Otaku ワールドへようこそ![251]数学の悪魔は無限の彼方から病根を抱えてやってくる
── GrowHair ──

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「数学だと、いつでも答えはひとつなんでしょ」とか、よく言われる。種々ある学問のうちでも数学というのは、一般的なイメージからすると、なんでもかんでも白黒はっきり決着をつけられて、一点のしみやよごれもないもんだ、と思われているようだ。そのイメージ、だいたい合っているとは言える。

ガウスは、「数学は科学の女王であり、数論は数学の女王である」と言ってますね。

けれど、数学の世界全般を見渡してみるとき、いたるところ清廉潔白な妖精ばかりが住んでおり、妖怪変化とか魑魅魍魎とか、なんだか薄気味悪い病的な怪物が、どこにも跳梁跋扈していないと保証できるだろうか。

ところで、星新一の短編小説『鏡』に、悪魔を捕まえる方法が書いてある。13日の金曜日の深夜11:55pmに合わせ鏡をつくる。鏡の中には、同じ像が奥へ奥へと無限に反復して映っている。

奥のほうから悪魔が現れ、1秒ごとに、境界をひとつ飛び越えてこっちへ近づいてくる。0:00amちょうどにこっちの世界へ出てきた瞬間、反対側の鏡の中へ入ってしまう前に、素早く聖書で挟みつけて、とっ捕まえるのである。

数学の悪魔も似たようなもんで、やっぱり無限の彼方からやってくる。





●数学の舞台はイデア界

数学と物理学は、一見、似ている。図形や数式がわんさか出て来るあたりとか。わずかに分かる微分やら、分かったつもりの積分やら。偏微分方程式が偏頭痛を引き起こすあたり、頭の中で発火して焦げる部位も似ていると思われる。

けど、物語の舞台となる世界や、目指すゴールや、採択する方法論においては、けっこう異なる。まずはそのへんから言っておきましょうかね。

物理学の舞台は、われわれが住んでるこの世界、すなわち、現実世界である。これがないと始まらない。まあ、物理学に限らず、たいていのことは現実世界なしには始まらないけど。

天体の運行を眺めたり、遠い宇宙から飛んでくる電磁波やら粒子やらをキャッチしたりする観察や、傾いた塔から鉄球を落下させたり、分子と分子とを高速で衝突させて破壊してみたりする実験により、この世でいったい何が起きているのかという現象についての情報を獲得する。

目指すゴールは、この世で起きているありとあらゆる現象に対して、それらの底流をなす根本原理を発見することである。観察された現象の中に、法則と齟齬をきたすようなものがひとつでもあってはいけない。

事例の集まりから、通底する法則を抽出することを「帰納する」という。つまり、物理学でとりうる方法論は、帰納法である。

これには限界がある気がする。帰納法により得られた法則は、人類発生以前の遠い過去や、誰も見てない死角で今現在起きている現象や、これから起きる未来の現象に対しても、適用してだいじょうぶなのだろうか。

野球ボールを両側面からつかみ、その手を放せば、落下する。十回やっても百回やっても落下する。いつやっても落下する。どこでやっても落下する。誰がやっても落下する。しかし、一億回やったら、そのうち一回ぐらいは違うことが起きたりしないものだろうか。

起きたりしないのは確かなような気はするけれど、誰かが保証してくれているわけでもない。一億回は、ちと多すぎて、実行して確認してみるのは現実的ではない。

「同一の条件下においては同一の現象が再現する」。こういうのは、もはや宗教的信仰の領域と言わざるを得ないのではないかと。

素粒子レベルのミクロの世界を観察すると、上記の現象再現性はすでに崩れてきているらしい。なので、もうちょっと緩い信仰に改宗しなくてはならないかもしれない。

いずれにせよ、あらゆる時刻において、あらゆる場所で起きている現象をひとつの例外もなく説明しきる法則は、きっと存在し、不合理なことは、きっと起きないであろう、という信仰が底流にないと物理学は成り立たない。

