Otakuワールドへようこそ![240]「おもてなし」も所変われば品変わる
── GrowHair ──

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海外に出て行くと、日常の何気ない光景の中に習慣やものの考え方の違いを否応なく目のあたりにしてしまい、床まで落ちたあごを拾い上げるのが大変というか、開いた口がふさがらない目にあうことがある。

デュッセルドルフでは、ライン川のほとりにビールの飲めるお店が点在する。お店にはデフォルトのビールがある。茶色みがかった色のビールが注がれたグラスをいくつも盆に乗せて、店員が時折持ち歩いてくる。

お客さんが入ってきて席に着くと、黙っていても、ポンとグラスが置かれる。グラスが空きそうになると、またポンと置かれる。もう要らないというときは、下に敷いてあるコースターを上に載せて蓋をしておくと、そのサインになる。便利なシステムだ。

われわれの同行者のうちの一人が、「コーラはありますか」と聞いた。その返事がすばらしかった。「ねえよ!」

私はドイツ語が分かるわけではないのだが、ユンカー氏が解説してくれた。彼は日本在住で、日本語がふつうにしゃべれて、私よりも秋葉原に詳しい。彼自身、大ウケしている。「ドイツではお客様は神様ではなかった」。

こういう瞬間、ああ外国にいるんだな、と実感する。ちんまりとした常識を持ち歩いていても、一撃で木っ端微塵に粉砕される。一種、快感である。海外に出ていって、視野が広がったなぁと感じるのは、新たな知識を獲得したときではなく、古い知識が破壊されたときだったりする。

いや、まあ、もしかすると、日本人のおっさんがセーラー服を着てドイツを闊歩しているというのもそれなりに破壊力があって、いい勝負になってるのかもしれないけど。




●フレンドリーなのもひとつのおもてなしの形

じゃあ、お客様は神様方式の日本のおもてなしのほうが優れているかと言えば、そうとも言い切れないところが難しい。「おもてなし」の概念そのものが違っているのかもしれないので。

多分に感覚的で恐縮だが、欧米には「フレンドリー」であることを売りにしているお店が多いように感じる。

もちろん、ブルジョワ向けの高級なお店も存在していて、お金をいっぱい払えば、一分の隙もないビシッとした身なりのウェイターが、礼節を尽くして、おもてなしに徹してくれるであろう。

けど、一般大衆レベルの人々は、そういうのをスノビズムと称して毛嫌いし、あるいは嘲笑しているフシがある。「スノビズム(snobbism)」とは、国語辞典によると、「紳士・教養人を気どったきざな俗物的態度。また、流行を追う俗物根性」とある。

犬を白黒に塗ってパンダと称するようなもんか。自分の表面を自分ではないもので塗り飾ることによって、一段高いステージに上がったお芝居を打ち続ける。これって本人にとっては疲れそうだし、周りからは下手なお芝居が見透かされて陰で物笑いの種になってそうだし、いいことなさそう。

スノビズムは笑い飛ばしてナンボ、って態度は、アメリカ西海岸で特に強い。「そういうのメンドクサイでしょ、ウチはそうじゃないかんね。初めて会った瞬間から友達だかんね。いらっしゃいませ、じゃないかんね、やあ、だかんね。そこんとこよろしく」って言ってるかのようなお店が多い。てか、そっちが標準的。

私がシアトルに行ったのは、1997年のことだ。シアトル発祥の喫茶店「スターバックス」が北米地区以外に初めて店舗を出したのが、その前年のことで、場所は銀座。まあ、エスプレッソは、一種のシアトル名物なんだが。

日本での位置づけとしては、そこらへんに掃いて捨てるほどある喫茶店よりは一段上の、オシャレな雰囲気のとこ、って感じだったと思う。「キャラメル・マキアート」って、いったいなんなのさ。

本場シアトルでは、そういう部類じゃないほうのをよく見かける。ガソリンスタンドの敷地内の一角に、独立して簡素な建屋があり、ドライブスルー専用のコーヒーショップになっている。これが、スノビズムとは対極のフレンドリーさを旨とする。

