まにまにころころ[92]ざっくり日本の歴史(後編その11)/川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito

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こんにちわん、コロこと川合です。『真田丸』、昌幸の智謀が冴えますねー。そしてコミカルに描かれつつ、昌幸の知略に気づく家康。因縁がもうここから始まりつつありますね。幸村こと源二郎信繁も、毎回いろんな経験を重ねています。

昌幸とその周りを固める大人たちを見て、信繁や兄の信幸が成長していく様は序盤の見どころのひとつ。ああ見えて昌幸はまだ三十代、息子はまだ十代半ばなんですけども。(笑)

『真田丸』を見ていると、戦国時代、各家のトップがどれだけ偉大なリーダーであるのか、また同時に次代の育成の難しさを感じます。世襲制の怖さも。

完全にピラミッド型でトップダウンの組織は、トップが有能であれば実に強い。でも世襲制、跡取りが同様に有能に成長するかどうかは博打のようなもので。さらに、そもそも跡取りができるか、できたとしてちゃんと成長するのかも、医療がまだ未発達な時代では大きな問題です。

それらの問題を認識し、幕府の運営に老中の合議制を取り入れ政権運営の安定を図り、仮に才能が劣っても長子が家を継ぐ流れを作ってお家騒動を抑止し、同時に自らの血筋が断絶しないように、バックアップとなる分家を作った家康はやはり天才です。

大阪人としては、大坂城を落とされた恨みは感じますが。(笑)

さて今日は予告通り、そんな家康から数えて八代目の将軍、吉宗の話です。




◎──まずは生い立ち

吉宗が将軍になるまでには、色々な事情が絡み合ってきます。おそらく本人も、まさか自分が将軍になる日が来るなんて、小さい頃は思いもしなかったかと。

まずはその生い立ちから見ていきましょう。いつもだいたいそうしているので今さらですが、幼名がどうのとか言い出すと面倒なので、基本的に「吉宗」で通しますね。

吉宗は1684年、紀州徳川二代目藩主・徳川光貞の四男として生まれました。

……この一行でもう、将軍になれそうにない理由がいくつもあります。まず、分かりやすいところで言えば、四男であること。上に三人の兄がいますから、紀州藩を継ぐことさえ難しいです。将来はどの兄に仕えようかなってレベル。次兄の次郎吉は夭逝しますが、それでも三番目。

次に、紀州藩の生まれであること。御三家は本家が断絶しないための保険ですが、原則的に順番があって、尾張、紀州、水戸の順になっています。前回に、六代目家宣が、息子が幼いから七代目は尾張からでどうだと相談したくだりがありました。まずは尾張なんです。

紀州を優先させようとしたのは、五代目の綱吉。これは娘が紀州に嫁いでいたから。嫁いだ相手は徳川光貞の長男、綱教。吉宗のお兄ちゃんです。この綱吉の想いが、結果的に吉宗を将軍へと導きます。なお吉宗の「吉」は、綱吉の「吉」です。

もうひとつ、この時に尾張からでなく紀州から将軍が出にくそうな状況がありました。それもまた綱吉のせい。吉宗の前は七代目が家継、六代目が家宣です。

この二人、というか家宣ですが、綱吉が紀州紀州と言ってたので、もし本当に紀州から将軍が出ていれば、将軍になれずじまいだったわけです。

実際にそう思っていたかは分かりませんが、紀州に行く末を絶たれるところだったわけで。紀州を逆恨みしていたとしたほうが、吉宗の話としては面白いので、そうしておきましょう。

まあそれで確執ができるんなら、七代目は危うく尾張へとなるところだったので、そっちはどうなんだって話ですが。

さて家継の母は、家宣の側室で月光院という方。正妻の天英院との間にも息子が生まれたのですが、夭逝してしまいました。元々、天英院と家宣との関係は良好だったそうなのですが、月光院がきて、跡取りも産んでという流れの中で、次第に立場を失っていったようです。

跡取りを産んだ側室、月光院。追われた正妻の天英院。昼ドラのような確執がうかがわれる展開です。とはいっても、お家のために後々には仲直りしたとの話ですけどね。それでも両者の派閥や、その力関係云々は色々とあったことでしょう。

