Otaku ワールドへようこそ![242]複素数の美しさは神の恩寵のしるし
── GrowHair ──

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バイト先の学習塾で英語の授業を終え、帰っていく中学生たちを見送ってから隣りの教室へ行くと、塾長の授業はまだ終わっていなかった。夜9時過ぎ。

マンツーマンで、女子高生に数学を教えている。たしか、聖心女子学院高等科の生徒さんだ。容姿端麗で、清楚な空気をたたえる。おや? なんだか手詰まりのムード? 打開に困ってます?

塾長「この子がさぁ、どうしても愛を受け入れてくれないんだ」。
私「じゅ、じゅ、塾長! 授業にかこつけて、なに口説いてんですかっ!」。
塾長「違うって。その愛じゃなくて、虚数単位の i !」。
あ、そっちでしたか。

30年ほど前のことである。私が一年間の浪人を経て大学生になると、高校時代に数学を教わりに通っていた私塾の塾長が私をバイト講師として雇ってくれた。

当時、大学で数学を専攻していた私に、二人からプレッシャーがかかる。この膠着状態をすっと打開するような、ありがたいご神託を私が下すのを待っているのだ。おもむろに、私は切り出した。

そりゃあれでしょ、このオヤジの i を認めない女子高生が正しい。なんですか、この二次方程式には解が存在しない、存在しないけど、便宜的に存在することにして、それを i と置きましょう、って。数学でそんな論理の運びが許されるわけないでしょ!

そんな嘘っぱち、信じちゃいけません。いいですか、複素数を導入する正しい手順として、ハミルトン方式というのがあってですね。こうするんです。

ひととおり説明し終わると、女子高生の私を見つめるつぶらな瞳はキラキラしていた。

……と、日記には書いておこう。ってテレビCMが昔ありましたね。
龍角散トローチでした。これ。


私がハミルトン方式を知ったのは、だいぶ後になってからのことである。このときの答えは、どうも歯切れが悪く、ビシッと決まらなかった。

「チャンスの神様には前髪しかない」という。こっちを向いている間にパッと前髪をつかんでおかなければ、そっぽを向かれてからではつかむところがない。タイミングが命。出し遅れた証文には何の効力もない。

取り返しがつかないとはまさにこのことで、塾長は2007年11月30日(金)に他界されている。女子高生は今ごろ、虚数が存在するか否かよりも、秋刀魚のお値段のほうが気になるお年頃になっているかもしれない。

しかし、世の中を広く見渡せば、この問題で悩みに悩んで熱を出している乙女がいるかもしれない。というわけで、30年前に出し遅れた証文をここで出しておきたい。



●実数は一直線上の数

話の前提として、まず、「実数」とは何かを知っておいていただく必要があります。

直感的に言っちゃうと、実数とは、両側に無限に長く延びる一本の直線上の各点と対応づけることのできる数のことです。この直線のことを、数直線といいます。

こんな説明で、だいたい感じは分かりますよね? あくまでも直感的な説明であって、ちゃんとした定義にはなっていないのですが。

直感を排して、論理的な合理性だけを頼りに、実数というものをあらためて定義しようとすると、けっこう大変なことになります。順序体がどうしたとか、順序完備がこうしたとか。なので、そのジャングルには足を踏み入れないでおくことにします。

実数の例として、1, 2, 3, ... を挙げることができます。1, 2, 3, ... は自然数の例でもあります。自然数のどんな例であっても、実数の例になっています。言い換えると、実数全体の集合は、自然数全体の集合を包含します。

0 も実数の例です。また、−1, −2, −3, ... も実数の例です。これらは整数の例でもあります。実数全体の集合は、整数全体の集合を包含します。

1/2, 1/3, 2/3, 1/4, 3/4, ... や −1/2, −1/3, −2/3, −1/4, −3/4, ... も実数の例です。分数で表現できる数を有理数と言います。

有理数を使えば、どんな実数であっても、いくらでも精度よく近似値を表現することができます。しかしながら、有理数で、誤差なくきっちりと表現することができない実数が存在します。

有理数全体の集合は、実数全体の集合に包含されます。有理数は無数にあるにもかかわらず、実数と比べちゃうと、ほとんど何もないと言っていいくらいスッカスカです。数直線から有理数だけを抜き出してきて、隙間をキュッと詰めると、長さはゼロにしかなりません。