朝、いつも順番待ちの長い車の列ができている。一台あたりの接客時間が、コーヒー一杯買うだけとは思えないくらい長い。注文するのに、指定する項目がやけにいっぱいあるのから始まって、作るのにも時間がかかり、その間、アホみたいに明るい軽薄なノリで雑談に花が咲き、商品の受け渡しが済んでからも、勢いでしばらく続いたりする。

"I love you"って日本語でなんて言うの? って聞いてくるから、"I shit a mass."(私は大量にウンコする)って言うんだよ、って答えると、面白がってさっそく私に対して言ってくるので、"I bet you do."(そうだろうね)って答えたらムッとしてた。

三日も通うと、そのコにはフィアンセがいて、ハワイで挙式を予定している、なんて個人的なことまでしゃべってもらえるので、なるほど、友達になったような感覚になる。

後ろに並んでいる車も、ちっとも進まない列によく辛抱するなぁ、とは思うけど。誰も「早くしろ」とか言わない。こういうとこでアセると、かえって "Mr.In-a-Hurry"(せっかち野郎)みたいに揶揄されかねない。

それ、いいなぁ。そういう文化のない日本で生まれ育った私でさえ、この空気には、居心地のよさを感じる。ため口のフレンドリーさが、おもてなしの一形態として立派に機能しているのである。

そんなにいいなら、日本でもやればいいのにと思うのだが、やっぱりそうはいかないだろうなぁ。「お客にため口とは何事か! この店は接客態度がなっちょらん!」とか、マジ切れする人がぜったいに出てくると思う。

お店側としても、そんな悪評がネットで拡散されたりして、評価点数が下がってお客が離れていっては困るので、冒険できないだろうなぁ。

●あなた向けにカスタマイズしますというおもてなし

もう十年くらい前のことで、誰が言ったのか思い出せない。オランダのあの人だったか、イタリアのあの人だったか。日本には、自動販売機がそこいらじゅうにあって、飲み物が手軽に買えるのは便利でいいんだけど、缶コーヒーで、砂糖抜きの、ミルク入りっていうのに巡り会えた試しがない、と。

そう言えば、ないね。疑問に思ったことすらなかったよ。需要が少ないんだろうね、きっと。売れない商品を世に出したって儲からないわけだから、製造側からすれば、合理的な判断なような気がするけど。

そういうところが、まだまだ日本は遅れている、と言いたげであった。一人でも需要があるんだったら、提供するのがサービスってもんでしょ、と。

それ、缶コーヒーで対応するのは難しそうだけど、最近はコンビニで、その場でドリップする方式のが出てきてるから、砂糖抜きのミルク入り、なんて嗜好にも対応できそうである。これで許してくれるかな?

日本語で「おもてなし」というと、まごころ込めて、みたいな湿っぽいイメージがあるけど、もしかすると、欧米のホスピタリティという概念は、もうちょっとビジネスライクなドライ寄りなものであって、しかし、あらかじめ幅広い選択肢が用意されていて、あなたの好みに対応する用意ができてますよ、という、どちらかというと、カスタマイズの精神に近いんじゃないかと想像する。

シアトルのコーヒースタンドで、不思議に思ったのは、たかがコーヒー一杯注文するだけなのに、会話がやけに多いことである。まず、カフェイン抜きのdecaf(ディーキャフ)というのがあり、どっちにしますか、と来て。

コーヒーの容器の大きさは、と来て。砂糖、ミルクは入れるか入れないか、入れるなら量は、と来て、それで終わりではなく、さらに、フレーバーをつけるというオプションがあり、これの選択肢がまた幅広い。もう忘れたけど、どう考えてもコーヒーと合わなさそうな、クレイジーなやつもあったような。

「デフォルト」って概念はまだ発明されてないんかいな、と思っちゃう。自分の側から、どうしてもこういうふうにして飲みたいって希望は特にないんで、お店の側から、これが一番美味いよ、っとお薦めのやつを出してくれれば、それでいいから、って人向けに、「コーヒー」の一言で注文が完了するのがあれば、お互いに手間が省けていいんじゃないかな、と。

