まにまにころころ[94]ざっくり日本の歴史(後編その13)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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こんにちわん、コロこと川合です。

『真田丸』、昨日放送の回は、これまでで一番残念な回でした。見られた方は分かると思いますが、お梅の件です。あと、それを受けてのきり。

見られた方には説明要らないし、見られてない方に説明してもあまり伝わらないので内容は割愛しますが、ここまでずっと面白くて、今回も中盤までは面白かったのに、なんでその部分だけ駄作なのか謎。

でも、次回から大坂編が始まります! 天下人となった秀吉の元に源二郎が人質として送られ、豊臣の人々とよしみを通じます。

人質といっても本家の裏切りを抑止するためのもので、平時は家臣というか客将みたいなものです。現代の誘拐事件や立てこもり事件の人質とはちょっと違います。

青年時代の幸村が大坂で過ごしていたというのは、大阪人としてはそれだけでわくわくします。豊臣時代の黒い大坂城も登場するようで楽しみです。

さて、世間はちょうどお花見シーズン。一昨日、大阪城公園に桜を見に行ってきました。ついでに数十年ぶりに天守閣にも入ってきました。特別公開されていた重文の櫓にも入ってきました。

どこからも桜が見え、花見客で溢れかえる大阪城。私は通り抜けただけですが、あちこちで宴会が開かれていましたし、屋台や移動販売車もたくさん出ていました。

ここから強引に本題に繋ぎますが、質素倹約を奨励する吉宗の時代とは大違いです。酒にしても吉宗の時代はあまり作られていなかったはず。だって酒米作る余裕あったら食べる米を作らないと、飢饉で大勢が亡くなるような時代でしたから。




◎──吉宗の経済政策

前回ちょこっと予告していましたが、今回は吉宗の経済政策の話。主に米の話ですね。米公方、米将軍と呼ばれる吉宗ですから、色んなことをやっています。

幕府は当時、財政難。その立て直しが吉宗のお仕事でした。武士の給料が米であったことからも分かるように、米には通貨的な役割がありました。つまり、経済政策=米政策でもあった。

でも、貨幣は貨幣で流通していましたし、米はあくまで米。農作物です。そのあたりの難しさに、吉宗は苦労します。

財政を安定させるには、収入を増やし支出を減らすのがセオリーであることは今も昔も変わりませんし、幕政も庶民の暮らしも変わりません。ただまあ実際、そんなに単純でないことも確かで。

特に当時は現代のような経済理論もないし、社会の仕組みも大きく違いますしね。現代ほど複雑じゃないとは言え、当時は当時の苦労がありました。

◎──吉宗と米

幕府の収入は年貢によるもの。吉宗は収入を安定させるために、それまで収穫に応じ税率を決めていた検見法から、収穫に関わらず一定の税率を課す定免法を採用しました。全国一斉採用というわけではなかったようですが、基本方針として、定免法を採りました。

これによって、幕府にとっては入ってくる米がある程度読めますし、納める方も出ていく米がある程度読めるようになります。

また豊作時には余剰ができることになりますので農民にとっても、仕組み自体はいいものでした。ちゃんと豊作時には備蓄するなど、自己管理できることが前提ですけどね。

吉宗の施策で、幕府の収入は安定するのですが、幕府の収入が安定したということは、悪く言えばそれだけ上手に搾り取ったということですよね。

吉宗時代の終盤には、神尾春央(かんお はるひで)という勘定奉行が登場しますが、神尾は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と言った人物です。

本当に言ったのかどうかは知りませんが、言ったとされるということは、まあ言いそうなくらいのことを本人なり当時の幕府なりがやっていたのでしょう。

ともあれ幕府の目的は達せられたので、成功と言えるかな。

また吉宗は治水事業や新田開発を促して、米の増産を図ります。具体的には、新田開発したら増産した一部を取り分としていいから、といった感じで。これが奏功して、それなりに増産が達成されます。

