まにまにころころ[104]ざっくり日本の歴史(後編その22)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。『真田丸』はいよいよ次回から、大坂の陣へと向かいます。やっぱり九度山での蟄居生活は、あまり描くことなかったんですね。「真田紐」が今回出てきましたが、信繁がえらく現代的な取引の話をしていて、さすがにちょっと興ざめでした。(笑)

真田紐というのは、平たく織った綿の紐で、織物なので柄がきれいで丈夫です。九度山あたりに行くとお土産物として売られていて、私も道の駅で買った短い真田紐のストラップを持っています。

なお、真田紐が信繁たちの考案したものというのはあくまで俗説で、起源は不明ながら、当時既に存在していたようです。ですが、考案はともかく、信繁たちが紐を織って、真田紐と名付けて売っていた可能性はまあ、あります。作中に出てきましたが、上田は織物の産地でしたし、和歌山や泉州は綿花の産地なので。

『真田丸』も残すところ11回。11回もかけて描かれる大坂の陣が楽しみです。今度こそ信繁たちが勝ってもいいんじゃないでしょうか。徳川方も強力ですが、なんせ豊臣には難攻不落の大坂城がありますからね。家康ももう高齢ですし。

籠城して2年3年と戦を引きのばせば、家康はもたないでしょう。それに上手く引きのばすことができれば、それを見た諸国の大名が豊臣方になびく可能性もでてきます。征夷大将軍といえ、そもそも徳川は豊臣の家臣です。大義は豊臣にあるでしょう。徳川の天下を快く思わない勢力は、全国にかなりあるはず。

大坂城は鉄壁ながらも南がやや攻めやすいですが、その攻めやすい個所の隣に強固な出丸を築くことで敵の目を惹きつけ、集中的に守ることができるはず。

そうだ、番組名にあやかって「真田丸」とでも名付ければいい。あとはもう、家康があれほど恐れた軍略家であるあの真田昌幸の子、信繁を中心にして一丸となりさえすれば、今度こそ徳川に勝てるはず!

……と、そんな話はさておき、今回は前回の続き、長州の人の紹介です。





◎──木戸孝允(きど・たかよし)=桂小五郎(かつら・こごろう)
(1833年8月11日-1877年5月26日)

木戸孝允の名を知らない方も、桂小五郎という名は耳にしたことがあるのでは。新選組を扱った作品などでも、必ず出てきますからね。

桂小五郎も、松下村塾の塾生ではありませんが、松陰先生に学んだひとりです。剣豪としても知られ、文武に渡って才能を発揮した人ですが、一番の才能は、死ななかったこと、じゃないでしょうか。

さんざん命を狙われておきながら、「逃げの小五郎」とあだ名されるほどに、逃げに徹したんです。剣豪とはいえ、斬られたり撃たれたりすれば死にます。

きっちり幕末を生き延びて、新政府で重職に就き、昭和や平成からタイムリープした未来人かと思うほどに現代的な政治施策をもって、混乱する時代を治める政治家として手腕を発揮。薩長や新政府を快く思わない方でさえも、政治家・木戸孝允の能力は認めるところでしょう。


◎──大村益次郎(おおむら・ますじろう 1824年11月5日-1869年12月7日)

元々はお医者さんでしたが兵学者としての道を歩み、長州征伐を受けた時や、その後の戊辰戦争では長州兵を率いて戦い、最終的には、後の日本陸軍の基を作り上げた人です。

医者から兵学者というとかけ離れて思えますが、要は蘭学者、西洋学者として諸事に通じていたわけですね。大坂の適塾で緒方洪庵にも学び、適塾の塾頭も務めたことがあります。木戸孝允の盟友として、新政府で軍制の整備にあたりましたが、反対派のテロに遭って命を落とします。

あまり一般に名の知られた人ではないように思いますが、この人を丁寧に紹介していては、本3冊分になります。(司馬遼太郎『花神』全3巻)