そう思っちゃうところが、多分に日本人的なのかもしれない。実際にデフォルトコーヒーなんて用意したら、「それっていったい誰の好みに合わせたんだ?」とひと悶着起きちゃうのかもしれない。

コーヒー一杯の注文にたくさん会話することで、「ほーら、あなたの個別の要望をこんなにいっぱい聞いちゃいましたよー」というジェスチャーを示すことが、ひとつのおもてなしの形になっているのかもしれない。

そうと知ると、日本でオレ様メニューがどこまで通用するか、実験してみたくなっちゃう。セットになってる定食のおかずだけを単品で注文してみる、なんてあたりが序の口で。なんかの漫画で、中華料理屋でビーフストロガノフかなんかを注文したら、あたりまえにすっと出てきた、なんてのがあったけど。「のだめ」だっけ?

中華料理屋に入れば、メニューにはたいていラーメンと青椒肉絲(チンジャオロース)があるので、それの上にこれを乗っけて出してくれ、と言ってみる。こういうのは、けっこう聞いてもらえる。値段なんて聞かないから、適当に決めてくれりゃ、それでいい。

カクテルを出してる店なら、オレ様カクテルの注文は想定内な感じ。私の定番は、ロシアンチャイナブルー。ライチのリキュールを使ったチャイナブルーというカクテルがあって、大変よいのだが、アルコール度数が低いので、一瞬で飲めちゃって、もの足りない。ウオツカを足して、強くしてもらうのである。

これにコーヒーのリキュールであるカルーアを足してブラジル風味を加え、さらにカレーのパウダーでインド風味を加えたBRICsというのを考えたが、まだ試したことはない。

大船渡に行ったのは1999年のことである。コロラド州デンバーに住む人とメールをやりとりしていたのだが、日本の学校の英語の授業にネイティブを起用するプログラムがあって、それに応募したら採用されたとのことで、二年間限定で移ってきたのである。自然が豊かなところを希望したら、大船渡に配属されたとのことで。私は夏休みを利用して会いに行った。

アメリカ人三人と一緒に定食屋に入ったら、お店の人はそうとう緊張したようで、なぜか、英語っぽい発音の日本語で話してくる。

三人のうちの一人がベジタリアンであった。アレルギーとかではなく、なんか本を読んで感化されたのだそうで。個人主義の考え方が徹底していて、自分の信念を人にまで押しつけてこないのは、たいへん助かるのだが。やっかいな問題が起きた。注文できるものがメニューにないのである。

具抜きのカレーを注文して、それは聞いてもらえたのだが。具抜きでも、非常に小さな肉が入っているのである。それは味付けとして使っているものなので、取り除くのは無理ですという。

仕方がないので、見つけ出しては横へよけて食べてたが、しまいには根負けしたようで、妥協して食べ始めたが、結局、ずいぶん残していて、たいへん悲しそうであった。

岩手県の小さな漁業の町の定食屋で、ベジタリアン向けのメニューが用意してあることを期待するのは多少無理があるような気もするけど、このところ、中国からの爆買いや、2020年開催予定の東京オリンピックの関連でインバウンドが話題になっているので、この機会に、そういう「おもてなし」の形も一考しておくのがいいかもしれない。

●婉曲な気づかいはまず理解されない

京都の祇園にある座敷のお店で、芸者こそ上げなかったけど、ちょっとした宴に参加させてもらったことがある。次々と出された料理の最後に、もみじの葉っぱがちょこんと置かれた。

どうやら、めったに来ないお客に対して、秋ごろまたお会いできるといいですね、という意味を込めたごあいさつみたいなもんだったらしい。いやいや、伝わりませんって。

京都で、人様のお家におじゃますると、お茶とお菓子が出されるものらしいが、このお菓子が、お皿の上に直接乗っているか、懐紙が敷かれた上に乗っているかが、大きな違いらしい。