ここで問題になるのが、先にも書いたように米は農作物であり通貨でもあったことです。米の供給量が増えるということは、価値は下がるということです。

米の価値が下がっても、それに応じて武士の禄高が調整されたりはしません。一万石の大名に支給されるのは、変わらず一万石です。武士も何かモノを買う時は、換金して貨幣にする必要があります。

その換金レートが下がるんです。給料はそのままなのに、物価は上がっている状態。幕府も、さすがにちょっとまずいなと、米市場に介入しようとしますが失敗。

増産しようぜと図って増産できたわけですが、後先のことまで考えられていなかったんですね。成功したような失敗したような微妙な結果となりました。

◎──享保の大飢饉とサツマイモ

吉宗の時代、1731年には享保の大飢饉が起こっています。天候不順と合わせて、害虫が大発生。西日本の各地が大凶作になり、全国的に大勢の餓死者が。米の収穫は例年の三割にも満たず、餓死者は、一万二千人とも九十七万人とも。

今の感覚で言えば、西日本が大凶作でも、北陸や東北の分でなんとかなるんじゃないのかと思いそうですが、当時は寒い地方で育つ米はありませんでした。

そんな凶作の折、飢饉を免れた地域がありました。薩摩と伊予の大三島です。琉球から薩摩に甘藷(サツマイモ)が伝わり、そこから大三島に伝わり、冷害にも強いサツマイモのおかげで飢饉にならなかったんです。

吉宗はそれを聞いて、サツマイモの研究を青木昆陽に命じます。そのおかげで、後の飢饉ではサツマイモに救われた地域が多かったそうです。

しかし寒さに強いサツマイモでさえ、東北の寒さでは育たず。寒い地域はずっと食糧問題に悩まされ続けます。東北と言えば美味しいものにあふれている印象の今からは想像できないですね。乗り越えた先人に感謝。

◎──質素倹約

続いては支出を抑える話。質素倹約の奨励です。吉宗自身が質素に暮らす分は何も問題ないのですが、皆に奨励、いや強制します。娯楽はダメとか嗜好品はダメとか。

現代人だと、そんなことをしたら経済が滞るだろうってことはすぐに分かりますが、吉宗には分からない。現代人でなくても分かる人はいましたが、吉宗には分からない。分からないどころか、指摘されても無視。

吉宗はバカだったという話ではなくて(バカだったのかも知れませんけども)、儒学の影響か、商売とかビジネスとか金勘定は卑しいものとする考え方が武士の世にはあったようです。少なくとも吉宗はそうだったのでしょう。

先ほどの、米を増産した結果レートが下がって困ったとか、質素倹約での景気停滞とか、経済について疎い、あるいは意識的に無視するところがあります。

それに対して真っ向勝負を挑んだのが、尾張藩主となった徳川宗春です。

◎──徳川宗春(とくがわ むねはる/1696-1764年)

前にチラッと触れましたが、尾張藩第三代藩主徳川綱誠の二十男で、第六代の継友の遺言で、尾張藩第七代藩主となります。二十男に順番が回ってきたってのはすごいですね。

この宗春、吉宗にもかわいがられていたのですが、吉宗の緊縮政策には反対だったようで、規制を強める幕府に対して、尾張藩では規制緩和を進めます。藩主として名古屋に入る時も派手な衣装をまとい、また城下へも派手な格好で繰り出したりしていたそうです。

また宗春は地元だけでなく江戸でもよく遊んでいたそうで、幕府との間に、

幕府:「国元ならともかく江戸でも遊び倒すってどうよ? 当てつけ?」

宗春:「他の奴らみたく江戸でだけ良い子にするようなことできゃーせん」

幕府:「藩邸に町人招いて、家康拝領の幟まで飾ってお祭り騒ぎしたやろ」

宗春:「長男の初節句のこときゃ。なんの法にも触れとらんでにゃーか」

幕府:「倹約令を知らないのか」

宗春:「解釈の違いってやつでよ。お上は倹約の本質が分かってにゃーよ」

というやり取りがあったとも言われています。

宗春についての詳細はWikipediaでも見ていただくとして、宗春の治世に名古屋は大繁栄します。まあ幕府としては面白くなかったでしょう。

さらに幕府にとって面白くないことに、ちょうどその頃、幕府と朝廷が険悪な関係になり、朝廷は代々仲良しの尾張藩を持ち上げます。

思いがけない板挟みにあった宗春と尾張藩ですが、尾張藩の家老は幕府と組んで宗春を失脚させることにしました。宗春にしてみれば完全に家老の裏切りですが、家老とすれば、尾張藩のため、だったのでしょう。

