[4321] 無限に膨れるものでも無限の彼方に消せるのか

投稿:  著者:  読了時間:26分(本文:約12,800文字)



《あきらめて受け容れるという道》

■ Otaku ワールドへようこそ![253]
 無限に膨れるものでも無限の彼方に消せるのか
 GrowHair



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■ Otaku ワールドへようこそ![253]
無限に膨れるものでも無限の彼方に消せるのか

GrowHair
http://bn.dgcr.com/archives/20170407110100.html
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前回、脇道に逸れましたけど、今回は、その前に二回にわたって書いてきた数学話の続きです。

●前回の復習:無限に1を足しても焼け石に水

隔週で書いてるので、一回抜けると一か月経っちゃいます。これまでの流れを思い出していただき、続きの話にすっと入っていっていただけるよう、軽く復習しておきましょう。

数学というのは、一般的には、かっちりとした論理によって構築され、疑義を差しはさむ余地のまったくない学問体系のように思われがちなようで、実際、そこを旨とするのには間違いないのですが、しかし、掘り下げていくと、どうもスカッと割り切れない、もやもやっとした、なんとも言えない気持ちにさせてくれる領域に行き当たります。

私はそれを「数学の悪魔」と呼びます。この悪魔は、無限の彼方からやってきます。つまり、有限の記憶容量と有限の時間しかもたない存在であるわれわれ人間が、無限の領域を扱おうとすると、直感的な把握の追いつかない、日常感覚からかけ離れた現象を見ることになる、ということです。

その一例として、可算無限に1を足したぐらいじゃ、焼け石に水で、ちっとも増えていかない、というのを見てきました。有限の世界だと、10よりも11のほうが大きいし、100よりも101のほうが大きいし、1000よりも1001のほうが大きいのですが、話が可算無限に及ぶと、そうはいかないのでした。

で、「無限ホテルのパラドックス」のような話が出てくるわけです。が、これは、本当の意味のパラドックスではなく、可算無限とは、そういうもんだよね、で済ませれば済んじゃう話なのです。

詳しくは、前回のを読み返していただけると。
http://bn.dgcr.com/archives/20170310140100.html

さて、今回は、可算無限を2倍しても、やっぱり増えていかないという話をします。

●変な話、その4、無限は2倍しても増えない

「その4」としたのは、前回からの通算番号です。

本稿内だけのローカルルールとして、n以下のすべての自然数からなる集合をNnと表記することにしたのでした。数式で書くと、

Nn = {x ∈ N | x ≦ n}

となります。N10 を要素で書き出すと、

N10 = {1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10}

です。

ここで、もうひとつ、ローカルルールを導入します。

n以下の自然数のうち、偶数であるものすべてからなる集合をEnと表記することにします。

Eは、「偶数」という意味の英単語"even"の頭文字を取ってきています。

たとえば、E10を、その要素を書き並べる形式で表記すると、

E10 = {2, 4, 6, 8, 10}

となります。

N10の要素の個数が10個あるのに対し、E10の要素の個数は5個なので、N10のほうが5個多いのは一目瞭然ではありますが、あえて、個数を勘定する手を使わず、前回見た「玉入れ」の勝敗決定方式で見てみます。

1 ∈ N10 と 2 ∈ E10 とを対応させ、
2 ∈ N10 と 4 ∈ E10 とを対応させ、
3 ∈ N10 と 6 ∈ E10 とを対応させ、
4 ∈ N10 と 8 ∈ E10 とを対応させ、
5 ∈ N10 と 10 ∈ E10 とを対応させます。

すると、N10の中には、対応させるべき相手がE10の中には存在していなくて、あぶれている要素があります。

6∈N10に対しては、12を対応させたいところですが、12はE10の要素ではありません。同様に、7,8,9,10∈N10にも、対応すべき相手がE10の中にいません。

なので、N10の要素の個数は、E10の要素の個数よりも多いことが確認できた、というわけです。数式で表すと、

| N10 | > | E10 |

となります。

では、次に、N100とE100とを比べてみましょう。

先ほど、相手が不在だった6という要素には、今度は12という要素と対応づけすることができます。7,8,9,10に対しても、それぞれ、14,16,18,20と対応づけることができます。

