ショート・ストーリーのKUNI[168]何度でも/ヤマシタクニコ

投稿:  著者:  読了時間:9分(本文:約4,000文字)



半年くらい前のことだ。いや、3か月くらいかもしれない。覚えていない。

私は図書館で借りてきた本を読んでいた。それは大好きな作家の、最近出た作品集だった。リビングの窓辺のソファにすわり、明るい日の光に包まれて好きな本を読む。自分はいま、とてもぜいたくな時間を過ごしている。

そう思っていたのに、やがてそれはだいなしにされてしまった。本に書き込みがしてあったのだ。

「彼女が思わずそれを破く場面を」という言葉のそばに「破るでは?」と。

文字は緑色で、細書きのボールペンによるもののようだ。何箇所かに糸の結び目のような、ささやかなインクだまりができている。

図書館で借りた本に書き込みをする。しかも、「破く」で何も問題はないのにどうして「破るでは?」なんて書くのだろう。「破く」という言葉を知らない人なのか? 

こういった行為を平気でする無神経な人間を私は許せないと思った。何より自分がせっかく浸っていた本の世界から、いきなり醜い手で引きずり上げられたような気がして不愉快だ。




結局、その日は本を閉じることになった。私の気持ちは収まらない。

また何週間か経ったころ、だと思う。自信がない。私は日記や予定表の類いはほとんど使わないから。私はまた図書館で本を借りた。海外の作家の、モノクロの写真がところどころに入っている美しい本だ。

ところが、また私は発見した。写真の横に添えられた「メトロポリタン美術館で」というキャプションの横に線が引かれ、「いつか行く」と、緑色のボールペンで。

線が一部、文字に重なっていた。右肩上がりの筆跡は「破るでは?」の筆跡と共通するところが多いように見える。気のせいだろうか。

そんなことがあると、図書館で本を借りることに気が進まなくなってしまう。でも、必要があって私はまた図書館である小説を借りた。この世のすべての本を自分で所有するなんてしょせんできないのだから。そして、また発見する。

------そういえば学問のある男はえてしてとんでもない代物であることがある。さもなくば虫酸の走るようなやつ。

その横に緑色のボールペンで

------ハハハ!

と書かれているのを。

私はびくりとなった。三度も偶然が続くだろうか? 私が借りる本に必ず、同一人物による書き込みがあるなどと? まるで先回りして、私が気づくのを待ち構えているように。

それともこの緑色のボールペンの持ち主は、図書館のすべての本に書き込みをしているのだろうか? 

それは考えにくかった。いつも利用する図書館は本館・分館あわせて数十万冊の蔵書を持つ。小説やエッセイ本に限ってもかなりの数になるだろう。ありえない。

ならば、どうして? 書き込みの主は私が借りそうな本をあらかじめ探っているとしたら? まさか。でも、そのように見れば「ハハハ!」は、その文章そのものに向けられたようにも、そのような本を好んで借りる私に対して向けられたようにも見える。

おまえはそんな本が好きなんだな。おまえもそういうふうに思うわけだ。ハハハ!

図書館に行くことがこわくなった。同時に、ひきさがるわけにはいかないという奇妙な闘争心も芽生える。私は、それでまた図書館に行く。棚の本を物色しているふりをしながら、入館者たちをそれとなく観察する。

そのような目で見ると、図書館は油断ならない人間たちでいっぱいのような気がした。黒いキャップをかぶり新聞を読んでいるように見える小太りの男も、紙バッグを脇に持ち、本を持ってはいるが読まずに背中を丸めてスマホをいじっている男も、マスクで顔の下半分を覆っているまだ若そうな男も、どれもこれも怪しいような気がする。

この人たちのだれかが逐一私の行動を観察し、先回りしてボールペンで書き込みをしているのかもしれない。いや、そうしているに違いない。

ふと私は気づいた。ソファにすわって雑誌を眺めながらメモを取っている男がいる。40代、だろうか。薄汚れたパーカにぼさぼさの頭髪。ひげを生やしている。男の手に握られているのは緑色のインクのボールペンだ。

私の鼓動はにわかに速まる。どきどき! という音がまわりに聞こえそうなくらいだ。私の体はこわばり、視線をそらすことができない。男が気づいて私を見る。視線が合い、「なんだよ?」というふうに首を傾ける。私は目をそらす。男もすぐにまた雑誌に視線を落とす。

その夜も私は本を読む。寝室の机にもテーブルにも枕元にも、読みかけの本がたくさんある。間違えないように図書館で借りた本を別の場所に置き、その中から一冊、今は亡き小説家の作品集を読み始める。

--------そして幾分滑稽な音は、勝利のラッパの音のように、嚠喨とひびきわ
たるのだ。

「嚠喨」の文字の横に

--------りゅうろう

と読みがながふってあった。緑色のボールペンで。

次の日、私はその本を持って図書館に行く。

予想通り、あの男はいた。ぼさぼさ髪と、昨日と同じパーカですぐわかった。私はまっすぐ男のもとに行き、「おかしなことをするのはやめてちょうだい」と言う。男はぽかんとする。