「神様は、ある時点で急に物理法則を変更したりしない」。あるいは、「物理法則を適用しなくていい特区みたいな領域をこっそり設けたりしていない」。みたいな感じか。

物理学のことを考えているわれわれ主体との関係性について、疑い始めると、またややこしいことになる。観察や実験によって、現象を把握したと言っても、目の前で起きた現象や計測器が出力した数値を見て、脳内で再構築したイメージにすぎない。

目に飛び込んだ光線が視神経を刺激し、光電変換により電気信号に変換され、それらを統合して、自分の周辺の三次元世界のイメージを脳内で再構築している。そのこと自体、ひとつの現象にすぎない。

われわれが「こうある」と思っている周辺世界は、現実にその通りにあるという保証がどこにあるのか? 根底から錯覚したりしてはいないか?

そこを疑い始めると、「現象学」のような唯心論のほうに行っちゃうので、物理学ではなくなってしまうのだけれど。

基礎の基礎のまた基礎のところを疑って問い詰めていくと、結局、信仰みたいな領域に行きついて、よく分からなくなっちゃう物理学。この世って、詰まるところ、なんなのか。実在するのか、幻にすぎないのか。

一方、数学はどうだろう。

物理屋さんが、方程式を立てるとこまで仕事したら、そいつを数学屋さんに丸投げして、解いてもらう。数学屋さんは、物理屋さんの下請け業者。いやいや、そういう側面もあるにはあるけど、それが本来の形ではない。

数学には数学の対象世界ってもんがあり、物理学の下僕ではない。

数学の教科書を読んで勉強したり、うんうん唸りながら練習問題を解いたりするのは、われわれの脳内で起きている活動である。そこは物理学と同じだ。

しかし、その思考の対象としている数理そのものは、どこにあるのか? 数学で「一本の直線があります」と言ったとき、それはどこにあるのか?

紙の上に、定規を当てて、鉛筆で一本の線を引いたとしよう。一見、直線のようであり、伝達手段としては、直線の役割を充分に果たしていると言える。

しかし、この線を顕微鏡で拡大して見てみた日には、直線とは似ても似つかないものを見ることになる。

第一、直線には太さがあってはならない。けど、鉛筆の線は、いくら細く描こうとしたって、太さはゼロにはなりっこない。ゼロになったら見えないし。完璧にまっすぐでなくてはならず、ちょっとでもガタついてはならない。これも不可能。しょせんは炭素の粉だ。

それに、直線とは、両方向に無限に長く延びてなくてはならない。両端が途中で行き止まりになってるやつは「線分」と言って直線ではない。これも不可能。

だけど、それは現実世界において、紙や定規や鉛筆などの道具を使って、目の前に直線を出現させることが、厳密には不可能だと言っているだけのことであって、概念としての「直線」が、ありえないものとして否定されているわけではなかろう。

駱駝シャツにステテコ姿の頭の禿げ上がったおっちゃんが「なにぃ、直線だぁ? オレはな、生まれてこのかた、直線なんちゅうもんは見たことねぇぞ。あるっちゅうなら、今すぐ、目の前に出してみろ! ほーら、出せまい。オレはそんなもんは認めねぇぞ」みたいな。

頑固親父みたいなのは置いといて、たいていの人は「直線が一本あります」と言われたら、その状態を頭に浮かべることができるし、その存在を認めることができるはず。

じゃあ、そいつはどこに存在しているのか? それは、イデア界。たぶん。

数学において、対象とする数理や図形が存在する舞台として、現実世界は必要としない。対象を頭に思い浮かべる主体としての、われわれ人間すら必要としない。

円周率が3.14なにがしであるのは、宇宙が存在しようとするまいと、われわれが存在しようとするまいと、そうなのである。数学の舞台は、純粋理性によって、ものごとの合理性を明快に判断することのできる、抽象的な、絶対世界である。それが、イデア界。