隙間を埋めるのは無理数です。例えば、一辺の長さが 1 である正方形があるとき、その対角線の長さは、分数で表現することはできません。
14/10 では小さすぎ、15/10 では大きすぎます。
141/100 では小さすぎ、142/100 では大きすぎます。
1414/1000 では小さすぎ、1415/1000 では大きすぎます。

いくらでも精度よく迫っていくことができますけど、この数そのものに到達することはできません。このことをもって、有理数全体の集合は、実数全体の集合の中で稠密だけど、連続ではない、といいます。

このあたりのことを、もっと詳しく知りたい方は、下記の本が、お薦めです。私が私立桐朋中学に在学していた当時、数学の奥山先生が授業の中で紹介してくれたものです。何かものすごく大事なことが書いてあるんじゃないかと予感して、買って読んでみた私は、その後、大学で数学を専攻することになります。

遠山 啓「無限と連続 ─ 現代数学の展望」(岩波新書、1952/5/10)

有理数全体の集合と無理数全体の集合とを合わせると、実数全体の集合になります。

実数どうし、四則演算(足し算、引き算、掛け算、割り算)をすることができます。ただし、ゼロで割ることは禁止です。演算の結果として、必ず、実数が得られます。このことを、実数は四則演算について「閉じている」といいます。

実数の人たちは、抜けのない一直線上の世界でほぼすべてが完結し、平和に暮らしています。

●数学における存在は、物理における存在と違って、概念的なもの

実数の説明が済んだら、次は複素数の説明に進むのが順番ってもんですが、ここで脱線します。というのも、複素数を導入したら、それはちゃんと存在が裏づけられている数なのか、それとも存在しない架空の数なのか、ってことが議論になるのが目に見えているからです。

数学における「存在」っていうのは、いったいなんなんでしょう? そこから説き起こしておかなくてはなりません。

「火星に水が存在する」とか「この財布の中には千円札しか紙幣が存在しない」と言ったときの「存在」とは、物理的な意味での存在です。

現実の空間の中で、ある体積を占め、質量を有し、実際に「そこにある」という形で存在するかどうかが問題にされます。

ところが、数学で「この方程式には解が存在する」と言うとき、その「存在」の意味は、上記のような物理的な存在とは、だいぶ感じが異なります。

どちらかというと、「旭川には、気温がプラスにならない日が存在する」と言ったときの「存在」に近いです。

ここで、「候補集合」という概念を導入しておきたいと思います。私の造語なんですが。造語といっても、検索すると出てくるので、世に初めて登場させるってわけではないのですが、私が思っている意味での使い方は見つかりませんでした。もっと上手い呼び名はないもんかなぁ。

ある条件Aが与えられたとき、その条件を満たす対象物を探したくなるのが人情ですが、それをどの範囲まで探しに行くのか、その範囲全体を称して「候補集合」と呼ぶことにします。

上述した旭川の気温の例では、歴史の開闢以来、今日に至るまでの「すべての日」が「候補集合」となります。「条件A」とは、「気温がプラスにならないこと」です。

仮に、2016年2月15日(月)の最高気温がマイナス3℃だったとしましょう。実際にどうだったかは知りませんけど。そうだとすると、この日は条件Aを満たしています。なので、そういう日は存在した、ってことになります。

数学における「存在」というのは、「条件Aを満たす要素が、候補集合Uの中に存在する」という文脈でのみ使われます。同じことを「存在」という言葉を使わずに言い換えれば、「候補集合Uの中の1個以上の要素が条件Aを満たす」ということになります。

それだけです。財布の中の千円札みたいに、この世に物理的に存在するかどうかを問題にしません。純粋に概念的なものなのです。

●概念だからといって、なんでもかんでも存在が許されるってもんでもない

数学における「存在」が、物理におけるそれとは異なり、単なる概念的なものにすぎないのだとすると、頭の中で思い浮かべることさえできれば、なんでもかんでも存在が許されるってことになりはしないでしょうか。いやいや、そうはなりません。

足が百本ある猫というものを考えてみましょう。ちょっと無理すれば、頭の中に思い浮かべられなくもないですね。なんなら、ぬいぐるみを試作してみることだってできそうです。量産して売ったら、案外、売れちゃうかもしれません。これを「百足猫(ムカデネコ)」と呼ぶことにしましょう。

