Otakuワールドへようこそ![207]女装序説
── GrowHair ──

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どちらかというと理屈っぽい部類に属するかもしれない私が、これまで女装について理詰めで論考してこなかったのは、不思議といえば不思議かもしれない。女装とは実践するものであって、論じるものではないという頭があったからかもしれない。

コーヒーを飲む人はたくさんいても、コーヒーについて哲学的に論じる人はあまり多くなかろう。せいぜいが、豆の種類や淹れ方などについて薀蓄を傾けるぐらいであろう。

女装について真剣に論じてみたところで、禿げについて論じるがごとく不毛な議論に終わる懸念がある。それに、私自身、理論武装の必要性をあまり感じてこなかったということもある。

武装することに意味があるのは、敵がいるか、あるいは敵の出現が予想されるときである。

「女装は視覚の暴力であるばかりでなく、世の道徳水準を低下させる悪しき活動であるから即刻やめるべきである」などと批判する者があれば、「そのような偏見を社会から撲滅することこそを目的とする高尚なる啓蒙活動なのである」と切り返すことにより、ちょっとは立派なことをしているように聞こえるかもしれない。

ところが、実際に女装して外を出歩いてみれば、敵どころか、若い女の子たちがキャーキャー言って寄ってきて、写真を撮らせてくださいとか、握手してくださいとか、モテちゃってモテちゃって、もうたいへんである。

高尚な思想を披瀝して敵を斬り捨てるチャンスなんて訪れやしない。男は敷居を跨げば七人の敵ありというが、いっぺん女装して出かけてみるといい。




●何を問うべきかという問い

女装にまつわる根源的な問いとして何を問うべきか。こんなところから説き起こしてみようというあたりが、「序説」たるゆえんである。

哲学的諸問題の多くは、その問題設定に問題があるとの説がある。問い方が間違っているために、真理の解明を目指して真剣に議論しているようにみえても、その実、言葉の混乱を引き起こしたにすぎないというのである。

そのあたりは土屋賢二氏の著書に詳しい。書名が思い出せないのは、他人が読んでいた本だからである。

手始めに「人はなぜ女装するか」と問うてみよう。「俺はしねーよ」と切り返されると終わってしまう。

問いを手直しして「女装する人はなぜ女装するか」としてみよう。すでにトートロジーくさくないだろうか。「赤い車はなぜ赤いか」。「東京タワーはなぜ東京にあるか」。「巨人はなぜ大きいか」。これの部類ではないかというニオイがぷんぷん漂う。

「女装しない人はなぜ女装しないか」。「する人はする。しない人はしない」。はい以上。そーらやっぱりトートロジー。

もうちょっと気をつけて問題設定すれば、意味のある問いになってくるような気はする。女装する人は、したいからするのか、したくなくてもするのか。女装しない人は、したいけどしないのか、したくならないからしないのか。

女装したいという欲求はすべての男性の中に普遍的に存在して、それを実践するかしないかだけの違いなのか。あるいは、そのような欲求自体をもつ人ともたない人とがいるのか。

後者だとすると、それを分かつ要因は何か。先天的なものか、後天的なものか。女装したいという欲求はいったいどの辺から湧いてくるものなのか。

問いとしてはまっとうな感じになってきた。問いとしてはよさげであっても、答えを得んがためのフィールドワークが限りなく発散していきそうなあたりに、次なる壁の気配が漂う。

女装する動機について知りたければ、実際に女装する人のところへ行って、聞いてみればいい。そこまではいい。問題は、得られる回答の、手に負えないほどの多様性にある。私はこうだった、私はこうだったという個別の物語が大量に集まり、厚ぼったい事例集が得られるであろう。

厚ぼったい事例集、資料としては価値がある。しかし、資料集めは作業にすぎず、それ自体が学問なわけではない。資料を分析し、共通項を抽出し、法則化し、仮説として提示し、さらなる事例や実験によって検証して強化し、論文にまとめて発表することで世に問うというプロセスを経て、やっと学術らしくなってくる。

事例集が得られたら、まずは手始めに類型化ぐらいしておこうと思うのは自然な流れであろう。ところが、そのあたりで早くもくじけそうである。

キャンディ・ミルキィ氏は言う「女装する人が10人いれば、20種類の女装がある」。あまりに多様すぎて、一人一類型でもまだ足りないってことらしい。

類型化でさえこんな調子であるからして、全体から共通項をくくり出すなんて、たぶん絶望的だ。どんなに疑おうとしても、それが不可能なほど絶対的な確実性を帯びた「女装の第一原理」なんて聞いたことがない。

