[3875] 映画館がなければ生きていけないおじさんたち

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《二本松で職質されたことまでバレていた》

■Otaku ワールドへようこそ!
 映画館がなければ生きていけないおじさんたち
 GrowHair




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映画館がなければ生きていけないおじさんたち

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< https://bn.dgcr.com/archives/20150320140100.html
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福島県本宮市にある木造の映画館「本宮映画劇場」は震災にも耐え抜いて、101年のあいだ建っている。「あのときはてっきり天井が崩れ落ちたかと思ったよ、真ん中が空洞だからね」館主の田村修司氏は興奮気味に振り返る。同じ地域にある市役所庁舎や学校は損壊の被害をこうむったそうだ。

小雨が降ったり止んだりの3月8日(日)、館主の娘さんであるU子さんに本宮駅から案内されて5分ほど歩き、商店の立ち並ぶ割にはあんまり活気の感じられない県道から狭い路地を入ると、「スナックあ・らら」の先の住宅街に淡いピンク色に塗られた映画館がどーんと構えていた。

ロビーにはストーブが焚かれ、すでに空気が暖まっていた。壁には『怪傑ゾロ』とか『エデンの海』のポスターが貼られているが、色鮮やかで新品のよう。山口百恵の白の半袖セーラー服姿がまぶしい。

初めてお会いする田村氏は我々を暖かく迎え入れて、館内を案内してくれた。動作がきびきびしていて、言葉なめらか、78歳とは思えない若々しさだ。カーボンアーク式の映写機は1957年製造とのことで、私よりも5つ年上だ。

黒塗りの映写機の側面の鉄製の重いふたを持ち上げると、炭素棒と炭素棒が向き合って、先端が近接している。通電すると、おそろしいまぶしさで白く光る。アーク放電という現象で、プラズマ化した空気の中を電気が流れる。つまりは雷か。ついでに音と煙も出る。煙は煙突から外に逃がしている。

ずっと以前の雪の日、東武東上線に乗っていたら、雪の重みでパンタグラフが下がり、架線との間に隙間ができ、青い火花を盛大に散らしながら走っていたことがある。パリパリパリパリと切れのいい轟音。

空気を叩っ斬る音。駅のホームで待つ人々が後ずさりした。電車はその駅で運転打ち切りとなった。あのときの音だ。

炭素棒はだんだん減ってくるので、上映中は一定間隔に保つよう調整していないと、だんだん暗くなっていってしまう。10分ごとにリールをとっかえひっかえする上に、炭素棒の面倒まで見なきゃならないのだから、上映するのもたいへんだ。

われわれ一行のために、炭素棒を少しだけ消費してくれた。田村氏がみずから編集したという予告編コレクション。これぞ昭和の映画って感じのが次々に。立ち回りあり、お色気あり。役者たちのアクションがものすごく真剣。音がきれい。

田村氏は、フィルムの切れ端を見せて説明してくれた。その切れ端を私にくれると言うが、もったいなさすぎて辞退した。田村氏は饒舌で楽しそうだったが、ご近所の人によると、普段は寡黙だという。

田村氏は、二十歳のときに父親の田村寅吉氏が急逝して映画館を引き継ぐが、8年で閉館して、以降は営業マンとして会社勤めし、定年退職したら再開しようと人知れずずっとメンテナンスを続けてきた。が、いまだ果たせずに閉館から50年になる。

この映画館は映画『ハーメルン』のロケ地にもなっている。野田を演じる西島秀俊氏は私の中学・高校の後輩である。いろんな人を輩出する学校だ。ウィキペディアで学校名を引くと、著名な出身者として西島氏の名前が掲載されているのはいいとして、誰だよオレの名前を載せたのは?!

閉館した古い木造の映画館は何十年もの間、ご近所の不安の種になっていたらしいが、都築響一『独居老人スタイル』(筑摩書房、2013年)で良好な保守状態が世に知らしめられ、ようやく明るい陽が差してきた。

3月11日(水)7:00pm からのテレビ朝日『ナニコレ珍百景』で全国放送されている。田村氏は、映画館のことを誇らしげに語り、秘蔵の貴重な映像フィルムを公開している。米海兵隊の記録した真珠湾攻撃の模様。

かつて三波春夫氏が立って浪曲を歌ったステージに私も立たせてもらう。孫設定のアイドルの豊田冴香と並んで『セーラー服を脱がさないで』。それを私の勤め先のかつての上司の上司の上司の上司の上司の上司であるH氏が動画収録する。