そこだけは解決したかのようにみえますけど、もっと先のほうで、ひどいことになっています。

先ほどと同様に対応づけしていくと、
1 ∈ N100 と 2 ∈ E100 とを対応させ、
2 ∈ N100 と 4 ∈ E100 とを対応させ、
3 ∈ N100 と 6 ∈ E100 とを対応させ、
4 ∈ N100 と 8 ∈ E100 とを対応させ、
...
48 ∈ N100 と 96 ∈ E100 とを対応させ、
49 ∈ N100 と 98 ∈ E100 とを対応させ、
50 ∈ N100 と 100 ∈ E100 とを対応させます。

ここまではうまくいってますけど、次に、

51∈N100に対応する相手を見つけようとすると、102はもはやE100の要素ではありません。51から100までの数が、相手に恵まれず、余ってしまいます。

あぶれる要素が、先ほどは5個だったのに対して、今度は50個に増えています。

目先の問題を解決しようとしたけど、実はちっとも解決になってなくて、全体的には問題がいっそう悪化してた、みたいな感じです。

借金を返そうにもお金がないもんだから、別のところから借金して返済に充てた、そしたら、全体的には、借金はいっそう増えてた、みたいな話です。

N1000とE1000とを比べてみると、余るのは501以降の500個で、たしかにだんだん遠のいていってはいるものの、個数としては増えていっています。

では、話を無限集合へと振ってみると、どうなるでしょう。前回は、「常に一個だけ余る」という状態がどこまで行っても続き、その余っている一個はどんどん遠ざかっていったのでした。そして、話を無限集合へ持っていったとたん、その余った一個は消滅したも同然、となったのでした。

今回のケースでは、余っている要素がぶーぶー膨れ上がりながら、どんどん遠ざかっていきます。一気に話を無限まで持っていくと、問題の余剰要因も無限に膨らんでいきそうです。そんなにでっかくなっちゃっても、「無限の彼方」という名のゴミ箱に、捨て切れるでしょうか。

自然数全体の集合Nと、(2以上の)偶数全体の集合Eとを比べてみましょう。

1 ∈ N と 2 ∈ E とを対応させ、
2 ∈ N と 4 ∈ E とを対応させ、
3 ∈ N と 6 ∈ E とを対応させ、
...

これ、どこまで行っても、対応する相手にあぶれることはなく、だいじょうぶですね。

つまり、NとEとは、「個数が等しい」と言っては語弊があるので、正確には「濃度が等しい」ってことになります。

自然数全体からなる集合Nに対し、その要素を一個置きに間引いていって、半分に減らすことによって得られるのが偶数全体からなる集合Eなわけですが、実際には、ちっとも減ってなくて、過不足なく一対一に対応づけができちゃった、ってことです。

逆向きに見ると、Eの要素を2倍してNを得たとしても、ちっとも増えていない、ってことになります。

前回の例では、無限大に対して1なんて、相対的に小さすぎて焼け石に水、無に等しいって見方もできたのですが、今回の例では、無限大に対して、自分と同じ大きさのものが、消えてなくなっちゃいました。

自然数全体は、奇数と偶数に分けることができ、ちょうど半々になっていることを考えると、感覚的には、1足す1が1になったみたいな感じです。

●鳥と足輪にたとえてみましょうか

こういうたとえはどうでしょう。

鳥の生態を調査しようと、そこらにいる鳥を捕まえて、発信器つきの足輪を取り付けて再び逃がすことにしたとしましょう。

最初、足輪を5個用意しました。そしたら、鳥は10羽捕獲できちゃいました。

次に、足輪を50個用意しました。そしたら、鳥は100羽捕獲できちゃいました。

次に、足輪を500個用意しました。そしたら、鳥は1000羽捕獲できちゃいました。

これじゃ埒が明かないってんで、足輪を可算無限個用意しました。そしたら、鳥は、その2倍捕獲できちゃいました。けれども、今度は、一羽も余すことなく、すべての鳥に足輪をつけることができました。

●というか、無限ホテルでよかった

可算無限個の客室をもつホテルがあるとしましょう。いま、このホテルが満室だったとしましょう。

可算無限人の旅人がぞろぞろぞろぞろやってきて、泊めてくれと言います。

支配人は、1号室の客を2号室に移し、2号室の客を4号室に移し、3号室の客を6号室に移し、...n号室の客を(n×2)号室へ、...と順番に移します。

すると、もともと部屋を埋めていた客はすべて偶数号室に移り、すべての奇数号室が空きました。そこへ、新たに着た旅人たちを入れることで、すべての客を宿泊させることができました。めでたし、めでたし。