試しに「女装」で検索をかけてみると、一番上にヒットするのは「【レポート】女装が趣味な男性の心理」というタイトルのニュース記事である。2015年3月4日(水)付。
< http://news.mynavi.jp/articles/2015/03/04/joso/
>

女装が少数の男性による特殊な趣味ではなくなってきていて、商業化が進んできている実情を踏まえた上で、「いったいどうして男性たちは、女装をするのでしょうか」と問いを提示している。それそれ、興味あるぞ。

ただ単に女性用の服を着れば女装になるというものではなく、女性を演じたいという心理が根底にあってこそ女装たりうるのであり、その演じるという心理は漫画やアニメのキャラになりきりたくてするコスプレと同質のものだと論述する。

男性が女性を演じたい理由は、男性という役割からの解放にあるという。人は、たとえば会社では社員、家庭では父親というふうに、日々の生活のなかで、大なり小なりいろいろな役を演じていて、その役を示す記号として部屋着や外出着などの装いがあるという。

男性には社会から期待されている男性としての役割があり、それを間断なく演じ続けるのは少々窮屈に感じるものであり、たまには解放されてホッとしたくなる。それが女装する動機なのだという。

なるほど、とは思う。性的嗜好の倒錯したごく少数のマニアによるおどろおどろしい変態行為という印象でみられがちな女装に対して、いやいや、ごくふつうの人がリラックスを求めてハーブティーを飲むのと同じようなものだと、軽い嗜好として語ってみせることの意義は認めたい。

しかしながら、それだけかいな、とも思う。そういう動機から女装する人もきっと多くいるでしょうけど、それがすべてじゃないでしょ、と言いたくなる。もっといろんな動機があるんじゃないの、と。

どんな動機を挙げても一面的な感じをまぬかれず、誰もが納得しうる普遍性がちっとも浮かび上がってこない。もうこうなったら、人工知能にマイニングしてもらうか。

掘っても掘っても個別の物語が大量に出土するばかりで、普遍原理がいっこうに浮かび上がってこないという点において、女装は学術の対象へ昇華しづらいといえるのではあるまいか。

「女装は存在するか」という問いはどうだろう。「ほら、ここに存在するよ」と返せば終わっちゃうような感じがする。ところが実はそうでもない。この問いはいい線いっているのではないかと思う。「女装は可能か」と問うても、ほぼ同じであると思う。

適正な問いを提示する以前に、まずしておかなくてはならないことがある。それは「女装」を定義することである。学術たりうべき論理的な議論をしようとするならば、諸概念はまず定義しておかないことには始まらない。「女装とは何か」。

それは簡単だ。「男性が女性用の服を着ること」でいいじゃんか、と思うかもしれない。ところがそうでもないんだな。「女性用の服」っていったいいつ誰が決めたんだよ。そーら、もう分からなくなってくる。

●定義すら危うい

「女装」って、ほんとうは概念として成り立っていないのではなかろうかという疑いがある。

少し遠回りな説明になるが。私はヒゲを剃るという習慣が最初っから芽生えることなく、中学生のころからヒゲ面をひっさげて歩いていた。

よく「どうしてヒゲを伸ばしているのか」と聞かれることがあった。私はこう答えていた「ヒゲを伸ばすという行為をとったことは一度もない。ヒゲを剃るという行為をしないことによって、自然に伸びてくるのである」。

アクションをとらずに放っておけば自然になることに対して「なぜか?」と理由を問うのは、問いとしておかしくはないか。あなたはなぜ黄色い靴下を履いてビッグエコー青森駅前店に行って『赤いスイートピー』を歌わないのか、と問われても困るであろう。

とるアクションの裏には、ほぼ無限倍のとらなかったアクションがある。それらひとつひとつを意識の俎上に上げ、採択しないことに決めたというわけではない。アクションをとらないことに対して理由を問うことに意味はない。

意味のある問いに直すならば「多くの人々はなぜヒゲを剃るという行為をとるのか」、あるいは「社会はなぜ人にヒゲを剃ることを期待するのか」とするべきであろう。

それの答えを見つけるために、背理法的な論証のしかたがあるのではなかろうか。つまり、試しにヒゲを剃らないで過ごしてみたとき、何か不都合が起きれば、それが理由になるのではないかと。

