[4248] ならず者の世界

投稿:  著者:  読了時間:26分(本文:約12,800文字)


《「機械で変換すれば簡単」ではない》

■私症説[86]
 ならず者の世界
 永吉克之

■晴耕雨読[28]
 画像の翻訳の話
 福間晴耕

■はぐれDEATH[18]
 はぐれの教育したりされたり
 藤原ヨウコウ




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■私症説[86]
ならず者の世界

永吉克之
http://bn.dgcr.com/archives/20161209140300.html
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今でこそ、電車内における携帯電話での通話は《マナー違反》として、世間一般に認知されているが、まだ20世紀、携帯電話が世間に浸透し始めた頃は、そんなマナー意識はなく、電車内でもあちこちで通話している乗客がいたのを覚えている。

かくいう私も、何の抵抗もなく車内で携帯を使っていたクチであるが、そのうちに、それは公衆マナーに反すると主張する人たちが現れて、え、ほんまに? そんなに気になるもんなん? ぼくは何とも思わへんけどなぁ、と意外に感じた記憶がある。

そばに相手もいないのに、なにやら独りでしゃべって独りで笑っている光景は、当時としては奇異な印象を与えただろう。とはいえ、同窓会帰りのオバさんたちや、忘年会帰りの酒臭いオっさんたちの傍若無人なダベりに比べれば、携帯電話での会話なんて奥床しいもんやないか、と思ったものだ。

しかし世間の認識が変われば、そのなかで呼吸をしている個人の認識も変わる。私も自然と、車内で通話をしている人間を見て、底知れぬ憎悪を感じることができるまでになったのだった。

なぜ、かつては何ら痛痒を感じなかった他人の行動に、不快感を抱くようになったのか。世間という清濁混じり合った大河のなかで流されるままになっていることで安心を得ていた私には、およそ考え及ばぬことだった。

不快に感じるようになったのは、車内での通話はマナー違反ですよ、という認識が広がってからのことだろう。

のべつ幕なしにしゃべり続けるとか、大声で話すとかいうのでない限り、他人の会話そのものは不快ではないはずだ。車内での通話はマナー違反、という常識が浸透しているにもかかわらず、悪びれもせずに通話をしている《ならず者》から聞こえてくる会話だから不快になるのである。

                 *

もうひとつ、私がマナー違反だと長い間気づかなかった他人の行動に、電車内や食事の席での女性の化粧がある。これにも眉を顰める人たちがけっこういて、Yahoo!でググってみると、不躾な行為であるという意見が多い。

ところが私は、女性がどこで化粧をしようが気にならない。何が他人の眉を顰めさせているのかわからない。同性から見ると、見苦しいものを見せつけられているから、というのが気に食わない主な理由らしい。

私は仕事の性格上、食事に当てる時間がなくて、コンビニで買った握り飯やサンドイッチを移動中の電車のなかで食べなければならないことがある。時計を気にしながら、握り飯の包装をばりばり破って貪り食い、ペットボトルのお茶を喉をぐびぐび鳴らして飲むわけだが、果たして、化粧をするのとどちらが見苦しいだろうか。

Googleでヤフってみたら、車内での飲食については寛容な意見が多数を占めている。食欲に男女の壁はない。くさやの干物やシュールストレミングを食べるわけではないのだから。お腹が空いたのなら仕方がないわね、おむすびじゃ怒れないわね、いいわ、ゆるしてあ・げ・る。ということだろう。

化粧も、家を出る前にする時間がなかったから、やむなく車内という衆人環視のなかでしているのだろう。私が車内で握り飯を食べるのと同じ論理だ。私は男だから女心の機微団子はよくわからないが、女性にとって化粧とは、腹を満たすのと同じか、それ以上に大切なものなのかもしれない。

……いやいやダメだ。電車内での化粧は厳禁にすべきだ。車内での化粧は《見苦しい》という意見が多数を占めているっぽいからだ。多数っぽい意見には従わなければならない。でないと各人が身勝手な判断で、すでに周知されたっぽい公衆マナーを骨抜きにしかねないっぽいからだ。

