契約に伴うリスク。例えば、ゲームを製作・販売する会社が私にコンタクトをとってきて、ゲームの中のキャラクタとして、私の肖像を使わせてくれませんか、と言ってきたとしよう。

私がそれを承諾する代価として、相手方はいくらかのお金を支払いましょうと提示してくる。話がまとまると、その内容を記した契約を交わすことになる。

契約を交わすこと自体は、安全策として必要なことである。後々になって起こりうるトラブルの可能性を先取りして、事前に対処のしかたを取り決めておけば、実際にそのような事態に陥ったときに、その都度いちいちモメることなく、事前の合意に沿ったスピード解決が図れる。それが契約ってもんである。

契約によって、お金を支払うという債務を負うのはもちろん相手方である。しかしながら、こっちもそれなりの債務を負うことになる。

たとえば、永久に解消することのできない契約をうっかり結んでしまったりしたら、こっちから解消したいと言い出すことは、債務不履行にあたりかねない。あるいは、同じジャンルに属する商品に関して他社とは同様な契約を結ばない、という排他契約であれば、それを守らなくてはならない。

契約に反して、債務不履行を働くと、賠償責任をかぶることになる。お金をいただけるはずのところが、かえって大金を支払わなくてはならない羽目に陥りかねない。これが、こっち側にかかってくるリスクのひとつ。

また、なまじ財産を持ったばかりに、泥棒に盗まれないように用心しなくてはならないという負荷を負う。本来自分の懐に転がり込んでくるはずのお金が、誰かに横取りされてしまう可能性、これが第二のリスク。

昔の漫画に出てくるような、口の周りに丸くヒゲをたくわえ、唐草模様の風呂敷で頬っかむりをして、夜の闇にまぎれて人様の家に忍び込み家財道具を盗み出す古典的な泥棒なら、それと分かりやすい。

ところが人の肖像から生じる価値を横取りするたぐいの泥棒というのは、事前に察知するのが難しいし、犯行現場を取り押さえるのも難しい。肖像が利潤追求行為に不正利用されているのを発見して初めて、盗まれたと気づく性質のものである。

しかも、肖像は、金庫に入れて鍵をかけておけば盗まれないというものでもないので、防犯も難しい。肖像の本体のほうは公共の場所を出歩いているわけだし、その写真はすでにネットの大海にわんさか出回っている。

泥棒をとっ捕まえて当局に突き出したとて、よくよく調べてみたら、相手の行為は合法だったってことがありうる。お手つき。この種の権利にまつわる法的なあれやこれやというのが実にややこしく、実際にもそういうお手つきのケースが起きている。

勝てると信じて訴えたのに、最高裁まで争った挙句に結局敗訴が確定したというケースがある。泥棒を捕えて縄をほどく。これが第三のリスク。

では、法的にどういうことになっているのか、みてみましょう。

●法律がない......

駅の売店で何気なく買った週刊誌を開いてみたら、グラビアページで自分本人のカラー写真とご対面、なんて事態がもし仮に起きたとしたら、たいていの人は「ゲッ!」となるであろう。

で、「俺に断りもなく勝手に載せやがって!」と怒るであろう。その怒りは正当性ありと認められるべきものであろう。もし出版社を訴えたら、勝てると思うであろう。損害賠償請求が認められ、出版社からいくらかのお金を支払ってもらえることになると思うであろう。

正当な怒りであるからして、その正当性を保証する法律が存在すると思うであろう。肖像は本人のものであるから、第三者が本人の許可を得ることなく勝手に撮影したり、写真をメディアに掲載したり、肖像を利用してお金を稼いだりしてはいけない。そんなことが、きっとどっかの法律の条文に書いてあるはずだ、と。

ところが、ないのである。肖像にまつわる権利として「肖像権」と「パブリシティ権」がある。これらはれっきとした法律的概念である。しかしながら、それを規定した「肖像権法」とか「パブリシティ権法」といった法律は存在しないのである。これらの用語はどの法律のどの条文にも出てこない。けれども、判例の中になら、出てくるのである。

法律はなくとも、憲法第十三条に「幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、最大の尊重を必要とする」とあり、上記ふたつの権利は、これを根拠としている。