懐紙が敷かれているのは、「あんた、ほんとは歓迎されてないから、それに包んで、とっとと帰りなさい」というメッセージが込められているのだとか。いやいや、分かりませんって。

日本人が厳密な意味で単一民族かどうかは議論のあるところらしいけど、欧米の人の多様性に比べたら、ほぼ単一と言ってよい。だからこそ、言葉に出して言わなくても通じるもんだという、暗黙の了解が成立しちゃったりするのであろう。欧米だと、基本的に、ハッキリ言わないことはまず伝わらないもんだと考えておいて間違いない。

人に親切にするのはいいことである。けど、私はいま、あなたに親切にしてますよ、というジェスチャーをおおっぴらに見せつけて感謝を強要するなんていうのは、あんまり品のいいことではない。気づかれないくらいにそっと、というのが奥ゆかしくて、よい。

電車で人に席を譲るときも、「どうぞ」とすら言わずに、次で降りるのだからというそぶりですっと立つ人がいて、たいへんよろしい。けど、その意図に気づかずに、譲られた本人でない人が横からすっと座っちゃうことがある。その無神経ぶりに、傍で見ているこっちは、心の中で「うんが〜!!!」と絶叫している。

アメリカのレストランで、野菜サラダなどを注文すると、出されたときに、"Pepper?"(コショウはいかが?)と聞かれる。うなずくと、消火栓みたいなバカでかい筒に入れたのを持ってきて、ガリガリやってくれる。

いかにもbigfavor(大きな親切)ですよというジェスチャーで、これってどうよ、と笑ってしまう。こんなのは別に見習わなくてもいいとは思うけど。

●優劣の問題ではない

日本は、文化的水準において、まだまだ西洋に遅れをとっているので、がんばって追いつきましょう、って話ではない。違いは違いであって、どっちが優れているとか劣っているとか、張り合ったってしょうがない。

それと、海外からのお客人をおもてなしするときには、われわれが今までやってきた流儀を捨てて、相手の文化に合わせましょう、と提言しているわけでもない。そこまで卑屈にならんでもよろし。

ただ、この違いについて、知っておくことに意味があるかな、とは思う。こっちは一所懸命、まごころを込めておもてなししているのに、相手はいったい何が不満なんだろう、みたいな、無用の行き違いを避けるくらいの役には立つんじゃないかと。

考えてみると、国や地域によって、人々のものの考え方に差異が生じるというのは、不思議なことではある。文化というのは、常に形を変えていて、百年も経つとまるで別の国みたいにがらっと様相が変わってたりする。そういう変化が、今現在も続いている。

やれあっちだ、ってことになると、みんなしてわさーっと大移動。で、問題が生じると、いやいやそっちじゃなかった、今度はこっちだ、ってことになって、またまたみんなでわさーっと大移動。

そんなことを繰り返すうちに、社会問題が生じる確率が極小値をとるような安定ポイントが見いだせれば、そこに落ち着いて、以降はあんまり変化しない、ってことになってもおかしくないと思うのだが。

どこの国だって、大勢の人々が互いに相互作用しながら暮らしていることには違いはなく、安定ポイントはだいたい同じ位置にあって、歴史のたどる道は異なっても、結局は同じようなところに落ち着く、ってことになりそうな気もするのだが。

西洋は狩猟民族で日本は農耕民族だったというもともとの違いがあって、それがものの考え方の底流をなしているのだ、という仮説はもっともな感じがする。

けど、私自身は、農耕も狩猟もしたことがなくて、サラリーマン民族の一員をやっている。周囲の人々も似たり寄ったりだ。よその国々に目を向けてみても、都市化した領域におけるサラリーマン民族の生活なんて、これまた似たり寄ったりだ。

相互の情報の流通が遮断されているわけでもない。にもかかわらず、歴史的な背景がずっと残り続けて、文化的な差異が消えていかないのだとしたら、不思議な現象のように思えるのである。

環境の変化に持ちこたえて種が存続していくためには多様性が大事という、無意識下の知恵のはたらきによるものなのだろうか。

●よい心、悪い心もコミュニティによりけり?