だから今はぜんぜん気にならないが、これからは、車内で化粧をしているならず者を見たら不快になるように努めようと思う。

                 *

職場や公共の場での、気に障る他人の行為をGoogleでググってみると、わんさと出てくる。

タバコのポイ捨てや唾吐きといった悪名高いものを始めとして、電車の乗り降りの時に入り口付近に立って動かない、道端に坐り込む、口を塞がずに咳やくしゃみをする、食事の時にくちゃくちゃと噛む音を立てる、車内が空いているのに優先席に座っている、知り合いなのに挨拶をしない、歩きスマホ、パソコンのキーボードでENTERキーをいちいちカーンと打ち鳴らす……などなど。

上に挙げたなかで、私は歩きスマホについては不快を感じない。しかし、“歩きながらの携帯電話の操作は危険ですのでおやめください”と、駅構内で、しょっちゅうアナウンスしているところを見ると、歩きスマホもマナー違反なのだろうから、今後は私も、歩きスマホをしている輩を見たら不快感を抱くことができるように粉骨砕身する所存である。

                 *

さまざまな行為のマナー違反化の流れのなかで私が危惧するのは、男性のヒゲまでが、その対象になるのではないかということである。

私は現在、ヒゲ禁止という狭量な職場にいるので我慢しているが、二十代半ばから五十代始めにかけての約三十年間、鼻の下にヒゲを蓄えていたのだ。だから隠居したら、大好きなヒゲをこれ見よがしにボーボーに伸ばすつもりでいる。ただ現状から推測すると、死ぬ直前まで働き続けなければ生活ができそうにないので、隠居もできそうにない。

男性のヒゲが嫌いな女性のまあ多いこと。検索してみると、ヒゲに対する印象はすこぶる悪い。三大紙のうち私が購読している一紙に、ヒゲが嫌いでたまらない、という女性の悩み相談が載っていたが、それほど嫌われているのだ。そのいちばんの理由が、不潔な感じがするから、らしい。

たしかに銀行やデパートなど、従業員の身だしなみに気を遣う職種でヒゲを禁止している企業は多い。それ以外にも、テレビのアナウンサーや、警備員、駅員などがヒゲを蓄えているのを見た記憶がない。

不潔な感じというのは、イヤフォンから漏れる音などと違って、生理的な嫌悪感を催させる。同じく生理的に不快な、くちゃくちゃと音を立てて食べることがテーブルマナーに反しているのなら、汚らしいヒゲをぶら下げてテーブルに着くのもマナー違反になる可能性がある。

毎日シャンプー&リンスを欠かさず手入れをしているヒゲでも、不潔と感じられたら、それはもうアウトである。セクハラするつもりがなくても、女性がセクハラだと感じたらそれがセクハラになるのと同じ理屈だ。

もしヒゲがマナー違反になったら、電車に乗れず、飲食店にも入ることができない。公共の場にいることまでマナー違反になったら、ヒゲはもう自宅で密かに栽培するしかないではないか。

いいでしょう。ヒゲもマナー違反にしてもらって結構。ただ、女性の前では、という条件つきで。女性のいない場所ではボーボーに生やしていいということなら、それで手を打ちましょう。

                 *

ヒゲへの抵抗感には性染色体が関係している。男性がXY型、女性がXX型。つまり女性にはY染色体がないため、男性のY素(Yは、ヒゲを意味するインドネシア語"Jenggot"の頭文字)が理解できないのである。

したがって、女性がY染色体をインストールすればいいのだ。そしてXをひと削除すれば、XY型になる。すると、男性がヒゲを好む気持ちがわかるようになるばかりでなく、自分にもヒゲが生えてくるし、ノドボトケまで出てくる。そうなれば男女の相互理解が進むことになるではないか。

インストールは簡単だ。岐阜波布という地下組織があって、そこに依頼すると、まず携帯電話にY染色体が密かにインストールされる。するとそれが、Wi-Fi接続によって、細胞に埋め込まれる。XY型の女性誕生。男と女をつなぐ架け橋の人柱として生き埋めになってもらいたい。

                 *

ある統計によると、女性の七割は男のハゲが嫌いだそうだ。ヒゲがないスッキリした顔の方がいいなんて言っておいて、頭がスッキリしていると今度は嫌いになる。

それでいて、もし恋人に胸毛があったら脱毛してもらうと言う。伸び放題の鼻毛もダメらしい。まったく女とはむちゃくちゃなクリーチャーだ。やはり、XY型以外の女性と理解し合うのは不可能である。