●問題を有限の範囲に押し込めてみる

さて、無限は2倍してもちっとも増えてない、というこのパラドックスめいた問題を、本質的なところはいじらずに、別の形に仕立て直してみましょう。

今までの形だと、われわれの手の届かない遥か遠いところに大きなゴミ箱があり、余ったものはそこへ捨てちゃえば、消えてなくなったのと同じ、という感覚でした。

しかし、実は、問題をもっと手近な範囲内に押し込めてしまうことも可能なのです。

長さ1の線分を考えてみましょう。

「線分」について説明を加えておきますと。「直線」と言ったら、それは両側に無限に延びてなくてはなりません。直線を、ハサミで2回、チョキン、チョキンと切ると、両端のある、有限の長さの一部分を切り取ってくることができます。これが「線分」です。

長さについては、より具体的にイメージしたければ、単位としてセンチメートルやインチや寸などをくっつけてもいいのですが、ここは物理ではなく数学なので、単位なしでいきましょう。

もとの直線を数直線だと思えば、そこから切り取ってきた長さ1の線分とは、0以上、かつ、1未満の区間内にあるすべての実数に対応します。

この、長さ1の線分をl1と呼ぶことにしましょう。「線分」は英語で "line segment" と言うので、その頭文字を取ってきています。なぜか知らないけど、小文字で表記するのが慣例です。

この線分l1を、いま、コピー&ペーストして、2つに増殖させましょう。得られた2つの線分を縦につなぎ合わせると、長さ2の線分ができます。これを線分l2と呼ぶことにしましょう。

ところで、線分は、点の集まりで構成されています。数直線から切り取ってきたものだと思えば、線分l1を構成する一個一個の点は、0以上1未満の一個一個の実数に対応します。

含まれているのは、たとえば、1/2, 4/5, 12/37, 392587/1000000,√2 - 1, π - 3, cos(41°) などです。

線分は、有限の長さの中に点がみっしりと詰まってできており、その点の個数は無限大です。

さて、線分l1から線分l2を作った過程を思い起こしてみると、線分l2を構成する点の個数は、線分l1に対して2倍に増えているはずです。

では、次のようにしたら、どうでしょうか。線分l1は、素材として、ゴムひものような、伸縮性のもので出来ているのだと想像してみましょう。

線分l1の両端をつまんで、ぎゅっと引き伸ばします。長さが2になるまで引っ張って、得られたものをl2'と呼ぶことにしましょう。

ゴムひもだと、引っ張った分、幅が細っていきますけど、線分はもともと太さがゼロなので、引っ張ったからといって、これ以上痩せ細ることはありません。

線分l1を引っ張って伸ばして線分l2'を作っているので、線分l2'を構成する点の個数は、線分l1と同じであるはずです。

実際、線分l1の任意の点に対応する実数の値を2倍することによって得られた実数を線分l2'の点に対応させれば、線分l1上のすべての点は、線分l2'上のすべての点との間に一対一の対応づけができていることになります。

線分l1をコピペしてつなげて作った線分l2に比べて、引き伸ばして作った線分l2'は、密度が半分に減っているような感じがします。

じゃあ、線分l2と線分l2'とは、別物なのでしょうか。

いやいや、長さが2の線分は長さが2の線分であって、密度が濃いやつと薄いやつみたいな区別があるわけではありません。

線分l2と線分l2'は、同一のものです。

ここに、やはり、無限は2倍しても、ちっとも増えていっていない、という現象を見ることになります。

先ほどは、余った半分を無限の彼方に捨てに行っていたように見えましたけど、今度は、見ている目の前の、有限の範囲内で、すべてのコトが起きています。

ここにおいて、ちょっと深刻な問題が発生しています。「部分が全体に等しい」という問題です。

線分l2から線分l1を見ると、ちょうど半分からなる一部分です。であるにも関わらず、構成する点の個数はちっとも減っていませんでした。つまり「部分が全体に等しい」ってことです。