以来、30年以上経つが、いまだに不都合は起きず、理由が発見できずにいる。こうなると、社会共有幻想だったのではなかろうかという疑いのほうが濃厚になってくる。

さて、女装に関しても、似たような構造が成り立っていないだろうか。

服を着ることの目的が、寒さから身を守ることや、身体の露出を避けることにあるのであれば、男性か女性かの区別なく、相互が好きなものを着ればいいはずである。

着るものにおいて、性別による区別を「しない」ことが自然であるとするならば、しない行為に対して理由を問うのはナンセンスであろう。

意味のある問いに直すならば「なぜ性別によって着るものを区別したほうがいいのか」あるいは「なぜ社会は着るものに関して、性別によってデザインを区別し、人に対して本人の性別に合ったものを着ることを期待するのか」とすべきなのではなかろうか。

「なぜ女装するか」というのは問いとして間違っていて、「なぜ性別によって服装を区別したがるのか」と、反対側から問いなおすのが本来的なのではないかと。

さて、その答えを探るには、背理法的な論証のしかたがひとつの手段になるであろう。すなわち、試しに反対の性に対して期待される服装をまとって外を歩いてみて、なんらかの不都合が生じれば、それが理由として発見されるのではないかと。

ところが、実際には不都合どころかいいことしか起こらないのである。こうなると、社会共有幻想だったのではなかろうかという疑いのほうが濃厚になってくる。

さて、以上を踏まえた上で、女装の定義に立ち返ろう。女装とは「男性が女性用の服を着ること」と定義しようとするならば、それに先立って、「女性用の服」の定義が確立されていなくてはなるまい。

「女性用の服」という概念が成立するためには、「性別によって着る服を区別すべきである」という前提が成立していなくてはならない。ところが、今みてきたように、そこらへんが必ずしも自明ではないのである。

そうなると、女装って定義が可能なんだろうか、と暗雲が立ち込めてくる。ここにおいて「女装は存在するか」や「女装は可能か」という問いが生きてくる。

●カエルに聞いてみる

しかし、有史以来、どの時代、どの地域にあっても、男性と女性は異なるデザインのものを着るべきであるという考えが支配的であったようである。しかも、男性にふさわしいとされる服装、女性にふさわしいとされる服装が時代や地域によって逆転するということがあまりみられず、何らかの共通性を帯びていたりするのではなかろうか。

ということは、衣服には防寒や露出回避以外にも機能があるのであろうか。その答えはカエルに聞いてみよう。

ウィキペディアで「カエル」の項目を引いてみると、鳴き声に七種類の区別があるとされており、そのひとつに「解除音」というのがある。

「他のオスにメスと間違われて抱接されたオスが、間違った抱接を解除させるための鳴き声。繁殖期のヒキガエルのオスを背後から軽く握ると体を震わせながら解除音を発する」。

腐女子たちの喜ぶまいことか。
・カエルやべえ...「あん...やめっ、男同士だろ......あっ」専用の鳴き声があるのかよ
・カエルのくせに、、、BL萌があるなんて、、、自然の驚異だわ。

つまりはそういうことか。性別誤認回避。衣服で体を覆ってしまうと男女の区別がつきづらくなるので、デザインを分けておいたほうが都合がよろしい、と。それなら2006年の年末の紅白歌合戦でNHKが使用して物議をかもした裸スーツみたいなのを着てれば一番分かりやすいかとも思うが。

区別さえつけばいいのであれば、取り決め内容は任意でよい。女性がスカート、男性がズボンでもいいし、その逆でもいい。女性が派手系、男性が地味系でもいいし、その逆でもいい。取り決め内容が人々の間で情報共有されてさえいれば、内容自体は任意でよいはずである。

では、どちらの性別に対してどのようなデザインがふさわしいかという感覚が、人類の意識の奥底に普遍的に潜在するということがありうるだろうか。

ブーバ・キキ効果のように、こっちにはこっちがふさわしいという感覚が、時代や地域や年齢や環境を問わず、98%程度の一致をもって共有されていたりしないだろうか。

一方ではそんなはずがない、と思う。服を着るということ自体が、原始生活からの脱却によって後から発生した人為的なことであるのに、どちらの性にどんな服がふさわしいかなんて感覚が遺伝子に組み込まれてるなんてことがありえますかいな、と。