ヒゲ事情・パリと日本
http://toyokeizai.net/articles/-/147731?page=2


【ながよしかつゆき/文逆者】thereisaship@yahoo.co.jp

平成二十八年最後の月ですね。『私症説』もちょうど86回。二十八と86、どちらも7では割り切れないという、特殊な性質をもった数字です。そこで、この希有のタイミングを利用して、しばらく休載させてもらうことに決めました。

というのは、月一の掲載というペースにすらついていけなくなってしまったからです。今回のコラムも構想から完成までに5年という歳月を費やしてしまいました。無名ライターの分際で、そんな黒澤映画のようなペースで書くなんて許されることではありません。

とはいえ、しばしのお休みですから、またお目にかかることもあるでしょう。いやもうすでに『私症説』の次のシリーズ『爆笑コメディ! オラもうダメだぁ〜!』の構想を練っているところだという話はまだ聞いていません。

このテキストは、ブログにもほぼ同時掲載しています。
・ブログ『無名藝人』
http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz
・小説非小説サイト『徒労捜査官』
http://ironoxide.hatenablog.com/
・『怒りのブドウ球菌』電子版 前後編 Kindleストアにて販売中!
http://amzn.to/ZoEP8e


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■晴耕雨読[28]
画像の翻訳の話

福間晴耕
http://bn.dgcr.com/archives/20161209140200.html
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映像制作の仕事をしているとよくあるのだが、ある画像を別の媒体に置き換える作業というのが発生する。広義にとらえれば、ラフやコンテから完成画像を作る作業も入るので、それこそ全ての作業が当てはまると言っても良いだろう。

ところで、最近は映像制作ツールの進歩によって、コンテ段階でも完成品レベルのものだったりする。またよくあるコンバート作業、たとえばあるゲームをPS4からXBox Oneに移植したりするときは、一見するとほぼ同じクオリティの表現能力なので、画像を置き換えるときもほぼ同じクオリティで移す作業になってくる。

ところが、実はこれが難問なのだ。一見すると同じ表現能力を持つ媒体同士でも、絵を出す仕掛けは全く異なっていたりするので、単に素材を移し替えただけでは全く違う仕上がりになることも少なくない。

だが、発注者側から見れば一見同じような絵が出せるハードからハードに移し替えるだけなのに、どうして絵が変わるのだという話になってくる。ましてや、時間もお金もかかると言われればなおさらだ。

そんな訳で、元の素材がそのまま使えそうな仕事ほど、後でもめる可能性が高くなる。

更に厄介になったのはデジタル技術の進歩で、これまで手動でやっていたこうした置き換え作業を、自動でやってくれるツールが増えてきたことだろう。

それ自体は、上手く使えば省力化に繋がるので悪い話ではないのだが、残念ながら多くの人は「機械で変換すれば簡単でしょ」と言ってお金を払わなくなるどころか、自分でツールを使って変換すればよいと、仕事すら外に出さなくなってしまうのだ。

それでも変換がきちんと行われるなら、時代の流れだし仕方がない。しかし、残念ながら多くのツールでは、一見きちんと変換されているようでも実は間違っていたり、酷いものだと中でインチキをしているものさえある。

ついこの前も、自分の写真をイラスト風に変換することが出来る、スマートフォン向けの写真加工アプリ「Everfilter」が、「君の名は。」などで知られる新海誠監督のアニメ映画から、背景美術を無断使用していた事が明らかになって騒ぎになっているのを知っている人も多いだろう。
参考:http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/04/everfilter_n_13421424.html

また、画像ではないがDeNAがやっている医療系サイトWELQが、医学的に見て中身が間違いだらけな上に、多くの記事が他のサイトから窃取したものだったことが判明して、閉鎖に追い込まれた事は記憶に新しい。

実はこのWELQの騒動も、指定した文章を入れると自動的に文体を変えて書き換えるツールが使われていたのではないかと言われている。
参考:http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20161202-00065073/

