[4277] はぐれなのに親バカ

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《娘たちからは色々教わった》

■はぐれDEATH[21]
 はぐれなのに親バカ
 藤原ヨウコウ






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■はぐれDEATH[21]
はぐれなのに親バカ

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20170203140100.html

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「はぐれなのに娘がいるとは非常識だ」と思う方も少なくないと思うが、実際いるのだから仕方がない。おまけにこの娘っ子どもが、ボクに与えた影響ははかりしれない。

複数形なのにはアホな理由がある。一人は血の繋がった娘で、もう一人(?)は遥か鈴鹿から迎えた養女である。といっても猫なんですが(笑)。まぁほとんど娘扱いをしているので、ボク的には二人娘がいることになっている。

とにかく今回は親バカ全開である。間抜け極まりない上に、ものすごく身贔屓して話を盛りまくっているので覚悟願いたい。はじめに忠告しておく。ボクの親バカ振りは結構スゴイ(笑)

娘は両方ともネタには困らないほど色んなコトをやらかしてくれているので、ボク的には実に嬉しい存在であり、溺愛していることは言うまでもないだろう。

が、父親らしいことはほとんどしていない。特にお姉ちゃんに関しては、育児などという厄介な定義は完全に無視していた。やったことを振り返れば、育児に該当することはかなりやっているのだろうが、ボクにはその自覚がないのだ。

とにかく娘をかまうのが楽しくて仕方がないので、そのような使命感を感じたコトは、二例を除けば皆無に等しい。

ボクも奥さんもどちらかというと人見知りが激しい。特にボクの場合は、団体行動とやらがほとんど出来ない。社会性も協調性も皆無である。

性格によるところも大きいだろうが、集団生活デビューが小学校からだった上に、一学年に12〜3組もあるような学校に入学したので、人数に圧倒されて尻込みしたのだ。

本来なら幼稚園で集団生活をスタートさせるのが普通だと思うのだが、ボクはこの時期、生まれたばかりの妹の世話に萌えまくっていたので、幼稚園にはほとんど行かなかった。

一年半ぐらいはほとんど付きっきりだったように記憶する。だから、ボクの世界は家の中で完結していたのだ。こんな子どもがいきなりマンモス小学校に放り込まれて、クラクラするなと言う方が無茶であろう。



ボクのこの苦い体験だけは、娘に絶対味あわせたくなかった。だから、1歳になるとすぐに保育園に入れた。

待機児童の問題が今も継続しているが、お姉ちゃんの時も事態は一緒だった。いくつか保育園を見学して、「これは」と思った保育園に入れようとしたのだが、どこの親も考えることは一緒である。恐ろしく入園倍率が高かったのだ。

経験者ならご理解いただけると思うのだが、乳児クラスからの入園となると、家庭事情に関する書類がものを言う。とにかく奥さんと二人で、有利になりそうなネタをかき集めた。

それでも人気のない方の保育園を薦められたのだが、ここは徹底的に抵抗した。定員最後の一人の枠を、もう一方の親御さんと争っていたのだが、結局、園長先生が枠を一人増やしてくれて無事入園にこぎつけた。この入園闘争に関しては、全面的に奥さんの功績である。ボクは後方支援に徹した。

知人のカメラマンさんの三男が通っていて、この保育園の話はよく聞いていたから、とにかくここしかないとボクも奥さんも思っていたので、入園許可が下りたときはほっとした。

ちなみにこの知人のカメラマンさんのお宅は、保育園の目と花の先にあったので、保育園の送り迎えの時にしょっちゅう寄り道していた。非常に目が良くて感性の鋭い方なので、娘の情操教育にもよかろう、という思いもあった。

もっとも、カメラマンさんの奥様が娘を可愛がってくれたのも大きいのだが。ここのお宅は男の子三人だったので、奥さんにしてみれば楽しかったのだろう。このへんの気分は何となく分かる。

初歩的な社会生活を営む上でのルールに関しては、保育園に任せっぱなしにした。少なくともボクの基準は避けたかった。自分が非常識な人間であることぐらいは百も承知しているし、そんな親を持つ娘が偏らないはずがない。