百足猫は存在するのでしょうか。

まあ、たしかに、頭の中に、概念として存在するようになったとは言えるでしょう。しかし、だからといって、実体をもつ実例がただちに存在するようになったと言うわけにはいかないでしょう。

「奇数でも偶数でもない自然数」という概念を考えてみましょう。自然数というのは、1, 2, 3... の総称です。奇数と偶数が互い違いに出てきます。なので、すべての自然数は、奇数か偶数かのどちらか一方であって、どっちでもない自然数というのは存在しません。

つまり、集合として考えることはできても、その要素がひとつも存在しない、空集合だった、ってことになります。集合を定義すること自体は許されます。定義したことによって、その集合が、概念として存在を許されたと解釈しても、まあ、いいでしょう。

しかし、だからと言って、即座に、その集合に要素が存在すると考えるわけにはいきません。この例のように、調べてみたら、実は空集合だった、ってことは普通に起きうることです。空集合を定義しても、そこから話がなにも発展していかないので、面白くありません。だから、慣習として、ふつうは定義しないものです。

この例では、候補集合Uは、すべての自然数からなる集合です。もし、この候補集合を、もっと広い集合U’へと拡張したりすると、要素が存在するようになる可能性はあります。

百足猫も、同じような話です。百足猫という概念を定義したことによって、集合としての存在は許されたとしても、ただちに要素が存在することにはなりません。

この例では、候補集合Uは、地球上で実際に生きている一匹一匹の動物たちすべてからなる集合です。で、百足猫、たぶんいないでしょう。前述した、「奇数でも偶数でもない自然数」例と、まったく同じことです。

では、候補集合Uを拡張して、実在する動物も、頭の中で考えた動物も、すべて包含する集合U’としたらどうでしょう。U’の中には、百足猫が存在する、ってことになります。

物理の場合、候補集合Uは、この世に実体をもって存在するもののすべてからなる集合、であって、これは、どうにもネゴシエーションの利かない、硬直したものです。

ところが、数学の場合、ある条件を満たす実例が存在するかしないかは候補集合Uをどう設定するかに依存していて、ここで案外融通が利くことがあったりするのです。

●思う主体を必要としない絶対思想

ここまで準備が整ったら、そろそろ複素数の話に入ってもいいのですが、さらに脱線します。

「思想」は「思(おも)う、想(おも)う」と書きます。「おもう」は動詞です。動詞であるからには、その動作をなす主体が必要です。それは、われわれ人間です。

人間が何かを思う。その、思われた客体が、すなわち「思想」です。もし主体が存在しなかったら、思うという行為が存在しなくなるので、思われる客体としての「思想」も消滅してしまいます。

ええと、そうでしょうか。正しい理屈のような感じもしますけど。しかし、私はこれを支持しません。

数学において、「円」とは何かというと、「平面上において、ある一定点Cからの距離が一定値rであるような点の集合」のことです。一定点Cをどこに置くか、rとしてどう いう値を選択するか、によって、円の具体例は、そこいらじゅうにたくさん挙げることができます。

どんな円においても、直径の長さに対する円周の長さの比率は一定値3.14159... をとります。これを円周率と呼び、記号πで表します。

「円周率一定の法則」は、たしかに思想の一種です。われわれが頭の中で思い浮かべるものごとの一種であることには間違いありません。

しかし、その法則の正しさは、それを思う主体としてのわれわれ人間が存在しようがしまいが、さらに言えば、宇宙そのものが存在しようがしまいが、びくとも揺らがない、絶対的なものなんじゃないかと思います。もともとあった真理を、後から出てきた人間が発見したにすぎないんじゃないかと。

数学とは、絶対真理に関する学問なのだと言うことができるのではないでしょうか。

そうすると 、思想というのは、それを思う主体の存在を必要としない「絶対思想」と、そうではない「主体依存思想」と、二種類あるってことになりそうです。

その区別をどうやってつけたらいいのか、そこは悩みどころではあるのですが。まあ、脱線はこのくらいにしておきましょう。

●この問題には問題がある

脱線しすぎて、元の軌道がどこにあったか忘れちゃいそうですが。話を戻しま
す。複素数の正しい導入のしかたについて論じようという狙いの下、その準備
として、まず実数とは何かを見てきたのでありました。