同じような表現能力を持っていても、日本語から英語に翻訳するとニュアンスが変わるように、映像も媒体が変われば同じ素材から作ったも見た目が変わる。

そして、翻訳が単に単語を入れ替えただけでは出来ないように、映像もまた素材を入れ替えるだけでは済まず、最後は必ず人の手がかかることをわかって欲しい。


【福間晴耕/デザイナー】

フリーランスのCG及びテクニカルライター/フォトグラファー/Webデザイナー
http://fukuma.way-nifty.com/

HOBBY:Computerによるアニメーションと絵描き、写真(主にモノクローム)を撮ることと見ること(あと暗室作業も好きです)。おいしい酒(主に日本酒)を飲みおいしい食事をすること。もう仕事ではなくなったので、インテリアを見たりするのも好きかもしれない。


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■はぐれDEATH[18]
はぐれの教育したりされたり

藤原ヨウコウ
http://bn.dgcr.com/archives/20161209140100.html
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●知的好奇心を満たすための学問

いわゆる「教育論」とやらをぶち上げる気はまったくない。そもそもボク自身が大学院に入るまで、勉強らしい勉強をやっていないのだ。娘にだってせいぜい「勉強はちゃんとやっといた方がイイで」という程度である。自分がやっていないのに、娘や他人様に押しつけるような理不尽なことはできない。あくまでも自分が経験した範囲でしか人には教えられない。

それでもまぁ何とかかんとか、現役で大学に入学できたのは、ひとえに過剰なまでの読書量の多さである。文系の科目はこれだけでほとんど誤魔化したと言っても過言ではない。理系はというともうほぼ全滅である。何しろ共通一次試験直前まで数学Iの習得に時間がかかったのだ。他の科目は推して知るべし。

大学院に進んで事実上の担当教官に出会えて、学問に対する見方に新たな光芒を見いだしたのは幸いであった。ボクの専門は明治時代の印刷技術の変遷と挿絵に関することだったのだが、この先生の専門はバウハウスである。日本のバウハウス研究の第一人者と言っても過言ではなかろう。

まったく明後日の方向の分野にもかかわらず、先生は好奇心丸出しでボクの指導をして下さった。もちろん専門外のことなので、先生から質問もされる。答えないといけないのでとにかく勉強する。これをほぼ二年続けて、論文とは少々言い難いが何とかまとめあげられた。

「学者とは、学問とはこうあるべし」とボクが思ったのはこの時の指導にある。まず、純粋で反応しやすい知的好奇心がないと、どうにもならないのだ。先生の凄みはこの知的好奇心の旺盛さにある。高校から大学卒業まで、劣等生のコンプレックスを抱いていたボクにとって、この先生の存在は大きかった。

「ああ、学問とはこうなんや」と腑に落ちたのである。他人との競争ではなく、あくまでも自分の好奇心を満たすための学問。楽しいコトしかしないボクにとって、こういう学問の定義は本当に嬉しかったし、実践されている現場を目の当たりに出来たのは、幸運以外のなにものでもない。

会社に入ってボクは、この時の経験をフルに実践することになる。そもそも「大学院出だから」というワケの分からない理由で、配属先でなにも教えてもらっていない状態から、いきなり担当を任されたのだ。

こうなったら、先輩達の仕事ぶりやら何やらをパクるしかないではないか。もちろん、失敗もたくさんしたが、上司が間に入ってくれてどうにかしてくれた。「仕事を任せるというのはこういうことなんや」と思い知ったのはこの時のことである。

会社では一応アート・ディレクターとして働いていたのだが、原則として自分で手を動かすことはしなかった。コンセプトや方向性を示唆するだけで、表現は全部デザイナーさんに任せっきりにした。

デザイナーさんが袋小路に陥ったときはアドバイスもしたが、そもそも袋小路に陥るような指示しかできないボクが悪いのである。この時大いに参考にしたのが、大学院時代の恩師のやり方だ。とにかくまず自分が「面白いことをやっているのだ」ということを、デザイナーさんに示す。質問もばんばんする。その受け答えの中から、表現が生み出されていく過程は非常に楽しかった。