これまた、あったと考えたほうが物語としては面白く、実際に小説やドラマでは両者の対立が描かれたりしているので、ここも揉めていたということで。諸説あるなら面白いほうを。(笑)

吉宗の話に戻しますが、そんなこんなで将軍の座は遠かったのです。確執だのなんだのという曖昧なものを抜きにしても、紀州の四男坊ですから。

もし今、タイムスリップして吉宗の誕生に立ち会ったとしましょう。そこで、実は自分は未来から来たんだ、この子は将来、将軍になるんだと話してみると、叱責の前に爆笑されるかきょとんとされるかでしょう。自分が未来人だということを信じてもらうよりも難しいかも知れません。

未来人だと信じてもらえたら、吉宗のことだって信じてもらえるんじゃないかと思われそうですが、たぶん相手は、ああ300年以上後の世に歴史を正しく伝えるのは難しいんだな、色々と錯綜するんだな、って考えると思います。

それくらいの生まれです。

◎──まず綱吉が道を開く

1697年、吉宗が14歳の時、綱吉が紀州藩に遊びに来ます。長兄の綱教に嫁いだひとり娘に会いにきたのでしょう。いや、仕事で来たのかな。まあいいや。

綱吉「おう、来たで!」

光貞「おー、将軍様、ようこそようこそ」

綱吉「綱教、娘と仲良うやってるか!」

綱教「お義父さん、そりゃあもう、もちろん」

綱吉「そっちは弟の頼職か、初めて会うけど光貞のとこは弟も立派やな!」

この席に吉宗はいませんでした。四男なんてそんなもので、隣の部屋に控えていました。将軍に会う、というのはそれだけ大変なもので、お目見えがかなうだけで人生変わるんです。

末っ子だけが外されているのをかわいそうに思ったのか、綱吉に同行していた老中の大久保忠朝が、ここで気遣いをみせたという話が伝わっています。

大久保「光貞さんとこ、確かもうひとりお子さんいらっしゃいましたよね」

このひと言で、吉宗の人生が開けました。言ったのは紀州の家臣との説もありますが、どっちでもいいです。

綱吉「おお、そうなんか、せっかくやから呼んどいでや!」

吉宗「四男の頼方です、お初にお目にかかります」

綱吉「おおこの子も立派な子やな! 頼職も頼方もこれで将軍お目見えや、領地やるわ! 越前で3万石ずつやるで! 大名や!」

兄弟「やっほーい!」

遠いので現地には行ったことなかったそうですが、これで大名になりました。

◎──紀州藩主の座が一気に転がり込む

綱吉が跡取りにとまで推していた長兄の綱教が、1705年に亡くなります。光貞は生前に家督を譲っていて、その時点で綱教は三代目藩主だったので、三兄の頼職が四代目となります。

しかし、長男を亡くしたことがショックだったのか、父の光貞も翌月に倒れます。江戸にて父危篤の知らせを受けた三兄頼職は、必死に早馬を飛ばして紀州へと戻ります。

それはそれはもう必死で。甲斐あって臨終には間に合ったのですが、無理がたたったのか、なんと翌月、頼職も亡くなります。

……兄たちには跡取りがなく、吉宗が五代目の紀州藩主となりました。

藩主になれて万歳、とは思えない展開ですね。三か月連続で肉親を亡くしたのですから。藩としても大騒ぎの異常事態。吉宗は悲しむ余裕もなかったかも。

まあ邪推すれば、へろへろになってる頼職を見て、頼職にーちゃんも倒れれば藩主の座は俺のものじゃね? って考えたりしたかもしれませんけど。

この後、将軍家では1709年に綱吉が、1712年に家宣が、1716年に家継が、亡くなります。

家宣が跡取りなり、家継の後見人になりにどうだろうと考えていたという、尾張の吉通は1713年に亡くなっています。吉通の子である五郎太も、後を追うように同年になくなっています。尾張は吉通の弟、継友が六代目に。

まあ四男の吉宗が藩主になったのがすごいといえば、尾張の吉通は十男なんでもっとすごいのかもしれないですけど、吉通の兄らはほぼ夭逝でした。なお、吉通の兄弟は二十二男までいます。(笑)