ある程度の中立性は必要だと思っていたのだが、この辺は歴代の担任保育士さんをはじめとして、保育園が実にいい教育をしてくださった。感謝してもしきれない。

と書いてしまうと、順風満帆な保育園生活に見えるかもしれないが、実は初っ端で躓いているのだ。さすが我が娘(笑)



乳児さんに限らず、保育園に入るというのは、親と違う時間を持つということである。それまでずっと一緒だった親と離れることになるので、当然のことながら抵抗する。分かりやすく言うと泣きわめくのだ。

通常なら、初日からこれが始まり、遅い子でも二〜三週間ぐらいで落ち着くのだが、娘の場合は極めて深刻だった。泣かないのである。

乳幼児が泣く、というのは周囲に対する能動的自己アピールの一つで、コミュニケーションの初歩的な手段なのだが、娘はここで心を閉ざしてしまった。

もっと分かりやすく言うと、我慢をしたのである。これは乳児としてはかなり危険である。強烈なストレスを抱え込んだ状態になるからだ。

稀にこうした例はあるのだが、娘の場合は常軌を逸していた。なんと6月まで我慢し続けたのである。これにはボクも、主担任でベテランの保育士さんも、副担任の保育士さんも頭を抱えた。

特に副担任の保育士さんは、この年保育士さんになりたてで、娘の世話を任されていたので実に気の毒なことをしてしまった。日に日に顔色が悪くなり、後で聞いた話によるとノイローゼになりかけていたらしい。

普段は明るく朗らかな方なのだが、とにかくこの時期は見ていてこっちが心配になるほど落ち込んでいた。主担任の保育士さんは、娘と副担任の保育士さんのフォローをしてくれていたのだが、とにかく4〜6月の間は本当に大変だった。

奥さんとは不規則ではあるが交互にお迎えに行っていたのだが、帰宅すると必ずと言っていいほど「泣いた?」と聞く日々が続く。保育士さんの限界と娘の我慢の限界は、幸いほぼ同時期だった。6月になってしばらくした頃、やっと娘が泣いてくれたのだ。

強情な分、一度心を開くとあとは呆れるぐらい、副担任の保育士さんにまとわりつくことになる。副担任の保育士さんの苦労は報われ、以後ナゼか娘のクラスの担任を歴任してくれることになるのだが、とにかくこの二か月の試練は見ていて冷や冷やした。

どっちが先に壊れるか、かなり危険だったからだ。胸をなで下ろしたのは言うまでもなかろう。とにかく、前途有望ななり立ての保育士さんを巻き込んでいたのだ。彼の人生を狂わせかねない事態にまで至っていたのだ。実際、辞職を何度も考えたらしい。本当にギリギリだったのだ。

それはともかく、このような異常事態を引き起こした原因は100%ボクにある。

そもそも、24時間お父さんが家にいる、という環境そのものがおかしすぎる上に、何かというとボクが構いまくるのだ。お姉ちゃんにしてみればそれが普通の状態であり、呼ばなくても遊んでくれる人が常にいると思い込んでも仕方がないではないか。

この異常な環境は、保育園に行っても改善されることは当然なく「家に帰ればお父さんが必ずいる」という考えに、微修正されたに過ぎない。だから東京に出張に行こうとすると、ぎゃんぎゃん泣きわめきまくっていた。

玄関に荷物がおかれるとすぐに察知するのだからたまったもんではない。お姉ちゃんにとって、お父さんは四六時中家にいる人なのである。当然、とばっちりは奥さんにいく。

ちなみにこの出張騒ぎは、年少さんクラスぐらいで落ち着いたのだが、次女が見事に受け継いでしまった。理由はお姉ちゃんと同じだ。こちらも玄関に荷物を置くと大騒ぎを始めるところまで一緒なので、結構くらっとする。手塩にかけたのは良かったが塩梅が悪かった、という見本である。



お姉ちゃんに科したもう一つのことは水泳である。ボクも奥さんも運動は苦手で、お姉ちゃんも見事に遺伝していた。というか、お姉ちゃんの場合、闘争心そのものが皆無なのである。思いっきりマイ・ペース。