ボクに言わせれば、そもそもアート・ディレクターというのは教育者としての側面も大きいのだ。デザイナーさんが気がついていないことを教えたり、疑問に答えてやらないといけない。ボクだけの考え方かもしれないけど、そう思っている。

会社には結局三年しか在籍しなかったのだが(ボクのワガママだ)、フリーになってから専門学校で教える立場になって経験はまた大いに役立つ。

とはいえ、専門学校時代は苦い思い出しかない。ボクが普通だと思っていた基礎教養の段階で、学生が「?」となるのである。正直これには参った。デザインだのMacだのと言う前に、いきなり西洋近代史から始めないといけない羽目になったのだ。

歴史は洋の東西を問わず大好きなので(本当は大学は歴史関係の方面に行きたかったのだ)教科書から年表、その他副読本はもちろん、とにかく本を読み漁っていた。祖父の蔵書も読んでいたので文語体にも慣れていた。変体仮名は小学生時代には解読できていた。これが普通だとものすごい勘違いをしていた。

学生達は高校から進学してきたケースが大半である。「高校で習ったことならまぁまだうろ覚えしているだろう」と思ったのが間違いのもとだった。何しろ「産業革命」という言葉が通用しないのだ。ここで本来のカリキュラムから脱線して、基礎教養の授業に突入しなければならなくなった。

教える以上、こっちもうろ覚えではまずい。学生以上に勉強をしないと教えられるものも教えられない。考えられるあらゆる質問を想定して、かなり広範にわたって近代史を学び直したのはこの時だ。

苦痛だったのかと問われれば、答えは「No」である。前述したようにボクは歴史が大好きなのだ。むしろこの時の勉強で知識は更に深くなったし、緻密にもなった。それまで気がついていなかった色々な疑問もたくさん生じたし、その疑問を解決すべくまた本を漁るという、言わば大好きなことしまくりな状態だったのだ。ちなみにこれだけ勉強したのに、授業では殆ど役に立たなかった。

エカキになってからは様々なジャンルの小説に出くわすことになるのだが、これまたボクの好奇心を刺激し続けている。知らないことがじゃんじゃん出てくるのだ。お仕事なので選り好みなどしていられない。

とにかく、分からなかったら即学習である。分からないというのは文章の内容が分からないということではなく、背景にある諸々の知識である。この背景を理解しないと挿絵など描けない。もちろん、作者の方は分かりやすく書いていらっしゃるのだが、絵を描く方としてはそれ以上に知識が必要になるのだ。ボクだけかもしれないけど。

実際、ボク自身が仕事を引き受けるまで、特に好奇心を持っていなかったジャンルというのはかなりある。自分の知識がいかに偏っているのかを自覚するのにはイイ刺激だし、正直こうした刺激は大歓迎である。単純に楽しいのだ。

そういう意味では、担当させて頂いた作品はすべてボクの先生と言っても差し支えない。そうして思うと、今後もずっと学問が出来るわけだ。「生涯学習」という得体のしれないキャッチコピーとは異なる生きた学問だ。面白くないはずがない。とにかくお仕事を続けていればいつまでも続けられるのだ、呵々♪

●再び教育者として現場に

今年の秋から、再び教育者として現場に出ることになった。もっともいわゆる「先生」ではない。某印刷会社の顧問(この肩書きが恥ずかしくてしかたがない)として「社内の若い衆を教育せよ」というお達しがあのM氏からきたのだ。

ボクがこの「辞令」を断るはずはない。頼まれた以上はどうにかしようと11月から週一で出向しているのだが、専門学校時代のデジャブが甦った。あの時と状況がよく似ているのだ。

厄介なことに若い衆たちは(当たり前だけど)それぞれの仕事で忙しくしている。改めて一から教育し直すなどということは当然不可能だ。「さてどうしたもんか?」と頭をひねっていたら、ちゃんとM氏が助け船を出してくれた。

新しい案件をボクの管轄内でしろということだった。メンバーも選んでくれた。ここまで来ればしめたもんである。会社員時代のノウハウをフルに応用できるからだ。専門学校やエカキとしての経験も大いに役立つだろう。

ありがたいことに、選んでくれた二人のデザイナーがそれなりの場数を踏みつつも、今自分がおかれている立場に疑問を持っている子達だった。これほど教育しやすい例も珍しい。さすがM氏である。