判例においては、個別のケースに対して判決が述べられているだけでなく、その判決理由の中で、同じテーマに属する一般的なケースに対して適用すべきと考えられる一定の基準が示されている。

法律がない場合、実質上、判例で示された基準が法律の代わりとして機能する。なので、自分の写真を勝手に掲載した出版社を訴えようとする場合、類似のケースの判例を見つけることができれば、勝訴できる見通しがどの程度であるか、ある程度読むことができる。

しかし、判例の蓄積は、当然のことながら、網羅的ではない。起こりうるケースをすべて網羅的に考慮した上で、あらかじめ基準を示す性格の法律とは異なり、判例はケースバイケースなので。専門家の間でも意見が分かれ、訴えてみないことには結論が見えない、なんてケースも多々起こりうるのである。

憲法第二十一条に「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とあり、これとの兼ね合いがまたなかなか難しい。

週刊誌のグラビアページで自分と対面しちゃったあなたが、もし、芸能人で、たまにはテレビに出たり、ちゃんと取材を受けて雑誌に記事が掲載されたりする程度にはちょっとばかり有名な人だったとしたら、どうだろう。

そういう人が、本人に断りもなく週刊誌に掲載されるのって、あたりまえのことではないだろうか。芸能人がそれでいちいち週刊誌を訴えて、全部勝訴できるのだとしたら、そもそも週刊誌ってものが成り立たないであろう。

ならば、同じようなケースだったとしても、無名の一般人だったら勝てて、芸能界で活躍する有名人だったら負けるのであろうか。

ところが、憲法第十四条には「すべて国民は、法の下に平等」とある。ほぼ同
一のケースに対して、下される判決が人によって異なっていいはずがない。無
名の一般人なら勝訴できて、有名人なら敗訴するというようなことがもし起き
れば、憲法で保障された平等原則に反するのではなかろうか。

では、有名人も無 名の一般人も一律に負けるのであろうか。ほーら、分からなくなってくるでしょう?

余談だが、これに類するケースが実際に身近に起きたことがある。私のかつての上司であるM井氏がそういう目にあった。M井氏は、当時、京都を拠点とするプロジェクトのリーダーを務めており、東京と京都の間をしょっちゅう往復していた。

「ゲリラ豪雨」がよく話題になった年である。M井氏もそれで足止めを食らった。新幹線を長時間にわたってストップさせたゲリラ豪雨のことは、朝日新聞の朝刊の一面で報道された。左上には、被害にあって途方に暮れるサラリーマンを写したカラー写真がでかでかと掲載されている。

あ、M井さん! 新幹線の駅のホームで、電光掲示板を見上げて固まっている。能動的な対処のしようというものがおよそなく、運転が再開されるのをただただ待つ以外にない。「あーこりゃあかんわ」。あきらめる以外にどうにもならない状況に陥っていることをみずからに説得して受容に至るまでにかかる長い時間の途中。

本人にとっては困惑の状況でも、見る者に対しては、軽い笑いを誘うマヌケ面。役者に演じさせたかというぐらい、見事なまでに「ゲリラ豪雨」のテーマを表現した、いい写真である。M井さん、グッジョブ!

掲載の事実を本人が知るよりも早くから職場では話題になっており、ひとしきり笑いが駆け巡った。当のM井氏は、怒りに打ち震え、「訴えてやる!」と息巻いた。...ということはなく、「うわ、やられた」といつものマヌケ面でやり過ごしていた。

●著名人は目減りしている肖像権

まず定義からズバッと言ってしまえば、肖像権とは、著名人であるか無名の一般人であるかを問わず認められる権利であって、「自己の容貌を撮影されない(永続的な記録にされない)人格的利益」のことである。前述した通り、法律の条文で規定されているわけではないが、憲法第十三条で述べられている「幸福追求権」を根拠としており、判例がある。

ここだけを見ると、なんでもかんでも訴えちゃえば勝てそうにみえる。ところが実際は、そうはなっていない。いろいろと制約条件があるのである。特に、実質的にダメージがほとんどない場合には、肖像権侵害とならない。

本人に無断で写真撮影され、メディア掲載などの形で公開されたとしても、「被撮影者の人格的利益の侵害が、社会生活上、受忍の限度を超える」と言えるほどでもなければ、肖像権侵害とは認められない。つまり、掲載された写真を一般の人が見て、掲載された側の立場を想像して考えたとき、「これは恥ずかしいだろ、本人だったら載せられたくないと思って当然だろ」と思えるようなひどい扱いでない限り、侵害とはならないのである。