それでも何か運動をさせて、身体が出来上がるまでに基礎体力のベースは作っておいた方がいいと判断した。もっとも、保育園でものすごい距離のお散歩をこなしていたので、大丈夫と言えば大丈夫なのだが、体育の時間にイヤな思いをしないでできる得意分野が、一つぐらいはくらいはあってもよかろう。

よく海水浴に良く連れて行って、この時にボクが素潜りをしては、潜った場所と全然違うところに浮かび上がっていたのを、お姉ちゃんは目撃していたのだが(水泳禁止のブイを見て「おとおさ〜ん」と叫んだのは内緒だ)、とにかくお姉ちゃんにとって身近な運動は水泳だったのだ。

そこへもってきて、ボクが「お父さんの子だから絶対に沈まない」などとアホなコトを吹き込んでしまったので、すっかり信じ込んでしまった。実際、最初に覚えたのは背泳ぎだったので、暗示力も馬鹿にならない。

ともかく水泳である。幸い、京都には京都踏水会という、伝統もあれば実績もあるスイミング・スクールがある。見学に行って「どや、やってみるか?」とお姉ちゃんに聞いたら、最初はあまり乗り気ではなかったようなのだが、ここはボクが強引に押し通した。

運動が苦手なのは上記した通りだが、とにかく先生方が良かった。急がせないのだ。運動神経のイイ子や負けん気の強い子は、どんどん上のクラスにいくのだが、お姉ちゃんはここでもマイペース振りを発揮する。

とにかくゆっくりなのだ。これに先生方がすぐに気づいてくれた。急がせずにきちんと泳ぎ方の形を身体に叩き込む、という方針になったのだ。

そもそも踏水会の教育システムというのは、他のスイミング・スクールに比べると桁違いに厳しいらしい。他のスクールでオッケーだったバタ足が、踏水会に来ると却下になるケースなどは枚挙に尽きない。

そのような厳しい環境で、じっくりと身体の使い方を教えてくれるのである。おまけにお姉ちゃんは、すぐにプールでパチャパチャするのが気に入ってしまった。更に恐ろしいまでの忍耐力を発揮することになる。もっとも、本人は我慢していなかったようだが。

とにかく身体が覚えるまで、同じカリキュラムを受け続けるわけだ。他の子が根をあげるのを横目に、お姉ちゃんはマイペースでもくもくとやる。見ているこっちが飽きるぐらいなのだが、本人的には全く問題ないのでボクがとやかく言うことではない。もう本人と先生に任せっきりである。

クラスが上がるにつれ、この徹底的なフォームのたたき込みが極端な形で成果を出し始めたのだ。理想的なフォームというのは、普通もっとも理に適っていて合理的、かつ効率がいいものとなる。

お姉ちゃんの場合は、他の子の半分からそれ以下の運動量で、同じ距離を泳ぐという成果になって表れた。とにかくフォームがめちゃめちゃ綺麗なのである。一掻きでぐいっと前に進む。大きく綺麗に作られたフォームは見事にお姉ちゃんの身体に叩き込まれた。

無駄な力も使っていないので、見てるこっちがビビルぐらい長距離を泳いでもケロッとしている。もっとも、ピッチが遅いので短距離には全然向かない。中長距離に強いタイプだ。何しろ周りのペースに乱されないのだ。焦る気も毛頭ない。とにかくマイペースでぱちゃぱちゃを楽しむ。

が、この楽しみをボクは奪うことになる。成長期に入りかけたとき(厳密には小学校5年生の10月)に一度やめさせた。理由は単純で、水泳選手特有のあの体型になるのをボクが嫌ったからである。

今から思えば、水泳選手特有の体型になどなるはずはないのだ。なぜなら、お姉ちゃんは根性とか体力とかで泳ぐタイプじゃないからだ。とにかく「頑張る」という概念がからっきしないのだ。

おまけに、骨格と筋肉に関してはボク譲りである。肩幅が広がるというのはあり得ないのだが、やはり「女の子だから」と盲目的にボクが考えてしまったのがまずかった。楽しみを取り上げた罪は全部ボクにある。これは今でも気の毒なことをしたと思っている。