ふだんの本業ではあんまりぱっとした仕事ぶりを発揮できてない私であるが、田村父子とH氏とをお互いにご紹介できたことは、ちょっと面白い働きになったのではないかとひとりニヤついている。

●映画と古い映画館を愛するH氏

私は説明病にかかっている。何から何まで全部説明しきらないと気がすまないというやっかいな病で、どうでもいい瑣末な部分を行間に隠して語らずに済ませるというのがどうにも心不安でできない。

人類に大貢献した偉人ってわけでもないのに、自分の生きた記録を遺しておかねばなるまいという思いが、まるで脅迫観念のように居座っているのは、誇大妄想の一種だろうか。この分でいくと、一回のコラムがトルストイの『アンナ・カレーニナ』みたく長ったらしくなりかねない。

H氏は、私が2012年2月17日(金)まで勤務していた埼玉の奥地にある半導体関連の技術系の部署で、上司の上司の上司の上司の上司の上司であった。業界に顔のきく偉い人で、毎年4月に横浜で開かれる国際学会では座長を務めたりしている。

H氏は映画をこよなく愛し、趣味の領域でみずからも映像制作する。国際学会では、バンケット(banquet)という名の、要は宴会が催されるのが恒例となっている。何周年かのときにH氏が自主的に制作した余興映像を上映したところ大好評で、以来、それが毎年のこととなっている。

ライバル会社も参入してきて、妙なところで対抗意識がエスカレートしているっぽい。

H氏は古い映画館にも思いが深い。近年、娯楽の多様化や大規模シネマコンプレックスの台頭といった時代の波に抗えず、古い映画館が閉館に追い込まれるケースが多々ある。

しかし、中には、再生を図ろうと有志が立ち上がり、人々から資金を募り、改装したりデジタル機器を導入したりして、悲願を果たす映画館もある。埼玉県川越にある「川越スカラ座」や広島県尾道市にある「シネマ尾道」など。

尾道の映画館再生物語は、「月刊地域づくり」2013年11月号の「NPO法人シネマ尾道」による記事に詳しい。
< http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/book/monthly/1311/html/f10.htm
>

かいつまんで引用すると...。

尾道は瀬戸内海を望む景色の風光明媚さと人々の暮らしの営みの風情が残る街で、かつて、志賀直哉や小津安二郎など多くの文化人が魅了された。数々の名作映画のロケ地になっており、映画の街として全国に知られてきた。

しかし、全盛期には9館ほどあった映画館は、時代の波に抗えず、次々に閉館していき、最後に残った唯一の映画館も2001年に閉館、尾道から映画の灯が消えてしまった。

この状況をなんとかしようと、地元の大学生や映画ファンを中心に2006年、NPO法人「シネマ尾道」を立ち上げ、映画館復興運動を広げていった。草の根募金による「尾道シネマ基金」は2700万円に達し、借り受けた映画館の改装費をまかなうことができた。

こうして2008年10月、尾道に7年ぶりの映画館「シネマ尾道」(112席)がオープンした。採算ラインぎりぎりながら、現在もちゃんと存続している。

H氏は川越にも尾道にも資金提供している。それだけではなく、ハワイのホノカアにある「ホノカア・ピープルズ・シアター (Honokaa People's Theatre)」にも。

映画館自体が映画のロケ地になっており、人々からの資金提供により、デジタル機器を導入して再生を果たした。H氏は何度か訪れているが、資金協力したことでTシャツと一年間のフリーパスが送られてきたので、近いうちにまた行くつもりだという。

H氏:ハワイ島の Honoka'a People's Theatre を New York Times が特集してビデオを作っています。最後のキャプションで、「ファンディングの4万ドルの目標に対して、12万ドル集まった」と来たときは涙が出ました。これは行くしかないかも。
< http://www.nytimes.com/video/us/100000003259816/the-last-cinema-in-paradise.html
>

●館主の娘として本宮映画劇場の宣伝に努めるU子さん

U子さんとは去年の11月1日(土)浅草で偶然出会っている。偶然出会うにしても、そこに至るまでには長い長い偶然の出会いの連鎖があっての上のことである由、去年の12月12日(金)のこの欄に書いたとおりである。

2011年6月のラーメン屋の一件で知り合った、勅使河原由美さんに紹介してもらった女装家のあしやまひろこさんと、浅草を散歩するシーンを撮影してくれた岩切等氏の行きつけの店で出会ったのであった。