苦痛といっても、笑って流せる程度の軽いものであれば、権利侵害とはみなしてもらえず、「言論、出版その他一切の表現の自由」のほうが優先されるのである。

公共の場所をただ普通に歩いているところを写した写真であれば、権利侵害にはあたらない。実際、そのような判例がある。しかし、一方、銀座の横断歩道上を歩く原告の全身像を、容貌を含めて大写しに撮影した写真がウェブサイトに掲載 されたケースでは、原告の衣服の胸部に大きく赤い文字で「SEX」というデザインが施されていることが重視され、肖像権侵害が認められた。

被告側は、それを着て銀座を歩いた時点で本人から進んで「公開」しているのだから、公開されたくないということはなかったはずだ、と主張している。また、原告が公共の場所を単に歩いている場面を撮影したものにすぎないので、権利侵害にあたらないと主張している。

これに対して、判決理由においては、ウェブサイト上にて公開されることは、公道を歩いて周囲の人に一時的に認識されるのとは異なり、想定された範囲を超えて人々に知られることになること、また、 写真は原告を狙って撮影されたものであることにより、原告に強い心理的負担を覚えさせるものと認められる、と述べられている。

肖像を撮影・掲載する目的も、肖像権侵害判定を左右する要因となる。ここに、有名人と一般人との差異が現れる。有名人に対しては、報道の自由が優先され、肖像権を主張できる範囲が狭められるという側面がある。著名人は、様々な意味において社会の正当な関心の対象となり得る存在であって、その人物像や活動状況等の紹介、報道、論評等を不当に制約するようなことがあってはならないとされている。

元来、法は万人に対して平等に適用されるべきものではあるが、著名人の肖像権については、多くの人々からの関心に答えるメディア側の報道理由の正当性が優先的に認められて、結果として、肖像権の認定範囲が無名の一般人よりも狭くなってしまうのである。

芸能事務所に所属して芸能活動をしているタレントであれば、たとえ大して売れていなかったとしても、肖像権の適用範囲としては、著名人扱いであろう。そういう活動をみずから進んでしている以上、本人に無断で週刊誌に記事が掲載されたとしても、個人的な心理的苦痛を主張しづらいし、芸能人としてあらかじめ想定可能な事態の範囲内であろうから。

では、私ぐらいの立場だとどうだろうか。芸能事務所に所属しているわけではなく、たまにテレビに出演する機会はあるものの、素人のゲストという扱いとしてである。その意味では著名人ではなく一般人である。少なくとも自分の認識としては。

そんな私がもし、何気なく買った週刊誌で自分と対面しちゃったとしたらどうであろう。「こんにゃろめ〜、本人に断りもなく、なんてことしやがるんだぁ〜!」と怒り狂いながらも、にやにや笑いながら怒ってるというか、内心では喜んでいるというか、なんともいえない屈折した感情を抱くであろう。

これをもって、肖像権侵害の被害にあったと主張できるものかどうか。まあ、なんとなく、無理っぽい気がする。なんということだ。私の肖像権は、気がつかぬ間に縮んでしまっているのか。

●パブリシティ権は著名人の特権

雑誌で自分とご対面のケースでは、無名な一般人なら「載せられて恥ずかしい」という心理的な苦痛の主張が正当とされるのに対して、著名人では心理的苦痛を訴えたとしても、「その程度のことは予想済みなはず」と返されて正当視されない。その意味で、著名人の肖像権は縮められているのであった。

では、雑誌の表紙に著名人の顔写真が本人に無断で掲載されている場合はどうであろうか。著名人であれば、掲載されたこと自体は「恥ずかしい」ではなく「やった!」な気分かもしれない。けれども、別の怒りが湧き起こってきたとしても、もっともである。「オレの価値が盗まれた 」と。

タレントであれば、その肖像を売り物のひとつとしているのであるから、本来ならば、事前に申し入れして承諾を取りつけた上で、謝礼金を支払うべきところである。無断掲載によって「支払うべきお金をちょろまかされた」という感覚をもつのはもっともだと言える。