他方では、そういうことがあるかもしれないとも思える。適当に形容詞を列挙してみよう。獰猛、柔和、積極的、消極的、好戦的、平和的、論理的、感覚的、競争的、協調的、支配的、服従的、颯爽とした、しょぼくれた、明るい、暗い、ストイック、享楽的、硬い、やわらかい、四角い、丸い、赤い、青い、速い、遅い、うるさい、静か、などなど。

これらの中には、男性性と親和性が高いと感じられるもの、女性性と親和性が高いと感じられるもの、どちらとも言えないものがあるのではなかろうか。

一方、服飾デザインにおいても、これらの形容詞と結びつきの高いもの、低いものがあるであろうという感覚がある。そうすると、この種の感覚的な形容詞を介して、男性性・女性性と服飾デザインとの間になんらかの相関が生じてもおかしくはないとも思える。

この感覚的な結びつきは、誰かが最初に提案してそれが伝搬して共有されるようになってきたのではなく、われわれの感覚の奥底に生まれつき組み込まれていて、言語以前の原始的な何かとしてハードワイヤーされていたりしないだろうか。

それはどっちに転んでもよかった任意の社会的取り決めが人々の間でたまたま共有されているというだけの恣意的なことではなく、生まれつきの感覚としてわれわれの内部に最初っから組み込まれていて、言語による伝達以前に、大多数の人類の間で共有されていることによって、ある種の普遍性を備えていたりはしないだろうか。

そこが問うべき問いの分かれ目となる。

本来的に、着るものに男性っぽいも女性っぽいもないのだとすれば、じゃあなぜわざわざ区別しようとするのか、と問うのが正しい問い方となる。女装という概念自体が定義しづらくなり、「なぜ女装するのか」という問いに意味がなくなる。

逆に、本来的に着るものに性別親和性があるのだとしたら、それに反してなぜわざわざ女装するのか、という問いにやっと意味が出てくる。

つまり、女装の定義を可能にし、なぜ女装するのかという問いを意味あるものにするためには、まずそこのところを解明しておかないと始まらないのである。

これまでの女装研究が、あまり学問体系の形をなしておらず、歴史の振り返りや、事例の収集や、壮大な自分語りの域をあまり出ていないのだとしたら、その基礎となるべき前提条件のところで、根本原理の解明が十全になされていないのが一因となっているのではなかろうか。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
< http://www.growhair-jk.com/
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2月21日(土)、スペインのメディアから取材を受けた。取材対象はLadybeard氏と私で、女装男性を専門に撮る写真家である立花奈央子氏が、ご自身の撮影スタジオ「大羊堂」を取材場所に使わせてくれた。一人ずつインタビューに答える映像を収録。

インタビューアはスペイン出身の男性だが、英語も日本語も堪能。私は去年スペインに呼んでもらい、非常に楽しいときを過ごしてきた。

かつてはアジアや南米の国々を支配下に置き、日の暮れることのない国として栄華を誇った国である。その余裕からか、今は無理な経済発展を目指そうとせず、ワークよりもライフを重んじ、くつろいだ享楽的な日々を送っている国という印象を受けた。

予備知識ほぼゼロで初めて行った国なのに、東京にいるよりもリラックスできた。スペイン、イタリアあたりは、日本が今後お手本にすべき国なんじゃないかと。イベリコ豚と赤ワインはほんとにほんとに美味かった。

また呼んでくださーーーい!!! とカメラに向かって言っておいた。

同じ日の夕方、韓国のメディアから取材を受けた。メディアといっても、作っているのは学生団体らしい。10人ばかりの取材班が、10日ばかり日本に滞在して、手分けしてあっちこっち取材して回るらしい。

いろいろと意表を突いてくれた。取材場所は取材を申し入れる側が設定しておくのが通例だが、私の行きつけの店で取材したいという。そういうのはたまにある。いくつか候補を挙げておけば、先方で交渉して許可をとっておいてくれるのが通例だが、こっちで場所設定したのは初めてのことだ。まあ、いい。海外メディアだし、学生だし。

取材班のうち、日本語ができる人が当日、別の取材で出払っているので、英語でインタビューさせてほしいという。え? いいけど。もしこっちがカタコトぐらいしか話せなかったらどうするつもりだったの?

