まにまにころころ[105]ざっくり日本の歴史(後編その23)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。『真田丸』、ついに真田丸が築かれました。いよいよ決戦の時がやってきます。布陣についての軍議では、馴染みのある大阪の地名が次々出てきて、それだけで胸アツでした。

さて、そんな『真田丸』の裏番組なので視聴できていないのですが、日テレの『ザ!鉄腕!DASH!!』では、TOKIOが反射炉を作ろうとしているそうですね。無人島の開拓に使用してきた鉄製の農具などがボロボロで、鋳造し直そうと。

「世界遺産を作ろう!」という話になっているようですが、静岡県伊豆にある日本で唯一現存する実用反射炉である韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)が、昨年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として登録されています。

この世界遺産には山口県萩にある萩反射炉(はぎはんしゃろ)も登録されていますが、こちらは試験炉であったようです。どちらも幕末に建造されました。

今回は幕府方の話を書くつもりでしたが、人気番組に乗っかって、反射炉の話にしようと思います。佐賀藩の鍋島直正をご紹介。




◎──反射炉

そもそも反射炉ってなんなのかって話ですが、要は大量に金属を溶かすための設備です。ざっくり言うと、燃焼室で発生した熱を天井や壁で反射させて、隣の炉床(溶かす部屋)に熱を送り、そこで金属を溶かして精錬する仕組みです。

反射炉が必要だってことになったのは、これまでにも書いた幕末のあれこれで、海防のため強い大砲を作らなきゃマズいってことで。

大型の洋式砲を作るには、それまでの質の悪い鉄では砲身が衝撃に耐えられないため、弱い青銅製の大砲しか作れなかったんです、反射炉がないと。

で、さあ反射炉を作ろうってなったら、そのためには耐熱レンガを作らなきゃということに。そこはTOKIOも同じ流れになっています。耐熱レンガの話はまた後ほど。

◎──鍋島直正(なべしま・なおまさ 1815年1月16日-1871年3月8日)

さて、反射炉の話で外せないのがこの方、第10代佐賀藩主である鍋島直正です。先代は贅沢三昧するわ、幕府に命じられた長崎警護で金使わされるわ、挙げ句、佐賀藩だけで一万人の犠牲者が出る超大型台風にやられるわで、ぼろっぼろに傾いた藩財政を一代で建て直した超人です。

就任当初は先代の威光もまだまだ強く、なかなか改革に踏み切れなかった直正ですが、佐賀城の大火をきっかけに、いい加減このままではヤバイと発奮して、続々と改革に着手。

リストラを断行して人件費の削減、借金の整理、産業育成、交易の推進などで財政を建て直すと共に、藩校である弘道館を刷新し人材育成を強化し、有能な人材を出自問わず登用するなど、八面六臂の大活躍。

さらには、ドイツ人医師を通じてオランダ領のバタビアから天然痘ワクチン(牛痘)を輸入、広く蘭学医に分け与えて日本の天然痘撲滅に繋げた偉人です。

天然痘のエピソードからも分かるように西洋知識の習得に熱心で、ペリー来航に際しては(戦艦で脅してくるペリーが気に入らないので)攘夷派でしたが、(仲良くしようぜ、って歩み寄ってきた)イギリスに対しては開国派の立場を採りました。

先ほどのワクチン輸入はペリー来航以前の話ですので、そもそも外国との付き合いを重視していて、開国前に密貿易していたわけですから。

佐賀という土地柄、まあ海外事情はいくらでも入ってくる上に、長崎の警備をやらされている関係上、外国の脅威は身をもって感じていた直正は、1847年に幕府へ海防強化を訴えます。が、あえなく却下。

そこで、独自に自分の周りだけでも海防強化を図ることにします。砲台を増設し、そこに西洋式の大型大砲を置こうと。その大砲を作るために、反射炉の開発に着手しました。成功すれば、後からでも技術は移転できますしね。