周囲が「頑張ってる」と思う娘の行為は、大抵楽しんでいるのだ。だから頑張ってるという意識がない。楽しいからやる。気づけば上手になっている。

ただ、この措置に関してはかなり不満だったようだ。中学に入学したらそっこーで水泳部に入部した。この時にボクは初めて気がついたのだが、とにかくお姉ちゃんは「ぱちゃぱちゃ」していたかったらしい。「競泳」には全く興味がないのだが「ぱちゃぱちゃ」は大のお気に入りである。「好きならしゃあないな」と納得したのは言うまでもなかろう。

もっとも、部活としてはあくまでも競泳である。タイムとか大会というノルマが出てくる。お姉ちゃん的にはかなりこれが苦痛だったようだが、それでも3年続けたのは「ぱちゃぱちゃ」の誘惑が上回ったからだろう。ちなみに高校に入学するとき「水泳するの?」と聞いてみたら「タイムとかが今より厳しくなりそうだからやらない」ときっぱり言っていた。実に分かりやすい子である。



一方、年長さんくらいの時に子供用のおもちゃの編み機を買ってあげたのがきっかけで、手芸にはまりだす。元々、手を動かすのが好きなのだ。目も恐ろしく良い。だから絵も上手い。色彩感覚は奥さん譲りで、ボクなどは及ぶべきもない。色の使い方については、かなりお姉ちゃんの絵からぱくった。

おかげでボクは、少しは色が使えるようになった。親としてどうか、という意
見があるかもしれないが「上手な人のやり方や成果品を参考にする」というの
は、ボクにとって普遍的な価値観である。娘だろうが巨匠だろうが関係ない。
血が繋がってる分、最適化が楽だったのかもしれないが、とにかく娘からは色
々教わった。

手芸はおもちゃの編み機から手編みへと移行する。おもちゃの編み機の頃からそうだったのだが、この子も手が早い。奥さんもかなり早いし、ボクはもう言うまでもなかろう。

理由は簡単で、出来上がりをイメージして作業に入るかどうか、に他ならない。作業中は考えないので黙々と作業そのものに集中する。それでもびっくりするくらい早いのは事実である。

別に教えたわけではない。そういう頭の作りになっているのだとしか思えない。どうも世間様ではどちらかというと特殊な部類に入るらしいのだが、ボクも奥さんも娘もイメージしてから、というのはでふぉである。もっともボクは二人に比べるとかなり鈍くさい方である。イメージしたように再現が出来なくてかなり苦労した。

この辺、娘はすいすいである。もしかしたら、それなりの葛藤はあるのかもしれないが、それでもボクに比べれば相当早い。失敗もかなりしているはずである。それでも出来るようにしてしまうのだから立派と言えば立派だ。

他にも手を使って何かを作ることは、思いつく限りやり倒していたようだ。とにかく納得できるまでやる。飽きたら別のコトを始める。だが、中学くらいである程度自分がやってて楽しいコトは決まったようだ。色々なモノ作りをするのに、何となく一定のサイクルができたようだ。

その他については完全にお姉ちゃんの好きにさせている。まぁ、環境が歪なので変な子にしかならないのだがしゃぁなしである。しかし、保育園の近所の中華料理屋さんに連れて行ったときは唖然とした。

娘が2歳になるくらいまでは、ボクが大学時代から使っていたテレビがあったのだが、さすがに壊れてテレビがなくなった。お姉ちゃんの娯楽は、必然的に読書や手芸などに向かうわけだが、中華料理屋さんにたまたまテレビがあって、しかも民放だったので(実は家のテレビはNHKしか映らなかった)食事を忘れてテレビに見入ってしまったのである。

ほとんど街頭テレビにたむろする、昔の皆さんのような状態だ。これにはボクも奥さんも参ってしまった。21世紀生まれなのに昭和のノリ満載なのだ。これもボクのせいである。

もちろん、今時の女子高生の一般的なライフ・スタイルからは遥か遠くにいる。何しろLINEですら、友達から無理矢理押しつけられるまでやっていなかった子なのだ。本人曰く「学校行ったらお話しできるやん」らしい。その通りなんだけどさ。まぁ予測の範囲内ではある。

テレビの代わりに本はとにかく与えた。読むものにも特に口をはさまなかった。本人の好きにまかせた。欲しいといった本は可能な限り買ってやった。小学校でパソコンの授業があって、検索などといういらんことを覚えて帰ってくるようになったので、実家の母に頼んで百科事典を送ってもらい「調べ物はこっちでやれ」とは言ったけど。

