[4217] わたしの〈挑戦の歴史〉のカケラたち

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《「hello again」は意味深長ですね》

■装飾山イバラ道[187]
 わたしの〈挑戦の歴史〉のカケラたち
 武田瑛夢

■crossroads[32]
 モノとアイコンの歴史
 若林健一




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■装飾山イバラ道[187]
わたしの〈挑戦の歴史〉のカケラたち

武田瑛夢
https://bn.dgcr.com/archives/20161025140200.html

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今年は既に家の大掃除を始めている。10月にやってしまうと、後の二か月でまた汚れる気もするけれど、いまは暑くも寒くもない。夏にやった方が油汚れは落ちやすいという人もいる。人それぞれだ。

●ポイント・一気にやる

まずはキッチンの食材庫の中を一掃する。賞味期限の切れた缶詰や瓶詰もあった。もっと早く見ておけばよかった。とにかくすぐにでも捨てたいけれど、捨てる前に開けて、中身を捨てなければいけないので結構めんどくさい。

ダメ缶詰が出て来た食材庫の棚には、もう食材は置かないことに決めた。棚のスペースの分だけ無駄にしてしまう物が生じるような気がするのだ。

本当にダメなのは缶詰ではなくて私なのだけれど、そういう自責も考えすぎると掃除が進まないので、一旦あまり考えないようにする。

缶詰類の場所は滅多に使わない鍋置き場にしようと思ったけれど、「滅多に使わない」のだから捨てるべきかもしれない。

夫の実家からもらってきた食器類もあるし、棚から棚への移動だけでなく、家から家の移動を生き延びた食器類は、この後もしぶとく残っていきそうだ。

とにかく全部出して、棚を雑巾で拭きあげるととてもスッキリした気分になる。何もない状態の何と素晴らしいことか。奥にしまう物たちに、また顔を合わせるのはいつになるのかと思ったりする。

キッチンにスッキリとした理想の一角を作ってみると、そこを見本に美しさが広がっていく気がする。実際はそう甘くはなく、まだ捨てるには惜しい調理器具がいっぱいだ。徐々に全体量を減らしていくしかないだろう。

●ポイント・物から入る

物が増える原因の一つに「挑戦の歴史」がある。私の場合は料理への挑戦だ。

料理って作ったことのないことへの挑戦から始まって、そこそこ美味しく作れるようになるまでは、定番メニューにはならない。

自分が作れる限界の味まで行った時に「外で食べるのは好きだけれど、家で食べる料理じゃない」ことがわかったりもする。

その中では麻婆豆腐は、家で作ってもそれなりに美味しく出来るので定番メニューになった。中華にハマルと山椒に凝りだす人が多い。

同じ道を私も通ったけれど、結局は手に入れやすい材料ですぐにそこそこの味が出せればいいかなと思う。今回の掃除でいろんな種類の本格的な花山椒が出てきたので反省したのだ。

そして、ありとあらゆるスライサー。野菜を簡単にカットできるアレである。

今年の春に私の指を切ったアレでもある。厚みが調整できるタイプや、さいの目切りが一気にできてミネストローネがあっという間という物など。人参のシリシリができるおろし金や、野菜で麺を作る「ベジヌードル」が流行ったのでそれもある。

皆それなりに楽しかったけれど、年に数回使うかなというものだ。もうそろそろ懲りた方がいいだろう。物は私にとって挑戦のカケラなのかもしれない。

もっと凝る人だとそば打ち台や製麺機、燻製機器、ピザ窯なんていう、場所どころか環境まで考えないと済ないところまで行くと思う。

挑戦の最中の人にはエネルギーが溢れているのかもしれないし、楽しめるうちが華という気もする。そういう人はどう片付けるかを考えるのは、もっとずっと後でもいいと思う。

●ポイント・物の終わりかた

物への執着を断つことが精神の修行になるなら、掃除は良いことだ。管理する物が少量でまとまっていて、全体を見渡せると自分の中での掃除の大半は終わるような気がする。

洋服や小物も、持ち主を替え遊牧民のように移動しながら存在するものがある。娘の服を母が着て、母のバッグを娘がもらう。物の量は一向に減らない。人からもらった物には物以上の恩や気持ちが入っているので、断ち切るのはさらに難しいのだ。