自分の立場に疑問を持つといっても、具体的にどうこうという話ではない。どこかもやもやとしていて、「このままでいいのだろうか?」という不安を持ち始めた子達らしい。

ボクに言わせれば、将来に対する明確な目標とそこに至るための過程を示して、一緒に解決すればいいだけの話である。だから、のっけから「君らには三年後にアート・ディレクターになってもらう」と目標を突きつけた。

あくまでもボクの価値観にあるアート・ディレクターである。そして、そうなるためには今デザイナーとしてやらなければいけないことを、案件を通して学んでもらおうというのがこっちの狙いである。

それまで社内では誰も言い出さないようなことを、営業を含めた会議でどんどん質問し、あとから質問の意図を二人に教える。馬鹿みたいなことしか聞いていないのだが、アート・ディレクターとしては知っておかないと困ることばかりだったのだ。

「こんな話が来たからラフ作って」じゃ困るのだ。とにかくデザイナーの前で根掘り葉掘り質問をする。二人とも「なんでそこまで質問をするのだろう?」というような顔をしていたが、後から種明かしをちゃんとした。制作する側として知っておくべきことのレベルの違いを明確に示したわけだ。

ありがたいことに、こうしたボクの態度に二人とも食いついてくれた。だって珍しいんだもん。当たり前である。食いつけばあとはこっちのもんである。じわじわと価値観の転換をしながらあるべき姿に指導すればよろしい。

「失敗したらボクのせい、成功したら君らの手柄」とも付け加えておいた。一見、寛大な態度に見えるかもしれないがそれは大間違いである。「全部任せた」ということなのだ。日頃の仕事内容とはプレッシャーの度合いは遥かに高い。任せられるというのはそういうことなのだ。これもちゃんと口頭で注意した。

但し社内からの攻撃はボクが一手に引き受けなければならない。彼らの責任問題にしては意欲が喪失するのだ。これは絶対に避けるべきである。もちろんこっち方面に関してはM氏にも参戦いただくべく、進捗状況は常に伝えている。M氏も「よっしゃ、よっしゃ」と言ってくれてるので、ボクは自分のなすことをするだけだ。

要するに、こうした教育がなされていなかったからボクが呼ばれたのだが、正直「これでようやっとったなぁ」と半分呆れて半分驚いていたりする。

それとは別に、再教育しなければいけないことがあるのだがこれは内緒だ。ボク一人でどうにかしないといけないので、作文やら図表やらを作りまくっている。参考書みたいなもんか? 

とにかく、ここをどうにかしないとボク自身も困るし、会社全体としても困ることになるのだが、なぜか誰も手をつけていない。会議では「やりましょう」ということになるのだが、実際は何も進んでいないのだ。結局ボクが全部しないといけない。

もともとはM氏の案件の一つなのだが、M氏が関わっている案件はあまりに多すぎる。ボクが一部を担当しないとM氏の計画全体が先に進まないのだ。もちろんボクだけが肩代わりしているわけではない。それぞれの改革すべき案件のエキスパートが複数関わってM氏のチームがある。ボクはそこに新規参入しただけの話だ。で、内容はと言うと結局「教育」に行き着く。

「ここはフジワラ君に頼む」とM氏に言われたら、ボクは断れないのだ。まぁ、下っ端だしね(笑)

立場はあくまでも外様である。M氏の顔を潰さないようにしながら、最悪尻尾切りの役目も負うべきだと思っている。そこまで覚悟をしないと、教育だの改革だのということは出来ないと思う。自己保身など百害あって一利なしだ。

守るべきは未来の人材や事業であり、現在の下らない見得ではない。ここまで言い切ってしまうのもはぐれならではなのかもしれないが、ボクはそう思っている。

あ、本業は止めたわけではありません。絶賛、お仕事大募集中です。どんどんお仕事ください。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com/
http://blog.livedoor.jp/yowkow_yoshimi/

装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!