読書は本当に好きな子である。学校で初めて買った国語辞典を、最初から最後まで読み切ったのには少々驚いたが、考えてみればボクも似たようなことはしていた。

新しい教科書もとにかくどんどん読む。予習もクソもない。面白いから読むのだ。しかも何度もしつこく読む。年表とか地図とかも大好きなようだ。ボクもだけど。アホな習性が遺伝したもんだ。まぁ、エエねんけど。

これ以上書くと、まんがいちお姉ちゃんの目に触れたとき、文句を言われそうなのでやめておく。で、次女だ。



先にも書いたが、次女は鈴鹿の知人からもらい受けた雌猫である。生まれて約2か月ほど秋になる頃、我が家へやってきた。

4人(?)兄弟の中で一番身体が小さく弱い、ということでボクが勝手にこの子を引き受けることを決めた。お姉ちゃんが一人っ子なのだが、経済的にも体力的にももう一人子どもを、という発想はなかった。妹として目をつけられたのがこの子だった。目がやたらと大きくて可愛かったしね。

ちなみに実のお父さんは、「犬殺し」の異名を持つ凶暴極まりない大きな猫で、お母さんは華奢で小さな真っ白な猫だ。女の子にしたのは、男の子より賢いから。これはボクの経験上、人間にも大体当てはまる。

お姉ちゃんは早速「ももか」と命名したのだが、いつの間にか「ももちゃん」「ももち」「もっち」「もちこさん」と愛称は変わっていく。「もちこさん」はボクが東京にいる間に変わったので、ボクは相変わらず「ももち」と呼んでいる。

さて「身体が小さくて弱い」という触れ込みで我が家にやってきたのだが、一部に大きな間違いがあることにあとで気がつくことになる。実際、授乳の時は他の兄弟に押しのけられて、なかなか十分な食事が出来なかったようだ。これが毎日続けばそりゃ体力は落ちる。

うちに来れば競争相手はいないので、マイペースで食べれるわけだが「どこが少食やねん」というぐらいめちゃめちゃ食べた。おかげで体力の方はあっという間に回復。要は周りも含めて基礎体力のレベルが高すぎたのである。さすが犬殺しの一族。そしてまったりダラダラな上賀茂で本領発揮である。

元々は室内飼いをしようと思っていたのだが、春のうららかな日差しに誘われあっという間に脱走してしまった。もっともすぐに帰って来ましたが。外の開放感を知った猫を室内に閉じ込めるのは、ボクに言わせれば虐待に等しい。結局、既成事実のもと出入り自由の気ままな子にすることにした。

幸い、自宅近辺はド田舎な上に家の裏はお姉ちゃんが通う小学校、鬱蒼とした雑木林がある空き地も点在しており、ももちが安全に遊び回るのには十分過ぎるほどの環境だったことも付け加えておく。

春から秋にかけてはいろんな獲物を持ち帰っては、お姉ちゃんと奥さんを驚ろかしていた。バッタ、トカゲ、ヤモリ、セミから始まり、気がついたら雀、ヘビ、ネズミまで捕まえるようになった。猫のあるべき姿である。

身体は本当に小さくて、今年で9歳になるのだが未だに3kg前後しかない。が、お父さん譲りの凶暴さで、家の近所をあっという間に制圧してしまった。

もっとも裏のお婆ちゃん猫の地盤を継いだだけなのですが、とにかくよその猫が縄張りに侵入してくると、そっこーで戦闘モードに突入して飛び出していく。そんな抗争を繰り返し連戦連勝、無敵の小さな女王に君臨し、気がつけば自宅付近は他の猫がいない特殊な場所になってしまった。

さすがに連戦に次ぐ連戦で、無傷というわけにはいかない。二度、大怪我をしている。一度目は背中、二度目は左の大腿部で、両方とも縫われた。ちなみにももちはこの二度を除けば、ほとんど病院には行っていない。

ワクチンなどは初年度に行ったきりで、後はほったらかしだ。ほぼ野生に近い状態で生活しているのだ。下手に投薬などする必要はない。勝手に色々ちゃんとする。この辺、ボクはかなり楽観的というかももちを信頼している。