これから、徐々に、複素数の世界へ入っていきます。

まず、次の二次方程式を見てみましょう。

  x^2 = −1

左辺は、x の自乗(じじょう)です。二乗(にじょう、じじょう)とも書きます。数式で表すときは、通常、x の右上に小さく 2 を書くのですが、テキストでは表現できないので、上記のように書くのが慣習になっています。

x を自乗するとは、x に x を掛けることです。3 の自乗は、3×3=9 です。

さて、未知数 x についての方程式が与えられたとき、この方程式を満たすような x の値のことを、この方程式の「解(かい)」といいます。方程式の解を求めることを「方程式を解く」といいます。

さて、この方程式、解けるでしょうか。

●解けない方程式があったっていいじゃないか

上記の方程式に解が存在しないことは、割と簡単に分かります。

x が実数であるとすると、次の3通りのうちのどれかしかありません。
(1) x>0
(2) x=0
(3) x<0
x をゼロと比べたとき、大きいか、等しいか、小さいか。それ以外にはありません。

では、ひとつずつ、見ていきましょう。

まずは、(1)の場合から。x が正の数とすると、x の自乗も正の数になります。だから、左辺の値が右辺の ?1 と等しくなるということは、ありえません。なので、(1)の中には解は存在しないことになります。

次に、(2)の場合を見てみましょう。x が 0 に等しいとすると、x を自乗してもやっぱりゼロです。ゼロは右辺の −1 とは等しくないので、解ではありません。(2)のケースでも解はなかったということになります。

最後に、(3)の場合を見てみましょう。負の数に負の数を掛け算すると、正の数になります。たとえば、(−3)×(−3)=9 です。

x がどんな数であれ、負の数である限り、自乗すれば正の数になります。なので、左辺は正の数、右辺は −1 ということで、両辺は等しくなりようがありません。(3)のケースも否定されちゃいました。

つまり、実数軸上のどこを探しても、上記の方程式の解は存在しないと分かったわけです。

よく、数学には答えがひとつしかないと言われます。しかし、方程式の解は必ずひとつだけあるってもんではありません。この例のようにひとつもない場合もあれば、ひとつだけある場合もあれば、ふたつある場合もあれば、三つ以上ある場合もあります。

「上記の方程式を解け」という問題に対する唯一の答えは「解なし」です。

以上、終わり、でいいんじゃないかとも思うんですけど。


●ないものをあると言うのは、たいへんまずい禁じ手

「ない」と分かったものを「でも、あることにしよう」と言っちゃうのは、たいへんマズい。ウソです。インチキです。詐欺です。ペテンです。

かりそめにも、数学の授業で、こんなニセ論理を堂々と教えていいはずがありません。

でも、やってましたね。少なくとも私の時代には。「上記の方程式には解がないことが分かりました、でも、仮にあることにして、それを i と置きましょう」と。うげ〜。

それがアリだったら、百足猫もアリってことになっちゃいますけど、いいんですかい?

今は、どうなんでしょう? あ、相変わらずやってるっぽいですね。やっていい根拠として、イデアル論による複素数の導入を言い訳にしているようですね。

イデアル論による導入、それ自体はいいのです。だったら、それそのものをちゃんと教えれば、論理の飛躍がなく、万人が納得できるべきものです。

ところが、その理論、ちょいと抽象的すぎて、高校で教えるには、あんまり向いてないんですね。まず「群(ぐん)」を定義して、それから「環(かん)」を定義して、剰余類について述べ、「イデアル環」を定義して、変数Xについての多項式環を多項式 (X^2 + 1) で割った剰余類を考え、... ってなことをやっているうちに、ゴールへ行き着く以前に、生徒たちがぼろぼろと落ちこぼれていくのが目に見えています。

で、落ちこぼれを出さないための親心から、苦肉の策として、イデアル論そのものには触れずに、それっぽい導入をしてみせましょう、ってことで上記のようなことになっているようです。

でも、やっぱダメっしょ。

目の前で堂々と論理の飛躍をやられたら、そりゃ、異議を唱えたくなるってもんです。前述の女子高生の言い分が正しい。

ちなみに、彼女の告発によれば、かのお嬢様学校の数学の授業においては、たとえば文章題の解答を書く際には、「求める数を xとせよ」と書け、と教えられるそうです。「せよ」の部分は、「する」でも「置く」でも「書く」でもいいのですが、「せよ」じゃないと減点を食らうのだそうです。

これ、数学を教えようって姿勢じゃなくて、数学を通じて、しつけかなんかを教えようとしてるんですかね?