買取のお店ではよほど価値のあるブランド服か、新品でないと洋服に値段はつきにくいみたいだ。布としてグラム単位で引き取ってくれるところもあるらしい。自分の物は自分のところで物としての終わりを決断するのも、一つの責任の取り方だと思う。

判断を先延ばしにせずに、終わりを見極めて捨てる。捨てた以上は後悔しない。これができればどんなに楽かと思うけれど、やはり決断というのは重いものである。大抵は「とりあえず保管」して心が完全に決別できる時を待つ。

物は居場所を移動する時に、持ち主に存在を気づかれて記憶の上層に上がってくる。棚に置かれて寝かされて沈み込み、また判断を迫られた時に「いつもの保留物件だし、この際捨てよう!」という答えが出される。

片付け専門家のこんまりさんの言う、トキメキがなくなった瞬間かもしれない。「今までありがとうございました。さようなら。」

捨てる作業をすると、手に入れる時によく考えるようになるというのも、掃除の効能かもしれない。心が変わる利点は、年を追うごとに感じる。

後先考えずに大きな物を買えた頃が懐かしい。一部屋カラにできるほど捨てられたら楽しいかもしれない。

本当は掃除中は考え事をしない方が捗るのだろうけれど、物にひっついている執着をひっぺがすには、一回はそれについて思い出してあげないと無理だと思うのだ。

それがハイヒールやブランドバッグならかっこいいけれど、さほど思い入れなんかないはずの、鍋やザルを見つめながら思うのである。


【武田瑛夢/たけだえいむ】eimu@eimu.com
装飾アートの総本山WEBサイト "デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/


ポケモンGOは夫の方がレベルが上がってしまい、私は遅れを取っている。最近は、変わったポケモンを近所のジムに置いてスクリーンショットで記念撮影をしている。ジムに置くには一瞬だけしかチャンスがないので、なかなか難しい。ルージュラは見た目も変だけれど、ゆっくり左右にクネクネ踊るのが不気味でお気に入り。

・ルージュラ
http://eimu.com/dgcol/poke001


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■crossroads[32]
モノとアイコンの歴史

若林健一
https://bn.dgcr.com/archives/20161025140100.html

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こんにちは、若林です。今年の10月23日がiPodが発売15周年だったそうです。

初代iPodは私も持っていますが、発表された時は「どうしてAppleがミュージックプレーヤー?」と思いましたが、その後Appleのビジネスの柱のひとつになったことは、誰もが知っての通りですね。

そのiPodですが、初代から続いていた「ホイール操作」のモデルは、最後の「iPod classic」が2014年9月10日で販売終了になっており、「ホイール操作」モデルは13年を待たずに終了。

「iPod touch」「iPod nano」「iPod shuffle」が現行モデルとして販売されていますが、「iPod touch」と「iPod nano」の最後のメジャーチェンジが2012年、「iPod shuffle」が2010年と、最近はアップデートがありません。

Appleのサイトのメニューにも「iPod」の項目はなく、かつての面影はなくなってしまいました。

Apple公認のiPod用アクセサリにつけられる「Made for iPod」のアイコンは、ホイールタイプのiPodがモチーフになっていますが、現行モデルでこの形のものはもうないのです。

iPhone、iPad、および iPod のアクセサリについて
https://support.apple.com/ja-jp/HT201619


●フロッピーディスクの歴史

現役を退いてからも長く使われているアイコンといえば、「保存」のボタンで使われている「フロッピーディスク」。

さすがに、最近の若い人でフロッピーディスクを日常的につかっている人はまれでしょうから、単に「保存」のアイコンとして認識されているだけなのでしょうね。

歴史を紐解いてみると、8インチフロッピーディスクが開発されたのが1970年、3.5インチが1980年だそうです。

フロッピーディスク廃止の流れを作ったiMacの発売が1998年で、それ以降もWindowsのデスクトップPCを中心に、フロッピードライブは搭載されていたので、8インチから数えると30年以上、アイコンのモチーフになった3.5インチからでも20年以上の歴史があることになります。