12月6日(土)夜、浅草のカラオケバーで開催された『松が谷大人塾 presents 【第一回 浅草紅白歌合戦】』に呼んでくれて、一緒にステージに立ち、『セーラー服を脱がさないで』を歌ってきた。

U子さんは本宮の出身で、「本宮映画劇場」の館主の娘さんであった。twitterやfacebookではみずから「本宮映画劇場」と名乗り、全国各地にある古い映画館の再生の情報などをアップしている。

●閉鎖した映画館を人知れず保守してきた館主

田村修司氏のことも同じ回で書いている。再掲。

U子さんの出身地である福島県本宮市には、古い木造の映画館がある。「本宮映画劇場」。建てられたのが1914年(大正3年)だから、今年で100年になる。震災にもびくともしなかった。

もともとは、町の有志34人が出資しあって、公民館代わりに建てられた。近所に住んでいた田村寅吉氏が欲しくなって買い取って、映画館兼劇場として個人運営した。

歌手の故・三波春夫氏が抑留されていたシベリアから戻ってきた直後、浪曲師・南篠文若氏として活動していた。月に一度、本宮映画劇場でも公演したという。

1955年(昭和30年)に田村氏が急死し、当時20歳だった息子の修司氏が引き継いだ。映写機の回し方は、小学生のころから父親に教わってきていた。

しかし、経営がしだいに悪化していき、1963年(昭和38年)に閉館を余儀なくされた。私が1歳のときだ。それから50年が経つ。田村修司氏は78歳になる。

閉館してから田村氏は会社勤めをしつつ、定年退職したら映画館を再びオープンさせようと考えていた。電気代を払い続け、カーボン映写機に油を差し、時々は回し、館内を掃除し、映画館を生きた状態に保ち続けた。

しかし、再開のめどは立たず、現在に至っている。年に数回、近所の爺さん婆さんを集めて無料で上映会を開いたりはしている。

田村修司氏は、都築響一氏の著書『独居老人スタイル』(筑摩書房、2013年)で紹介されている。型破りな生き方を堂々と貫く独居老人16人を取材して書かれた本である。田村氏はその16人のうちの一人として描かれている。

田村氏には3人の娘さんたちがいるが、みんな東京に出てきて暮らしている。なので、本のタイトルどおり独居老人なのである。その末娘が、田村U子さん。

上映会があるときは故郷に帰って手伝いをする。「第1回アサクサ・コレクション」でU子さんが展示したのは、父親が集めた映画ポスターであった。

「ふくしまの声」というウェブメディアに、田村修司氏とU子さんの写真が掲載されている。
< http://fukushimanokoe.jp/archives/9181
>

私も本宮映画劇場を見学したいと言ったらU子さんは、さっそく父親にお伺いを立ててくれて、OKの返事をもらっている。年明けぐらいにおじゃまさせていただこうかと。人のつながりの連鎖は、まだまだ続いていきそうである。

前置きが長くなったが、今回はその続きである。

●会っていただく一手でしょ

つまりはこういうことだ。一方には古い映画館を愛し、再生へ向けて資金協力までしちゃう心優しいおじさんがいる。また一方には古い映画館を一徹の精神で長年守ってきた館主の娘さんがいる。

鴨にネギじゃたとえが違うし。破れ鍋に綴じ蓋もおかしいし。カレーライスに福神漬とか、ぬるめの燗酒に炙ったイカとか、そんなようなもんだ。なんか言い回し、なかったっけ?

これは会っていただく以外の手が考えられない。『浅草紅白歌合戦』があったのが12月6日(土)だが、その3日後の9日(火)、H氏にメールを送った。

ケバヤシ:福島にある「本宮映画劇場」はご存知でしょうか。
< http://fukushimanokoe.jp/archives/9181
>

一時間後に返信が来た。

H氏:本宮映画劇場、来春の「行くぜ!東北」のリストに入れたいです。

つまりは、4月の国際学会のバンケットで上映する余興映像のロケ地に入れたいってことだ。よっしゃあ!