もしそれで数学嫌いの生徒が出たとしても、それは数学のせいじゃなくて、教え方のせいですからね、っていうのは言っておきたいと思います。

まあ、30年も前のことですけども、今もそんなふうじゃないことを祈ります。お嬢様やお姫様は嫌いじゃないですが。

あ、脱線しました。イデアル論による導入が難解すぎるんだったら、せめて、ハミルトン方式の導入くらいは、やってくれてもいいんじゃないかと思います。

●ハミルトン式導入はケチのつけようがない

先ほど、数学で存在について言うときには、候補集合をどう設定するかがけっこう利いてくることがあると述べました。上記の方程式の解が存在するかどうかを云々する場合が、まさにそれです。

その方程式の解を求めようとした際、候補集合Uとして何を選択するのか明記しませんでしたけど、暗黙のうちに「すべての実数からなる集合」を想定しています。

その結果、その候補集合Uの中に解は存在しないことが分かりました。つまり、数直線上のどこを探しても解はないと分かったわけです。それで、あきらめりゃいいものを、ハミルトン氏はあきらめなかった わけですね。

直線の上を探しても解がなかったとしても、直線の外を探せば、もしかしたらあるかもしれません。数直線を包含する平面というものを考えて、その平面をあらためて、解の候補集合U’として選択しなおし、その平面内を探せば解が見つかるのではないか、それがハミルトン方式の骨子です。

ハミルトン方式のすばらしいところは、あぶなっかしい個所がひとつもない点にあります。うっかり「数というものは直線の上に乗っかっているのではなく、平面上に広がっていることにしましょう」なんて、大っぴらに革命宣言しちゃったりなんかした日には「いやだ」、「オレは認めない」という猛反発が飛んで来るのが目に見えています。

なので、ほんとうのココロは裏に隠し、どこからも文句のつけようのない形で、直線世界の住人をさりげなく平面世界に連れ出します。では、行きますよ。

まず、ふたつの実数の詰め合わせセットという「もの」を考えます。よく、贈答用などに、瓶入りのお酒を二本セットにして箱詰めして売ってますけど、あれみたいなイメージです。

実数をひとつ取ってきて、これをaとします。aと同じでも異なってもよいので、実数をもうひとつ取ってきて、これをbとします。aとbとを組にして、これを(a,b)と表記することにします。

組にする順序も意味を持ち、(a,b)と(b,a)とは別物となります。左側に置いてある実数を「第一成分」、右側を「第二成分」と呼ぶことにします。

こいつをまだ「数」だとは主張していないところがミソです。心の中では含意しているのですけども。実数と実数とでペアを組んで、詰め合わせセットを作り、これを一種の「もの」とみなすことにしましょう、と言っているだけなら、苦情は来ないと思います。

「もの」とみなすからには、それを指し示すのに、ひとつの記号を割り当て、たとえば、p のように表すことにします。
  p = (a,b)
という具合にです。

もし(a,b)ではなく(c,d)を取ってきたなら、それを別の記号 q で
  q = (c,d)
のように表記します。

p,q はほんとうは、太い文字で表したいところなのですが、テキストではどうにもならないので、他の文字と同じ太さで表記しておきます。

さて、いま、われわれは新しい世界を構築しました。われわれが作った世界なので、その世界のルールを決める権利はわれわれにあります。どんどん作っていきましょう。

まず、p と q とが等しいとはどういうことか。それは、第一成分どうしが等しく、なおかつ、第二成分どうしが等しいときであって、そのときに限る、ってことに決めましょう。

つまり、p と q が
  p = (a,b)
で、
  q = (c,d)
であるとき、
  p = q
であるとは、
  a = c
であって、なおかつ、
  b = d
であるときであり、そのときに限る、ということです。

ここで注意が要るのは、p=q というふうに、同じ等号記号を使って表記しましたけども、意味が違っていて、いま作った新しい世界における、新しい概念としての「等しい」を表しています。

世界の創造主たるわれわれには、この世界にあらたな「等しい」の概念を導入するにあたって、上記とは、違うふうに定義したりすることも許されるのでしょうか。たとえば、第一要素さえ互いに等しければ、第二要素は異なっていてもよい、というふうに。あるいは、この世界のすべての要素が互いに等しい、というふうに。

どうぞ。それは自由です。まあ、「等しい」と呼ぶからには、推移律は満たすように決めておいてね、というのはありますけど。推 移律とは、p=q で、なおかつ、q=r であるならば、必ず、p=r が成り立つ、という法則です。