著名人が、その肖像のもつ経済的価値を他人に勝手に利用されないことを保証する権利が存在し「パブリシティ権」という。つまり、パブリシティ権とは、「人の氏名・肖像から生じる顧客吸引力を中核とする経済的な利益ないし価値(パブリシティ価値) を本人が排他的に支配する権利」であると言える。

肖像や氏名が「顧客吸引力」という経済的価値をもつのは、そもそも有名な人に限られるので、この権利は著名人の特権という性格がある。その意味で、パブリシティ権が存在していることをもって、著名人の権利が拡大している側面があるとみることができる。肖像権において縮められていた側面があったのとバランスがとれている。

肖像の無断利用という同じ事象に対して、「肖像権」は心理的苦痛を受けない権利だったのに対し、「パブリシティ権」は経済的価値を盗まれない権利なので、性格が異なる。人権は人格権と財産権とに大別されるが、肖像権 は前者、パブリシティ権は後者に重きが置かれる。

しかしながら、判例によると、パブリシティ権の根拠は肖像権に由来するとの判断がなされている。つまり、パブリシティ権は肖像権の一部なのである。ここはちょっとばかり議論のあるところらしいけど。

競走馬の名前が無断で使われたケースにおいて、裁判所は、競走馬の名前には「顧客吸引力」という「パブリシティ価値」があることを認めながらも、その価値を保護することの正当性を保証する法的根拠がどこにもないことから、物のパブリシティ権は認めないという判断を下している。パブリシティ権の由来は肖像権にあり、肖像権の由来は憲法の幸福追求権にあり、これは基本的人権であって、馬権ではないのである。

では、著名人が肖像を無断利用されたら、何でもかんでもパブリシティ権の侵害を主張して勝てるかといえば、そうでもない。これもまた、表現の自由とのバランスで判断される。

その代表例が「ピンク・レディー事件」である。この事件については、「骨董通り法律事務所」のウェブサイトに非常に分かりやすくまとまっている。
< http://www.kottolaw.com/column/000371.html
>

上記サイトによると、この事件は、次のようなものである。「ピンク・レディー de ダイエット」と題する雑誌記事において、ピンク・レディーを被写体とする14枚の写真が無断で掲載されたことが、パブリシティ権を侵害する不法行為になるとして、ピンク・レディーのお二人が掲載雑誌を発行した出版社に対して、計約370万円の損害賠償を求めた事案である。最高裁まで争われ、原告敗訴の判決が下されている。

この最高裁判決において、パブリシティ権の侵害にあたるかどうかを判断するための一定の基準が示されている。それはおよそ次のような主旨である。

著名人は、その肖像や名前等が顧客吸引力というパブリシティ価値をもっており、その価値を他人から無断利用されない権利は保証されるべきである。一方、著名人は、社会の正当な関心の対象となりうる存在であり、その人物像、活動状況等の紹介、報道、論評等は不当に制約されるべきではない。

つまり、著名人の肖像等の無断使用がパブリシティ権の侵害にあたるかどうかの判断は、パブリシティ権と表現の自由とのバランスを考慮してなされるべきである。

ほとんどの報道、出版、放送等は商業活動として行われており、その際に著名人の肖像等が掲載されれば顧客吸引効果をもつことは十分ありうる。よって、肖像等の商業的利用一般を侵害とすることは適当ではない。パブリシティ権侵害となる範囲はできるだけ明確に限定されなければならない。

その判断基準として、第一審で提示された「専ら基準」を最高裁も基本的に支持している。「専ら基準」とは、著名人の肖像等を使用する目的が、「専ら」その顧客吸引力の利用にあるといえる場合に限り、パブリシティ侵害を認める、というものである。

最高裁判決においては「専ら」にあたる場合として、三類型が挙げられた。

(1)肖像等それ自体を独立して鑑賞の対象となる商品等として使用する場合(ブロマイド、グラビア写真など)
(2)商品等の差別化を図る目的で肖像等を商品等に付す場合(キャラクター商品など)
(3)肖像等を商品等の広告として使用する場合

商業出版等においては、著名人の肖像等を使用する目的のほとんどが顧客吸引力の利用であるのに、それ以外の目的がわずかでもあれば、「専ら」に当たらないとしてパブリシティ権侵害が否定されるとすれば、表現の自由を尊重する側に偏りすぎてはいないかという懸念が生じるのは自然なことである。

