[4310] 機関車を寄りで見る。の巻

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《ナールとゴナの時代があった》

■わが逃走[198]
 機関車を寄りで見る。の巻
 齋藤 浩

■もじもじトーク[59]
 ナール、ゴナという書体、知ってますか?
 関口浩之





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■わが逃走[198]
機関車を寄りで見る。の巻

齋藤 浩
https://bn.dgcr.com/archives/20170323140200.html

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電気機関車もディーゼルも前後対称形のものがほとんどだが、蒸気機関車には前と後がある。

ピストンのリズムは心臓の鼓動や息づかいのようだし、ボイラーは円筒状なものだから、その前面はどうしたって顔に見えてくる。

トーマスも、やえもんも、八ヶ岳野辺山牛乳の微妙なヤツを見てもわかると思うが、ディフォルメとか擬人化とか言う以前に、それはもう顔でしかないのだ。

だからなのか、子供の頃から蒸気機関車には親しみを感じていた。

そして実際に初めて動く蒸機を見たときは、大げさでなく、しびれた。

「この機械は生きている!」と思ったのだ。

あれから約40年経つが、いまでもたまに生きている蒸機に会いたくなる。

で、今回たまたま大阪で仕事があったので、その帰りに京都鉄道博物館に寄り道してきた。

この施設はもともと梅小路機関区だったところを、そのまま博物館としたもの。本線直結の転車台を中心に扇型の車庫が配置され、その中に20両近い蒸機が今にも動き出しそうな雰囲気で展示されている。

そのうちの一両には常に火が入れられ、来場者は視覚だけでなく、独特の息づかいや匂いも体感できるのだ。

当然カメラ片手に京都へと向かったわけだが、蒸機の写真を撮る度に思うのは、どこかで見たような、ありがちな構図になってしまうことだ。

あこがれの“きかんしゃ”に会える喜びで冷静さが吹き飛んでしまい、どうにも当たり前っぽい写真ばかりが増える傾向にある。

そこで今回は自らルールを定めた。「寄りで撮る!」である。

蒸気機関車は機能する部品の集合体だ。ひとつひとつに役割があり、機能している。それらをじっくり観察し、力の伝達が想像できるような写真を撮ろう! と意気込んでみたが、さてどうなったことでしよう。

こうなったのです。細かい部品の機能や名称は全くわかりませんので、解説はほぼナシです。

https://bn.dgcr.com/archives/2017/03/23/images/001

C11。この程度の寄りっぷりだと、まだ蒸機の写真であることはわかる。

https://bn.dgcr.com/archives/2017/03/23/images/002

9600。配置される度にその地に必要なパーツを追加していき、巨大な違法建築のようになっていったのか?

https://bn.dgcr.com/archives/2017/03/23/images/003
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クランクを眺めつつ、動力の伝達を想う。

https://bn.dgcr.com/archives/2017/03/23/images/005

カッコいい棒。

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なんだかよくわからんが、軸。

https://bn.dgcr.com/archives/2017/03/23/images/008
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表面がデコボコなのが好ましい点。


【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
http://tongpoographics.jp/


1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。


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■もじもじトーク[59]
ナール、ゴナという書体、知ってますか?

関口浩之
https://bn.dgcr.com/archives/20170323140200.html

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こんにちは! もじもじトークの関口浩之です。今回は「ナール」と「ゴナ」についてお話します。

「ナールってなに?」「ゴナってなに?」って思った人、多いのではないでしょうか・・・・・・。

新種の野菜? それとも女子高生が使う流行り言葉?

「ナール」と「ゴナ」が書体名だと即答できた人は、印刷関係に携わっている方、もしくは書体が好きな方だと思います。

それでは、ナールとゴナという書体をご紹介します。
https://goo.gl/tZNsPP


この二つの書体を見て、「普通の丸ゴシック体と普通のゴシック体じゃん」と感想を持つ人が多いと思います。はい、それも、正解です。

でも、この二つの書体、日本語フォントの歴史上、ターニングポイントになった書体なのです。「ナール」と「ゴナ」という書体は、1970年代に発表されたました。

つまり、今から約45年前に制作された書体ということです。読者の中には、まだ生まれていない人もいると思います。では、当時の時代背景を考察しながら、お話を進めていきたいと思います。