これをどう考えたらいいのでしょうか。

たしかに、部分が全体に等しいなんて、おかしい気がします。われわれの日常生活から帰納的に得られる直感的な経験則に反するような気がします。

では、はっきりと矛盾が生じたということでしょうか。いやいや、そうとも言い切れないのです。

●あきらめて受け容れるという道

以前、ものごとには2種類の理解のしかたがある、ということを言いました。分数の割り算は、分子と分母をひっくり返して掛ければいいのはなぜか、を解説したときです。2016年05月13日(金)配信号で、でした。
http://bn.dgcr.com/archives/20160513140000.html

再掲してみましょう。

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ひとつは、腑に落ちたという納得感と爽快感を伴い、あたかも自転車の乗り方のように、自分のものになったという理解のしかた。「ユリイカ!」と叫んで、素っ裸で街を駆け抜けたくなるアレですね。

もうひとつは、きちんと証明されちゃった以上、いやがおうにも受け入れざるをえないという、不承不承の気持ちの残る理解のしかた。

「オレの論理の筋道のどこに欠陥があるか見つけて指摘してみろ。できないのなら、受け容れろ」と喉元に突きつけられて、「はい、どこにも欠陥は見当たりません」と屈服させられる感じ。

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いま、われわれが直面している「部分が全体に等しい」という問題は、後者に属します。

直観的には、どうにもこうにも受け容れがたいのだけど、かと言って、追ってきた論理の道筋に欠陥があるようにも思えません。

われわれ人間は、しょせん、有限の記憶容量と有限の時間しか持たない存在にすぎないわけで、無限の世界のことなんて、そもそも分かりようがないのです。そこをまず、あきらめる必要があります。

分からないなりに、論理の力を頼りに、無限の世界を解き明かそうと、数学方面から攻めていって、分かったことが、これだった、ってわけです。

一見、矛盾するようにみえるけれども、コンフリクト(食い違い)が起きているのは、論理と論理との間でのことではなく、論理と直観との間のことです。その場合、直観は論理に道を譲り、屈服するしかないのです。なんか、もやもやが残りはしますけど。

結局、これは矛盾でもなんでもなく、無限集合っていうのは、そういうもんだよね、で片づけちゃえば済む問題なのです。数学では、こういうことがちょくちょく起きます。

次回以降、話がどんどんクレイジーになっていきます(予定)。

無限よりもいっそう大きな無限が存在するとか。それを証明するときに使う、「対角線論法」という手法は、ゲーデルの不完全性定理を証明する際にも使います。

バナッハ・タルスキーの定理も、かなり“キテ”ます。1個のリンゴをバラバラに切り分けて、得られた破片をつなぎ合わせると2個のリンゴになっているという、トリックです。

●昔から知られていた

鎌倉時代に日本において曹洞宗を開いた道元は、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』と題する95巻からなる書物を遺しています。

これは、自分用の講義ノートみたいなもんで、公開するつもりはなかったようです。道元の死後、弟子たちが師匠の持っていたメモをかき集めて編纂したものらしいです。どさくさ紛れに、師匠が言ってないことまで書き加えられてるっぽいですが。

それはともかく、もともと読まれることを前提として書いていないので、読んでもさっぱり分かりません。さらっと読んだのでは分からないので、一言一言分析するように精読しても、やっぱり分かりません。むしろ、語呂に詩のような芳醇な味わいがあります。

想像力を働かせて、自己流で勝手に補いつつ、風味を楽しむように読むのがいいのかもしれません。

『正法眼蔵』のうちでも、中心的な教えが説かれているのが『現成公案(げんじょうこうあん)』の巻であると言われています。

そこには、おおよそ次のようなことが書かれています。もちろん、ケバヤシ解釈です。

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宇宙の根本原理を知りたかったら、まず、宇宙の隅々まで旅して、どこがどうなっているのかをくまなく観察して来なくてはならないのか。いやいや、そんな必要はない。

宇宙を構成する一点一点のすべては、みずからの心の中の一点一点との間で過不足なく一対一に対応がとれている。なので、みずからの心の中をくまなく精査すれば、それがすなわち、宇宙の隅々まで旅してきたのと等価な意味をもつことになる。

宇宙などという巨大なものが、自分の心の中に入ってくるとなったら、自分が壊れてしまったりはしないのか。いやいや、そんなことはない。

それは、あたかも、静かな水に月が映っているようなものである。水は破れないし、月は濡れない。

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つまり、無限集合においては、全体と部分とが等しいと言っていることが分かります。

禅の教えは、古くから、数学を専門にする者たちの間で好まれてきた傾向があります。数学的な視点から解釈すると、アレのことを言っているのだな、と分かっちゃうところが爽快なんじゃないかと思います。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
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 ◆ギブ・ミー・キャラメル作戦、達成◆

おっさん集団がミニスカ生足で八甲田山に挑んだら全員死んじゃったって話、あったっけ?