「いつもいつも、私が借りた本に、先回りして書き込みをしてるでしょ。何のために? なにが目的でそんなことをするの? いやがらせ? 私に何か言いたいことがあるの?!」

男は相変わらずぽかんとしている。館内がしんとなる。

「これ以上おかしなことをしたら警察に言いますよ!」

「おれは何もしていないが...」

「うそよ」

「うそじゃないさ」

「よく言うわ。毎日毎日ここで私のことを観察してたでしょ。私の好きな本、好きな作家の本を選んで、それをおとしめるようなことをして。私が動揺するのがおもしろいわけ? 最低だわ! さいてい!!」

「いいかげんにしろよ、ばばあ」

「なんですって」

「頭がおかしいんじゃないのか、ばばあ」

「私はばばあじゃないわ。老けてみえるのかもしれないけど...まだ30代よ」

男は吹き出した。

「おい、この頭の変なばばあをどうにかしてくれよ!」

図書館員が駆け寄って来た。私は緑色のボールペンで書き込みがされた箇所を示す。これまでにも何冊も書き込みがされていたことも。

私の声はたぶん、興奮で醜く震えていただろう。ヒステリックな女と思われただろう。だが仕方ない。

図書館員は本をじっくりと眺め、困ったような表情になる。そのとき、ひとりの男が現れた。かなり年配だが、穏やかで教養ありげな風貌が好もしい。アイボリーのセーター。銀髪を自然な感じに整えている。私は直感した。

この人は私を救ってくれる。

男は微笑みながら私の肩にそっと手を置き、いかにもなんでもないことのよう
に言った。

「落ち着いて。その男性は無実です」

「何なの、あなたは...どうしてそんなことが言えるの」

「それは...その書き込みをしたのが私だからですよ」

「あなたが?! 何のために」

「何のために、ということはないんですが...すいません。こんな大人げないことをしてはいけませんよね。反省してます。図書館のみなさまにもご迷惑おかけしました」

男は図書館員に向かってていねいに頭を下げた。理由はわからないが、パーカの男をかばうため、そしてこの場を収めるためにうそを言ってるのだ。

男の真意は定かでないし、パーカの男が「ほらみろ」という顔をしているのはくやしかったが、銀髪の男はまともな人のようだ。私はこの場は「大人」になることを決め、それ以上反論することをやめた。

銀髪の男はそのあとも私を気づかうことをやめず、私を家まで送り届けた。私はなんだかくやしくて、帰るなり声を上げて泣いた。男は黙って背中をさすり続けた。

それ以来、銀髪の男は私の家にいる。彼はとてもやさしく、私になんでもしてくれる。

図書館でのできごとから何か月経ったのか私は知らない。ある日私は、自分が緑色の細書き用のボールペンを握っていることに気づく。私は以前からこんなボールペンを持っていたっけ? 驚いた私のもとに彼がやってくる。

「どうかした?」

「いえ...なんでもないわ」

 あのとき図書館員が言った言葉がいまごろ脳裏に浮かぶ。

──これは当館の所蔵図書ではありません。おそらくお宅様のご自宅の本ではないかと...。

銀髪の男が紅茶をいれてくれる。甘めでミルクたっぷりの、私好みの紅茶。どうしてこの人はこんなにも私好みの紅茶をいれることができるのだろう。

私は混乱している。最近、私はあるできごとと別のできごとのあとさきがわからなくなる。不意に断片が浮かび、それが何かがわからぬまま別の断片が浮かぶ。それらの断片は何か月前のこと、あるいはこれから起こることなのか。

信じられないことを私に言った人がいる。銀髪の男は私の夫であると。もう40年も結婚生活をしているのだと。それなら私は60歳を超えていることになる。

まさか。私はまだ30代で、結婚などしていない。そうに決まっているではないか。私の両目からぽろぽろと涙が落ちる。中学生のころ教師に「あなたはいつも、くやしいときに泣くのですね」と言われたことを思い出す。

そう。私は、くやしい。くやしくてたまらない。

「どうしたんです、いったい」

「私は...私はまだ結婚してないわ...」

男は私の頭をやさしくなでた。太い腕の中に、私を包み込んだ。

「私、何がどうなっているのか、わからないの」

「わからなくてもいいじゃないですか」

私は泣きじゃくった。結婚なんかしたくない。でも、この人となら、してもいい。何度でも。

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最近せっせと山登りしている友人のfacebook投稿を通じて高見山(奈良県と三重県の境にある山の名前です)は「関西のマッターホルン」と言われてることを知った。名前だけは前から知っていたが、そんなことは知らなかった。ちなみにネットで画像を検索すると、当然ながら相撲の高見山の画像がいっぱい出てきます。