上記の例は、どれも、ちゃんと満たしています。なのでルール違反ではないのですが。でも、変な決め方をすると、世界がいきなりつまんなくなります。せっかく二次元の世界を構築したのに、一次元に縮約されちゃったり、点に縮約されちゃったり。なので、最初の定義がいちばん妥当です。

次に、この世界に足し算を導入しましょう。この世界の要素を「数」だとは言っていなくて、ある「もの」だと言っているだけなのですが、この世界の「もの」と「もの」とは足すことができのだ、というルールを導入するのです。

p+q を次のように定義しましょう。
  p + q = (a + c, b + d)

左辺のプラス記号は、この世界に新たに導入した足し算を表しています。同じ記号を使ってますけど、右辺のは、われわれがすでに知っている、実数どうしの足し算です。

引き算、p−q も同様に、
  p − q = (a − c, b − d)
と定義します。

掛け算も行っときましょう。p×q と書いてもいいのですが、慣習として乗算記号を省略して、pq のように書きます。今までの例からすると、
  p q = (a c, b d)
とやりたくなります。このように定義するのも、許されることは許されるのですが。

やっぱり話がいきなりつまんなくなっちゃいます。第一成分と第二成分の関係がまったくなくなってしまい、実数の集合と実数の集合とをそれぞれ左手と右手で持っただけ、みたいなことになっちゃいます。

じゃあ、どうするかというと、こうします。
  p q = (a c − b d, a d + b c)

この変てこりんな数式は、いったいどっから湧いてきたんだ、って疑問はごもっともですが、そこはそれ、われわれはこの新しい世界の王様なので、何をどう決めたっていいわけです。

足し算と掛け算を定義したからには、分配法則はちゃんと満たすようにしとけよ、という注文があり、ちゃんと満たしています。

さて、ここで、この世界の住人のうち、特別な場合として、第二成分がゼロのものを考えます。
  p = (a,0)
  q = (c,0)
という具合にです。

すると、pとqの和も差も積も、やっぱり第二成分がゼロになることが確認できます。
  p + q = (a + c, 0)
  p − q = (a − c, 0)
  p q = (a c, 0)

しかも、第一成分については、元の第一成分どうしの実数としての和と差と積になっています。

つまり、この新しい世界は、その一部に実数を包含していると言えます。

ということは、逆向きに、ふつうの実数の世界のaという住人は、新しい世界に引っ越してきて、(a, 0) という住人になることが許される、ってことです。

実数の世界の −1 という住人は、新しい世界の(−1, 0)という住人になります。

そうすると、くだんの方程式
  x^2 = −1
は、新しい世界の上でも意味をもつことになります。

x を成分で書き下したものを
  x = (u, v)
とすれば、上記の方程式は、
  (u, v)^2 = (−1, 0)
となります。

これを掛け算の定義にしたがって書き下せば、
  (u^2 − v^2, 2 u v) = (−1, 0)
となります。

「等しい」の定義は、第一成分どうし、第二成分どうしが、それぞれ等しいということだったので、上の方程式は、結局、u,v という2つの変数についての連立二次方程式の形になります。
  u^2 ─ v^2 = −1
  u v = 0

途中の過程を省略しますけど、上記の方程式を解くと、解が
  u = 0
  v = ±1
と求まります。

元へ戻せば、くだんの方程式の解は、
  x = (0, ±1)
だった、ってことになります。

どうです? 実数の世界では解がなかったけれど、新しく作ったこっちの世界では、解が見つかりました!

実数の世界は直線と対応づけられましたが、新しく作ったこの世界は平面に対応します。この平面世界の住人を「複素数」と呼びます。この平面自体は「複素平面」と呼びます。

複素平面内で、原点を通る水平な直線が実数に相当します。で、その上には、やっぱり解はありません。今、見つかった解は、原点を通る垂直な直線の上にあって、上と下にそれぞれ1だけ行ったところにあります。