昼間のうちは大したことないと思ってたけど、夜になったらやっぱけっこう厳しい寒さだった。地元の人は、これでも和らいできた方だ、って言ってたけど。

前回のプロフィール欄では交通手段のことを中心に書いちゃったけど、3月11日(土)、12日(日)に秋田県の大館に行き、映画館「御成座」で『この世界の片隅に』を見た。

ホール内には、ストーブが三つ置いてある。廊下にもひとつ置いてある。白いウサギが放し飼いになっている。廊下のストーブの前で長く伸びてることが多いけど、人に構われそうになると、立て看板の裏に逃げ込む。

表の看板は、仲谷氏という方による手描きのものだ。どんな映画がかかるときも、絵の中にウサギが描き込まれている。

私がそれを知ったのは、大館駅で帰りの列車を待っているときで、教えてくれる人がいた。まだ30分ほどあったので、映画館まで戻って見てきた。駅へ戻る途中、仲谷氏と偶然すれ違った。

館主のダンナさんは、私の勤め先の上司のダンナさんと従兄どうしであった。いろいろとミラクルの起きる大館。

11日(土)の写真は、こちら。
https://goo.gl/photos/GiCM7rhS2LCVg7mr8

一枚目に、企画のイラストが貼ってあります。御成座でこの映画を見て、同じ映画の上映期間中に「川越スカラ座」に行って、御成座の半券を見せるとキャラメルがもらえるという企画。

12日(日)の写真は、こちら。
https://goo.gl/photos/xd2DH7fUdcg6HnpdA

市街地はきれいに除雪されてるけど、列車でちょっと行くと、50cmぐらい積もっていて、車窓から見える景色が真っ白だ。

さて、3月26日(日)、川越に行ってきた。再上映の二日目。上映前、NHKが取材に入っていて、私がキャラメルをゲットするところも収録された。けど、これ、いつか使ってもらえる機会なんて来るんだろうか。

キャラメル一箱のために、わざわざ大館と川越に行って同じ映画を見てくる人って、いったい何人ぐらいいると思います?

初日に20人、二日目に9人来たという。企画、大成功じゃないかっ!

写真はこちら。
https://goo.gl/photos/d6CrN1SoVrErvCos7

御成座のロビーで北鹿(ほくろく)新聞社から取材を受けていたが、まあ、まずボツるだろうと思っていた。なんと、掲載されちゃった。写真はこちら。
https://goo.gl/photos/szEwquLsrnZLtLxp7


 ◆男一匹猫五匹のおっちゃん、生存確認◆

橋のたもとまでは、かつての上司の上司の上司の上司の上司の上司であるH氏の車に乗せてもらった。

最近購入したという、米国テスラモーターズ製のバッテリー式電気自動車「テスラ Model S」の赤いやつだ。ギアチェンジがないそうで、加速がものすごい。静かだし。

自動運転機能が備わっていて、ソフトウェアだかデータだかのアップデート版が毎週のように送られてくるらしい。けど、高速道路向けであって、市街地ではまだまだらしい。H氏が運転した。

さすが、従業員4万人、年商1.5兆円の企業のお偉いさんだ。たのしい車に乗ってらっしゃる。

傘を差すか迷う程度の小雨。差さないけど。背の高い枯れ草の藪をうねうねと縫うようについている道は、いちおう車の轍がついてるけど、そこらじゅうで分岐してはすぐ行き止まりになってるので、実際に車で分け入るには勇気が要ると思う。

足許が悪くて靴が泥だらけになるけど、気にしててもしょうがない。

5年くらい前は、ホームレスの集落みたくなってた。特に、橋の下。一人あたりの敷地が広いし、犬を飼っていたり、本を読んでたりする人もいて、なんか優雅な暮らしのようにも見えた。