純粋理性とは、人間に備わった属性なのではなく、人間の存在を必要とせず、人間界から超越して切り離され、それ自体で独立してある、絶対論理を取り扱う機能である。

ちなみに、短いスカートの裾とニーハイソックスのトップとの間に露出した脚を「絶対領域」と言い、これもまたひとつの理想様式である。

ものごとを「それはなぜ?」「それはなぜ?」と問い詰めていくと、もうこれ以上「なぜ?」と問う必要もないくらい自明なことがらに行き当たる。

相異なる二つの点が任意に与えられたとき、それらを通る直線を一本引くことができ、一本だけに限られる。こういうのは、証明なしに正しいと認めちゃったところで、そうそう間違ってはいないだろうと思えるくらい、自明なことである。

こういうのを「公理」と呼ぶ。公理セットを出発点として、論理的な操作のみを用いて、正しい定理を次々に導出していく。それが数学である。

既に正しいと分かっている命題から、論理を用いて、別の正しい命題を導出することを「演繹する」という。数学でとりうる方法論は演繹法である。

数学の目的とするところは、公理セットから出発して、論理的操作によって、定理を次々に導出していき、数理体系を築き上げることにある。物理学とは、住んでいる世界がだいぶん異なるのである。

●数学の強みのひとつは無限の場合を内包している点にある

三角形の例をひとつ挙げてみよ、と言われる。理想の三角形はイデア界にしかないにせよ、現実界において、それっぽいものをひとつ紙の上に鉛筆で描いてみることはできる。

例えば、正三角形を挙げたとしよう。3つの頂角のすべてが60°である。

最初の三角形と異なる三角形をひとつ挙げてみよ、と言われる。これもできる。例えば、最初に描いたやつと、頂角のひとつが1°だけ異なるものを描いてみればよい。3つの頂角は、それぞれ59°、61°、60°。

今まで描いた三角形のどれとも異なる三角形を挙げてみよ、と言われる。これもできる。最初のやつから2°ずらして、58°、62°、60°。

もうひとつ挙げよ、と言われる。できる。もうひとつ挙げよ、と言われる。できる。...この作業は、永久に終わらない。

整数の角度が尽きたところで、60.5°とか、60.001°とか、半端な角度はいくらでも作れる。すべての三角形を列挙し尽くすことは、できない相談である。

しかし、数学には次のような定理がある。「任意の三角形の3辺の垂直二等分線は1点で交わる」。

一般的には、直線が3本あったら、交点は3つできる。これらが一致して、1点で交わっているというのは、非常に特別なことである。しかし、上記の定理は、すべての三角形について成立すると言っているのである。

これは、ちゃんと証明できる。その道筋を実際に追うのは省略しますけど。

ひとつひとつ例を挙げていくことで、しらみつぶしに確認しようとすれば、その例が無限にあるために永久に終わらないようなことであっても、論理の力を用いれば、包括的に扱うことができ、法則化することができる。

これは、数学的にものごとを扱うことによって生じる強みのひとつなんじゃないかと思う。

数学の定理は、無限の場合を内包していることがほとんどである。

●しかしわれわれ自身の側に限界がある

われわれの脳神経細胞は、十億個だか、百億個だか、とにかくいっぱいあるにはあるけど、そうは言ってもしょせんは有限個にすぎないわけで、無限に多くのものごとを記憶し尽くすことはできない。また、われわれの生きている時間にも限りがあるので、無限にあるものを、ひとつひとつ、しらみつぶしに調べていく作業をしようとしても、志かなわず死んでしまう。

空間的にも時間的にも限られた存在たるわれわれであるからして、無限に続く列の先の先の先が実際にどうなっているのかを、ちゃんと把握することはできないのである。

つまり、数学は、われわれの知ることのできる限界以上のことについて、何が正しいのかを論理の力をもって述べようとしていることになる。これって、ほんとうに安全にできるのだろうか?