教育に関しては、裏のお婆ちゃん猫が上手い具合にしてくれた。こんなんばっかりやな、うちの子は。生まれて半年の仔猫相手に、お婆ちゃん猫が噛みつくことはまず考えられない。外に出始めた頃はお婆ちゃんの後ろをちょろちょろついて回っていた。この時に外での活動の仕方を覚えたのだろう。

ももちには優しい猫だったので、ももちも随分なついていた。だが老齢である。ある日、ももちが聞いたこともないような叫び声を上げているのに気がついて、見に行ったらお婆ちゃん猫が塀に上がれなくなってぐったりしていた。幸い裏のお家の飼い主の方がきて、すぐに助けてくれたのだが、これがお婆ちゃん猫を見た最後になった。

ももちはかなりナーバスになっていて、連日裏の家に通っていたのだが、ある時からピタッとやめてしまった。恐らく亡くなったことに気がついたのだろう。ももちの縄張り闘争はこの頃から始まった。

先にも書いたが、身体は小さいが犬殺しの子である。かてて加えてお婆ちゃんの薫陶があったのだろう。お婆ちゃんが亡くなった年の夏から秋にかけて、第一次上賀茂闘争が勃発。何しろ縄張りの主がいなくなったのだ。

当然、よその猫が入りこんでくる。それぐらいお婆ちゃんが縄張りを強力に締めていたのだ。もちろん、ももちは後継者として名乗りを上げ、お婆ちゃんの縄張りを死守することになった。結果は上述した通りだ。最初の怪我もこの時である。

翌年夏に、ももち最大の試練がおとずれる。どこからともなく現れた巨大な雄猫が侵入したのだ。体重、体格共にももちの3倍近くあった。とにかくでかい。

さすがに「これはあかんかなぁ」と思ったのだが、ももちは何と持久戦に突入したのである。それまでは敵を見つけるとそっこーで飛びかかっていたのだが、この時ばかりはこれをしなかった。

喧嘩慣れもあったのかもしれないが、2か月近く本格的な戦闘にはならなかった。どうも体力が落ちるのを待っていたようだ。何しろ、ももちはお家に帰れば食事はあるし、外敵を気にせずぐっすり休養も取れる。

敵はそうはいかない。他のネコ達からも警戒されていたし、食事だってももちほど潤沢ではない。弱り切る前に何度か決着を試みた形跡はあるのだが、ももちがことごとく矛先を外してしまった。勝てそうにない喧嘩はしない。勝てるまで待つ。完全にももちのペースである。

決着は一瞬でついた。ある日、二匹の唸り声がしたかと思ったら、しばらくし
血まみれになったももちが帰宅した。尻尾を思いっきり立てて、ドヤ顔で帰って来たので勝ったのだろう。

それより心配なのは出血である。全身血まみれなのだ。ところが、よくよく調べると怪我は左足だけだった。もちろんお医者さんで縫われましたが、ももちが浴びた血はほとんど相手の返り血だったようだ。

身体が他の猫に比べて圧倒的に小さいので、ももちにはももちなりの喧嘩の仕方がある。懐に飛び込んで首からお腹を後ろ足で攻撃するのだ。

通常、猫は足よりも口を使って喉頸を狙う。だがももちは身体が小さいのでこれが出来ない。そもそも首に噛みつくことができるほど大きくないのだ。アゴ小さいし。だから一瞬の隙をついて相手の懐に飛び込んで、相手が噛めない所から急所に蹴りを入れるのだ。

この戦いを境に、件の猫はもとより他の猫ですら縄張りに近づかなくなった。相手の猫はあの出血量である。恐らく死んでるだろう。小さな暴君が君臨したのはこの時からだ。



もっとも、これは家の外の話である。家の中に入ると態度はころっと変わる。一番なついているのはやはりボクなのだが、これはお姉ちゃんと同じように、ボクがかまっていたからだ。

お母さんはご飯をくれる人、お姉ちゃんは遊んでくれる人、で自分は末っ子を満喫して家の中では甘えっ子全開である。猫と言えば自分勝手、というイメージが強いだろうが、なにしろうちは全員が自分勝手なのだ。家族構成としては猫の家族に近いのかもしれない(笑)