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編集後記(12/09)

●曽野綾子の切れ味のいい辛口評論が大好きで、いままで何度もここで書いてきた。今回は「日本人の甘え」である(2016、新潮新書)。「新調45」の連載をまとめたものらしい。至極当然のこと言っている。だが、最近は誰も言わなくなった。言えなくなった。子育てをしながら「男女平等」といわれるような働き方などできるはずがない。朝子供を保育園に預けて、男と同じように働き、残業までする。そんな苛酷な生活は長続きするはずがない。ところが、女性にそんな生活を強いるのが「すべての女性が輝く社会」らしい。核家族で子育てと会社勤務を両立させるのは無理だと思うが、誰もそう言わない。言えない。

曽野綾子は違う。「世間の反対を知りながら言うのだが、幼い子供を育てながら男に伍して職場で働くということは、初めから無理なのだ。男女平等を要求するなら(略)子持ちだから、という理由でそれ(注・昼夜を分かたぬ出勤の承認)を免除すれば、組織では一人前の即戦力とはなりえない。仕事とはそんな甘いものではないのである。プロとは、病気や家の事情を超えて働ける者のことで」と厳しいが、これは当たり前のことである。そういう無理な生き方を可能にしてやることが政府と社会の義務だ、という「ニセモノのヒューマニズム」が主流では「保育園落ちた日本死ね」という馬鹿が出てくるのは必然だ。

最近の日本で、貧困層が増えている、子供が貧困に苦しめられているなどという記事が出ると、逆について行けないと曽野綾子はいう。どの程度を貧困というのか、おそらく日本人は誰も正しく答えられないだろう。貧困の定義ははっきりしている。「今晩の食べ物がないこと」である。「子供の貧困は、たぶん雨の漏らない家で眠れない、お金がなくて医師にかかれない、教育を受ける時間もないほどの幼児労働に従事させられる、というようなことだ」。それだったら、日本に貧困はない。中年以降、度々アフリカの貧しい国へ監査に行っていた曽野は、食べ物がないという苦労がどれほどのものかよく知っている。

この一冊は連載を並べただけで、あまり感心できなかったが、曽野の環境が大きく変わったからだと納得したのが、週刊現代に掲載された手記「夫・三浦朱門を自宅で介護することになって」であった。三浦(90)は2015年の春頃から様々な機能障害を見せるようになり、精神活動の衰えが驚くほどの速さだった。「しかし私はその時から、一応覚悟を決めたのである。夫にはできれば死ぬまで自宅で普通の暮らしをしてもらう。そのために私が介護人になる、ということだった」。これからは老いの問題について、実践的な報告書が書かれることになるのだろう。いい仕事になると思う。曽野綾子だって84歳だが。 (柴田)

曽野綾子「日本人の甘え」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106106868/dgcrcom-22/


●Adobe Creative Cloud。森和恵さんに、Amazonのサイバーマンデーセールでオンラインコードが安いと教わる。

以前、記事を書かれていたのを読んで、お得でいいなぁと思っていた。今は年契約の月額カード払い。切替時期ではないのでと見送っていたが、コードは期限がないとの話。なんですと?

「コードを専用サイトに入力をしてから契約期間の開始になります。」とある。なら来年のを買っておいても良いのではないか? 10%OFFの20%OFF。

調べると、更新月(契約期間終了一か月前)にリニュー案内が来るので、そこから満了までにAdobe IDでログインして解約ボタンを押せばいいらしい(時期によって情報が錯綜している。最終的には電話での解約手続きが必要な人も)。

その後、コードを入力して有効化することで、Adobe IDは引き継げるとのこと。Adobe Cloudにデータをほとんど置いていないし、設定は最悪作り直せばいいやと考え、引継ぎトラブルをも考えた上で、えいやっと買った。

税込の話で、月に5,378円(年64,536円)だったのが、3,585円になる計算(年43,027円)。1,793円もほかに使える。大満足。

そして今朝、更に割引されていて(涙)27%OFFのさらに20%OFF、月換算で2,920円に(年35,040円)。5,378円から考えると2,458円も割引されている。再来年の分も買った方がいいんでしょうか、来年のサイバーマンデー後半まで待った方がいいんでしょうか……。継続割が欲しいわ。 (hammer.mule)

Adobe Creative Cloud コンプリート 2017年版
オンラインコード版 12か月版 Win/Mac対応
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00FOHQZPI/dgcrcom-22/