イデア界の出来事について、いったいどういうふうになっているのか、人知の及ばないようなことで疑問が生じた場合、いったい誰に聞けば正解を教えてもらえるのか。

ここにおいて、数学における魑魅魍魎が、チラっと顔を出したな、と直感できて、ゾクゾクっとされた方は、たいへん勘がいい。

●変な話・その1、無限に続くマッチ棒の列は、全部燃えるのか

マッチ棒を100本、用意する。

まず、そのうちの一本を使い、水平な面の上で、頭を上にして垂直に立てて、接着剤かなんかで固定する。地面からキノコが生えてるみたいな感じ。

次に、別の一本を使い、最初のマッチから1mmだけ間隔を置いた右側に、同様に立てて固定する。

3本目のマッチ棒は2本目のマッチから1mmだけ間隔を置いて右側に立てる。

n本のマッチ棒がすでに立てられているとき、(n+1)本目のマッチ棒は、n本目のマッチ棒から1mmだけ間隔を置いて右側に立てる。

これを続けていくと、最後には100本のマッチ棒全部が、1mmずつ間隔を置いて一列に整列して立てられている状態になる。

さて、一番左のに、火をつけてみよう。隣接しあうマッチ棒どうし、間隔が狭いので、すぐ右隣のに燃え移るであろう。そうしたら、そのすぐ右隣のに燃え移り、次々々々と燃えていくであろう。ピタゴラスイッチみたいなアレ。

この設定において、次の2つの条件が仮定できる
(仮定1)一番左の端にあるマッチ棒が燃える
(仮定2)任意のマッチ棒が燃えるとき、それのすぐ右隣のマッチ棒が燃える

このとき、100本のマッチ棒は、すべて燃えるであろう。

(結論)すべてのマッチ棒が燃える。

上記2つの仮定が満たされていると、上記の結論が言えることになる。この論法を「数学的帰納法」という。紛らわしい名前がついちゃってるけど、「数学的帰納法」もまた「演繹法」の一種である。

さて、マッチ棒の本数が100本ではなく、千本だったり一万本だったりしたとしても、話は変わらないであろう。では、無限に続いていたら、どうか。

一番左端のマッチ棒はあるけれど、右の方へはマッチ棒の列が無限の彼方まで続いているものとする。

数学の記述のしかただと、「右端の最後の一本というのはない」と言うけれど感覚的には「無限の彼方に最後の一本がある」という感じもする。

このとき、すべてのマッチ棒が燃えると言えるだろうか。

次のことは、確実に言える。「nがたとえどんなに大きな自然数だったとしても、有限の値である任意の自然数nに対しては、第n番目のマッチ棒は、待っていれば必ず燃える」。

では、無限の彼方にあるのかないのかよく分からない最後の一本まで含めて、「結局、すべてのマッチ棒が燃える」と言えるのか、言えないのか。

ひとつ隣りへ燃え移るのに1秒かかるとしよう。100本あれば、99秒で全部が燃える。1,000本あれば999秒で全部が燃える。

じゃあ、無限にあったら? 「無限の時間が経ったのちには、すべてが燃えている」と「いつまで経ってもすべてが燃えることはない」は、同じことを言っているようにも感じられる。

しかし、「燃える」のと「燃えない」のとでは、ぜんぜん違うことのような気もする。

どうなんでしょ、神サマ。BGMは天馬ルミ子『教えてください、神様』。

なんか、イヤ〜な感じが漂ってこないだろうか。ひたひたと近づいてくる悪魔の足音、みたいな。

試しに、燃え移る速度をちょいと加速してみたらどうだろう。
1本目から2本目へは、1秒で燃え移る。
2本目から3本目へは、その半分の1/2秒で燃え移る。
3本目から4本目へは、その半分の1/4秒で燃え移る。
4本目から5本目へは、その半分の1/8秒で燃え移る。

この調子でいくと、マッチ棒が無限にあっても2秒ですべてが燃える。

これでいいのだろうか。

●変な話・その2、1÷3×3は元に戻るか

数学の専門家に対して、一般の方々からよく寄せられる苦情のひとつに、「1を3で割って3倍したら元に戻りません」というのがある。

将棋における「下手の棒銀、上手が困る」じゃないけど、聞かれると、けっこう困る。

1を3で割ると、0.333...になる。

  1 ÷ 3 = 0.333...