これをそれぞれ i と −i と呼びましょう、ってことにすれば、i を認めざるを得ないのではないでしょうか。

パチパチパチパチ...。

つまり、こういうことです。

候補集合Uとして「すべての実数からなる集合」を取ると、上記方程式には解が存在しない。

候補集合U’として「すべての複素数からなる集合」を取ると、上記方程式には解が存在する。

これらは、どちらも正しいのです。

●複素数は美しい、ゆえに存在する

さて、これですべての疑問が解消されて、すっきりしましたか? そうでもないんじゃないかと思います。

いま、新たに複素数という概念を導入しましたけど、これってなんなの? ほんとうにあるの? 数というのは直線上に乗っかってるものじゃなくて、平面上に広がってるもんだったの? ってなことが、もやもやっと残っているのではないでしょうか。

複素数というのは、われわれ人間が無理やりひねり出したものなのでしょうか。それとも、もともとあったのを発見したものなのでしょうか。先ほどの言葉で言えば、「絶対思想」なのか「主体依存思想」なのかってことです。

私は、もともとあったもの、つまり「絶対思想」でいいんじゃないかと思います。その理由は、美しいから、です。

数学のあらゆる公式の中でも、特に、その美しさが愛でられてるものに、オイラーの公式があります。具体的にはウィキペディアあたりを参照していただけると。

物理学者のリチャード・ファインマンはこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」と絶賛しています。下記の本にも出てきます。

  小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社、2003/8/28)

前述の遠山啓先生の本にも出てきて、当時中学生だった私は、ぞっこんホレ込みました。

複素関数は、実関数と異なり、一回でも微分できると何回でも微分できます。

複素関数は正則領域内で、閉曲線に沿って、ぐるっと一回り線積分すると、値がゼロになります。正則でなかったとしても、ローラン展開したときの係数と関係します。

というふうに、美しい法則がてんこ盛りなのです。

こんなに美しいんだから、これは人が作ったものではなく、神サマが作っておいてくれたもんだと思っておいていいんじゃないかと思います。

●物理世界ではどうか

そうは言っても、「リンゴが複素数個ある」なんて、とてもじゃないけど考えられません。この世にあるものを勘定するのに、複素数なんて要らないんじゃないか、って思われるのは、ごもっともです。

物理だと、屈折率を複素数で表現します。けど、これって、数式が簡潔に書けるという利便性から便宜的に複素数で表現しているだけなのか、それとも、屈折率という概念が本質的に複素数であるべきものなのか、どっちなんでしょう? 私にはよく分かりません。

あと、量子論における重ねあわせの法則の係数が複素数ですね。こっちはより本質的に複素数であるべきもののような気がするのですが、どうなんでしょう?

●万物は数学である

下記の本におもしろいことが書いてあります。

  ロジャー・ペンローズ(著)、中村和幸(翻訳)
  『心は量子で語れるか ─ 21世紀物理の進むべき道をさぐる』
  (ブルーバックス、1999/4/20)

---(ここから引用)-------

私たちの住む、この世界のありさまや動きを観察していて驚くことの一つに、世界が、全く異常なまでの正確さで数学に基づいていると思えることがある。物質的世界を理解すればするほど、また自然法則を深く研究すればするほど、ますます物質的世界が消え去ってしまい、結局、数学しか残らないように感じられるのだ。また物理法則を深く理解すればするほど、ますます私たちは、数学と数学的概念の世界へと追いやられてしまう。

---(ここまで引用)-------

これについて、私からはなにもコメントせず、ぶった切るように本稿を終わりたいと思います。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/


〈ケンタッキー、思い切ったことを〉

ケンタッキーが10月1日(土)に登場させた二種類の新商品「骨なしケンタッキー やみつき醤油だれ」と「和風おろしチキンサンド」は、どちらもタレが美味い、という趣旨の宣伝映像をYouTubeに上げた。


それに出演させてもらっている。謎の仙人役で。B面で出ているので、ぱっと見には、セーラー服おじさんだと分からない。

チキン派族長を演じるのは、レディビアード氏。サンド派族長を演じるのは、えなこさん。国立科学研究機関T.A.R.E.所長・垂野好雄を演じるのは北岡龍貴氏。みんなお会いしたことがある。レディビアちゃんもB面出演だ。

大手飲食店が、その宣伝映像への出演者として、レディビアちゃんや私を起用したって時点で、そうとう勇気あると思う。しかも、映像内容はハチャメチャである。思い切ったことをするね、ケンタッキー。

ウェブ上の各種メディアも取り上げた。

・「シュールすぎる」? AOL
http://news.aol.jp/2016/10/03/kfc/


・「意味不明すぎる! マジで心配になるレベル」? RocketNews24
http://rocketnews24.com/2016/10/04/808461/


バズってる、バズってる。10月2日(日)に公開された映像が、7日(金)時点で、7万回を超える視聴回数を獲得している。宣伝としては成功と言えそうである。

ただ、どうしてもツッコまずにはおれない点がひとつある。せっかくここまでやったにも関わらず、映像内や説明文中で出演者の名前を出さなかったり、プレスリリースで女装写真を封じ込めたりするあたり、ケンタッキーってやっぱり... チキン?