1850年、藩内に反射炉開発のためのプロジェクトチームを結成して研究開発にあたらせ、同時に伊豆韮山で実験反射炉の試作を行っていた江川英龍にも協力要請。

大砲の試作を繰り返すこと約二年、十四回目の鋳造でようやく軌道に乗り、全四基の反射炉を建造、稼働させて大砲の製造にあたりました。この反射炉が、日本初の実用反射炉である築地反射炉(ついじはんしゃろ)です。

反射炉の建造には、耐熱レンガが不可欠でしたが、当時の日本には耐熱レンガがまだなく、レンガの開発から始めなければいけませんでした。その開発に、さすが佐賀藩、有田焼の技術が活かされたそうです。なんにせよ佐賀藩の努力の結晶として、鉄製の大砲が製造可能な反射炉は完成しました。

1847年
直正「海防をなんとかせな、あかんって。今の幕府の技術力じゃ足らんって」
幕府「海防ねえ、大事なのは分かるんだけどねえ、ちょっとねえ」
直正「ちょっとってなんやねん、もうええわ、うちで勝手にやるわ」

1850年
直正「やっぱ大型の鉄製洋式大砲いるわ、反射炉作るで!」

1851年
直正「やっと大砲はできたけど、あかん、鉄の純度がイマイチで壊れよる」

1852年
直正「やったで! 成功や! これで量産できるで!」

1853年
ペリー「開国シテクダサイヨー」
幕府「エート、スグニハムリ、アラタメテ来年キテクダサイ……」
ペリー「……来年な! 年明けたらすぐ来るからな! 半年後を楽しみにな!」

幕府「ちょっっっ、どうしよう、海防だ! 海防大事だ! 鍋島さーーーん!」
直正「ん?大 砲やったらできたで。作ったろか?」
幕府「すいません、品川台場に置くんで五十門ほどお願いします……」
直正「よっしゃ、追加で反射炉建てて、なんとかしたろ」

ということで「多布施公儀石火矢鋳立所」(たふせこうぎいしびやいたてしょ)、通称「多布施反射炉」が佐賀藩内に新たに建てられ、大砲が作られました。

まあ大砲でどうこうできる話では既になかったわけですが、佐賀藩の技術は、幕府ほか各藩に伝えられ、各地に反射炉が築かれました。なお戊辰戦争で使用されたアームストロング砲は、国産のものか輸入物か、定かでないそうです。

国産かどうかはさておき、西洋砲術に長けた佐賀藩は戊辰戦争でも大活躍で。

元々は幕府とも仲がよかった、というか、井伊直弼とは親交があったものの、直正は佐幕派でも倒幕派でもなく公武合体派でもなく、どの派閥にも属さずにいたのですが、戊辰戦争で薩長が勢いづくと佐賀藩も新政府軍に加わることになって、結果的にいわゆる「薩長土肥」の「肥(肥前藩=佐賀藩)」として、維新の立役者となりました。

直正は「倒幕」ではなく「改革」に尽力したかったようで、幕府が倒れると、積極的に新政府の取り組みを推し進めました。

廃藩置県には真っ先に賛同し、蝦夷開拓ではお金のない新政府に代わって費用負担してまで開拓に着手、佐賀の人員を蝦夷に移住させて開拓事業を行い、国力強化に努めました。欧米列強に肩を並べるためには、人も食料も資源も足りないと感じていたようです。

残念ながら直正は1871年(明治4年)に病に倒れこの世を去りますが、没後すぐ正二位を贈られ、1900年には従一位を追贈されました。

その間の1873年には、鍋島家代々を祀る松原神社に直正のための南殿が新造され、1933年には新たに佐嘉神社が隣に創建されて主祭神として遷座されるなど、直正の遺徳は大いに偲ばれています。

佐嘉神社では新年に、品川砲台に備えられたもののひとつを復元した大砲(カノン砲)で祝砲が放たれるそうです。

◎──今回はここまで

TOKIOが好きで『ザ!鉄腕!DASH!!』を観られている方も多いと思いますが、歴史も面白いものだと思っていただければ幸いです。『真田丸』はBSでは少し早い時間に放送されていて被りませんので、そちらも是非。(笑)


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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