装飾山イバラ道[148]自由の限度/武田瑛夢

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今回は今までも何度か話題にしてきた、情報を図にすることについて書きます。何度も同じことを言うのは老化かもと思ったりするけれど、きっと大切だからです(笑)。年の始めにこの件について考えることが多かったので、ちょっと真面目なスタートだ。

●便利な図

情報デザイン論という講義をしていた時に、ピクトグラムを題材にしていたことがある。あらゆる物事をわかりやすく図化し、スピーディに伝える技術は信号機やアイコンなどのデザインとして活かされている。

生活の周りや街の中にあふれているシンプルな人や動物、道具などの図案をみつけることは楽しいし、シンプルな見た目から自分でも描けそうな気にもなる。学生に実際に描かせてみても、今まで見て来たものに情報の蓄積があるのでわりと簡単にネタが出て来る。

もう一歩進んで物質ではなくて、様子、有様を図にしてみてと言うととたんに難しくなるようだ。争い、幸せ程度なら見て来たもので思いつくけれど、葛藤、嫉妬、焦燥とか複雑にからんだ心模様を図に示すのはとても苦労するものだ。

しかしこれも、人間の図と矢印などのその他の図を組み合わせる既存の方法で表現できるので、コツを掴めば皆何かしら描き始める。マンガを描くのが上手な子なんて、こちらも驚くような複雑な人間関係を新鮮なピクトグラムにして持って来る。若くて脳に柔らかいところがあるって素晴らしい!って 思ったものだ。




●図にするのは簡単なことか

いろいろ図化する試みの講義の中で、図を使う時の注意事項には必ず触れなければならないと思う。導入部分は何でも思いつくままにどんどん図にしちゃってみようと言って引き込むけれど、ある程度進んできたら一旦立ち止まってみることも大切だ。

誰しも目にするものなのに、それを見たくない人がいるような図は掲げるべきではない。人間生活の中で公の場に貼り出すものにはルールが必要なのだ。

例えば、裸の図。男女共にリアルな裸の図が掲げられているのは町中では不愉快になるし問題だ。しかし、公開するエリアを限定するならばこのルールも変わる。

例えば、幼稚園などの小さい子供にお洋服のお着替えを教える図なら具体的な方が良いし、温泉入浴施設などでどこまでが着衣のエリアかを示す場合にも、裸はNGの図として用いられてもかまわない訳である。この場合は、できるだけ直接的な描写は避けてシンプルな図がふさわしい。

また、誰かを侮辱するような図も避けるべきである。性別、人種、年齢の特徴はデフォルメすれば簡単に伝わるけれど、「失礼」になる以上に問題になる場合も多いのだ。特徴として取り出した部分は本当に大きな声で伝えて良い特徴なのか? と考え直してみる必要がある。

そしてもう一つは、集団が見る場で掲げられているものなのに、誰かを除外してはいないかということだ。図が自分とは関係ないことなんてよくあるけれど、関係している場面なのに自分以外に対してだけメッセージが出されて続けていることは、「無視」というメッセージになってしまうのだ。

積極的な無視という意図がなくても、そこにいることが考慮に入れられていないことは、集団の中では置き去りにされていることと一緒なので注意しなければならない。

●共通している感覚

図を見て誰もが同じことを思いつくためには、共通の意識が大前提だ。過去の経験の蓄積が大事なのだけれど、各国で蓄積されてきたものを見直して再評価する機会がオリンピックなどの国際行事だ。

既に主流になっているもの、新しく出て来たジャンルの図化についてのアイデアなどを出し合って作り上げていく。どの国にとっても使いやすく、NGにならないものにするのはとても大変な作業だと思う。

デザイン的な斬新さよりも、実用としてどの国の人にもスピーディに解ることが重要なので、ベースはそう変わらない。

この「共通」というものも、よく考えれば難しい。フォークとナイフとお皿の図は一般的には「食事」を意味するけれど、フォークもナイフも使わない国の人にとっては、それは記号として覚えているだけかもしれない。大多数が解るならそれに準ずるのも世の中だ。

いつもピクトグラムの授業の中で最後の方に言っていたのは、「唯一ピクトグラム化できないものがあるとしたら何か」ということだ。たぶんそれは「神」なのではないかと私は思っている。

神と思うものは人によって違うので、共通化することがそもそもできないと思う。共通化して一目で解るようにする必要もない。図として描けないということに意味をおいている人もいる。

これはとても難しいテーマなので、授業ではあまり深くは触れなかったけれど、ピクトグラム化できない唯一のものではないかということで学生に説明すると、皆ちょっと真剣な顔になる。

図化するのが難しいだけだったら「無」とか他にもありそうだけれど、難し過ぎるテーマはどんどん芸術方面の思考へ向かっていったり、答えが出ない無限ループに陥ったりする。

私は簡略図にそこまでの荷を負わせなくてもいいと思う。思考のポケットに落ち込まないように、宇宙人を描いたピクトグラムとか別の意味で考えが広がる作例を見せたりして、その後気持ちを明るい方向へ引き戻したりしていた。

●侮辱は表現か

今回この記事を書こうと思ったのは、やはりフランスの風刺画を載せた新聞についての一件がある。

いろいろな人の意見があった中で、朝のニュースでローマ法王の意見が流された。「人の信仰に関わる場合、表現の自由には限度がある」この言葉を聞いて、私は今まで人に伝えるのが難しくて困っていたけれど、短く言うならこう言えば良かったのかと思った。

「神の名のもとに人を殺すべきではない」という言葉と共に、物事が起こった時に、しかるべき人がメッセージを出すことはとても重要だと思った。私も侮辱やいじめは、して良い表現の範疇を越えていると思う。しかし侮辱されたからといって人命にかかわる反撃をしたら、人としての関わりの範疇を超えると思う。

一つの星の上で生きて行く以上は、やって良いことと悪いことはあるのだ。何がやって良いことで、何が悪いことなのかは、話し合い続けることでしか理解を深められない。ニュースという場に意見をのせるということで伝えていることは、皆が何かしらの意見で返せばいいと思う。

【武田瑛夢/たけだえいむ】eimu@eimu.com
装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
< http://www.eimu.com/ >

最近、近所ではノラ猫を見かけなくなった。猫にとって過酷な街なのだろうか。30年前を思い出すと、マンションの10階に住んでいたのでベランダから下をのぞくと、屋根を歩く猫たちが見えたものだ。

猫というのはすごいバランス感覚で、三角屋根のてっぺんの真ん中をゆうゆうと歩く。サザエさんのタマが歩いている感じそのものの風景を、真上から見ていたわけだ。屋根の瓦の斜めのところではひなたぼっこで寝ているのが見えた。

現在のようなフラットな屋上のビルが増えてしまっては、猫たちの居場所はかなり減っているのだろうな。屋根上の猫を真上から見るということも、もうなかなかできないのかもしれない。