〈ロシア人によるメイドカフェが近日オープン!〉

「美しすぎるロシア人コスプレイヤー」と評判のコスプレイヤーたちに会えるメイドカフェが、10月17日(月)、早稲田にオープンする。店名は「ItaCafe」。

ロシアのメイドさんのカフェなのに、ItaCafe とはこれいかに? って、イタリアのカフェではない、イタいカフェ。痛車の「痛」である。

店長となる「ナスチャん」は、アニメ『ガールズ&パンツァー』のプラウダ高校の生徒カチューシャのコスで、よくイベントに現れる。ロシア人キャラになっているロシア人。

今年の夏のコミケでは、ゲーム『幻獣契約クリプトラクト』の企業ブースで、リーゼロッテ(リズ)のコスをしていた。そのブースには私も出ていたので、その一時間は、隣り合って立っていたわけだ。

8月12日(金)の写真:
https://goo.gl/photos/K9T9Gq44NLZQ6A4G9


8月13日(土)の写真:
https://goo.gl/photos/GUbJRuaCcrxWSbS66


ItaCafe は、メイド全員がオタクなロシア美人で、メイド自身が手作りする本物のロシア・カフェメニューを提供するのが特長。美肌を作る魔法の野菜といわれているビーツをたっぷり使ったボルシチやサラダをはじめ、ヘルシーな焼きピロシキ(本来のピロシキは焼きピロシキだが、日本では揚げピロシキが多い)などを提供する。

開店資金とは別に、手作りカフェメニューの開発に資金が必要とのことで、クラウドファンディングで支援者を募集した。調理練習の食材や試食会の食材の購入に充てたいとのことで、20万円を目標額に設定して、8月17日(水)から9月27日(火)まで募集をかけた。

これにはナスチャんの切実な願いが込められている。いま通っている日本語の学校が来年に終了するのだが、もっと長く日本にいたい。なので、カフェの仕事をしたい。だけど、おいしく作れるか、まだ自信がない。練習するから助けてください、というわけだ。

RocketNews24 は、8月18日(木)の記事で、「モスクワから来た天使を救うのは、あなたかもしれない」と呼びかけている。
http://rocketnews24.com/2016/08/18/788987/


その甲斐あって、最終的に、105人の支援者から、総額3,203,000円の資金が集まっている。なんと、目標額の16倍である。まあ、この中には百万円ポンと出したネ申が二人いるんだけど。
https://camp-fire.jp/projects/view/8719


目標を大幅に上回った場合の使い道としてあらかじめ宣言していたとおり、サンクトペテルブルクからティーセットを調達している。職人による手塗りの品だそうで、めっぽう美しい。

ItaCafeは、東京メトロ東西線の早稲田駅の両端にある出入り口の中間くらいの位置、早稲田通り沿いの北側に店を構える。

今年の6月10日(金)配信号のこの欄で、『ソクラテスになるか豚になるか』と題して、私がよく行く飲食店を紹介した。そのとき、早稲田通り沿いの明治通りとの交差点付近のがやけに多かったのは、単純に、私がよく通るからだ。

夏目坂から早稲田通りに出て西へ曲がるのだが、出たところから東へほんの100mほど行ったところにItaCafeができる。

10月4日(火)の夜、場所を確認しに行ってみると、内装作業中で、店内はまだ雑然としていた。人がいたので、「ひょっとして、ここがロシアの...」と言いかけたところで、その人が「あっ!」と声をあげた。B面だった私の正体が見破られた。

店内に入れていただく。写真で見ていたティーセット、ほんとに美しい。奥は撮影スペースにするとのことで、壁にコスチュームが掛かっている。10月17日(月)の開店までにはちゃんときれいに内装を仕上げときます、とのことで、非常に楽しみだ。

公式サイトほか:
http://www.itacafe.com

https://www.facebook.com/itacafe25d

https://twitter.com/itacafe25d