そいつを3倍すると、0.999...になる。

  1 ÷ 3 × 3 = 0.999...

1 に戻らないじゃないか、ってわけである。

下記のことは、確実に正しい。

・1と0.9とは等しくない。その差は0.1である
・1と0.99とは等しくない。その差は0.01である
・1と0.999とは等しくない。その差は0.001である

これは、次々に続けていくことができて、任意の自然数nに対して、

・1と0.999...999(9がn個続く)とは等しくない。

その差は0.000...0001(小数点以下に0が(n-1)個続く)である

が言える。

つまり、0.999...における、9の並びをいくら長くしたところで、1には決して到達できない、ということが証明されちゃったわけである。受けた苦情を肯定してしまった格好になる。困るではないか。

ただし、0.999...における9の並びの個数nは、有限の値に限る、という条件がつく。つまり、9の並びがどんなに長くなったとしても、それが有限個で終わっている限り、ちょうど1までは到達していない、と言っていることになる。これなら、アタリマエダ、と納得がいく。

有限の値nが無限個あるっちゅうのも、なんか変な感じがするんだけど。そこは、まあ、置いといて。

じゃあ、nが有限でない場合、つまり、ほんとうに限りなく9が続いている場合、その値はぴったり1に到達していると考えていいのか?

われわれの感覚では、無限の彼方なんて、とうてい想像がつかないんだけど、数学の様式では、それでいいことになっているらしい。

数列0.9, 0.99, 0.999, 0.9999, 0.99999, ...を見てみると、上記したように、1までの間合いを10分の1、10分の1、と詰めていっている。

つまり、目標の1までぴったり到達することはないにせよ、そこまでの距離はどんどん詰まっていき、これ以上、近づけないという限界はない。

同じことを、言い換えると、次のようになる。どんなに小さな正の実数ε(イプシロン)に対しても、そのεの値に応じて、じゅうぶん大きな自然数Nを持ってくれば、第N項以降すべての項において、1までの差がεよりも小さくなるようにすることができる。

これが成り立つとき、この数列は、n→∞の極限において、1に収束する、という。平たく言えば、この数列は1に限りなく接近していっている、ということである。この状態をもって、9の列が無限に続く場合には、その値はぴったり1になっている、と解釈していいのではあるまいか。

まあ、そういうことである。歯切れ悪くてすいません。だって、無限の彼方の出来事なんて、オレにだってよく分かんないんだもん。

このあたりで、イヤ〜な悪魔が、ちょろっ、ちょろっと顔を出してきているな〜、って感じがしませんか?

数学って、本当にいつでも白黒の決着がはっきりつくような健全な学問なんだろうか、と、疑念が頭をもたげてきていませんか?

●こんなのはまだまだ序の口

数学を専門としない、一般の方々の多くは、数学に対して、常にものごとの白黒をはっきりとつけることのできる、明晰な学問というイメージをお持ちのようですが、実際に数学の中へ立ち入ってみると、あんまり健全でない妖怪みたいなやつが住みついてたりする気配が漂ってくることもあるのだとほのめかし、単純すぎるイメージに疑問を投げかけたく、本稿を書き起こしたわけです。

で、手始めに、自然数における、無限の彼方に住んでいそうな悪魔を召喚してみたわけです。任意の自然数nに対して、ある命題P(n)が成り立っているからといって、nが有限の域を超えて、ほんとうに無限の彼方まで飛び去っていったとき、P(n)は真なのか偽なのか、有限な存在であるわれわれに知る手段があるのだろうか、という疑問です。