ということで、逸話をひとつだけ。ちょうど黒船がやってきた頃のこと、蘭学の知識が重要だということで、第一級の蘭学者として大村が、伊予宇和島藩の藩主に推挙されました。で、大村は出向いていったのですが、ちょうど藩主も家老も留守の時で。

大村:「あのー、今度ここで働くようにいわれたんですがー」

役人:「うわ、汚い格好やな! ここで働くって、何ができんの?」

大村:「蘭学を少々」

役人:「蘭学か〜。藩主も家老も留守でようわからんけど、蘭学は大事やって話はしてはったし、蘭学者を雇わなあかんってゆーてた気もするし、そやなあ、わかった、じゃあ採用ってことで。給料はまあちょっとおまけして年に10両2人扶持ってことにしといたげるわ。それで、もうちょっといい服買えるやろ」

家老:「ただいまー」

役人:「あ、ご家老、おかえりなさい。留守中に蘭学者が来たんで雇いました」

家老:「ん ?あ、推薦のあった大村先生のことかな」

役人:「ちょっと多めで年に10両ってことにしたんですけど、よかったですか?」

家老:「ちょっ、おまっ、大先生にたった10両て!なにしてくれとんねん!!!」

役人:「え、大先生? そんなこと、本人は何も……」

大村:「あ、何もゆーてなかったわ」

大村はすぐに、100石取りの上士扱いに改められました。なんか三国志でも似たエピソードありましたよね。(笑)

大村はその後、宇和島藩主について江戸に行き、塾を開き、幕府でも教えて、江戸で知り合った桂小五郎の誘いで長州藩士になりました。


◎──小田村伊之助(おだむら・いのすけ)=楫取素彦(かとり・もとひこ)
(1829年4月18日-1912年8月14日)

先の大河ドラマ『花燃ゆ』主人公である文(美和子)の二人目の夫です。最初の夫は、前回紹介した久坂玄瑞。ややこしいですが、小田村伊之助はもともと、文の姉である寿の夫で、久坂が戦死、寿が病没した後に、文と再婚しました。

明倫館で教えていたため松下村塾の門下ではありませんが、松陰の妹を娶っているくらいですからもちろん親交はあり、松陰の松下村塾設立も支援したり、松陰没後は塾生の指導も行ったりしました。

初代の群馬県令(県知事)ですが、県庁を高崎から前橋に移したことで、高崎の人からは評判が悪いようです。(笑)

業績を見ても、大河を見ても、まあ立派な人ですが、派手な功績は特になく、名前はまったくといっていいほど知られていないのではないでしょうか。

『花燃ゆ』で一気に有名になった……と言いたいですが、視聴率が低かった……

◎──伊藤博文(いとう・ひろふみ 1841年10月16日-1909年10月26日)

一転、超有名人。言わずとしれた初代内閣総理大臣です。若い人には馴染みがないかもしれませんが、昭和38年から59年まで千円札の肖像だったんですよ。余談ですが、千円札はお札の中でも一番よく使われるため、他のお札より少し厚くつくられています。それでも一番早く傷んでだめになるそうです。

紹介するまでもないほどの人ですが、もともとは松下村塾の塾生でした。で、攘夷志士として他の塾生たちと活動していたそうです。維新後に重職についたのは、木戸孝允の引き立てによるものです。

初代韓国統監府統監でもありますが、最後は韓国で安重根に暗殺されました。そのことで韓国では、伊藤を射殺した安重根を英雄視する向きがありますが、伊藤は韓国の国力を高め、いずれ独り立ちさせる路線を念頭に置いていました。

韓国併合にも反対でしたので、伊藤の暗殺は韓国併合強硬派によるものとする説もあります。韓国併合は、伊藤暗殺の翌年です。

ま、政治的な考え方の違いで対立する相手を暗殺する、というのは、攘夷志士時代に伊藤もやったことですけどね。


◎──山県有朋(やまがた・ありとも 1838年6月14日-1922年2月1日)