●ナールとゴナが誕生した時代は……

これら書体を制作したのは、中村征宏さんという書体デザイナーです。前回の『筑紫書体の魅力について』のお話の中で、ナールについて、少しだけご紹介しました。

この二つの書体が誕生したのは1970年代ですので、まだ、DTP(デスクトップパブリッシング)が普及していない時代です。

僕は1960年生まれなので、ナールとゴナが誕生した当時、群馬県で高校生していました。

お小遣いを貯めて、桜田淳子や麻丘めぐみのレコード買って、「このジャケットの文字がかっこいいなぁ〜」と思ったりしたかもしれませんが、それらの書体にナールやゴナが使われていたとは、当時、気付きもしませんでした。

当時、「おっ、このキャッチコピーに、ゴナU、使ってるね」と分かる高校生は、まず、いないと思います……。

ところで、1970年代の書籍や雑誌、そしてレコードジャケットなどは、どのように「組版」されて印刷されていたのでしょうか?

※「組版」を、わかりやすく説明すると、文字や図版などを配置して紙面を構成する作業のことをいいます。活版印刷の活字を並べて結束糸で縛ったものを「組み版」と呼んだことに由来すると言われています。

●DTPソフトが登場する前は、どうやって組版していたの?

現在、雑誌や書籍を組版するための代表的なDPTソフトと言えば、Adobe InDesignになるかと思います。

そして、今から10年ぐらい前まではQuark XPressが全盛期の時代があり、その前は、アルダス社のPageMakerというDTPソフトが代表選手だったと記憶しています。

振り返ってみると、日本語を使って印刷物をパソコンで組版するようになったのは1990年前後と思われます。活字印刷の起源を15世紀のグーデンベルグ印刷術と考えると、DPTの歴史はたった30年ぐらいであり、まだまだ浅い歴史と言えますね。

では、それ以前は、どうやって、組版していたのでしょうか?

みなさんは、「写真植字」(略して写植)と言葉を聞いたことがありますか? DTPが普及する前は、写真植字機という装置で組版をするのが一般的でした。

写真植字機は、1924年に石井茂吉氏と森澤信夫氏により開発されました。そして、写研の前身である写真植字機研究所が1926年に設立されるのです。

では、写植とは、どんな感じで組版されるのか理解するために、こちらの写真をご覧ください。
https://goo.gl/VkBy3e


写植とは、文字盤で選んだ文字に、光源からの光を当てて(射て)印画紙に文字を一字ずつ焼き付けて、版を作る仕組みです。文字盤の文字が白抜き状態(ネガフィルムのような感じ)なので、光を当てると印画紙が文字が焼き付くのです。

モノクロ写真を紙焼きしているイメージです。僕は高校生の頃、天体写真をやっていたので、ネガフィルムに写った土星を印画紙に引き伸ばして焼き付けるという感覚だと感じました。

土星や木星ではなく、文字を紙焼きすると思えばいいですね。

写植における文字間や行送りは歯単位(1H=0.25mm)で調整できます。そして、文字盤にあるひとつの文字サイズから拡大調整(1Q=0.25mm)できるのです。

1950年代から雑誌が世の中に普及するにつれて、写植機も手動型から電算型に進化を遂げたました。当時の代表的な雑誌といえば、『暮しの手帖』ですね。

僕自身、写植機の展示を見たことはありますが、実際に使って組版したことはありません。写植機を操作してるすごい職人技の動画を見つけましたので、ぜひ、ご覧ください。
https://goo.gl/zOus56


メインプレートとサブプレートと呼ばれる文字盤から、瞬時に文字を拾う作業には、感動しました!