ほんのちょっとだけでも、冷やっとした風を感じ取っていただき、ゾクゾクっ
としていただければ狙い通りなのですが、いかがでしたでしょうか。

ここまでのお話に出てきたやつは、数理体系の中に住む不健全な妖怪変化のうちでも序の口で、まだまだかわいいほうなのです。

もうちょっと深い藪の中にまで足を踏み入れていくつもりで書き始めましたが、気がついてみると、もうずいぶんな分量を書いてしまいました。

なので、このへんでいったん区切り、続きの、もっとヤバい話は、またいつか、できればそんなに遠くないうちに、書きたいと思います。

ここでは、その予告編みたいな感じで、あらすじ的な、話の見通しを書いておこうと思います。

まず、可算無限の話ですね。100に1を足して101を得れば、元の100よりも確実に1だけ大きくなっています。ところが、話が無限の世界に及ぶと、1を足したぐらいでは焼け石に水で、ちっとも増えていきません。

その感じを数式っぽいもので表すと、

  ∞ + 1 = ∞

となります。

しかしながら、そういう数式を実際に書いてはいけないことになっています。というのも、上記の数式の両辺から ∞ を差し引くと、

  ∞ + 1 ─ ∞ = ∞ ─ ∞

となり、(∞-∞)の部分を0で置き換えると、結局、

  1 = 0

となってしまいます。これは本当の矛盾です。これを引き起こさないために、最初の式を書いてはいけないことになっているのです。でも、気持ちはその数式に表れている通りです。

じゃあ、その数式さえ書かなければ安全かと言えば、そうでもなく。満室だったホテルに空室を作るトリックが生じたりします。

1を足してもちっとも増えないのであれば、2倍ぐらいしてみれば増えるかと思いきや、やっぱり増えません。

これは、割と深刻な問題を引き起こします。部分と全体が等しくなってしまうという問題です。

自然数は奇数と偶数とに分類でき、交互に出てくる以上、個数は半々であろうという感じがします。ところが、自然数全体と偶数全体との間に一対一の対応関係をつけることができてしまう。

つまり、全体と、その半分くらいを占めるはずの一部分とが、同じになってしまうという問題です。そういうもんだ、ってことで受け入れちゃえば、問題ないとも言えますけど。

さらに、無限倍しても、実は、ちっとも増えていない。

そうであってみれば、無限というのは特別なもんで、もはやどう料理しても、これ以上大きくなることはないもんなんだ、と思いたくなるでしょう。ところが、その期待が、裏切られます。

2の肩に乗せて、「2の∞乗」とやると、元よりも大きくなっています。

無限と無限とを比較して、一方が他方よりも大きいということがある、ってわけです。こんなのは、もはや、われわれが直感的に把握できる範囲を遥かに超越しています。

これを証明するのに「対角線論法」というのを使います。同じ論法は、「ゲーデルの不完全性定理」の証明の中でも使われています。

このあたりでも、すでに、そうとうイヤな地獄を垣間見た気になるものですが、さらにやっかいなやつが控えています。

「選択公理」ってやつです。ラスボスみたいに、手ごわいやつです。公理として採択すべきか、棄却すべきか。有限しか見えないわれわれにはさっぱり分かりません。イデア界では、いったいどうなっているのでしょう。

というか、ここまで来ると、数学って本当にイデア界が舞台なんだろうか、って、依って立つべき基盤が、そこまでぐらついてきます。

数学という学問の、イヤ〜な限界を見てしまった感じがします。うー、数学のやつ、完全無欠の美を体現した女王かと思ってたら、意外と中身は病んでんじゃん、みたいな。

というわけで、続きをお楽しみに〜。待ち遠しいという方には、下記の本がお薦めです。

遠山 啓(著)『無限と連続 - 現代数学の展望』岩波書店(1952/5/10)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004160030/dgcrcom-22/



【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
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スペインのマドリードに行ってきました。2月11日(土)、12日(日)に開催された漫画・アニメ・ゲーム系のイベント「Japan Weekend Madrid 2017」に参加するためです。

2014年9月にも、同じイベントに参加してましたけど、会場の広さといい、来場者数といい、規模が三倍くらいになってました。フランスの「Japan Expo」に迫る勢いです。

国営テレビの生中継に映ってきました。帰りの出国審査で、審査官の人が「昨日テレビ見たよー」と言ってくれました。

写真:
https://goo.gl/photos/Ss5PL92vGqEHky3E6