「バカップル」という用語がある。ウィキペディアによると、「「バカ」と「カップル」をくっつけた俗語で、はっきりとした定義は存在しないが、公共の場所で衆目を意識せず平然といちゃつくなどして、周囲に不快感を与えるカップルに対して皮肉を込めて用いられる場合が多い」とある。

最近は減少しているようにも思えるが、四〜五年前くらいにはよくいたね。夜、デートの終盤で、彼女を駅まで送っていったけど、すっとは別れ難くて、改札口前で延々とべたべたべたべたやってる。

異論はあるかもしれないけど、私の見てきた少ない経験からすると、世界一のバカップル天国はイタリアだ。時間を問わず、場所を問わず、道を歩けば、都内における自販機ぐらいの高確率で遭遇する。

しかも、べたべたのしかたがたいへん濃厚で、ぶちゅーっとひっついたまま、体をくねくねしてたりして、見てるほうが恥ずかしくなる。他の通行人は気にしないのかと見てみると、誰もなんとも思っていないようで、これまた道端の自販機のごとし。ちっとも悪いこととみなされていないようである。

イタリアといえば、カトリック教会の影響力の強い国だ。関連性はありやなしや。どうも、嫉妬心に対する取り扱い方が異なるんじゃないかとにらんでいる。

キリスト教の考え方だと、自分が持ってないものを持っていたり、自分よりも幸せそうにしていたりする他人に対して、妬み、やっかみの気持ちを抱くのは、その感情自体が悪いものであるから、本人が自制心をもって、しっかり封じ込めるべし、と説く。Don't covet.

自分の中にある嫉妬心を正当化し、それを刀剣のごとく振り回して、恵まれた境遇の人に対して攻撃的になるのは、人としてあるまじき罪深き行為ってことになる。

日本だと、嫉妬心に対してもっと寛容な気がする。妬み、やっかみの心はそれ自体、自然に湧き起こるものであり、悪いものではない。むしろ、そういう気持ちを起こさせる側に配慮が足りないのだ、と。

自分だけ持っている宝物をこれ見よがしに見せびらかしたり、自分が今いかに幸せな状態にあるかを見せつけたりするのは、品のいい行為ではないとされる。

もはや昭和の文化になっちゃってるのかもしれないけど、道を歩いていて、ご近所の人にばったり会ったときのごあいさつとしては、「いやな天気が続きますね」とか「景気がちっともよくなっていきませんね」みたいにネガティブなところから入るのが日本の流儀だったりする。

「相変わらず、おもしろきこともない世の中を忍耐しながらなんとか暮らしてますよ」とアピールすることにより、「おお、あんたもそうか、こっちも同じだ」ってことで、互いに共感できる。「やぁ、仲間仲間」と。互いの距離の近さの再確認になるのである。

これをうっかり逆にして、ボーナスが思ってた以上に出ましたとか、交際相手とラブラブですとか、相手と共有することが不可能な、自分だけのいい話題から入っちゃったりなんかすると、暗に「私はあんたと違います」と距離を置くことになってしまう。相手は「そりゃ、ようござんしたね」と棒読みで言い、心の中では「ふんっ」と思うわけだ。

相手に無用の嫉妬心を起こさせないように、無用の距離を作らないように、ネガティブ共感から入るというのが、良好な人間関係を保つための知恵だったりする。

底流には、仏教的な思想の影響があるのかもしれない。ものごとなんて、期待どおりにうまく運んだりしないのが、その本来の自然な姿なのだ、というのは、仏教の教えるところだったりしなかったっけ? 生きること、すなわち、四苦八苦なのだと。

年賀状に自分の子供の写真を載せて送るのは是か非か、なんてのも、しばらく前にネットで議論になっていた。受取った側には、結婚したいと思っているけどなかなかできない人もいれば、不妊治療中な人もいるかもしれず、幸せいっぱいの写真を送りつけられたらヘコむわけだ。そこを考えなさい、と。