●ナールとゴナが大流行

写植で使われる書体と言えば、1960年代までは、石井○○という書体が中心だったと思います。僕が思い浮かぶ書体を並べて見ました。

1930年代 石井中明朝
1950年代 石井中ゴシック/石井中丸ゴシック/石井中教科書
1960年代 上記各書体の太ウエイト/特太ウエイト、岩田新聞明朝

それまでの明朝/ゴシック/丸ゴシックと言えば、これらの書体が一般的だったと思われます。

そんな中、中村征宏さんが制作した「ナール」が1972年に、第1回石井賞国際タイプフェイスコンテストで第1位を獲得し、翌年、手動写植機用文字盤として発売されました。

そして、その後、1975年に「ゴナU」が登場するのです。

そこで、僕が持っている写真植字の見本帳(1977年版)から、従来の写植文字と、中村征宏さんが制作した「ナール」と「ゴナU」を引用して紹介します。
https://goo.gl/WmqutZ


これをみると、「ナール」と「ゴナ」は、従来の文字と比較してモダンであり、インパクトがあり、優しさも感じられます。それでいて、とてもバランスがいい書体なのです。

1970年代にアートディレクションをしていた方から、「こういう書体を待っていた」「この二つの書体に未来を感じた」「ナールとゴナに衝撃を受けた」という、当時の感想をよく耳にしました。

そして、1970年代の代表的な写植文字を掲載しましたが、ほとんどが中村さん
の書体のウエイト展開になっています。

1973年 ナール
1974年 ナールD
1975年 ゴナU、ナールL、ナールM、ナールO、本蘭明朝L
1977年 ナールE
1979年 ゴナE、ゴナO

その時代のニーズとして、ナールとゴナという書体を求めていたということが、良くわかります。

デジタルフォントが登場する1990年代までは、この二つの書体は、雑誌に限らず、広告、ポスター、鉄道のサインシステム(案内板)など、あらゆるシーンで使われるようになりました。また、テレビのテロップなどでもたくさん使用されていたようです。

先ほどの文字見本をよくみると、ナールもゴナも、仮想ボディ(正方形の枠)に対して字面(実体として文字)はかなり大きめに設計されています。

そのため、視認性(ぱっと見てすぐ分かる)がとても良いのです。かといって、字面が大きければいいというわけではなく、縦組みでも横組みでも文字を並べた際に、調和が取れるように緻密に計算されているのです。

●中村征宏さんにお会いして

先月の2月26日に、大阪で開催された『和文と欧文』セミナー、〜看板文字と中村書体・ナールとゴナと中村書体〜に参加しました。
http://www.wabun-oubun.net/event_info/archives/241/


以前から、ナールとゴナは、とても気になる書体だったので参加しました。実際に中村さんのお話を聞いて、45年前に制作された書体がますます身近に感じられ、とても幸せな一日でした。

当時の書体制作は、筆とガラス棒と溝引き定規を用いた完全なハンドワークでした。まだパソコンのなかった時代です。

中村さんは写植文字の設計に携わる以前、看板職人業に携わったり、テレビのスーパーやテロップの手描き文字を手掛けていたとお聞きしました。

限られたスペースの中で、見やすい文字はどうあるべきか、べた組みでもバランス良く調和できる文字とは、を40年前に設計していたことを知り、本当に驚きの連続でした。

「ナール」の誕生以降、多彩なバリエーションの書体、そして、いままでになかったデザイン書体などが加速的に増えたような気がします。

中村さんの「ナール」という書体の登場が、それ以降の写植書体、そして多種多様なデジタルフォント時代に向けてのターニングポイントだったのかもしれません。


【せきぐち・ひろゆき】sekiguchi115@gmail.com
Webフォント エバンジェリスト
http://fontplus.jp/


1960年生まれ。群馬県桐生市出身。電子機器メーカーにて日本語DTPシステムやプリンタ、プロッタの仕事に10年間従事した後、1995年にインターネット関連企業へ転じる。1996年、大手インターネット検索サービスの立ち上げプロジェクトのコンテンツプロデューサを担当。

その後、ECサイトのシステム構築やコンサルタント、インターネット決済事業の立ち上げプロジェクトなどに従事。現在は、日本語Webフォントサービス「FONTPLUS(フォントプラス)」の普及のため、日本全国を飛び回っている。

小さい頃から電子機器やオーディオの組み立て(真空管やトランジスタの時代から)や天体観測などが大好き。パソコンは漢字トークやMS-DOS、パソコン通信の時代から勤しむ。家電オタク。テニスフリーク。


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編集後記(03/23)