オレも定年退職後は、こんな暮らしをしてみるのもアリなんじゃなかろうかと
ちょっと思っちゃったのだが、4〜5年にわたって見てると、こりゃオレには無
理だと分かる。

生存確率が低すぎるのだ。特に、60歳を過ぎると生き延びるのが苦しくなってくる。市からの立ち退き要請に抗って、最後の一人になるまで橋の下でがんばってたゆうじろうさんも死んじゃったし。栃木県土呂部 (どろぶ)の出身で、「寒いのなんか、平っちゃらだよ」と言っていたんだけどなぁ。

そういうわけで、上田友浩氏(仮名)のことが、けっこう心配になってた。この前、訪ねて行ったのは、2015年7月18日(土)のことだから、もう2年近くになる。2012年の時点で62歳って言ってたから、もう67歳ではないか。

たまーに福祉の人が車で回ってきて、いざとなったらここに電話してください、と紙を置いていくんだけど、それも捨てちゃったっていうし。

「いつ死んでもいいと思ってると、なかなか死なないもんだなぁ」。達観していらっしゃる。

もういないかもなぁ、と思いつつも、いちおう土産にと、酒を持ってきている。前日、新宿の伊勢丹で買っといたやつ。真澄の「夢殿」。以前、学会発表のため、JALのファーストクラスでサンフランシスコまで往復したときに、いろいろ試し飲みしてみた中でもいちばんよかった酒で、自分の中ではオールタイムベストなやつだ。

ゆうじろうさん亡き後、きれいにかたづいて殺風景になってた橋の下を通ると、新たな住人が入居して焚き火をしていた。

上田さんの住居である廃車に行ってみると、おお、ちゃんと、ある。しかも、周辺のものの散らかり方から「生きてる感」がバッチリ漂ってくる。

「上田さーん、いるー?」と声を掛けると、窓が開いた。

いや〜、元気そうでよかった。歯が一本に減ってるし、猫は一匹に減ってるけど。軽く立ち話をして去る。日が暮れるとほぼ完全な真っ暗闇なっちゃうんで、長居はできないのだ。

在りし日のゆうじろうさんと、歯の本数が今よりも在りし日の上田さんの姿は、映像として残っている。VICE、グッジョブ! 再生回数は11万回に及んでいる。


帰りがけ、焚き火の人にも声を掛けてみる。上田さんは、二人いるって言ってたけど? 上を指さす。あ。梁まで登って、巣みたいなものを作って寝てる人がいる。まるで鳥だ。


 ◆森園みるくさん、夫・村崎百郎氏との死別を漫画に◆

漫画家・森園みるくさんの新刊が、スマホ・ガラケー向け電子書籍サイト「めちゃコミック」で先行配信されている。
https://sp.comics.mecha.cc/books/102469

タイトルは、『私の夫はある日突然殺された』。村崎百郎氏が殺された、7年前の事件を題材にしている。

食事に行こうと誘ったけど、珍しくダンナさんは応じず、一人で行って、帰ってきてみると、家の前にパトカーが止まっている。対面したのは、すでに息絶えて横たわるダンナさん。

……という、トラウマチックな経験とよくぞ向き合って、作品化できたもんだ。森園さん、強いっ!

パソコンからは試し読みしかできないので、私はまだ中身までは読めてないんだけど。しかも脇道の感想なんだけど。

「私たちは大の仲良し夫婦だったのです」ってとこに、思わず感心。ダンナさんが、ゴミを漁って掘り当ててきた「お宝」すなわち、かつてどこの誰が着用したとも知れぬパンティーやらブラジャーやらが部屋の中に散乱していれば、多くの場合、家庭争議の元になりかねないと思う。

作者へのインタビュー記事がウェブ版の「サイゾー」に上がっている。これの内容がまたちと怖い。
http://www.menscyzo.com/2017/04/post_13922.html


 ◆川越スカラ座で本宮映画劇場のポスター展開催中!◆

【告知】
4月3日(月)〜14日(金)、「川越スカラ座」のロビーにて、「本宮映画劇場」所蔵映画ポスター展開催中!