宗春が江戸に出向いている隙に家老にクーデターを起こされて、宗春は混乱の責任を取らされる形で隠居、謹慎を命じられます。

さらに尾張藩は、いったん幕府に召し上げられた上で、宗春の従兄弟に当たる徳川宗勝へ改めて下すという形にされて、徹底的に宗春を排除。宗春に関しては資料もほとんど処分されたそうで、ろくに残っていません。

宗春は幕府を尻目に名古屋を繁栄させただけだというのに、この仕打ち。一説では、宗春の政策で尾張の藩財政が悪化したとも言われています。それでも、そこまでするのかといった感じですよね。吉宗、怖い。

◎──御三卿

吉宗は宗春を、というよりも、尾張藩を押さえ込みたかったような気がします。将軍家を先々まで自らの血筋で通したかったのではないでしょうか。そのための施策として、御三卿の設立というものもあります。

吉宗は次男の宗武、三男の宗尹を取り立てて、それぞれ田安家、一橋家として別家を立てます。また跡を継いだ第九代将軍家重に、次男の重好を取り立てて清水家とし、この三家を、将軍家に後嗣がない際のバックアップとしました。

さらに御三卿は、御三家へも後継者を提供する役割をもちました。

つまりよほどのことがない限り将軍家は吉宗の血筋になり、さらにあわよくば御三家も吉宗の血筋に塗り変わっていくことになったということです。

松平健の爽やかスマイルの裏側に、そんな企みがあったなんて……

この「血」の話はまた先の方ででてきますので、覚えておいてください。

紀州の四男坊から紆余曲折を経て、御三家筆頭の尾張を抑え将軍になった吉宗ですから、そのあたりのことに敏感だったのかもしれません。「紆余曲折」の裏側も色々あったのかもしれません。

一方の尾張はすっかりしてやられた形で、落語にも『紀州』というネタがありまして。

尾張の継友が第七代将軍家継危篤に呼び出された折、道中の鍛冶屋の前を通ったらトンテンカン、トンテンカンという槌音が、天下取る、天下取ると聞こえたと。これは自分が将軍だなと思っていたら、まんまと紀州の吉宗に取られて。

その帰り道にまた鍛冶屋の前を通ると、焼けた鉄を水につける音がキシュー(紀州)って。……すっかり世間の笑い者ですね。

まあなんにしても、吉宗はやり手だったということでいいんじゃないかと思います。たぶん家康に次いで今なお有名な将軍であろうことも、その証左かと。

宗春が主役の時代劇も見てみたいですけどね。大河とまでいかなくても、新春6時間スペシャルとかで。

吉宗は『暴れん坊将軍』に出てくるような清廉潔白な人物だったかはともかく、幕府側からしてみれば、総合的には名君といって差し支えないでしょう。なお、『暴れん坊将軍』に出てくる宗春は、将軍位を狙う悪い奴です。(笑)

ドラマだけでなく、今に残る歴史なんてそんなものですよね。書き手の思惑に大きく左右されます。不都合な情報は処分されたり。逆に言えば、その記録のほとんどが処分された宗春は、なかなかの人物だったのかもしれません。

◎──次回は未定

次回はおそらくそのまま少し時代を進めることになると思いますが、吉宗の先はおそらくみなさん、ペリーでもやってこないと興味示してもらえないような感じもしますので、ちょっとペース上げるかもしれません。


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前々回、吉宗が綱吉にお目見えする時の話で、綱吉が紀州藩に遊びに来たって書きましたが、紀州藩邸に、の誤りです。江戸での話です、すいません。