十八男の宗春は、七代目として後に出てきます。次回以降かな。

ここでもうひとつ注目する点は、家継の死が1716年、吉通の死が1713年ということ。もしこれが逆だったら、ほぼ確実に、八代目将軍は尾張の吉通になっていたでしょう。少しの差で、歴史が変わっていました。

◎──天英院のプッシュで将軍に

先に書いたとおり、家宣の正妻である天英院と側室の月光院には確執があった、家宣は紀州に将軍位を渡すのは抵抗があった、という前提で進めます。

その方が面白いからという理由ですが、井沢元彦『逆説の日本史』に書いてあった話が面白かったからというのが根本です。

家継の母は月光院です。将軍様のお母様、権勢を誇ります。面白くないのは、正妻である天英院。悔し涙に枕を濡らす日々。ところが1714年、月光院の元に仕えるお気に入り、江島という女性が事件を起こします。

江島生島事件と呼ばれるのですが、月光院のお使いに出た江島が帰りに芝居を見物しに行って、門限までに帰れなかったというのが発端です。

門限破りから、生島という役者に入れ込んでいたなどなどスキャンダラスに糾弾され、なんだかんだと50名もが罰せられる大事件になりました。

天英院は、月光院と月光院派であったという間部詮房、新井白石の追い落としを図って、このスキャンダルを利用したという説があります。

真偽はともかく、これを機に大奥での権勢は、再び天英院の元へ。

1716年、家継が亡くなります。月光院、間部詮房、新井白石は尾張へと考えているとのことで、天英院は紀州をプッシュ。吉宗が候補の筆頭に躍り出ます。

繰り返しますが、そのへんの真偽は分かりません。天英院が権勢を取り戻してのちは、月光院との関係も悪くなくなったという説もありますし。そもそも、家宣も、いずれ吉宗にと考えていたという説もあります。

この時、尾張での候補は徳川継友でした。継友は天英院の姪っ子の婚約者でもあり、プッシュされてもおかしくないのですが、間部詮房や新井白石によって引き立てられていたということもあって、天英院は吉宗を推したとも言われています。

また継友は、家康、義直、光友、綱誠、継友と、血で言えば五世代目であるのに対し、吉宗は、家康、頼宣、光貞、吉宗で四世代目という血の近さから選ばれたとも言われます。

加えて継友は、名君ではあったらしいのですが、甥であり先代でもある五郎太が亡くなった翌日に、六代目就任が決まったと酒宴を開きたしなめられたとか、ちょっと空気が読めない人だったという話も。

確執、陰謀、裏工作などなど、あれこれ面白く語られる吉宗の将軍就任ですが、尾張藩には「将軍位を争うべからず」という不文律があって、藩全体としても積極的ではなかったとも言われます。

なお血の近さで言えば、家継の叔父で綱重の次男、上野館林藩主の松平清武が、家康、秀忠、家光、綱重、松平清武と、五世代目ながらも本家直系の人もいたのですが、そこそこ高齢な上に跡取りもいなかったということで、選考レースには加わっていませんでした。

そんなこんなで吉宗は、八代将軍に推されます。

◎──だが断る!

「そんなこんな」はともかく、徳川家の正史と言える『徳川実紀』には、六代家宣の遺命であるとして吉宗に、家継の後見職につくよう打診したとあります。家継が危篤の折なので、実質的に八代目の打診です。

しかし打診された吉宗は、これを断ったとあります。年齢的には水戸の綱條、家格的には尾張の継友でしょう、と。年齢的には、って綱條、年齢行きすぎてましたけどね。六十超えてたので。

打診され断り、天英院から重ねて打診されても断り、一任するから考え直してと退室した後、結局、一同が吉宗にというから諦めて受けたということです。

……作り話めいてますよね。(笑)まあ正史とかなんとかってそんなもので、当代は美しく、対立者は貶めて、というのがお約束でしょう。

ともあれ、八代将軍吉宗が誕生しました。

◎──八代将軍徳川吉宗

将軍になった経緯だけでずいぶん長くなってしまったので、何をしたかはまた次回以降に持ち越しと言うことで。


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合同会社かぷっと代表
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