H氏の提案をU子さんに翌日伝えたところ、ちょうど帰省する車中とのことで、着いたら聞いてみますとの返事だった。で、その翌日にはよい知らせが来た。

U子さん:Hさんの件、父に伝えましたら、オッケーだそうです。

つまり、浅草紅白歌合戦のことを書いたデジクリコラムが配信された12月12日(金)の時点で、本宮行きの話がまとまっていたというわけだ。

「そのうち行きたい」ではたぶんなかなか実現しなかったであろう本宮行きが、映像の収録という目的ができたことで、あっという間に具体化していった。

U子さんからH氏へお伝えくださいとのことで、森田惠子監督『旅する映写機』というドキュメンタリー映画があり、H氏が再生に協力している「シネマ尾道」、「川越スカラ座」とともに「本宮映画劇場」も登場しているとの情報が送られてきた。また、坪川拓史監督『ハーメルン』のロケ地にもなったとの情報も。

H氏:『旅する映写機』は川越スカラ座でも上映していたのですが、残念ながら見逃しました。『ハーメルン』はレンタルで鑑賞してみます。

まだ顔を合わせていないお二人が、私を介在したメールのやりとりで、すでにいい感じに話がはずんでいる。私自身は映画のことにまったく疎くて申し訳ないんだけれども。

H氏より、シナリオ等の打合せも兼ねて、懇親会をやりましょうとの話になった。1月8日(木)に神楽坂で。

私は仕事帰りに東京メトロ南北線で飯田橋駅に行き、6:45pmにJR 飯田橋駅西口改札でU子さんと待合せた。U子さんは私のB面の姿を見るのは初めてとのことで、新鮮だとかなんとか。

神楽坂のお店は、偉い人が偉い人を接待するときに使うような純和風の立派な構えだった。7人が集まった。

H氏は震災翌年から毎年その時期に東北を巡り、復興の状況を映像に収めている。国際学会には数十人の外国人の方々が来られるので、まだまだ復興途上にあるという状況を知っていただく主旨だ。今年はそのツアーに本宮も入れましょうという話になった。

正月ということで、店から祝い酒が振舞われた。会津の酒だ。おお、U子さんと同じ福島県だ。東北本線の郡山駅から磐越西線へ分岐すれば会津に至り、東北本線を北へ行けば3つ目が本宮駅だ。ご縁を感じる。

●三陸はまだまだ復旧途上

H氏は 3月7日(土) に宮古に宿泊している。JR山田線は、内陸を走る盛岡─宮古間は開通しているが、宮古─釜石間は復旧工事に手もつけられてなく4年間運休していた。

このままバス代替輸送が定着して廃線かとの懸念も起きていたが、このほど地元の願いが実って復旧が決まり、この日に着工式典が開かれた。一般には公開してなく、H氏は歩道橋から見ていたとのこと。

ケバヤシの心の声:おーい、只見線はどうなのぉ?

H氏:その後、釜石付近までレンタカーで南下し、復興状況を見てきましたが、今は沿岸地域の嵩上げと、内陸部に新たに復興道路を建設しており、膨大な数の建築機材とダンプカーが走り回っていました。仮設住宅もあらゆるところに見られ、4年経ってもまだまだこれから、との雰囲気です。

盛岡までは東北新幹線のグランクラス。さすが偉い人は違う! けど、盛岡から宮古までの山田線は法事のための帰省客でものすごく混んでおり、2時間立っていたとのこと。山田線にもグランクラスをつけるとよいのではないか。

翌日、H氏は東北新幹線で郡山まで南下し、いったん途中下車して引き返す形で東北本線下り各駅停車で本宮に向かった。

13:39 郡山─13:52 本宮、東北本線福島行。

一方、私と豊田冴香は日帰りで、こんな行程になった。

9:40 東京─10:58 郡山、東北新幹線やまびこ 45 号盛岡行。
11:19 郡山─11:31 三春、磐越東線小野新町行。
11:58 三春─12:11 郡山、磐越東線郡山行。
12:42 郡山─13:04 二本松、東北本線福島行。
13:53 二本松 14:02 本宮、東北本線郡山行。

アイドル活動している豊田冴香・16歳・高校1年生の写真撮り役として、あっちこっちに寄り道。セーラー服のペアルックで。郡山から磐越東線で三春まで往復し、さらに東北本線で本宮を突き抜けて二本松まで行き、東北本線上り列車で引き返して本宮に到着している。

H氏よりも10分遅れて到着する旨、あらかじめU子さんに伝えておいたが、そしたら待っている間にツイッター検索してて、足取りがほぼ把握されていた。便利なオレ様限定機能。ついでに、二本松で職質されたことまでバレていた。ネットって、おそろしいなぁ。