●山本夏彦「完本 文語文」を読んだ(2000/文藝春秋 2003/文春文庫)。「祖国とは国語である」「日本人は文語文を捨てて何を失ったか」と帯にある。言語・文章に関する著者の主要コラムを一冊に編んだ日本語論だが、正直、手強い。わたしの粗末な知識ではついていけぬところが多いが、不思議に気持ちよく面白く読めてしまうのだ。この本は愛玩用に文庫を求めなければなるまい。

明治の初めは文章家と呼ばれる人々がいた。小説家ではない。小説家は戯作者に近く、売文の徒で堅気ではなかった。文章家の資格は漢学、和文、欧文の素養がなければならなかった。中江兆民は第一流の文章家で、幸徳秋水はその高弟で共に土佐の人である。兆民が55歳で死ぬまで秋水はかわらぬ愛弟子だった。

田中正造は志士仁人である。足尾鉱毒事件の救援に奔走したが、議会に訴えても甲斐なく、この上は明治陛下に直訴するよりほかないと、正造は暮夜ひそかに秋水の門を叩いた。秋水に直訴状を起草してもらうためである。臣正造が書くのが本来なのだが、陛下に奉る書面はまた格別である。深い漢字の素養がないと書けない。文字を識る秋水を見こんで頼んだのである。

懇望されて秋水は承知する。字句をよく吟味して書き改めること両三度。秋水はすでに「主義者」に近かった。後に「大逆事件」で刑死する秋水が、謹んで訴状を書いている図を思うと一明治人を見る思いがある。山本はこの話が好きらしく二、三度出てくる。何度読んでも、いい話だなあと思うのだった。

山本は兆民を秋水の師匠として知る。「秋水は齋藤緑雨の、緑雨は内田魯庵の紹介で知った。みんな故人である。私は死んだ人の紹介で死んだ人を知ったのである。それはいま生きている人の紹介で、生きている人を知るのと少しも変わらない。生きている人は死んだ人を区別しすぎる。私は区別しないから故人と往来すること今人のようである。人が私を半分死んだ人というゆえんである」。

まことに芋づる式に知りあいを得ている。生きている人も死せる人も同じ。特殊な才能である。「今人のうちに友が得たければ、古人にそれを求めるよりほかない(略)本を読むことは死んだ人と話をすることで、私は本によって大ぜいではないが、何人かの友を得た。二葉亭も魯庵もその一人である」

山本は二葉亭が好きだから「話しているうちに懐かしさにたえかね、何かが乗り移ったようになることがある。それが聞き手にも乗り移って、つい今しがた別れた友を語っているように聞こえるらしい。わたしが二葉亭を珍重おかないのは、彼が矛盾と撞着に満ちた人だからである。空想家でありながら、空想家ではないと言いはってきかない人だからである」。二葉亭、読まねばならぬ。

山本は大正に生まれ昭和に育った。二葉亭の実物を知るはずがない。それなのに知っているのは、内田魯庵の本を読んだからだ。「生きている人より死んだ人と知りあいになるとは不思議である。これによって、生きている人はかならずしも生きていないことが分かる」。前段は理解できる。後段は何言ってんだと思うが微笑ましい。山本夏彦は2002年10月23日、87歳で亡くなった。 (柴田)

山本夏彦「完本 文語文」文春文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167352168/dgcrcom-22/



●ジョーシンからDMハガキが来た。店舗リピーターの時は、封書DMがしょっちゅう届いていたけれど、今はネットでのお買い物に移行してしまい、DMはご無沙汰だった。

宛名の下には「平成29年3月でお客様のお持ちのポイントの有効期限が切れます!」「お客様は500ポイント以上保有しています!」とあった。私の保有ポイントは850ポイント。

なんて親切なんだろう。友人や家族は、あそこやあそこで、3,000ポイント以上失効したというのに。それを聞いてから、数十ポイントであっても速攻使うことにしている。合い言葉は「ポイントに利子はつかない」だ。

利用するのを忘れて年会費を請求されてしまい、速攻解約したポイントカードがあるぞ。お店が悪いわけじゃないんだけれど、失効したところのお店は、今後使いたくないという話もよく聞く。ポイントは諸刃の剣だ。続く。 (hammer.mule)

ジョーシン
http://joshinweb.jp/