それを思えば「ホイールiPod」の歴史のなんと短いことでしょう。

最近は、受話器にダイヤルのいわゆる「黒電話」のアイコンでさえも、意味が分からない世代もいるそうですし、この「ホイールiPod」がアイコンとしての意味を失う日もそう遠くはなさそう。

新しいモデルが出るたびに嬉々として買っていたiPodファンとしては、なんとも寂しい限りです。

●新しい歴史の始まり

そんな歴史の通過点があった直後の10月27日(日本時間では28日の早朝)、Appleが新しい製品の発表イベントを行います、イベントのタイトルは「hello again」。

古くからのMacファンならわかると思いますが、初代Macintosh発表時に画面に表示されていた言葉が「hello」。初代iMac発表時には「hello (again)」でしたから、今回のイベントのタイトル「hello again」は意味深長ですね。

初代と呼ぶに相応しいものを発表するという暗示でしょうから、嫌が応でも期待は高まります。

アイコンになるというのは、それが原型であることの証拠。

Mac、iPod、iPhoneと時代のアイコンを作ってきたAppleですから、新しい原型と呼ばれるものが発表されることに期待しましょう。


【若林健一 / kwaka1208】
http://kwaka1208.net/aboutme/


CoderDojo奈良・生駒の開催予定
http://coderdojo-nara-ikoma.github.io/

奈良:調整中
生駒:11月5日(土)午後


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編集後記(10/25)


●「アナコンダ VS. 殺人クロコダイル」を見た。しょぼかたったなーと思っていたら、2015年のアメリカのテレビドラマだった。殺人クロコダイル、ではない。正しくは人食いクロコダイルである。だが、そんな細かいこと気にするな、というべきFランク映画だ。モンスターをつくるには、遺伝子操作云々という説明が一番便利である。お約束通りよくわからない処置が失敗し、クロコダイルが暴れだし、トレーラー内の実験室はメチャクチャに破壊され、アナコンダも逃げだす。一方クリスタル湖では、社交クラブのバカ娘どもが水着になって遊んでいる。彼女らが大蛇と大鰐のエサになることはもう確定である。

登場する人物たちは、傲慢なお嬢様・ティファニーが仕切る社交クラブの水着娘の一団、彼女らを救出に向かう女保安官と動物保護官タリー(社交クラブグループに一人娘がいることがわかり、とにかく娘救出だけが目的の男)、アナコンダ捕獲だけが目的の製薬会社の女社長と配下の男達。この三組の動向が同時進行する。湖から出現したクロコダイルに追われるバカ娘たち、自分が助かるためには仲間を囮にする悪魔のようなティファニー、早くお前が食われてしまえと誰しも思う。アナコンダまで出現、自動車に巻き付き締め上げてグシャグシャにする。あまり意味ある行動とは思えないが、見せ場ではある。

たぶん、遺伝子操作云々で超巨大化したアナコンダとクロコダイルが見られるのであろうという期待は、彼ら(っていうか?)が出現し、人間と対比されたときに、あっさり消失する。何コレ? というガッカリサイズなのだ。確かにデカいことはデカいが、これじゃあんまりだという迫力のなさである。クライマックスは両巨頭対決だが、目をみはるほどの激闘シーンにはなっていない。周囲の樹木をなぎ倒し、組んずほぐれつ、してくれない。この映画の主役はお前らだろう。もっと派手に暴れ回ってくれ。どうせCGなんだから、どうせバカ映画なんだから、もっと巨大化し、スピードアップし、笑わせてくれ。