●古い機材が現役で生きている本宮映画劇場

カーボンアーク式映写機は貴重だ。稼働しているのは珍しいという。田村氏が人知れず長年にわたって手入れしてきた賜物である。炭素棒は消耗していくけど、供給しているところはあるのだろうか。東南アジアのどこかではまだこの方式の映画館が営業しており、入手可能なのだという。

フィルム缶は巨大なパイナップルの缶詰。めっちゃ重い。火鉢でも持ち上げるくらいのつもりでぐっと腰を落として、底のほうから抱え込むと、やっと少しだけ持ち上がる。昔はこれを自転車で運んでいたそうだ。二本立てだったりするともう大変、と館主。

別室には交流を直流に変換する整流器が据えられている。ガラス管に水銀が封入されている方式。稼働するとガラス管全体が青く光り、その中を緑色の粒が浮遊する。その粒が水銀らしい。観賞用ギミックかと思えるほど幻想的で美しい。「芝園製作所」とあるが、どちらの会社でしょ?

壁に貼ってあるポスターの中には『乱れたセーラー服』なんてタイトルのもあり、それの前で記念撮影。どんな映画かとそのキーワードでググってみたが、いろんなものに埋もれて出てこない。「映画」というキーワードと組み合わせてみたら、まさにその写真が出てきた。「乱れたセーラー服おじさん」って、U子さんのツイートじゃん。

その下のほうに「日本映画データベース」サイトが出てきた。山本晋也監督、1969年東京興映製作とある。私が7歳のときか。大学時代、「すごいですねぇ」が流行語のようになり、居酒屋でみんな言ってたけど、それよりずっと前から映画製作してたんですね、カントク。
< http://www.jmdb.ne.jp/person/p0150530.htm
>

ステージには、本宮一中の中学生が作ってくれたという劇場御神輿が置いてある。それの前でも記念撮影。

100年前からそのままという急な階段を、懐中電灯で照らしておそるおそる上がって二階に行くと、桟敷席がある。板が打ち付けてあってスクリーンが見えなくなってるけど。子供のころ「探検」と称して廃屋に忍び込んで遊んだのを思い出したよ。

壁に落書きがしてあったり、雑誌の切り抜きっぽいものが貼ってあるのが風化しかけてたり。歩く場所を選ばないと床が心もとない。これはわくわくする。

さて、H監督による映像収録。とある映画のパロディーシーンで、元ネタを知ってると超おもしろい。私はあらかじめ聞いてたから知ってたけど、そうでなければ分からなかった。館主もご出演のお願いに快く応じてくれて、台詞を言っている。仕上がりを見るのはめっちゃ楽しみだ。

3分ほど歩くと阿武隈川に出る。那須から流れ出て岩沼で太平洋に注ぐ大河だが、真冬のせいか景色が荒涼として寒々しい。平坦な地形をゆったりと流れているが、増水すると堤防の上端近くまで水が来るという。これだけ幅の広い河川が全部水になっちゃうのを想像すると恐ろしい。

この日、俳優の福山雅治氏がTOKYO FMのラジオ番組『福山雅治のSUZUKI Talking F.M.』で「おじさん」を話題にした。Yahoo! へ行って「おじさん」で検索かけたときに出てくるランキングで、「福山おじさん」が第2位に入っているという話。で、第1位が「変なおじさん」、第3位が「セーラー服おじさん」だったと。

このおかげで「セーラー服おじさん」がツイッタートレンド(ホットな話題のトップ10)入りしている。それもあってか、U子さんによる写真つきツイート「セーラー服おじさん二本松駅で職質から釈放され本宮映画劇場到着」が315リツイートもされている。

映画館に戻ると、ツイッターで私が来ていることを知った地元の人が会いに来てくれた。なんだか場がにぎやかになった。

もともとは公民館の機能を果たしていたというし、そういう場としてもいいかもなぁ。人々から資金を募って再生するのもいいけど、あんまりピッカピカにしすぎちゃうと味気なくなって、都築さんが嘆き悲しみそうだし。

だんだん世に知られるようになって、人がもっと見に来るようになったら、映画を見ること自体が目的の映画館ではなくて、古い建物で古い上映機材が稼働しているところが見られる観光スポットとしてやっていけたりしないだろうか。

その前の週末には、英国のウィリアム王子が安倍首相とともに本宮の地を訪れて記念植樹したというが、ここにも来てくれればよかったのに。

写真はこちら。撮影はU子さんと私。
< http://picasaweb.google.com/Kebayashi/Town150308
>

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
< http://www.growhair-jk.com/
>