最高裁判決においては、そこに対して補足意見が添えられている。「例えば肖像写真と記事が同一出版物に掲載されている場合において、写真に対して記事が添え物で独立した意義を認め難いようなものであったり、記事と関連なく写真が大きく扱われていたりする場合には「専ら」といってよく、この文言を過度に厳密に解することは相当でない」。

ピンク・レディーの雑誌記事のケースでは、記事自体の主旨は、ピンク・レディーの振付けを真似ることによるダイエット効果を謳ったものであり、記事の中にピンクレディーの写真を掲載することは、主旨を補足するものとして意味のあることである。なので、顧客吸引力の「専ら」利用にはあたらない、との判断により、最高裁は原告の訴えを退ける判決を下している。

量的には大海と水たまりぐらいの差はあるにせよ、肖像がパブリシティ価値を持ち始めているという点において、私もピンク・レディーと同じ土俵に上がりつつあるのではなかろうか。この考えは、中二病的な自意識過剰のなせる錯覚などではなく、現実的なことと思っていいですよね?

今後、雑誌で自分とご対面、みたいなケースが起きるかどうかは分からない。けど、もし起きた場合、カッとなった勢いで訴えちゃったとしても、条件によっては勝てないことがあるというのは、頭に入れておいて損はない気がする。

しかしながら、法律関係のややこしいごちゃごちゃを頭に叩き込むことを専門としたい指向もなければ、趣味として楽しむ性向もない私は、価値に伴って連れて来られたやっかい者という捉え方にどうしてもなってしまう。

本業がある関係上、芸能事務所に所属するわけにはいかないのだが、もし所属できるのだったら、権利関係のマネージメントがしっかりできるところなら、ずいぶん楽になるだろうなぁ、とは思う。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
< http://www.growhair-jk.com/
>

今月は、お客様を前にしてしゃべる機会が三回あった。
11月9日(日)は、神戸の「上屋劇場」で開催された、Ladybeard氏来日一周年記念ライブ『Kawaii Angelic Celebration』にて。
11月15日(土)は、上尾の「Outdoor cafe 山小屋」で開催された、『理系が語るHAPPY論』にて。
11月23日(日)は、「高円寺パンディット」にて開催された、『カオスおじさんズ vol.1 〜セーラー服とタワシとアヒル〜』にて。

上尾のは、武盾一郎氏が聞き手役を務めてくれて、『Happy論』と称しながらも、人が幸せになるための単なる "How to" に流れずに、哲学論的なほうに重きを置こうという趣旨だった。言い換えると、我々二人が、常々関心をひかれている根源的なテーマのほうへ、思う存分行ってしまおうと。

結果的には、店を満杯にしてくれた20人ほどのお客さんたちは、抽象論にうんざりすることもなく、話にぐいぐいと引き込まれてくれて、かなり高いレベルで満足していただけたようである。

交通の利便性という点においては、かなり不利な立地にもかかわらず、あれだけ集客できたのは、主宰者たちの事前の宣伝活動のがんばりに負うところが大きい。イベントとして総合的にみて、大成功。

高円寺のは、交通の利便性のよさから、かえって楽観した感じで、結局、来場者は10人ほど。40人くらいは余裕で入る会場だったもんだから、ちょっとスカスカ感が否めなかった。

前半の一時間を私が丸々もらって、哲学トーク。けっこう楽しんでいただけたという感触あり。後半は四人の出演者全員が登壇して、トーク。私にとっては、このイベントをもって、怒涛のようなスケジュールが一段落する。それで気が緩んだか、終わりまでもたなかった。後半で急に体調が悪くなってしまい、三回も退席してしまった。ぐだぐだな感じになってしまって、申し訳ない。

で、翌日、24日(月・祝)にこの原稿を書こうと予定を空けておいたのだが、結局丸一日寝て過ごす。25日(火)、26日(水)は、費用会社持ちで、25人ほどの部署丸ごと箱根へ。二日間ともあいにくの雨だったけど、紅葉狩りと温泉を楽しむ旅行。あ、違った違った。缶詰め会議。

配信の前日、27日(木)に会社を休んで原稿を書くというなさけない事態に。とほほ...。