欧米だと、これが逆になっている感じがする。友達どうしの間だったら、自分の交際相手のことなんか、遠慮会釈なく、じゃんじゃんノロケまくる。これに対して「はいはいよーござんした」みたいに冷たく返したりすると、こっちが友達甲斐のないやつだと思われかねない。

嫉妬心が自分の中でちゃんと手なずけできてないなんて、精神的に未熟か、あるいは心の中に悪魔が住み着いた危険なやつ、ってことにされちゃいそう。

ラッキーなことが起きたら、それを人に言いたくなるのは、自然なことである。真の友達どうしであれば、相手にとって幸せな出来事は、すなわち、自分にとっても幸せな出来事と心得るべし、ってわけだ。

だから、友達の自慢話に対しては、「まるで自分のことのように嬉しいよ」などと返すわけだけど。これが抵抗なく、すっと言えたら、大したもんだと思う。そういう立派な人格の形成できていない私なんぞは、どうしても棒読みになっちゃいそう。

"How are you?"と聞かれたら"I'm fine."と答えるのがひとつの型になっている。じゃあ、もし、重い病気に罹患していて、つらい闘病生活が続いており、実際のところちっともファインじゃなかったら、どう答えればいいのだ?

これをネイティブの英語の先生に質問してみたことがある。正解は、現実がどうあっても、まずはファインと答えるべし、であった。おおむねうまくいっているんだけどね、マイナーな問題が全然ないわけじゃなくて、健康状態がちょっと完璧ではなくてね、ぐらいに縮小して答えろ、と。

それが相手に対する思いやりなんだ、と。なぜか。「元気か」と聞いて、「元気じゃない」と答えられたら、友達としては、なんとかしてあげたくなるのが人情ってもんだろ、と。で「なんとかしてあげたいのは山々だけど、僕にできることはあんまりなさそうだね」ってことになっちゃう。

これは、相手に負担をおっかぶせてることになる。自分なんぞのせいで相手の気持ちまでずーんと重くなっちゃうのは申し訳ない。だから、ネガティブな出来事は、うんと小さく畳んでさらっと伝えることで、重くならないようにしてあげるのが友達としての思いやりってもんでしょ、ってわけだ。なるほどねぇ。

逆に、キリスト教では罪とされないけど、仏教では罪にあたることって、あるだろうか。「バカ」がそれかと思う。仏教用語だと「無明(むみょう)」。

バカなのは、生まれや育ちに起因するところが大きく、本人の心がけの悪さのせいとばかりは言いきれないところがあり、罪とまで言っちゃうのはちょっと酷な気もしないでもないが。

しかし、あんまりデキのよくないやつに限って、態度がやたらとデカかったりして、人を見下して、ものの道理を得々と説いたりするけど、我慢して聞いてみれば、その内容はさしてレベルの高いものでもなかったりする。

なぜ自分だけが知ってて他人は知らないもんだと思っちゃった? 「慎み」というものを知るといいのに。言ってる本人が得意がってて、聞いてるこっちが赤面してるって、なんかおかしくないかい?

こういうのを罪と呼んじゃうのは、なかなか小気味よい。仏教ではこの言葉を用いず、煩悩と言うのだけど。われわれの底流には、それなりに楽しい思想が横たわっているのかもしれない。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/


前回、コミケの会場で、日テレの取材班とたまたま遭遇してインタビューを受けたことを書いた。コスプレのジャンルの同人誌エリアで、太宰ガロさんのブースに立ち寄っていたときで、一緒にロシアに行ったことなどを話したのであった。

その映像、使われる可能性が出てきた。9月14日(水)11:59pm〜0:54am放送予定の日テレ『ナカイの窓』。この回のテーマは「オタクな人SP」。

有名コスプレイヤーのえなこさんが出演することになっている。えなこさんとも、コミケでお会いしている。コスプレの話題のときに、その関連でガロさんや私の映像も使ってもらえるのかな、と。カットされずに映ってたらラッキー。
http://www.ntv.co.jp/nakainomado/