人間達が森の中を進む。見通しは悪くない。でも、振り返るとそこにアナコンダが、クロコダイルが、というよくある手法がまたここにも。やつらがもっと無慈悲に人間を食らってくれないと困るなあ。一番スカッとしたのが、しぶとく生き残った傲慢ティファニーが、クロコダイルとタイマンを張って、あっさり頭から食われてしまうところか。でも彼女の性悪ぶりはみごとで、主演級である。部下を見殺しにして平然の女社長も食われればよかったのに。そこそこ楽しめたが、やっぱりサイズが問題。♪大きいことはいいことだ〜ってCMソング、知ってる人はたぶん高齢者だから、普通こんなバカ映画見ない。 (柴田)

「アナコンダ VS. 殺人クロコダイル」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B011TW9M10/dgcrcom-22/



●初代、私も持ってましたっ。/ホラーって水戸黄門のようなもの? お約束の流れがあるのかなぁと。/「もっと早く見ておけばよかった」からの流れに、ぶんぶんと頷く。不要な道具にも頷く。キッチン片付けないとなぁ。

急に掃除がしたくなる時がある。ややこしい仕事が重なった時だ。試験前と同じ。この仕事が終わってから片付けよう、そう思っているはずなのに、資料やらの山にいらついてくる。

少しでも快適に、かつ把握できるようにと、ややこしいことや情報類を減らしたくなるのだ。わからないことを減らしたくなるのだ。ピークに来ると、夜中でも片付け始める。最近では過去の仕事の資料を一気に捨てた。

机の横の棚を前後で使っていて、後ろは過去の資料やファイル、前はテンポラリースペースとして活用していたのに、過去の資料が溜まってきて前に進出していた。どころか、その上にも横置きしてしまっていた。横置きをしはじめると腐るとわかっているのだが先送り。

そして追いやられた進行中の資料を、160x80cmの机の端に二列で横置きし、生活雑貨も置き、袖机(キャスターつきチェスト)を引っ張り出してそこを本来の机の用途として使っていた。引っ張り出したものだから、袖机へのアクセスが悪くなった。

ちょっとした文具品を出すために、身体を大きくひねらなければならない。めんどうになってくるから、狭くなっている机の上に、一日一回使うかどうかわからない文具品やら何やらを置いてしまう。

進行中の仕事について問い合わせの電話が入る。メモを取るために袖机へ身体をひねる。資料は横置きなので、片手でひっぱり出そうとして雪崩れが起きる。電話中なのに頭の隅では雪崩れが気になってしまう。

電話を切ってから、また山に戻す。仕事が終わったら片付けよう、効率が悪すぎる、古い仕事の資料なんていらない、優先順位は仕事、そして食事(家事)だからその後にでも。そんなこと言っていたら、いつまでも片付けなんてできないのに。

で、いきなり限界が来て夜中に目が覚め、片付けはじめる。何年も前のレギュラー仕事の手順なんかいらないっての。PDFでももらっている出力なんかもある。念のためにと置いている資料は多いが、見返すことなんてほとんどない。

夜中なのでシュレッダーにかけられないから、紙袋に入れていく。電動式の大きなシュレッダーを買っておいて良かった。空き地で燃やせたら楽なのになぁ。

別の棚からあふれてしまった本も置いていた。今度はその別の棚を見る。5年も前の「最新」技術本がある。バージョンの古いCMSの本もある。新しいものと入れ替え。古い本は捨てるしかない。

袖机が机の下に収まり、棚の前がテンポラリースペースに戻り、縦置きできるうようになった。机の端の一部はまだ片付いていないけれど、広くなった。気が済む。疲れたので眠くなってくる。朝になっている。他のところも片付けたいなぁと思いつつ仮眠のためベッドに戻る。ふと、仕事の良い方法が頭に浮かぶ。自分の頭の容量はこのぐらいなんだろうなぁ。 (hammer.mule)