川越スカラ座で映画を見て、ロビーでまったり昭和な香り漂うポスター鑑賞をぜひに。本宮映画劇場オリジナル手ぬぐいも販売します。
http://k-scalaza.com/

本宮映画劇場の館主の娘さんである田村U子さんが、私と同じ日に川越スカラ座に行って、ロビーで展示ができることを知り、その場で開催を即決したもの。


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編集後記(04/07)

●阿川佐和子「強父論」を読んだ(文藝春秋、2016)。ここまで愛情をこめてこきおろされては、94歳で大往生した父としてもうれしかろう、阿川弘之。「父はずっと父だった。相変わらず怖くて緊張を強いられる存在だった。しみじみと思い出し、懐かしむ相手にしてはインパクトが強すぎる」。

父について一冊分なんて書けるだろうかと思っていたが、「脳みそを父に集中させてみれば、まるで蛇口の壊れた水道のように、次々とエピソードが溢れ出てくる。あれを書けばあちらを思い出し、これを書き出すと、ついでにあの事件も蘇る」。娘から見ても話題に事欠かない人物だったからいくらでも書ける。

「いったい誰のおかげでぬくぬくと生活ができると思ってるんだ。誰のおかげでうまいメシが食えると思ってる。養われているかぎり子供の人権はないと思え。文句があるなら出て行け。のたれ死のうが女郎屋に行こうが、俺の知ったこっちゃない」。最初にその言葉を投げつけられたとき、佐和子はまだ中学生。

阿川弘之を海軍出の硬派な紳士だと思っていたから、その娘の暴露話を読むとそれはあんまりな言い様、あんまりな仕打ちではないかと思う。阿川は終生、信奉していた海軍の教えでは、ユーモアとフレキシビリティ(柔軟性、融通性)をことのほか重んじていたという。ところが、家庭内においては違っていた。

一日中、不機嫌な状態で家にいる。父の仕事の状況に合わせ、父の機嫌を窺いつつ、家族は息を潜めるように生活しなければならなかった。根本的に女はバカだと信じている。「でも」「だけど」と反応されるだけで不機嫌になる。まず文句、まず不満、まず失点を取り上げる。なんて報われない家族なんだ。

情に脆い、同時に非情なほどの合理主義者、といいつつ理屈より感情の先立つことが多い。男尊女卑でわがままで、妻や子供には絶対服従を求める。常に自分が中心でありたい。自らの性格が温和とはほど遠い分、周囲はできるだけ穏やかであることが望ましい。そのくせ外面はいい、というか我慢している。

家に帰り着いたとたん、ちょっとした火種、すなわち家族が無神経な言葉を発したり、気に入らない態度を示したりしたとたん、たちまち大噴火を起こす。まだ起こっていないことを想像するだけで不機嫌になるのが得意技で、さらにすべてをそういうふうに苦にする自分の性格を苦にした。面倒な男である。

誰もが異口同音に父を優しい人だった、という。いつもニコニコお優しくて素直で、という。佐和子の生涯で「父が私に優しい」と実感したことは二回だけだった。機嫌がいいと思ったのは数回、機嫌が悪いと思ったのは何百万回ある。いかに無茶苦茶な人で、周囲がどれほどひどい目に遭わされたことか。

娘の愚痴ばかり読まされるわけだが、ものすごく面白い。父を見ていて「嫌いだ」と思っていた性格や行動が、佐和子にもはっきり受け継がれている。自分の中の父の部分を表に出さないよう生きていけば、なんとかまともな人間になれるはずだ。それが長年の人生指針となっていたという。ちょっと出来過ぎ?

娘に亡き父の思い出を語れとメールしたら、「どんな男連れてきても文句言わなかった。そして、関わりも持たなかった。いまの亭主だけには、娘をよろしく、とプレッシャーかけてた(笑)。冷静だけど、空気読むのはあんまりうまくない。今言わなきゃいいのになーという事をサラッと言う!(笑)。娘が学校で補導されてるのに、校長室ではいつも笑ってた。むしろ、学校をバカにした笑い。こういう父親はなかなかいない。面白い。」笑ってばかり。(柴田)

阿川佐和子「強父論」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163904913/dgcrcom-22/


●うちの父みたいだわ。

/コード・プログラムを学ぶための本は、紙がいいと思っていた。iPhone、iPad、Kindle Paperwhite、Macを持っていて、それぞれの端末で電子書籍の表示はできる。

大半はA4。これらの電子書籍は、文字のサイズは変えられず、ピンチインアウトぐらいしかできない。テキストというより画像なわけで、検索できない書籍も少なくない。

手持ちの携帯端末で読むことを考えるとiPadが最大。本がA4なのに、それより小さなiPadでコードを見るなんてと思い込んでいた。その日は気が向いて、サンプルをiPadに送ってみた。続く。 (hammer.mule)