今回、3月8日(日)に東京─郡山間を東北新幹線で往復したが、その前にこの路線に乗ったのは、2012年8月31日(金)であった。仕事の出張で、東京─北上間を往復している。その前は2007年9月22日(土)、23日(日)で、遠野に行くのに東京─新花巻間を往復している。

何年もさかのぼって記録がさっと引き出せる、便利なツールを利用している。無料で使える上に、使い勝手が非常によく、機能豊富で汎用性が高く、動作環境が広く、しかも、作者が急に投げ出してサポート終了となり、あとは草ぼうぼうという心配も要らない、安定稼動の長寿ツールである。

その割には利用している人があまり多くなさそうなのが不思議でならない。気前よくお教えしちゃいましょう。その名をテキストファイルという。エディタは vim を使っている。日々あったことをとにかく書いていくだけ。"Diary.txt" という1.9MB程度のファイルになっている。

デジクリ編集長の柴田氏とこの前会ったのは2011年12月30日(金) であった。山根氏のおウチで忘年会。散会後、武 盾一郎と一緒にタクシーで高田馬場へ行き、「キャンパスクラブ マジシャン」というキャバクラで0:33amまで過ごしている。

デスクの濱村氏と会ったのは2009年1月24日(土)で、梅田の「隠れ自然屋 彩月」で。一次会の後、「金龍ラーメン」に行く途中、戎橋のたもとの女子トイレでべちお氏がドアを開け放したまま立ってオシッコしている。

このファイル、流出したらオオゴトだ。


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編集後記(03/20)

●外国人労働者の導入について、各新聞はどんな主張をしているのか。朝日の提言からは「単純労働者や移民を受け入れよ」と読めて、これは完全にアウトだ。読売と日経は2014年4月21日に揃ってこのテーマの社説を掲げていた。読売は「外国人労働者 活用策を幅広く議論する時だ」のタイトルで「官民で幅広く議論する時期に来ている」と結んでいる。結びは当然のことだが、途中で「家事支援に外国人を受け入れれば、女性の就業率をアップさせる効果も期待できよう」とか、「政府は介護職員を志す外国人への日本語学習支援にも力を入れるべきだ」とか、変なことも言う。家政婦や介護職に外国人は×である。

そして、建設や介護分野の人手不足を「安上がりな外国人労働者に頼ろうとする限り、賃金水準は向上せず、人手も確保できない。昇給制度など待遇改善やキャリア形成の仕組みを整えることが大切だ」「現在、外国人労働者は約70万人に上るが、文化的な摩擦や治安への影響を考えると、無秩序に増やすことはできまい」とまともな考えを展開している。日経の「外国人の活用に『国家百年の計』を」というタイトルはじつに正論だ。ところが、「これまで外国人の単純労働力は国内の雇用に影響をおよぼさないよう受け入れを抑制してきたが、この姿勢は改める必要がある」と来た。これはヤバイ。

「大事なのは安定的に外国人労働力を招き入れるために、その経路を多面的につくることだ」「単純労働力と高度人材の両面で、総合的な外国人受け入れ政策が求められる」って、「国家百年の計」なんていいながら、すっかり導入に積極的ではないか。2014年4月5日の産経は「外国人労働者 安易な移民論と切り離せ」のタイトルで「大量受け入れには、治安悪化や日本人の賃金水準の低下など課題が多い。国策の大転換を国民的な議論もなしに決めたのでは、将来に禍根を残す。一足飛びに移民論と結びつけるような、現在の議論の進め方は厳に慎むべきだ」としており、ここが一番まともなことを書いている。

まず政府が考えなければいけないのは、日本には働きたいのに叶わない人、働いていない人がたくさんいる。働きたい高齢者もたくさんいる。こういう人たちの活用を実現したうえで、それでも労働力が足りなければ、外国人労働者の受け入れを論議すべきだ、というのが産経。わたしは熱烈支持するぞ(購読してなくてすいません)。「国家百年の計」「国策の大転換」は官民で幅広く議論しなければならないはずだが、政府はなし崩しに、人件費の安い中国人未熟練労働者の入国を合法化している。大量の中国人の導入が日本を危うくするのは確実だというのに、政府はなぜ究極の愚策に邁進するのだろうか。(柴田)


●hammer.mule の編集後記はしばらくお休みします