ちなみに、ご近所さんにもそれなりに愛想が良い。触らせてはあげないが、呼べばちゃんとお返事くらいする愛嬌はある。どこで覚えた、この手のワザ……。

家族以外で驚くような反応を示したのは、小学1〜2年生の時の担任の先生だったらしい。ボクは現場を見ていないので、奥さんから聞いた話だ。

ももちは基本的に家族以外の人間には自分から近づかない。適当な距離をおくのである。まぁ、猫というのはそんなもんだ。だが、お姉ちゃんが小学校に入学して初めての家庭訪問の時に異変が起きた。

先生が来るなり、どこから現れたのか飛んできたらしい。先生がいる間は、足下にじゃれついたり、じっとそばにいて大人しくしていたらしいのだが、ももちにしてはかなり特殊である。

後からお姉ちゃんに聞いて合点がいった。ももちの小学校通いとちょっとした偶然が重なったようだ。

先にも書いたが、裏の小学校はももちの縄張りであり、遊び場所でもある。お姉ちゃんが保育園に行っていた頃から、もう既に出入りをしていたようだが、お姉ちゃんが入学してから少し行動パターンが変わったようだ。

お姉ちゃんのクラスは一階にあり、どうやらももちは授業風景を外から眺めていたらしい。クラスメイトにはすぐにももちの話は伝わった。特に女の子ね。「ももちなら仕方がない」というワケの分からない状態が生み出されていた。

もっとも、お姉ちゃん的にはそれなりに対応しないといけないワケで、校門まで連れて行って「おうちに帰り」と放していたらしい。が、ももちは神出鬼没である。そしてナゼか午前中の授業は見に来る。ここでお姉ちゃんの担任の先生を覚えてしまったらしい。そして家庭訪問での熱烈歓迎になったのだ。

更にももちにとって特別なお客さんがいる。お姉ちゃんのお友達の一人である。猫が怖くて仕方がないらしい。お姉ちゃんは「ちっちゃいし何もしないから大丈夫」と言って家に呼んだようだが、初めて来たときはももちもビックリするぐらいビビっていた。

仕方ないのでボクが抱っこして「悪さしないから」と言ってなだめた。すると、その後もちょこちょこ顔を出すようになった。ももちは遠くから眺めるだけで何もしなかったのだが、半年ほどすると大分慣れたみたいでももちに挨拶するようになった。

こうなるとももちもそれなりに対応する。徐々に距離を近くし始めたのだ。中学に上がる頃には、頭をなでさせられるところまでお友達になったみたい。もっともその子曰く「ももち以外はやっぱり怖い」と笑っていた。いや、この辺じゃ、ももちが一番危険なんですけどね(笑)



ところでこの姉妹、ある意味行動パターンが驚くほどよく似ている。もちろん、遺伝的な要因はあり得ない。恐らく歪な環境のせいだとは思うのだが。

ひとつは目敏さだろう。これに関しては偶然で済ませることが出来る。そもそも猫ほど目敏い生き物はいない。むしろお姉ちゃんの方が人としては珍しいくらい反応する。

この眼力はさまざまな場面で発揮されるわけだが、もちろん長短ある。特に短の方に目を向けると猫そっくりになってくる。例えば人混みが大嫌いとかね。情報が多すぎるのだ。処理出来ないから不機嫌になる。遠ざかる。ボクや奥さんと同じパターンである。ももちは最初から近寄らないし。

あと顕著なのはやはり忍耐強さだろう。もっとも、面白くないことには姉妹共に忍耐力を発揮することはあり得ない。面白いものだけが対象なのだ。

更にはボクに対する態度だ。お姉ちゃんは3歳ぐらいで終わったのだが、ももちは未だにダメなことがある。「おとおさんの魔の手」である。とにかく姉妹共にボクが抱っこするとそっこーで眠くなるらしい。ナゼかは分からん。眠りたくないのに眠くなるらしい。

お姉ちゃんは危険を察知してそっこーで逃げ出したが、ももちは毎度引っ掛かっている(笑)

兎にも角にも、ボクにとっては愛すべき姉妹である。可愛がり方を間違えた、という意見は大いにあるが、これはボクだけのせいではない。この件については後日また。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com/

http://blog.livedoor.jp/yowkow_yoshimi/


装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!