第3代・第9代の内閣総理大臣ですので、学校でも習って名前はご存じでしょう。

幕末には奇兵隊の軍監も務め、後に日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも呼ばれています。松陰先生が投獄されて刑死したので期間は短いですが、山県も松下村塾の塾生でした。伊藤博文同様に、低い身分からのし上がった人です。

派閥を形成して絶大な影響力をふるったことから、派閥外からは人気ないです。


◎──井上聞多(いのうえ・ぶんた)=井上馨(いのうえ・かおる)
(1836年1月16日-1915年9月1日)

いわゆる不平等条約改正に尽力した人で、第一次伊藤内閣では初代外務大臣に就いています。渋沢栄一など財界人とも親交が深く、三井財閥では最高顧問も務めたことから、「三井の番頭さん」と揶揄されたりも。

大河『八重の桜』で、大隈重信邸で新島襄が寄付を募った会にも出席していて、紹介はありませんでしたが参加者名簿に「伯爵・井上馨」と名前がありました。

そう聞くと立派な人のようですが、汚職事件を起こしたりもしていて、わりと権力にものを言わせてあくどいことも色々やっていたようです。

藩校である明倫館の出で、松下村塾の塾生ではありませんでしたが、攘夷志士として、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文らと一緒に活動していました。藩内の勢力争いなどで命を狙われ、瀕死の重傷を負ったこともあります。


◎──野村靖(のむら・やすし 1842年9月10日-1909年1月24日)

この人も松下村塾の出身で、実兄の入江九一とともに攘夷活動を行いました。維新後は政府の役職を歴任、岩倉使節団の一員として渡欧もしました。

第2次伊藤内閣では内務大臣も務めていますが、まあ『花燃ゆ』見ていた人でもない限り、この人のことはあまり知らないのではないでしょうか。

ただ松陰先生のファンには、松陰先生が処刑直前に著した最後の著書『留魂録』を、後年に奇跡的に受け取った人として有名かもしれません。

松陰は『留魂録』を獄中で二部作成し、一部を門弟に、一部を同じ牢にいた沼崎吉五郎に託し、前者は後に行方不明になってしまいました。

この沼崎吉五郎が、島流しの刑にあいながらも『留魂録』をずっと隠し持ち、東京に戻った後、松陰門下の野村が神奈川県権令となっていることを知って届けてくれたんです。こちらは現在、萩の松陰神社に奉納されています。


◎──前原一誠(まえばら・いっせい 1834年4月28日-1876年12月3日)

こちらも松下村塾出身。維新後は政府に勤めるも、方針の違いから大村、木戸、山県らと対立し下野。後に不平士族を集めて萩の乱を起こし、処刑されました。

萩の乱など、不平士族の乱についてはまたいずれ。


◎──乃木希典(のぎ・まれすけ 1849年12月25日-1912年9月13日)

「ここでこの人の名前!?」と思われたかも知れませんが、長州出身で、松陰にも縁があるということで、まあ名前だけ。乃木坂46の「乃木」です。

親戚で、吉田松陰の叔父で松下村塾の創立者である玉木文之進に師事。松陰が亡くなった時点で乃木はまだ11歳で、面識もありませんが、言わば同門です。

玉木文之進は、松陰が処刑された際に、監督不行き届きとして代官職を剥奪されます。またさらにずっと後ですが、先の前原一誠が萩の乱を起こした際、門弟が多く参加していたことに責任を感じて、先祖の墓前で自害しています。


◎──今回はここまで

二回に渡って長州の人を紹介してきましたが、さすがに有名人が多いですねえ。勝って新政府を牛耳ったからですけど。次回は幕府側の紹介を考えています。あ、その前に一回、森和恵さんとのアニメ対談を挟むかも知れません。(笑)


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