取材場所の勘定は取材側がもつのが通例だけど、学生だしなぁ。割り勘ぐらいならしょうがないけど、まさか全員分オレがおごりって話じゃないよね?

当日、来たのは三人。全員若い女性だった。全員美人だった。そのうちの一人が、事前にメールをやりとりしていた相手だった。女性だったの? お土産をくれた。韓国から持ってきてくれたお菓子と、日本で買ってきてくれたお菓子の詰め合わせ。礼儀正しさはさすが韓国と言える。

英語でのコミュニケーションにまったく不自由はなかった。向こうもそこそこデキる。一人が質問してきて、私が答えると、別の一人が即座に韓国語でノートパソコンに入力している。

みんなビールを注文し、飲みながらのインタビュー。こっちからも前々から気になってたサンナクチについて聞いてみた。

あれって、家庭でも普通に出す料理だったんだね。タコ刺しの踊り食い。ぶつ切れの足がにょろにょろ動いて箸から逃げ、口の中では吸盤が吸いついてくる、ワイルドな食べ物。ぶつ切りにせず、丸ごとのやつを食いちぎる食べ方もあるという。ワイルドだねぇ〜。

鶏南蛮や鶏刺しなど、じゃんじゃん頼んで大いに食って、勘定はちゃんと持ってくれた。去年、中国に行ったら、韓国にもすご〜く行きたくなってるんだけど。なんかいい機会ないですかね?

2月28日(土)、動画の収録があった。中野から足立区のロケ地まで車で連れて行ってくれた。まったくなじみのない土地。区立の中学校の脇の道をセーラー服姿で歩く登校シーン。

ふと、昔のテレビ番組である『3年B組金八先生』が頭をよぎったので、カメラが回っているときアドリブでそのことを口にした。そしたら、カットが入ってから、カメラを回しているスタッフが教えてくれた。横の学校がまさにその番組のロケ地だったという。

翌29日(日)、ブラジルから取材を受けた。サブリナ・サトウはブラジルでは知らない人がいないだろうというくらいの有名人らしい。視聴率のいちばん取れるMCなんだとか。日本円に換算して億単位の年収があるらしい。日本語のウィキペディアにも見出しがある。

土曜の昼にテレビで放送する冠番組の収録だそうだ。番組初の海外ロケ。サブリナにとっても初の来日。みずから所望して私への取材となったそうで。光栄です。

雨の中、非常にばたばたしていてストレスのたまる収録であった。

12時の待合せ時間に行ったら、スタッフはすでにいたけど主役の到着が遅れるから喫茶店で待機していてくれと言われ、待機してたらすぐ始まるから10分で戻ってきてくれと言われ、大急ぎで食べて戻ったらそれから30分待たされ、待ってたその場所でインタビュー収録になだれ込み、15分ぐらいカメラが回ったところで、後ろにでかでかと「吉野家」の看板があるからここはダメだと指示が飛び、私に対しては通訳のほうを振り向かずに、ずっとサブリナを見ているように何度も指示が飛んで来るが、それにしたがうと今度はちっとも通訳してくれず、ポルトガル語ぜんぜん分かんないんですけど。

ウキーーーッとなりそうな状況にあっても、サブリナはめっちゃ明るく威勢よく振舞っていた。さすが、億稼ぐ人は違う。視聴者から期待される役割を心得ていらっしゃる。台詞覚えも抜群で、長い台詞もよどみなくしゃべり、一発でOK出してるし。発してるオーラがなんか違う。

原宿「もしもしボックス」へ行こうと事前に提案していたのは私で、採択された。外国人向けの観光案内所で、語学に堪能なスタッフがいて、英語表記の観光マップがもらえて、通貨両替ができ、土産物を売ってて、海外への荷物発送ができる。

きゃりーぱみゅぱみゅさんややのあんなさんが所属する、アソビシステムが運営する。クレープ屋があり、タダで使えるカラオケボックスがある。明治通りに面していて、ガラス張りなので、少々度胸が要る。

日本で放送するわけじゃないからいいやってことで、旅の恥はかき捨てじゃないけど、初めてテレビカメラの前で歌っちゃったよ。

帰りは原宿から中野までのタクシー代を、あたりまえのようにポンと出してくれたけど。事前の打合せで出演料を辞退してたのは、ちと人がよすぎたか。ここまでさせられるんだったら、ドカッとふっかけといてもよかったかもなぁ。