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編集後記(02/03)

●いつも安易にネタバレ書いているわたしだが、この映画「真実の行方」だけは、事前になにも参照してはならない、と言っておく。(1996、アメリカ)。シカゴのカトリック教会・大司教が全身をナイフで刺されて惨殺され、胸には意味ありげな数字が刻まれていた。その直後、現場から血まみれで逃走した若い男・アーロンが逮捕される。マスコミで華々しく注目されるのが大好きな、元検事の弁護士マーティン(リチャード・ギア)は彼の弁護を買って出る。ときどき鼻眼鏡の、ステキなやり手である。アーロンを問い詰めるが、父親も同然の大司教を殺すはずはない、現場に第三者がいたかどうかは分らないと言う。

記憶が曖昧なアーロンに、俺の許可がない限り誰とも口をきくなと命じる。裁判中は完全黙秘である。担当検事はなんと、元弟子で恋人だったジャネットが指名される。アメリカの映画ってこういう設定、細工が大好きである。裁判は検事側が優勢に進んでいくが、マーティンは現場に第三者がいた可能性を主張して対抗する。調査を進めると、大司教の裏の顔が露わになリ、変態プレイを強要する大司教を憎んだ、アーロンが真犯人ではないかと考える。その証拠ビデオも手に入れた。裏切られた思いのマーティンは、拘置所の個室でアーロンに詰め寄る。すると、アーロンは豹変しマーティンを暴力で威嚇する。

度々アーロンに面接し心理分析を進めていた女医は、彼は二重人格で、殺人はロイという別人格が現れたときに行われたのではないかという。これは可能性があり(ほんとかな)、見ているわたしはイージーだなとは思うが、いちおう納得する。マーティンはジャネットに頼み、法廷でアーロンを激しく追及させる。果たしてアーロンはロイに変身し、その場で大暴れする。判事は裁判の中止を命じ、アーロンは精神異常者として病院に収容されることになった。死刑は免れたのである。マーティンの作戦が成功したということだ。そのことを告げに拘置所のアーロンを訪ねる。そこからあとの展開が……お楽しみである。

アーロンを演じたのは、当時は役者としてまったく無名だったエドワード・ノートン。この役をレオナルド・ディカプリオが熱望したというのは有名な話らしい。でも、彼が演ったら最後の見せ場の効果は薄かったと思う。エドワード・ノートンのその後の作品は、知らないタイトルばかりだが、成功した人なのだろう。この映画のDVDも図書館のライブラリーからピックアップしてきた。最近の映画はやたら複雑で、たくさんの俳優が出るくるので(メジャーの映画の場合)、たいてい途中で迷子になってしまうのだが、20年も前の作品はそんな心配はない。とくに裁判ものは分かりやすくて面白いから大好物だ。 (柴田)

「真実の行方」
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003V2RVSS/dgcrcom-22/



●「水泳選手特有の体型」めっちゃかっこいいのに〜。バレエでも良かったんじゃないかしら。やりたいことを貫ける娘さんで良かった。

/「出来上がりをイメージして作業に入るかどうか」わかります。迷いながら(悩みながら)仕事してたら遅いけれど、手順決まって作業になったら早くなりますもんね。/にしても娘さんは飛び抜けてはるんやなぁ。

/AED講習会続き。AEDのハンドルを引くと自動的に電源が入る。同時に音声での案内が始まる。

ハンドルを引いた中には電極パッドが入っている。予備と小児用のものも。パッドを身体に貼るのだが、注意点が5つ。

汗や水で濡れている時は、タオルなどで拭き取ってから貼ること。拭き取るのは貼る胸の部分だけで良い。うちのAED収納ボックスには拭き取り用のナプキンが入っているそうだ。

胸毛の濃い人の場合、パッドがうまくくっつかないので体毛を除去してから。同じくボックスの中にはカミソリと除毛テープ。除毛テープは貼って剥がすタイプ。

ガムテープを想像したらいいかも。当然剥がす時は痛いが、倒れている人は意識がないので痛さなんてわからない、思い切り一気にやっちゃって、とのこと。 (hammer.mule)